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6月29日(木)のつぶやき

2017年06月30日 01時22分28秒 | キリスト教
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◆バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、

2017年06月29日 16時24分16秒 | 聖書
この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。(Ⅱ歴代三二・三一)
ヒゼキヤは心ひそかに増長し、神の恵みをもって高慢になったので、自らを義とする心が起こり、肉の安全に頼るようになった。その結果、活発に働いていた神の恵みが一時取り去られた。これは、彼のバビロニヤ人に対する愚行を説明するものである。神の恵みが最高のクリスチャンから離れるようなことがあるなら、その心にある罪は、彼を極悪な犯罪者にさえ変えてしまうからだ。あなたがもし捨てられるならば、あなたのキリストに対する熱心はたちまち冷却し、ラオデキヤ教会の「なまぬるさ」となるであろう。今主の御前に、立派な徳と節操をもって歩んでいるあなたが、よこしまな思いによろめくようになるであろう。
月のように、私たちの光は借りものである。恵みが私たちを照らす時、私たちは輝く。しかし義の太陽が沈むなら、私たちは暗黒になる。だから、神が私たちを決して見捨てられることのないように、神に向かって叫ぼう。
「主よ。あなたの御霊を私たちから取り去らないでください。あなたは『わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている』と言われました。それで、主よ。どこにいても絶えず私たちを守ってください。若くて熱情が強くなりすぎる時、私たちを守ってください。年老いて自分の知恵に思いあがり、それゆえ若者よりも愚かで尊大であることを露呈してしまうような時、私たちを守ってください。私たちが死に臨む時、私たちを守ってください。最後の瞬間になって、あなたを拒むことのありませんように。私たちが生きている間、死のうとする時、働いている時、苦しんでいる時、戦っている時、休息している時、私たちを守ってください。どこにいる時にもお守りください。神様。私たちはどこにおいてもあなたを必要としていますから。」
 
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「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。

2017年06月29日 16時23分25秒 | 聖書


あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし・・の燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」(イザヤ7:4)

私たちは、何か突然の事態が起きた時どうだろう。
どんな反応をするだろう。小舟に乗った時の弟子たちのように、波風に、驚き慌て、パニックになるだろうか。
舟が沈むとばかり、焦って、気が動転するだろうか。
何とかしようと、必死に立ち騒ぎ、動き回るだろうか。

試練の最中に、静まって主を信頼することが簡単でないことを、主はご存じだ。
それゆえ「気をつけて、静かにしていなさい」と言われる。
静まることが出来ない。不安で、不安でたまらない。
何かしなければ、落ち着かない。じっとしている事が出来ない。心が騒ぐのだ。
とにかく何かしなければと思ってしまう。

当時、ユダはアラムやイスラエルの勢力に怯えていた。
「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」しかし、神はこれらの敵対勢力を「二つの木切れの煙る燃えさし」と言われた。
恐れないで、神を信じているようにと。

どうだろう。不安な状況を前に、心が騒いで、揺れて、思い煩いで一杯になり、信仰も、神も吹っ飛んでしまうだろうか。
「立ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」
不安と思い煩い、動揺を止めよ。
今、恐れと不安な状況にあるなら、気をつけて静かにしていよう。
今こそ神を信頼しよう。
-------------------
不安や恐れを覚える時、それは神ではないものに焦点を合わせているとの神からの警報だ。
立ち騒がず静まり神に目を向ける時、今恐れているものの正体は、ただの燃えさしの木切れだと知る。

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おはようございます。

2017年06月29日 05時45分13秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年06月29日 05時43分48秒 | キリスト教

 聖ペトロ使徒

1世紀

 ペトロは、ゲネサレト湖畔のベトサイダの貧しい漁師ヨナとヨハンナの子として生まれ、弟アンドレと共に漁をしながら信心深い生活を送っていたといわれる。ペトロは、漁をしているとき、イエスから「人をすなどる者にしよう」と言われ、イエスの後に従った。彼の名は、初めはシモンであったが、イエスが「岩」を意味する「ペトロ」という名前をつけられた。のちにイエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなくことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16.18-19)と約束された。復活されたイエスからは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、ローマ教会を導いた。

