座間コミニティー

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◆生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。

2016年09月30日 17時38分14秒 | 聖書
(伝道者九・四)
 
いのちは尊い。それがどんなに卑しい形のものでも死よりはまさる。これは、霊的なことにおいてたしかに真理である。天国で最も小さい者となることは、天国の外で最大な者となるよりもまさる。恵みの最低の段階は、生まれ変わらない性質の最高の発展段階よりすぐれている。聖霊が神のいのちをたましいの中に植えつけられたところには、洗練された教育も匹敵できない尊いものがある。十字架上の犯罪人は、王座にいるカエサルにまさり、犬に囲まれるラザロは、元老院議員の中にいるキケロにまさり、さらに最も無学なクリスチャンは、神の目から見ればプラトンよりもまさっている。いのちは霊の領域において高貴さのしるしである。それをもっていない人々は、質の良い悪いにかかわらず、いずれもいのちのないものの実例であり、いのちを与えられる必要がある。彼らは咎と罪の中に死んでいるのだから。
生き生きとして愛に満ちている福音の説教は、無学で形式が整わなくても、聖霊の油と力のない最高に洗練された大講演にはるかにまさる。生きている犬は見張りをし、主人にとっては死んだ獅子よりも役に立つ。そのように最も貧弱な霊的説教者も、大雄弁家の、ことばがあっても知恵がなく、響きがあっても活力のないのに比べれば、どんなにすぐれているかわからない。私たちの祈りや礼拝についても同様である。もし私たちが、それらの中で聖霊によって力づけられているならば、神は、それをイエス・キリストによって受け入れてくださる。しかし、私たちの心のこもらない壮大な儀式は、死んだ獅子のようであり、生ける神の目から見れば、腐敗したしかばねにすぎない。
おお、いのちのない歌や、死んだ安静よりも、むしろ生きたうめき、生きた嘆息、生きた失望を得たい。どのようなものでも死よりはまさる。地獄の犬のうなり声は、少なくとも私たちの目を覚まさせる効果はもつ。しかし、人のもつことのできるのろいの中で、死んだ信仰と死んだ告白より大いなるものがあろうか。
おお、主よ。私たちを生かしてください。
 
 
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「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

2016年09月30日 17時37分26秒 | 聖書


神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)

弟子たちの問いと、主の答えに大きな隔たりがある。
人の見方と主の見方が全く異なる。
人は、何か起こる時、その苦しみや不幸の理由をまず問う。

「なぜ?どうして?」「なぜ?なぜ?」と問うて行く。
しかし、それは過去の事であり、現実にある事態が、起きた原因を追及しても、そこに解決は無いし、救いはない。

病で死にかけている人に対して、その病気の原因を追求したところで何にもならない。
しかし、人はどうしても原因や理由を探し出さなければ、自分の納得が行かない。

自分が納得したいがために、「なぜ」「どうして」を探る。
しかし、人は自分の意志で生まれたのではないし、自分の意志で死ぬこともできない。

与えられた一生は、自分の意志通りにはならないし、それぞれの人生は自らの思いを越えている。
そこに人間を越えた大きな力が働いていて、その方の意志通りに動いている。

私たちが生を受けたのも、今、ここにあるのも、神の大いなる御心による。
その神に焦点を置く時に、「なぜ?なぜ?」は意味をなさず、目が見えないことも、病気も、苦しい境遇も、思い通りにならない事態も、「神のわざがこの人に現れるため」なのだ。

あのせい、このせい、ではなく、神が働かれるためのステージであり、何と希望と平安と将来がある事だろう。
-------------------------
神様の栄光が現れるための今だ。
原因を問うよりも必ず神様が良くして下さるという希望を持って生きよう。



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今日の聖人の記念日

2016年09月30日 07時41分50秒 | キリスト教

聖ヒエロニモ司祭教会博士

347年-420年

 古代教会の重要なラテン教父であるヒエロニモは、ダルマチア(現オーストリア)の裕福なキリスト信者の家に生まれた。恵まれた環境と豊かな才能によって、短期間でギリシャ語とラテン語を習得し、ローマに留学して8年間修辞学を勉強した。

 そのころ、修道生活に入ることを望み、アクィレアで隠修士の仲間に入り、その後東シリアの荒野に行き、聖書を研究しヘブライ語を学んだ。そしてアンチオキアに戻ってから司祭に叙階され、380年ころ司教とともにコンスタンチノープルに行って、ニッサのグレゴリオなどと親交をもった。

