座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆貪欲にご用心

2017年12月13日 06時03分37秒 | 聖書

蛭にはふたりの娘がいて、
「くれろ、くれろ。」と言う。
飽くことを知らないものが、三つある。
いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。
よみと、不妊の胎、
水に飽くことを知らない地と、
「もう十分だ。」と言わない火。(箴言三〇15―16)
これは、ユダヤの数え歌になっています。一つとや二つとやの、あの日本の数え歌のようなもので、「もう十分だ」と言わない、飽くことを知らない貪欲さを語っています。
私が福島県の山の中で農作をしていた時、田にヒルがたくさんいました。田に入ると、たちまちすねに食いついて血を吸います。放っておくと、きりがありません。吸いに吸ってぽろっと自分で落ちるまで、血を吸い続けます。そしてまた、死ぬまで血を吸うのです。まるで、貪欲を絵にかいたようです。
貪欲には、漫画的な愚かさが見られます。もし、私の妻がお金の力にたより、お金を大切にするあまり、財布を拝み、財布にいろいろサービスし、そのお金を毎月財布に入れている夫の私は、全く無視するとしたらどうでしょうか。
トルストイはこんな話をしています。一日中自分の足で歩いた土地にしるしをつけておくなら、その土地を全部ただでやると言われた男が、朝早くから、くわをかついで駆けずりまわりました。日が沈むと同時に出発点にもどり、前代未聞の広大な土地を自分のものにしましたが、その場でばったり倒れて死んでしまったのです。貪欲は、物一点張りになって、いのち・本質・ほんとうの目的は放ったらかしにします。そこで、聖書は貪欲は偶像崇拝だと言うのです。
金や物ばかりではなく、食欲・性欲・名誉欲の分野でも、愚かな貪欲がはびこります。イエス・キリストは、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(ルカ一二15)と言われました。神を知る者は、富める時にも貧しい時にも、足ることを知っています。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆塩は制限なし。

2017年12月13日 06時02分49秒 | 聖書
(エズラ七・二二)
主へのすべての全焼のささげ物には塩が用いられた。塩は腐敗を防ぎ、物を清める性質をもつので、たましいに対する神の恵みの象徴と言える。アルタシャスタ王が塩を祭司エズラに与えた時、量を制限しなかった。
これは私たちが深く注意を払うべきことである。そして私たちは、王の王なる方がその祭司たちに恵みを分けられる時にも、その量を制限されないことを確信してよい。私たちはしばしば自分に困窮する。しかし主にあっては、決して困窮することはない。多くのマナを集めようとする者は、望むだけ集め得ることを知るであろう。私たちのエルサレムには、市民がパンの重さを量って食し、水の量を量って飲むような飢きんはない。ある種のものは摂理によって決められている。たとえば酢や苦味などは正確に量を量って与えられ、たとえ一滴でも多くを手にすることはできない。しかし恵みの塩は、少しも出し惜しみされない。「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われている。
果物の入っている戸だなや甘いものの入っているつぼには、しっかりと錠をして密閉しておく必要がある。しかし、塩の容器には錠をおろす必要は少しもない。塩をむさぼって食べようとする子どもは、ほとんどいないからである。人は金や名誉をもちすぎることがある。しかし、恵みを多く受けすぎることはない。エシュルンは肥え太ったとき、神を足でけった。しかし、恵みがあふれすぎることを恐れる必要はない。恵みが多すぎるというのはあり得ないことである。富が増すにしたがって心労も増す。しかし恵みは増すにつれて喜びをもたらす。知恵は増すにつれて悲しみを増加させるが、聖霊があふれるならば、喜びも満ちあふれる。
信者よ。多くの天の塩を受けるために御座の前に行け。あなたの患難は、塩がなければ価値がない。天来の塩はその患難に味をつけるであろう。また天来の塩は、もしそれがなければ腐敗するあなたの心を守り、塩が虫を殺すようにあなたの罪をも殺すであろう。あなたは多くの天の塩を必要としている。多く求めよ。そして多くを得よ。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

詩篇80篇8-13節

2017年12月13日 05時55分58秒 | 聖書

80:11 ぶどうの木はその枝を海にまで、若枝をあの川にまで伸ばしました。
80:12 なぜ、あなたは、石垣を破り、道を行くすべての者に、その実を摘み取らせなさるのですか。