 67年、皇帝ネロによってキリスト教迫害が始まったとき、信者たちの勧めでローマを脱出しようとしたが、そのとき、十字架を背負ったイエスに出会った。ペトロが「クオ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、どこに行かれるのですか)と尋ねると、イエスは「わたしは、ふたたび十字架につけられるためにローマに行くところだ」と答えられたという。ペトロは、それを聞いて自分の使命を悟り、ローマにすぐに引き返し、進んで十字架に逆さまにつけられて殉教した。ペトロが処刑された場所に、サン・ピエトロ大聖堂が建てられている。

 ペトロは、ローマの司教として33年勤め、その最期をまっとうしたといわれる。後に、ローマの司教は全教会の司教団の頭、つまり教皇としてペトロの使命を受け継いでいくことになった。そのため教皇職は、ペトロの座とも呼ばれている。

 聖パウロ使徒

1世紀

 パウロは、キリストの時代に、小アジアのタルソに生まれ、サウロと呼ばれていた。ユダヤの律法や母国語以外に、ギリシャ語、天幕作りなどを学んだ。エルサレムに遊学し、有名な律法学者ガマリエルから学び、生粋のファリサイ派となっていった。そしてサウロは、イエスの新しい教えが神への冒涜であるとの信念から、徹底的にキリスト教徒を迫害した(使徒言行録 9.4 参照)。

 ところがある日、キリスト教徒を捕らえるためにダマスコに行く途中、突然天から「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞き、地面に倒れた。この復活したイエスとの出会いによって、サウロは回心し、何が信ずべき道であるのかを悟り、「イエス・キリストこそ神の子である」と熱心に宣べ伝え始めた。しかし、イエスの弟子たちもサウロの回心を信じられず、彼は苦しい立場に置かれた。そんなサウロに力を貸したのが、バルナバであり、アンティオキアで共に宣教して、そこに初めて教会を建てた。そのころから、サウロは、パウロと呼ばれるようになった。

 パウロは宣教旅行に3回出かけ、小アジア、ギリシャ、ローマ、コリント、アテネに福音を伝えた。多くの難に遭いながらも、ゆらぐことのない信仰によって、キリストの愛を伝えるために力を注いだ。

 ペトロが殉教したのと同じころ、ネロ皇帝の迫害時代に、ローマで捕えられて殉教した。パウロはイスラエル以外の新しい地の人々に宣教したことから、「異邦人の使徒」と呼ばれる。新約聖書中にある彼の書いた書簡は、いかにキリストの愛がすばらしいかを私たちに伝えている。

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◆貧しくても平和

2017年06月29日 05時42分36秒 | 聖書

一切れのかわいたパンがあって、
平和であるのは、
ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言一七1)
これは、美しい宮殿に住み、美しい女たちに囲まれ、山海の珍味に飽いていたソロモン王のことばです。彼は、ごちそうはあっても争いに満ちた王宮の生活から逃げ出したかったに違いありません。ソロモン王でなくても、「ごちそうなんてなくていい。ぜいたくな邸宅なんてなくていい。ほんとうの平和・ほんとうに平和な家庭が欲しい」と思っている人は多いのではないでしょうか。
私は、感じやすい少年時代に、争いの絶えない家庭にいました。五十センチと離れず同じ食卓を囲んでいるのに、夫と妻の心が通わず、親と子の心が通じていなかったのです。針のむしろに座るような毎日。――とうとうこんな現実から逃げ出したくて、私は自殺未遂をしてしまったほどでした。
平和とは、ただ、争いがないということではありません。それは、いっしょにいるのがうれしく、いっしょに何かするのに張り合いがあり、楽しい。――つまり、愛で心と心とがつながっている状態です。そんなすばらしい、すてきで平和な交わりのために、次の三つの段階があることに、私は気がつきました。
・ ある一人の人が、自分勝手な生き方を心から悔い改めて神の前にへりくだると、その人の心と神とが、まず平和になる。
・ 神と平和になった人の心がくだけきって、からっぽになって神の前に出ていると、人工的な平和ではなく、人格的な神の平和・天来の平安が、その人の心の中に満ちる。
・ その人の心の中に神の平安が満ちると、今まで争い合ったり憎み合ったりしていた人々の間にも平和の力が及んで、人と人との間に平和が花を咲かせる。私の家庭が、まさしくこのプロセスを通らせていただいたのです。
 