 382年から385年まで教皇ダマソ1世に仕え、聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳したブルガタ聖書を完成し、聖書の注釈書も著わした。教皇の死後、ヒエロニモの反対者によってローマを追われ、仲間とともにベトレヘムに行き、男子と女子の修道院を創立し、また聖地巡礼者のための宿泊所も建てた。晩年は、民族大移動時代と重なり、多くの困難に見舞われたが、修道院を守り抜き、著作活動に励んだ。

 現在もカトリック教会で使われているラテン語訳聖書は、彼によるものである。ヒエロニモは、大学、神学科の守護の聖人とされている。

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◆食 欲 の 問 題

2016年09月30日 07時40分47秒 | 聖書

わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、
そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。(箴言二四13―14)
 
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。信州育ちの友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Ⅰペテロ二2)とすすめ、ダビデも、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇一一九103)と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。――これが、私たち多くの人間の問題となっています。きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。そこで、ペテロは、「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」(Ⅰペテロ二1)みことばを慕い求めなさいと言ったのです。
 
 
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◆全地よ。神に向かって喜び叫べ。

2016年09月30日 07時40分04秒 | 聖書
御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。(詩篇六六・一、二)
 
神を賛美するかしないかは、私たちの勝手ではない。神は賛美を受けるべき方であられ、すべてのクリスチャンは、神の恵みを受けた者として、日々神を賛美すべきである。私たちは、日ごとに神を賛美するようにとの高圧的な命令は受けず、ある一定の時に歌い、感謝をささげるようにとも言われていない。しかし、私たちの心に記された律法は、神を賛美するのが正しいことだと教える。この不文律は、石の板に記されたような、あるいは雷鳴とどろくシナイ山頂から直接私たちに渡されたような力をもって迫ってくる。
そうだ。神を賛美することはクリスチャンの義務である。これは単なる楽しい行事であるだけではなく、クリスチャンの生涯の絶対的義務である。絶えず嘆き悲しむ者よ。この点に関して自分に罪がないと思ってはいけない。また賛美の歌なしにあなたの神に対する義務を果たすことができると考えるな。あなたは生きる限り、主の御名をほめたたえるために、愛のひもをもってつながれている。そして、主に対する賛美が常にあなたの口になければならない。神を祝福するために、あなたは祝福を受けているのである。「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
もしあなたが神を賛美しないならば、あなたは、農夫である神があなたに期待される実を、まだ結んでいないのである。だからあなたのたてごとを柳にかけたままにせず、それを下ろし、感謝の心をこめて高らかにかき鳴らせ。立って、神への賛美を歌え。夜明けのたびに感謝の叫びを上げ、夕日の沈むごとにあなたの賛美の歌を歌え。あなたの賛美をもって地をおおい、美しい調べによって地を包め。そうすれば神は天から聞いてくださって、あなたの音楽を受け入れてくださるだろう。
 私はあなたを愛し、心より愛し続け
 あなたに、賛美の歌をささげる
 あなたは私の愛する神であられ
 私の贖い主であられるからだ
 
 
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ヨブ記9章21-26節

2016年09月30日 07時38分47秒 | 聖書


9:21 「私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。
9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。
9:23 にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。」



 義であられる神の前には、誰も立ち得る人はいない。

自分もその一人である。

しかし、神の憐れみで、その信仰の故に、神は憐れみを注いでくださった者の言葉を、その恵みによってお聞きくださることも知っている。

 しかし、私にはわからないことがある。

このような信仰を持って生きる者を、神は信仰を持たない人と同じように扱われ、苦しみのどん底に陥れられる。

しかもそれは、神が罪のない者、信仰を持って生きようとしている人を、あざけっておられるように感じられるほどだ。

それは一体なぜなのか、というのです。

 主は恵み深い、主は哀れ深い、それなのになぜ、主にある者が、このような苦しみと悲しみの内に置かれるのか、その理由が、私にはわからないというのです。

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エペソ人への手紙6章4節

2016年09月30日 07時36分45秒 | 聖書


★父たちよ。 あなたがたも、 子どもをおこらせてはいけません。 かえって、 主の教育と訓戒によって育てなさい。

■O:今日のコラム
私は小学生と中学生の子どもを持つ親です。また、ベストライフスクールというチャーチスクールで校長という働きをさせていただいています。ですから、私はいつも教育ということに関して思いを巡らし、様々な情報を集め、また心の限りを尽くして祈っています。
世の中では様々な教育に関しての研究や議論がなされています。それらのことはとても参考になるのですが、私の中で柱となるものではありません。私の中での中心は聖書がどのように教育に関して、また子育てに関して言っているかということです。