イスラエルの民はエジプトから主によって導き出され、葡萄の苗木が、カナンの地に植えられたものにたとえることが出来るほどに主に祝福され、育ちました。

ところが今、その豊かな実をイスラエルの民が食べるのではなくて、関わりのない異邦の人々が食するものとなってしまいました。

それは、彼らが主に対して背きの罪を犯したために、主が彼らを裁かれたからです。

しかし、作者はここで主に対して、主が折角エジプトから困難の末に導き出した民を、何故に苦しめ続けるのですかと叫んでいます。

もう赦してあげて下さいと祈るのです。

私たちも罪と汚れに満ちた者です。

主の怒りに触れたらひとたまりもなく、滅び行く者です。

しかし、このような者の為に、イエス様が死の故に執りなして下さるので、私たちは赦しが与えられ、平安でいることが出来るのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ヨハネの福音書 5章17節

2017年12月13日 05時53分05秒 | 聖書

★イエスは彼らに答えられた。 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。 ですからわたしも働いているのです。 」


■O:今日のコラム
神は創世記の1章で、天と地と全ての被造物を6日間で創造されました。
そして、第七日目に安息されました。
他の6日間と区別された特別な一日、これが安息日です。
ユダヤの暦においては、金曜日の日の入りから土曜日の日の入りまでをこの安息日とします。その間は一切の仕事を休み、家族でみことばを中心にして過ごすのが一般的です。

今日の聖書の箇所では、イエス様がベテスダの池にいる38年もの間病気にかかっている人を癒やされます。しかし、それは安息日でした。
律法学者は病人が癒やされたことよりも、床を取り上げる「労働」をしたことに注目し、その事を命じたものは誰かと追求します。安息日の本質を見失ってしまっているのです。

そこでイエス様は今日のみことばを語られます。

イエスは彼らに答えられた。 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。 ですからわたしも働いているのです。 」(ヨハネ5:17)

しかし、このみことばを良く思い巡らしてみると、次のみことばとの矛盾を感じます。

「神は第七日目に、 なさっていたわざの完成を告げられた。 すなわち第七日目に、 なさっていたすべてのわざを休まれた。」(創世記2:2)

創世記で神は「休まれた」と書かれていて、ヨハネの福音書には「わたしの父は今に至るまで働いておられる」と書かれています。なぜ安息されやはずの父が働いておられるのでしょうか。なぜこのような矛盾に思える箇所があるのでしょうか。これをどのように説明すれば良いのでしょうか。

様々な考え方があるかと思いますが、一つに、神が天地創造の後休まれた時と、イエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられる」と言われたときで違う点があります。前者は人が罪を犯す前で、後者は人が罪を犯した後の事になります。

つまり、天の父は人が神の声に聞き従うことができなかったことで生じてしまった罪のために失われた関係を何とかして回復したいという願いで、今も働いておられるのではないかと思います。
天の父は、人に入った罪を取り除くために、大切な大切なひとり子であられるイエス・キリストをこの地に送られ、そのいのちを持って人々のいのちを買い戻されることを許されました。ここに神の愛があります。
放蕩息子の父のように、天の父は今でも「失われたわたしの子はどこだ?」と探し回られ、神の子どもたちが父の元に戻ってくるために今も休むこと無く働いておられるのです。



■A:考えてみよう
神が命じられたことなので、安息をすることは大切です。しかし同時に、天の父が今もなお休まず働かれていることも心に留めたいと思います。それは、神である主ご自身が創造された大切な子どもたちを、休まずに探し続けられている天の父の愛です。
私たちは自分だけがイエス様に出会ってそれで満足なのでしょうか。そんなことはありません。私たちが天の父の心を悟るなら、人々に対する救霊と哀れみの心が湧き上がってくるはずです。
モーセが「イスラエルの民が救われるなら自分はいのちの書から名前が消されても良い」と言ったように、また、エステルがイスラエルの民のために「私は死ななければならないのでしたら死にます」と言ったように、私たちはこの日本の人々の救いのために自分のいちばん大切ないのちを差し出すことが出来るだろうか?