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◆神は……

2017年06月29日 05時41分57秒 | 聖書
イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(Ⅰテサロニケ四・一四)
世を去ったたましいが無感覚のままで眠っていると考えないようにしよう。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」というのが、すべての臨終の聖徒に対するキリストのささやきである。彼らは「イエスにあって眠っている」。しかし彼らのたましいは、神の御座の前で日夜イエスをほめたたえ、その血で彼らの罪を洗ってくださった方に対してハレルヤを歌っているのである。
肉体は、草におおわれた地下の寂しい寝床に眠っている。この眠りは何を意味するのであろうか。眠りと関連する概念は「安息」である。そしてそれは、神の御霊が私たちに伝えようと望まれる考え方である。眠りは夜を昼のための安息の時とする。眠りはたましいの戸を堅く閉ざして、すべて侵入する者に「しばし待て」と命じる。それは内なるいのちが新緑の園に憩うためである。働き疲れた信者は静かに眠る。それはあたかも疲れた幼子が母の胸に眠るのに似ている。
ああ、主にあって死ぬ人は幸いである。彼らはその労働を離れて休息する。そしてそのわざは彼らに従う。その静かな休息は、神が彼らに十分な報いを与えるため呼び覚まされる時までは、決して破られることはないであろう。天の使いに守られ、永遠の神秘に包まれて、栄光の相続人である彼らは眠り続ける。そして、やがて時が満ちて贖罪が全うされるのである。
彼らが目を覚ました時はどうであろう! 彼らは最後の憩いの場所に横たえられた時、疲れ果てていた。しかし起き上がる時はそうではない。安息に入った時は額にしわがあり、顔はやつれきっていた。しかし起き上がる時は美と栄光をまとっている。見るかげもないしなびた種が、美しい花となってちりの中から咲き出る。墓の中の冬は去り、贖いの春と栄光の夏が来る。
死は幸いである。なぜなら、その時神の力が私たちの仕事着を脱がせ、朽ちることのない結婚の晴れ着をまとわせるからである。「イエスにあって眠る」者は幸いである!
 
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詩篇45篇12-15節

2017年06月29日 05時40分30秒 | 聖書


45:13 王の娘は奥にいて栄華を窮め、その衣には黄金が織り合わされている。
45:14 彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、彼女に付き添うおとめらもあなたのもとに連れて来られよう。


ら主に従うところの信仰の民、すなわち教会の人々のことを、ここで「王の娘」と語っています。

その王の娘達は、王の意向によって、その衣は黄金が折り合わされた衣を着て、栄華に満たされているというのです。

教会もそうです。

今の時代は人々に排斥され、人々から侮辱されたり、また受け入れられずに迫害されて、苦しめられることが多くあります。

しかし、キリストが再びこの地においでになられる時には、事態は完全に逆転します。

教会の民こそ支配者となり、この世とこの世の支配者達は皆、教会の人々の前で、裁きの座に置かれるのです。

ですから、今の現実の厳しさ、またさみしさに心を奪われないで、主を見つめ、主と主の与えてくださる栄光に目を向けて、その信仰をしっかりと守りきることが求められているのです。

信仰は、主の約束に目を向けるのです。

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第二列王記7章2節

2017年06月29日 05時37分32秒 | 聖書


『しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。 」そこで、 彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」』

第二列王記8章2節
「そこで、この女は神の人のことばに従って出発し、家族の者を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。」


■O:今日のコラム
聖書は御言葉の一部分を深く掘り下げるようにして読むことと、また聖書から少し顔を離して聖書全体を見ることの両方が必要です。
聖書全体を見る時に、聖書に出てくるすべての人物は2種類のタイプに分けることが出来るということが見えてきます。2つの種類。それは、神を信じ神に従う者と、神を信ぜず神に従わない者です。