今日の聖書の箇所には父に対する子どもへの接し方が書かれています。ここにはまず「子どもをおこらせてはいけない」と書かれています。これは「子どもたちを挑発して苛立させて、その結果子どもたちを怒らしてはいけない。」という意味です。
私も弱いですので、自分の事で精一杯になってしまった時、子どもたちに甘えて必要以上に叱ったり、いらだちをぶつけたりしてしまいます。また、子どもたちの弱さを責めてしまうこともあります。
みなさんは全員が父というわけでは無いでしょうが、霊的な子どもを持つ立場であれば父の心を持っていると思いますので、少し考えることができると思います。みなさんはどうでしょうか?

聖書が教える子育ての方法は「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」ということです。言い換えるとこれは「主の訓練・訓戒と助言・勧めによって、彼らを優しく育てなさい。」という意味です。
日本では親によって教育方針が違います。しかし、イスラエルの民は世界中の離散しているユダヤ人でもイスラエルにいるユダヤ人でも同じ子育ての教育方針を持っているそうです。それが上のみことばの教育方針です。
厳密に言いますと申命記6章4~9節に書かれている「シェマの祈り」という箇所です。
「聞きなさい。 イスラエル。 【主】は私たちの神。 【主】はただひとりである。 心を尽くし、 精神を尽くし、 力を尽くして、 あなたの神、 【主】を愛しなさい。 私がきょう、 あなたに命じるこれらのことばを、 あなたの心に刻みなさい。 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。 あなたが家にすわっているときも、 道を歩くときも、 寝るときも、 起きるときも、 これを唱えなさい。 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、 記章として額の上に置きなさい。 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」

世界中でも頭がいいと言われているユダヤ人の共通した子育ての方針は、「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、つまり人生の限りを持って主を愛する」ということを守り、それを子どもたちに良く教えるということなのです。

これは、イエス様ご自身が言われた最も大切な戒めにも引用されている箇所です。
「そこで、 イエスは彼に言われた。 「『心を尽くし、 思いを尽くし、 知力を尽くして、 あなたの神である主を愛せよ。 』これがたいせつな第一の戒めです。」(マタイ22:37,38)

この「シェマの祈り」は、今でもユダヤ人が毎日祈っている祈りであり、それは代々親から子へと受け継がれています。ですから、イエス様がこのみことばの冒頭を述べるのであれば、ユダヤ人は自動的にシェマの祈りの最後の部分まで思い起こされたはずです。その中にはしっかりと「それをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」と書かれています。

つまり、聖書が教える子育ての教育方針は「主を第一に愛する」と言うことなのです。言い換えると、「主を恐れる」ということです。これは、恐怖から来る恐れではなく、主が私たちを一方的に愛して下さるゆえの恐れです。

私はみことばを第一としています。みことばを尊んでいます。どの言葉よりもみことばに価値を置いています。ですから、みことばに書かれていることをそのまま信じ、行っていきたいと願っています。
子どもたちには何よりも主を愛すること、主を恐れることを今、改めて教えています。その事を続けるなら、私はダニエル1章にかかれているように、世の中の十倍もまさっている子どもを育てることができると信じています。そのような者がこの国の王となり、また祭司となってこの国のためにとりなし、また宣言するようになることを心から願っています。


■A:考えてみよう
子ども持つお父さん、子どもに神様を何にも勝って第一に愛することを教えていますか?そのためにはまずお父さん自身が教会だけでなく、どこにおいても、家族の誰よりも熱烈に神様を愛していなければなりません。子どもは親の背中を絶えず見ています。背中で信仰を伝えましょう。

また、背中で伝えるだけでなく、実際にもその事を子どもに伝えていきましょう。具体的にはどのようにすればいいのでしょうか。それは「主の訓練・訓戒と助言・勧め」をすることです。これは何でしょうか。主の訓戒とはみことばです。勧めとは宣言です。つまり、イエスの血潮を宣言する祈りのように、みことばと宣言を持って子どもたちに正しいアイデンティティを教えると言うことです。
私は自分の子どもたちにも、チャーチスクールの子どもたちにも「あなたは誰ですか?」という質問を毎日しています。そして彼らに次のよう答えてもらいます「私は神の子ども。神の姿です。」

そして、子どもたちを頭ごなしに叱るのではなく、まず受け入れ、同じ目線に立って話を聞き、それから諭すようにしましょう。子どもであっても彼らはちゃんと考え、理解することが出来ます。ですから彼らを尊重して、王の子どもに話すように話すといいでしょう。
そのためには親に忍耐が必要です。愛が必要です。

