座間コミニティー

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●時間外残業命令の根拠●

2011年08月31日 19時35分43秒 | 労働法
法定労働時間は、労基法32条で1日8時間週40時間以内と規定されていますが、三六協定を締結することで、この時間を超えて労働させることができます。しかしこの三六協定は、労基法32条違反にならない効果があるだけで、この三六協定を根拠に、残業命令はできません。通常は就業規則などに、「業務の都合により残業を命じることがある。やむを得ない理由がない限り、これを拒否することはできない」などと残業命令の根拠が規定されています。これは契約上の問題です。
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出エジプト記9章1-7節

2011年08月31日 19時32分48秒 | 労働法
9:3 「見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。9:4 しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。」 次に主が起こされた災害は、エジプト中の家畜に非常に激しい疫病をもたらすということでした。家畜の疫病というのは、今でも鶏が死んだり、また牛が死んだりすることによっておこります。しかし、この時には、主が非常に激しい疫病をもたらして、エジプトの家畜に被害を与えるというものでした。それによって、彼等の食べるものが失われるという現実がもたらされるのです。食べ物がないということは、どこの国でもつらいことです。特に、動物の肉を食べていた国の人々にとっては、苦しいことでした。また、作物の運搬や動力に使っている動物がいなくなるということも、作物の収穫のためには、不利益をもたらすことでした。主は、このような苦しみをもたらすことによって、民を解放させようとしたのです。主は自らの力を用いて、人の持ち物である財産をも支配したもう、力ある方であることを語っているのです。
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◆もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら……。

2011年08月31日 19時29分58秒 | 聖書
(Ⅰヨハネ一・七)

私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。

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◆善  意  の  人

2011年08月31日 19時25分44秒 | 聖書
善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)

さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。

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◆わたしの腕に拠り頼む。

2011年08月31日 19時24分26秒 | 聖書
(イザヤ五一・五)

激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。

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◆私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。

2011年08月30日 20時51分58秒 | 聖書
(エレミヤ一七・一四)

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ五七・一八)
霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。しかしその時ですら、薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。「わたしは主、あなたをいやす者である。」このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。友よ。今夜、主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。

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●トーコロ事件●

2011年08月30日 11時53分26秒 | 労働法
 この事件は残業命令違反に対する解雇無効を求めた裁判ですが、ここで問題と
なったのは時間外労働を容認する三六協定の有効性についてでした。この三六協
定が無効であれば、その三六協定が有効であることを前提とする残業命令に従う
義務はない、と考えています。
 この会社の三六協定は、会社の従業員親睦団体の代表が、三六協定の労働者側
の締結当事者である過半数代表者となっていました。しかし親睦団体は労働組合
ではなく、また民主的な手続によって選出された証拠もないことから、「過半数
代表者」とは認められないため、三六協定も無効、と判断されています。
 裁判の結論は、三六協定が無効であるため、これを前提とする残業命令も無効
であるから、この命令に従う義務はなく、命令違反を理由とした解雇も無効であ
る、としています。
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◆種まきの人生

2011年08月30日 06時53分52秒 | 聖書
不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)

ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。

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◆待ち望め。主を。

2011年08月30日 06時48分29秒 | 聖書
(詩篇二七・一四)

待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。

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出エジプト記8章26-32節

2011年08月30日 06時33分55秒 | 聖書
8:26 モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。」 アブの大群を見て、パロは恐れました。それは、アブによって、エジプト全土が荒れ果てたからでした。そこでパロは、イスラエルの民に、民が求める、主なる神に生け贄の儀式を行うことを、許そうとしました。しかし、そこには条件がありました。儀式は、エジプトの国内でしなさいということでした。パロは、民が国外に出て、そのまま逃亡することを恐れたのです。しかし、モ-セはそれに応じませんでした。その理由は、もしこの所で儀式を行うならば、自分たちは、エジプト人から石で撃ち殺されかねないからだと告げました。羊を用いて儀式を行うことは、エジプト人の忌み嫌うところであったのです。彼は知恵を用いて、主の御心がそのまま実現することを求めて、返答をしたのです。
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レター・泉教会0830

2011年08月30日 06時26分13秒 | 聖書
(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)
○○サミットが開かれるたびに、その厳戒態勢に異常さを感じます。そう言えば、以前、新聞に「城構え」と書かれたコラムがありました。大使館などでテロによる爆破事件が起きると、アメリカを初め、各国の大使館は、勢い厳重な警戒体勢をとるわけです。それがまるで「城」、城塞(とりで)のようだと言うのです。たとえば丘の上にあって、そこに行くための道路を少なくするとか、爆弾を積んだトラックが突っ込んできても大丈夫なように入り口をコンクリートブロックで固め、近くのビルの屋上からは対空ミサイルが空をにらんでいる。門扉は、ぶ厚い鉄板、テレビの監視もある。来訪者は靴の底や、シャツの襟の裏まで調べられる、という具合です。昨今のようにテロが頻発する状況下では、もっともっと厳重になっているに違いありません。しかし、この「城構え」ということは、私たちの生活の中でも深刻な問題になっているのではないでしょうか。マンションの1階に、その階段を利用する人のためのポストが並んで置いてありますね。そのポストの一つや二つに鍵がかかっているのは、よく見かけます。しかし、あるマンションに行ったら、何と、そこのポストには全部、鍵がかけられていました。その階段を使う人たちの間で何かあったのだろうと想像できました。私は、何か、とても寂しい気持ちでその場を離れました。そして思ったのです。私たちは、こうして「城構え」をしているのだということを。私たちは心を閉ざす。防衛する。「城構え」をするのです。そのような私たちのただ中に、神の子キリストは、産着の布切れ1枚で、つまり、まったく無防備のまま、飼い葉桶に横たわったのです。そう、クリスマスの出来事でした。この神の出来事の前で、私たちはいったい、何を守ろうとしているのでしょう。何を恐れているのでしょう。どういう武器を持とうとしているのでしょうか。神がご自分を投げ出されたならば、私たちの心の窮屈な「城構え」など、もう作らなくていいのです。この神の前でなら、私たちは、もっと自由になれるのではないでしょうか。
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●三六協定の締結●