6章の後半から見ることが出来ますが、サマリヤは大飢饉におちいり、それは人が自分の子どもを食べるほどにひどいものでした。その上アラムの王が全軍を率いてサマリヤの街を包囲し、その大飢饉に追い打ちをかけました。このことを見て、イスラエルの王の使者は次のように嘆きました。「見よ。 これは、主からのわざわいだ。これ以上、何を私は主に期待しなければならないのか。」(第二列王記6:33)『これは神様からの災いだ~』と使者が単に悲観的に口走った言葉だったのでしょうか。

申命記28章には次のように記されています。
「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(申命記28:15) 

「あなたは、 包囲と、 敵がもたらす窮乏とのために、 あなたの身から生まれた者、 あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。」(申命記28:53)

神に従わない者にはどのようなことが起こるか、ということがすでに警告されていました。それゆえにこの使者は、『神が前もって語られていた戒めの通りになった』と語ったに過ぎませんでした。

申命記28章の前半は、「イエスの血潮を宣言する祈り」の2番の中にもあり、ある人にとってはとても馴染みのある箇所ではないかと思います。前半は「神の御声に聞き従うなら、また、守り行うなら、次のような祝福があなたに及ぶ」という、心が踊るような真実が書かれています。けれども、私たちは申命記28章の後半(15節以降)も知らなければなりません。
「もし神の御声に聞き従わないなら、また守り行わないなら、次のような呪いがあなたに及ぶ」と警告されているのです。そしてそれは『御声に聞き従うものに祝福が及ぶ』ということが真実であるのと同じ程に真実な言葉なのです。

神の御声に聞き従わなかったイスラエルの民。敵に包囲され、飢饉が起こり、子どもの肉を食べるほどに悲惨な状況。はたして、この街には申命記で神が語られた通りのことが起きていたのです。

今日の箇所である7章に出てくる王の侍従。神の人であるエリシャが『主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。「あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。」』(第二列王記7:1)と語った時に、この侍従は「食べるものがないこのご時世に、上等な小麦粉が安売りされるようになる?そんなわけない…」と信じませんでした。

この侍従を、聖書に出てくる2つのタイプで見るならば、どちらに属するでしょうか?神を信ぜず、従わない者に属します。そして、彼の結末はどのようなものだったでしょうか?

「民が門で彼を踏みつけたので、 彼は死んだ。」(第二列王記7:20)
神の語られたことを信じなかった侍従に対し、エリシャが「確かに、 あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と語ったとおりになりました。

8章に出てくるやもめは、エリシャに「あなたは家族の者たちと旅に立ち、あなたがとどまっていたい所に、しばらくとどまっていなさい。 主がききんを起こされたので、この国は七年間、ききんに見舞われるから。 」と言われた言葉を信じて、それに従いました。その結果どうなったか、是非ご自分で聖書を開いて確かめてみて下さい。

聖書の語る「信じる」という言葉には「従う」こともセットであることが分かります。もし、私たちが御言葉に従う生き方をしていないのであれば、それは聖書の中では「信じる」というカテゴリーに入りません。

どんなリレーも、それぞれのチームの‘バトン’を持っていなければ、たといゴールしたとしても、それはゴールにみなされません。それを知らずにゴールに辿り着いてから、「バトンをもってないと駄目だった!」と知るのでは遅いのです。こんな悲しいことはありません。同じように、「神を信じること」には「神のみことばに従って守り行う」というバトンがなければなりません。

私たちが、神を信じ、神の御言葉を信じ、それに従い、また守り行う時にこそ、私たちが「信じている」ということがらが、目に見える形となります。私たちの「信仰」が、私たちの生き方となって、生活に現れてきます。それこそがまさに、世の光、地の塩としての生き方ではないでしょうか。

自分の力でみことばに生きることは出来ません。自分の力で山上の垂訓(マタイ5章~7章)を生きることは出来ません。だからこそ、主は助け手として私たちに御霊を与えて下さいました。神を信じて、みことばに従う者、それを守り行う者となることが出来るよう、聖霊様を今日も尊び、歓迎していきましょう。


■A:考えてみよう
「御言葉の通りに生きたい!」と渇望する人は、そのために必要な御霊の助けにも飢え乾きます。けれども、「御言葉のとおりに生きるなんて所詮ムリ。」もしくは、「そこそこ自分はみことばに生きているから今のままで大丈夫!」と思う人は、さほど御霊を必要としません。私たちはどちらでしょうか?