■P:祈り
天のお父さん、天地が創造される前から私のことを考え、あなたの御手で私を形作り、主ご自身が私の中にいのちを吹き込んでくださったことを感謝します。
また、罪という泥沼の中にいた私をあなたのひとり子、イエス様を送って下さり、この罪なきお方の死と葬りと復活によって、私たちが贖われ、救いに導かれたことを感謝します。
しかし、私は自分が救われ、自分の生活をしていくことで精一杯になっていました。自分が救われ、毎日不自由なく暮らしていけることに満足していました。主よ、これは自分が中心となっていることであることを認めます。自己中心は罪の根源です。イエス様に出会った私の中に、まだこのような罪の性質があったことを認めます。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、 これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)とあるみことばに従うことができていませんでした。
どうか、主の憐れみによって私の中から自己中心を取り除け、主が私の中心となって下さい。天の父の愛を私に与え、そのとおりに生きていくことが出来るよう、聖霊様助けてください。
自分のためだけにこの人生を使うのではなく、安息されたはずの天の父、イエス様、聖霊様も今もなお働き続けておられるように、失われたたましいのために私のいのちを用いて下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆彼らは主を裏切り……。

2017年12月12日 16時38分46秒 | 聖書
(ホセア五・七)
信者よ。ここに悲しい真理がある!  あなたは主に愛され、血によって贖われ、恵みによって召され、キリスト・イエスの中に守られ、主にあって受け入れられ、かつ天国への途上にある。ところが、最上の友である神を「裏切った」。あなたはイエスのものであるのにイエスを裏切り、聖霊によって永遠のいのちに生かされているのに、聖霊をも裏切っている。あなたは誓いと約束をどれほどほごにしてきたことだろう。
あなたは、あなたの結婚式の時の夢、あの幸福な時――あなたの信仰生活の春――の愛を記憶しているか。おお、あなたはその時どれほど親密に主にすがっていたことだろう。あなたは言った。「主は決して、私を冷淡だと言って責められることはない。私の足は決して、奉仕を面倒だとは思わないであろう。私の心は決して、他のものを愛してさまようようなことはしない。主の中には、筆舌に尽くせないよいものが蓄えられている。私は、私の主イエスのためにすべてをささげる」と。
今まであなたはずっとこのようであったか。ああ、もしあなたの良心に語らせるならば、こう言うだろう。「彼は、約束だけはすばらしかったが、実行はなっていない。祈りはしばしばなおざりにされ、短く、味気のない、冷淡な祈りであった。キリストとの交わりは忘れ去られた。天のことを思う代わりに、世俗的心労、この世の虚栄、邪悪な思いがあった。奉仕の代わりに不従順が、燃えるような熱情の代わりになまぬるさが、忍耐の代わりに不機嫌が、信仰の代わりに肉の腕に対する信頼があった。そして十字架の兵士として、恥ずべき臆病、不従順、荒廃があった。」
「あなたは主を裏切った。」イエスに対して! これに反論することばはない。ただ私たちは罪を悔いて、自己の内に根を下ろす罪を憎もう。御傷に対して! イエス様。私たちを赦し、再び罪を犯さないように守ってください。決して私たちを忘れず、その胸当てに私たちの名を刻んで、今日も永遠の御座の前に立たれるお方を裏切るとは、なんと恥ずべきことであろう。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。

2017年12月12日 16時35分41秒 | 聖書

なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・」(ヨハネ2:24)

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた」とあるが、人々が信じたのは、奇跡を見たゆえであった。
奇跡は、信仰のきっかけの一つになるかも知れない。
人間には不可能な、超自然のわざに驚き、神を認める。

しかし、奇跡自体にとどまっているなら、それは信仰ではない。
イスラエルの民は出エジプトに際して、紅海横断という後にも先にも無い、偉大な奇跡を見た。
しかし、荒野に入った途端、不平不満愚痴の不信仰に陥り、果ては偶像礼拝だ。

主は五千人の給食の奇跡をされた後、群衆に「しるしを見たからでなく、パンを食べて満腹したから」ついて来ると言われた。
パンのために=自分の願望を叶えて貰うためにだ。

自らの願望が満たされ、自分の思い通り、主が便利である間はついて行くが、願望が叶えられなくなった途端、失望し必ず離れ去る。
ついて行く理由が無い。「しるしを見て、御名を信じた」の「信じた」と「ご自身を彼らにお任せにならなかった」の「任せる」は同じ言葉だ。

主を信じ、身まで任せると言っても、主を利用できる間だけの事だ。
利用価値が失せ、都合が悪くなると、離れ去る。土の薄い岩地のようだ。
芽が出るが、固い自我に阻まれ根差さないので、不都合が起きると枯れる。
都合良かろうと悪かろうと、神が神であられるゆえに、礼拝して生きて行く。
この恵みにとどまれるよう。
-----------------
信仰がないのに奇跡を見ても主に従えない。
パンで満腹し病が癒されたから・・の感情が基準ではない。
神が神であられるがゆえに歩みは遅くとも主に従っていけるし、主も決して見放されない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆人を人とも思わない世代