2011年08月29日 19時18分14秒 | 労働法
労基法36条では、三六協定の締結について、事業場の労働者の過半数を代表するものと書面によって協定する旨を規定しています。この過半数代表者は、労基法41条の管理監督者はなれません。また、投票や挙手によって選出されなければならないこととなっています。
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◆彼のナジル人としての聖別の期間には、

2011年08月29日 19時12分31秒 | 聖書
ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。(民数六・四)

ナジル人には数々の誓いがあるが、その一つに、ぶどう酒を飲まないことがある。この義務に違反しないために、彼らはぶどう酒の酢になったもの、濃い酒を飲むことを禁じられていた。そしてこの規則をさらに明確にするために、未発酵のぶどう液にも触れてはならず、なまのものでも干したものでも、ぶどうを食べることさえならなかった。その誓いを完全に守るために、ぶどうにかかわるすべてのものを食べることが禁じられた。それは外見的な悪をも避けるためであった。
たしかにこれは、主に聖別された人々に対して教訓を与える。あらゆる形の悪から遠ざかること、醜悪な形のものを避けるだけでなく、その精神も類似物も避けることを教える。今日、厳正な生活は軽蔑されている。しかし、親愛なる友よ。心を安んぜよ。厳正な生活は、最も安全で最も幸福な生活である。世俗に対して一歩でも譲歩するものは、恐るべき危険の中にある。ソドムのぶどうを食べる者は、すぐにゴモラのぶどう酒を飲むことになる。オランダの防波堤の小さな割れ目が海水を侵入させるなら、それは急速に大きくなり、ついに一州が水でおおわれるようになる。世俗との妥協はどれほど小さなものでも、たましいにとってはわなであり、いよいよ深く罪に陥らせる傾向をもつ。
そのうえ、ぶどう液を飲んだナブル人は、それがある程度まで発酵しているかどうかはっきりせず、そのため心の中で誓いが守られているかどうかわからなくなる。そのように世俗と妥協するクリスチャンは、罪意識のない良心を保つことができず、心の中の戒告者は彼を疑うことになる。疑わしいものについて、疑う必要はない。それは私たちにとって悪である。私たちは誘惑するものに対して手を出してはならない。ただ逃げ去ればよい。偽善者としてさげすまれるよりは、むしろ清教徒として冷笑されるほうがよい。油断なく生活するには、自己否定が必要であろう。しかし、それは楽しいものであり、また何にもまさる報酬である。

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出エジプト記8章20-25節

2011年08月29日 06時09分16秒 | 聖書
8:22 「わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。」 次に、主がこのエジプトの国にもたらそうとされた不思議な業は、アブの群れをもたらすということでした。それをおくる前に、主はモ-セをパロの下に遣わして、イスラエルの民をこの国から去らせて、主に仕える働きをさせなさいと、語らせました。しかも、その時に、アブの襲来によってもたらされる苦しみは、このエジプトの地全体に到来するけれども、イスラエルの民がいるゴシェンの地には到来しないであろうと告げたのです。それによって、神様がこのイスラエルの民と共にいて、この民を特別に守っていて下さるということを知らせるためでした。真の神が、イスラエルの民と共におられるということを示すためでした。それを知らせることによって、エジプトからの民の解放をパロに許可させるためでした。特別に、主の民への配慮を示すことによって、主の力を示されたのです。
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◆借金人生のいましめ

2011年08月29日 06時03分34秒 | 聖書
富む者は貧しい者を支配する。
借りる者は貸す者のしもべとなる。  (箴言二二7)

人生の成功者とは、このような人だと定義した人がありました。
・ 金を支配できる人。金に使われず、金を支配できる。
・ 人を支配できる人。人の奴隷とならず、人を指導できる。
・ 自分を支配できる人。自分のきたない、みにくい欲望にふりまわされないで、自分をコントロールできる。
確かに、うなずける一つ一つだと思います。
借金の経験のある人は多いと思います。借金を返す当てのない人が借金すると、借金の奴隷となり、破たんを招く例も、非常に多いと思います。高利貸しから百万円を借りて競馬でもうけようとしたが大損し、ついに、親や兄弟の身代まですってしまった人のことを聞きました。
自分のできること以上に借りてやっていこうとするのは、しょせん無理ではないでしょうか。自分自身の心の中に、エネルギーというか、わきあがる力を持たない者が、他人のものをたよりにして生きる人生は、借金で身を破滅に追いこむ生き方に似ています。
イエス・キリストは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四13―14)と言われました。ヤコブも、こう語りました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(ヤコブ一5)。
神から与えられたいのちの水を飲んで、それに従って生きる時、ほんとうの人生の成功者となるのではないでしょうか。

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