様々な家庭環境で育てられたので、親である私たちがそのような事はできないと思うかもしれませんが、それはサタンの巧妙な罠であることを知って下さい。私たちがどのような環境で育てられたとしても、私たちは真理を知っています。愛の源なる方が私たちと共にいてくださいます。私たちはこの方に聞くことが出来ます。聖霊様を歓迎して、みことばに日々親しみましょう。

それも出来ないという方は先祖から来る咎(呪い)を疑ってみて下さい。先祖の咎は三代、四代にまで及びます。ですから、私たちの代でその呪いを断ち切る必要があります。呪いは誰かが断ち切らなければ自動的に子孫に受け継がれていってしまいます。
今こそ、徹底的にみことばから来る悔い改めを持って先祖の咎を悔い改め、イエス様の血潮で呪いを私たちの代で完全に断ち切りましょう。そうするなら恵みが千代にまで及んでいきます。


■P:祈り
愛の源である天のお父さん、あなたが完全であるように、私たちも完全にさせて下さい。私たちに父の心を与えて下さい。そして、私たちの子どもにあなたを恐れ、愛することを教えることができるように助けてください。知恵を与えて下さい。
世の中のもたらす物に奪われてしまっている子どもたちの心を親の祈りによって奪い返すことができるよう、祈る力を下さい。
そして私が願う子どもに育てるのではなく、主が願われる子どもに育てていくことができるよう、私に愛と忍耐を下さい。
全てを備え、蒔く種をも与えて下さる主をほめたたえます。今日もみことばの感動を持って子どもたちに接し、彼らを優しく励ますことができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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9月29日(木)のつぶやき

2016年09月30日 01時34分21秒 | キリスト教
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◆私の愛している人を私は見つけました。

2016年09月29日 16時50分52秒 | 聖書
この方をしっかりつかまえて、放さず……。(雅歌三・四)
 
キリストは、私たちがみもとに行く時、過去の罪がどうであろうと、受け入れてくださるだろうか。私たちは、他のあらゆる避け所を試してみたが、そのために主が私たちをお叱りになることはないであろうか。この地上に、主のようなお方がほかにあるだろうか。すべての善の中で主は最善であられ、すべての美の中で最上の美ではないだろうか。
おお、それなら主をほめたたえよう。エルサレムの娘たちよ。タンバリンとたてごとをもって主をたたえよ。あなたの偶像を打ち倒して、主イエスをあがめよ。誇りと傲慢の旗を足下に踏みにじり、この世がまゆをひそめ、あざける十字架を高く掲げよ。主をとこしえにあがめ、私の霊を主の足台の下に座らせ、主の御足に口づけし、私の涙をもって御足を洗おう。
ああ、キリストの尊さよ! なぜ私は、主のことをわずかしか考えていなかったのか。主がこれほどに私を満たし、富ませ、満足を与えられたのに、なぜ主以外のものに喜びや慰めを求めたりするのか。主にある友よ。決して主を離れないという誓いを自分の心と結び、主の批准を求めよ。主に願い求めよ。あなた自身を主の指のしるしとし、主の腕の腕輪としてくださるようにと。花嫁がその身を美しく飾り、花婿が宝石をつけるように、主があなたをご自身につけられるように求めよ。私はキリストの心の中に生きたい。
すずめがすみかを見つけ、つばめがひなを入れる巣を得るように、万軍の主、私の王、私の神様、あなたの祭壇のかたわらに住まいを得させてください。私もまたあなたの中に、私の巣、私の家を造り、あなたの鳩のたましいである私が、決してあなたから飛び出すことなく、おお、イエス様、私の唯一の安息所であるあなたに、よりそっていたいのです。
 尊い主にお会いした時
 私の愛のすべてが燃え上がり
 愛のきずなで主を縛った
 私は主を引き止めて行かせない
 
 
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「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、

2016年09月29日 16時50分01秒 | 聖書

永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13)

サマリヤの女性は、昼の暑いカンカン照りの最中に、井戸に水を汲みに来た。
普通の人のしない事だ。それは人と会いたくないがために、人を避けての行動だった。

主は、そんな彼女のために、わざわざ迂回してサマリヤへ行かれた。
主の方から話しかけられた。ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係で、敵同士の間柄だ。