■P:祈り
主よ。あなたの御言葉をありがとうございます。私たちが進むべき道を、御言葉をもって明確に示して下さっていることをありがとうございます。御言葉は真実であり、祝福の原則、呪いの原則を御言葉を通して知ることが出来ることを感謝します。あなたの御心にかなう歩みがしたいです。御言葉に生きる者になりたいです。自分の弱い肉の力では、到底そのような生き方が出来ないことを認め、主よ、あなたに明け渡します。聖霊様を尊びます。聖霊様、自分の人生の一部分でしかあなたを必要としていなかったことを赦してください。私の歩みのすべてのうちに、聖霊様あなたを歓迎します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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6月28日(水)のつぶやき

2017年06月29日 01時22分08秒 | キリスト教
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◆しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

2017年06月28日 16時58分04秒 | 聖書
(出エジプト七・一二)
この事件は、神の御手のわざが、それに反対するすべてのものに確実な勝利を得るという、教訓に富む象徴である。神の原則が心の中に投ぜられる時はいつでも、たとえ悪魔が偽りを作り無数の敵を作り出しても、神が働いておられる以上は、すべての敵をのみこむ。もし神の恵みが人をとらえるならば、この世の呪術師はその杖を投げ捨てる。その一つ一つはへびのようにずる賢く、有害であるが、アロンの杖は彼らの杖をのみこむ。十字架の不思議な引力は人の心に訴え、人の心をとらえる。すると、偽りに満ちたこの地上のためにのみ生きていた人が、高い世界に目を注ぎ、大空高く翼を張って駆けるようになる。恵みが勝利を得る時、世俗的な人も、やがて来る世界を求めるようになる。
同様の事実は信者の生涯においても認められる。私たちの信仰は、どれほど多くの敵に会わなければならないことであろう。私たちの古い数々の罪――悪魔はそれらを私たちの前に投げた。するとそれらはへびに変わった。なんと数の多かったことであろう! ああ、しかしイエスの十字架はそれらをすべて滅ぼす。キリストへの信仰は、私たちのすべての罪をただちに殺す。すると、悪魔はさらに一群のへびを放つ。それは、この世の試み、誘惑、不信仰である。しかしイエスへの信仰は、それらをものともせず、すべて征服する。
同様の原則は、神のための忠実な奉仕の中にも輝く。イエスに対する燃えるような愛によって困難は克服され、犠牲は楽しみとなり、苦しみは名誉となる。
信仰は、このように心を焼き尽くすほどの熱情であるのだが、信仰を告白しながらも、その実、信者でない人が多くいる。なぜなら、彼らがもっているものは、このテストに耐えることができないからである。読者よ。この点において自分を省みよ。アロンの杖は、天来の力をもつことを実証した。あなたの信仰も同様だろうか。もしキリストが何かであるのならば、キリストはすべてでなければならない。おお、イエスにある愛と信仰があなたを支配する熱情となるまでは、心を安んじてはならない。
 
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「悪魔に機会を与えないようにしなさい」

2017年06月28日 16時57分08秒 | 聖書

(エペソ4:27)

悪魔は私たちの心に、足場を得ようと狙っている。
カインは怒りによって、悪魔に足場を与えてしまった。
悔い改めて、罪を治めるべきであった。
しかし、カインは罪に支配され、アベルを殺してしまった。

サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与え、捕らわれてしまった。
妬みを悔い改め、捨て去ることをせず、悪魔に機会を与え続けてしまった。

ダビデは、高ぶりにより人口調査の罪を犯してしまった。
戦いに勝利に次ぐ勝利で、高慢になっていた。
人口調査により自らの力を誇りたかった。
神ではなく民の力に拠り頼むよう誘惑された結果だった。