自分に声をかけた男性が不思議な事を言った。生ける水を与えることができ、その水を飲むなら渇くことなく、永遠の命への水が湧き上がると。

彼女は井戸の水だと思い、汲む必要がないなら、その水を欲しいと願った。
その時に「あなたの夫を呼べ」と言われた。一見会話がつながらない。

どう関係があるのか。不思議な言葉だ。しかし、実は彼女は5回結婚し離婚し、今は同棲していた。
その彼女の決して触れられたくない核心部分をストレートに突かれた。

人は様々だが、富、名誉、地位、仕事、この世の「水」で心を満たそうとする。
しかし、そこに満たしはない。どこまでも渇く。

彼女は男性が自分を満たしてくれると考えた。しかし、そこに救いはなかった。
主はその罪を示し、悔い改めに導き、彼女を真の喜びと満足へと導かれた。

私たちが隠し持っている真の問題、空虚、悲しみを主のもとへ持って行こう。
あなたにも告げておられる「あなたの夫をここに呼んできなさい」。
--------------------
主から与えられる水で満足しているだろうか。
主を知っていてもなおこの世のものを求め渇いて行く。
自分はそのような者だと覚えていたい。


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今日の聖人の記念日

2016年09月29日 06時58分52秒 | キリスト教

聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使

 

 ミカエルは、「神と似た者」という意味で、ダニエル書(10.13)に、イスラエルを助ける天使として描かれ、ヨハネ黙示録(12.7)でも悪魔に対して戦ったと記されている。聖フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられたのは1549年であるが、キリスト教宣教の許可が出たのは同年の9月29日であったことから、ザビエルは聖ミカエルを日本の守護者と定めた。

 ガブリエルは、「神の力」という意味で、ダニエル書では神のメッセージを預言者に伝えている。新約聖書の中では特別な役割をもち、ザカリアに洗者ヨハネの誕生を、聖母マリアに救い主イエスの誕生を伝えている。通信・報道の保護者といわれる。

 ラファエルは、「神はいやされた」という意味で、神のみ前にいる7位の天使の1位である。トビト書では、人びとの祈りを聞き入れて神にとりなし、エノク書では、堕落した天使たちに汚された地を清らかにする天使として描かれている。旅人、薬関係の仕事に携わる人、パイロットの保護者といわれている。

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◆見 た も う 神

2016年09月29日 06時57分05秒 | 聖書

もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。
あなたのたましいを見守る方は、
それを知らないだろうか。
この方は
おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言二四12)
 
神が見ていらっしゃる。――これは、何という単純で明快な真理でしょう。ある男が子どもを見張りに立てて、スイカ畑に盗みに入りました。「だれかが来たら、すぐ知らせるんだぞ。」しばらくすると、「お父さん、見ているよ」と子どもが呼びました。「だれが見てる。」「神さまが見てるよ。」すると父親が、「ばか。神さまに見えるもんか」と言ったという話があります。「天網恢々疎にしてもらさず」「天知る地知る我知る」とも言われます。この単純な真理ほど、実際の生活で無視されている真理はないでしょう。
私の尊敬するマックスエル博士が話してくださったことです。「子どものころ母に教えられた『ご覧になる神』(創世一六13欄外注)という聖書のことばは、初めは恐ろしかった。しかし年月がたち、この真理の深みが分かるにつれ、この真理が平安で喜びにあふれた私の人生をつくりあげたのだと思う」というのでした。
神に背いて、自分勝手で、いんちきで、言いわけばかり言う二枚舌の偽り者にとって、神は恐ろしいお方でしょう。しかし、落ちこぼれた者・悩んでいる者・弱く失望している者であっても、正直に自分の弱さやみにくさを認めて神に目をあげる者にとって、神は何と優しく、慰め・ゆるし・励ましに富んだお方でいらっしゃいましょうか。
神は、何でも見抜き、何でも正しく評価なさいます。しかし神に身を寄せるあなたにとって、神は、見守ってくださるお方、その愛と恵みを傾けて報いてくださるお方なのです。神を敵として勝ち目はありません。神をあなたの心の父としてごらんなさい。
 
 
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◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、

2016年09月29日 06時55分27秒 | 聖書
祭司はその患者をきよいと宣言する。(レビ一三・一三)
 
この規則は一見奇妙だが、その中には深い知恵が隠されている。なぜなら病毒を外に出すことは、からだが健全な証拠だからである。今朝、この奇妙な規則の象徴的な教えを学ぶことは、私たちに有益であろう。
私たちもまた病者である。そしてこの病に関する律法は、私たちにも適用できる。人が自分を全く失われた破滅した者と見、全身がことごとく罪におおわれ、義であるものが一つもないことを知って、主なる神の前に罪があると告白するならば、イエスの血と神の恵みによってきよめられるのである。心中に隠れていて感じることのない告白されない罪が、真の病である。しかし罪があばかれ、罪が感じられた時には、すでに罪は致命的打撃を受けており、主はあわれみの目をもって罪に苦しむたましいをご覧になるのである。
自己を義とすることほど致命的なものはなく、悔恨よりも望みのあるものはない。私たちは罪以外の何ものでもないことを告白しなければならない。これ以下の告白は真実のものと言うことができないからである。もし聖霊が私たちに働かれて、罪を自覚させられれば、前述のことを認めるのに何の困難もない。
引用の聖句は、深い罪の意識のもとにある人に、なんという慰めを与えることだろう。どれほど黒く汚れていても、嘆き悲しんで告白された罪は、決して人をイエスから閉め出すことはない。主イエスのもとに来る者を、だれであろうと神は決して拒まれることはない。犯罪人のように不正直であり、罪を犯した女のように不貞であり、タルソのサウロのように凶悪であり、マナセのように残忍で、放蕩息子のように反抗的であっても、自分によいものが全くないことを感じる人々には、神の愛が注がれる。そして彼が十字架につけられたイエスを信じた時、きよい者という宣告が与えられる。それゆえに、主のみもとに来れ。
「来れ。乏しき者。来れ。罪ある者。そして忌まわしき裸なる者よ。おまえは決して汚れすぎてはいない。あるがままの姿で来れ。」
 
 
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ヨブ記9章13-20節

2016年09月29日 06時53分40秒 | 聖書


9:14 「いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交せようか。
9:15 たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。
9:16 たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。」



 ヨブは、全知全能であられる生ける神の前に、自分がどのような存在であるかを認識して語っています。

この私が、神と言葉を交わすことができるであろうかと。

汚れに満ちる自分は、聖なるお方の前に出て、交わりを持つことができるような者ではないというのです。

また、たとえ自分で、自分は何も悪いことをしていないと思っても、それでもって神の前に立つことができると、主張できる者ではないというのです。

神は人の心の内さえも見られるお方であって、そのお方の前では、自分はただ憐れみを乞うのみであるというのです。

聖なるお方の前に立ち得る人はいない。

その立つことができない人の内の一人は、まさにこの自分である、というのです。

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エペソ人への手紙4章30節(イザヤ書47章)

2016年09月29日 06時50分57秒 | 聖書


★神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

■O:今日のコラム
ここに神の聖霊を悲しませてはいけないと書いてあります。
そうです。聖霊は悲しむんです。それは、聖霊には人格があるからです。私たちが罪の道を選び、その道を歩んでいくのであれば、聖霊を悲しませることとなります。なぜなら「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(1コリント3:16) とあるように、私たちは聖霊の宮だからです。私たちの心が聖霊の宮なんです。
では、聖霊を悲しませるものとはなんでしょう?
一つは、罪を犯すときです。聖霊は私たちの行動や態度の中にご自身を現わしたいと願っておられます。知っていて間違ったことをするとき、私たちは聖霊を抑圧してしまうのです。
二つ目は、祈りを忘れるときです。「御霊によって祈りなさい。」(エペソ人への手紙6:18)とあります。聖霊の働きには祈りが必要です。その祈りを忘れる時、聖霊は悲しまれます。
三つ目は、聖書を読まない時です。聖霊はご自身の事をもっと知って欲しいと願われています。聖書には、いたるところに聖霊の働きが書かれています。しかし、聖書を読まないと、それを見逃してしまうことになります。聖書は聖霊によって書かれました。その聖霊によらなければ聖書を理解することはできないのです。
四つ目は、世を愛する時です。キリストよりも世を愛する時、聖霊は悲しまれます。第一のものを第一にしない時、聖霊は悲しまれます。
私たちが、もしこのように聖霊を悲しませ続けるのであれば、かつてエルサレムの神殿を神様の臨在が去られたように、聖霊は私たちの心の宮から去って行かれます。パウロは、「御霊を消してはなりません。」(テサロニケの手紙第一5章19節)と言われました。
私たちは、聖霊を悲しませる者になるのではなく、むしろ私たちは聖霊を喜ばせる者でありたいですね。

■A:考えてみよう
自分の今の生活の中で、聖霊を悲しませているものはないだろうか。


■P:祈り
聖霊様、あなたを喜ばすことだけをしたいです。
イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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