部下のヨアブが、神に反逆する行為であると止めに入るが、ダビデは聞かず、この事で神の怒りを招き、イスラエルに災いをもたらす事になった。
悪魔は、カインにサウルに、主に忠実であったダビデにさえ巧妙に働いた。

私たちは自分の心を見張り、守る必要がある。
又、悪魔の常なる手段は「疑い」を起こす事だ。
「疑い」を起こしさえすれば成功だ。
「神は本当に愛してくれているのか」「守ってくれるのか」悪魔の仕業だ。

信仰の足元がぐらつく。対人関係に「疑い」を起こし、不信感を植え付ける。
疑心暗鬼にさせる。赦さない心は悪魔に足場を与える。
赦し合おう。今、悪魔の攻撃に会っていないか。

私たちは生涯、血肉とはいっさい戦っていない。戦いの相手はサタン。
心を見張っていよう。悪魔は背後で、ほくそ笑んでいる。
サタンの策略に気づけるよう、今日も祈っていよう。

-----------------
サタンに足場を与えていると出入り自由だ。
妬みや憎しみ、赦さない心、思い煩い・・足場があるから常に来れて、ますます強固にされてしまう。
そこがサタンの餌になる。主に告げ、悔い改めたり委ねたり御霊の導きに従おう。
足場が無くなる。

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おはようございます。

2017年06月28日 06時16分56秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年06月28日 06時16分28秒 | キリスト教

聖イレネオ司教殉教者

135年ごろ-200年ごろ

 イレネオは、小アジア(現在のトルコ)のスミルナに生まれた。若いころ、スミルナの司教ポリカルポに学んだ。ポリカルポは、イエスの使徒聖ヨハネの愛の心と信仰を受け継いでいた。イレネオは、友人に「自分は、ポリカルポの姿と声、そして彼が聖ヨハネから学んだと言った言葉を完全に心に納めている。それは、魂の一部である」と言ったといわれる。

 177年にローマ皇帝マルクス・アウレリウスはキリスト教に対する弾圧命令を出し、リヨン市でも大迫害が起こった。そのためリヨンの司教が殉教し、イレネオがその後を継いで司教となった。彼の努力によってリヨンの教会は盛んになったが、政権の交替によって幾度も迫害を受けた。そして皇帝セプティミス・セヴェルスの時代に、イレネオも信者と共に捕えられて殉教した。

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◆怒りをおそくする者

2017年06月28日 06時14分50秒 | 聖書

怒りをおそくする者は勇士にまさり、
自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。(箴言一六32)
あなたは怒りっぽいでしょうか。
自分の感情のコントロールができないで「怒る」ことと、正しい愛の心をもって、条理にかなったきびしいことばで「叱る」こととは違います。怒り方にもタイプがあります。かんしゃく持ちの爆発型もあるし、ねちねち怒る人もいます。
いずれにしても怒る人は、人の上に立てませんし、責任をもって事に当たることに不向きです。怒る人は、他人のした仕事の責任をとることもせず、他人にやる気を起こさせて、この人とならやるぞと人を動かすこともできません。ですから、家庭も職場も治めることができないでしょう。
すぐ怒る人は、自分の心が支配できない人です。反対に、自分の心を治める人は、「町を攻め取る者にまさる」といわれています。その置かれた立場は、たとえ大将でなくても、社長でなくても、人生のいろいろの場面でのリーダーになれるのです。
付け焼き刃や修養などでは、この心のコントロールはできません。昔から「山中の賊は治めやすく、心中の賊は治めにくい」といいます。中国人もインド人も西欧人も、皆このことを認めているようです。
聖書は、「内住のキリストこそ奥義」と述べています。へりくだって心をからっぽにして、その心の王座に、限りなく謙遜で柔和で愛のある真の王者、キリストに入って治めていただくことです。自分の意志を強くしてもだめでしょう。ものすごいワンマンの親分を、それより強いワンマンのやくざの親分が追い出して座っても、変わりがありません。心の中に神を迎えなければなりません。くだけた心に、信仰によってキリストを迎え入れることこそ、怒りをおそくする奥の手でしょう。怒りをおそくできる人こそ、真の人生の勇者です。
 
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