2017年12月12日 07時18分43秒 | 聖書

自分の父をのろい、自分の母を祝福しない世代。
自分をきよいと見、汚れを洗わない世代。
なんとも、その目が高く、
まぶたが上がっている世代。
歯が剣のようで、きばが刀のような世代。
彼らは地の苦しむ者を、
人のうちの貧しい者を
食い尽くす。        (箴言三〇11―14)
あなたのきらいな人のタイプを四つあげよといわれたら、どんな回答が出るでしょうか。ここには、アグルという人の見たきらいな人のタイプが、四つあげられています。
第一は、年をとって体力が衰え、経済力・生産力・指導力がなくなった両親を、やっかい者にしたり、ないがしろにする人です。
第二は、あくまで自分は正しいと思いこんで、人の忠告や教えをばかにして受けつけず、自分を見つめない人・反省しない人です。
第三は、人を見くだし、えらそうにしている高慢な人です。
第四は、弱い者に対して残酷な人・思いやりのない人です。
この四つのタイプに一つの共通点があると思いませんか。ルカの福音書一八章の初めで、イエス・キリストが「神を恐れず、人を人とも思わない」ということばを使われています。――まさにこれこそ、この四つのタイプの共通点です。
神がもし、「人を人とも思わない」態度で、私たちに臨まれたらどうでしょう。私のような、自分勝手で思いあがった、きたない罪人は、掃き集めて一時も早く始末してしまうほうが簡単です。しかし、神は、聖書の中で言われるのです。「私は折れかかった葦の葉を折らない。消えかかったろうそくを消さない」(マタイ一二20参照)と。ことばに表せない神の思いやりと愛を思う時、私たちはせめて、神を神と思い、人を人と思う者になりたいものです。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆しかし、

2017年12月12日 07時17分25秒 | 聖書
その軌道は昔のまま。(ハバクク三・六)
神は、かつてなされたことを、また再び行われる。人の行うことには定まりがない。しかし、神の軌道は昔と変わらない。この最も慰めに満ちた真理には多くの理由がある。その一つは、主の軌道は賢明な熟慮の結果だということである。神はみこころのままに万物を統べ治められる。人の行いは、しばしば激情や恐怖の性急な結果である。そして後悔や変更がそれに続く。しかし何ものも全能の神を驚かすことはできず、神が予見される以外のことは何も起こらない。
神の軌道は不変のご性質の結果である。そしてその中に、確固とした神の性質がはっきりと現れている。永遠なる神ご自身が変わられない以上、その軌道――それは活動しているご自身であるが――は永遠に同じでなければならない。神は永遠に正しく、あわれみ深く、忠実で賢明で優しいだろうか。それなら、神の軌道も、常に同様の卓越した点を備えているに違いない。すべての生き物は、その性質によって行動する。その性質が変化する時、彼らの行いもまた変化する。しかし神は移り行く影のない方であるから、その行われるところも永遠に不変である。
さらに、神の軌道を外部から逆転させることはできない。なぜならそれは不可抗的な力が具体化されたものだからである。預言者は、主がご自分の民を救うために出て来られる時、地は裂かれて川々とされ、山々は震え、深い淵はその手を高く上げ、太陽と月はとどまると言っている。だれが御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言うことができよう。
しかし、不変性は力だけから来るのではない。神の軌道は、正義の永遠の原則が現れたものである。だからそれは決して廃れない。悪は腐敗をもたらし、破滅を宿している。しかしまことと善は、歳月によって減少することのない活力をもつ。
今朝私たちは、イエス・キリストはきのうもきょうも、いつまでも同じ方であり、主にあって神は常にその民にあわれみを注がれることを思い起こそう。そして確信をもって父なる神のみもとに行こうではないか。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

詩篇80篇4-7節

2017年12月12日 07時15分38秒 | 聖書

80:4 万軍の神、主よ。いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やしておられるのでしょう。
80:5 あなたは彼らに涙のパンを食べさせ、あふれる涙を飲ませられました。


作者は、主の怒りによって苦しみの内に置かれ、涙のパンを食べざるを得ないような主の民のことで、祈っています。

「いつまでお怒りを続けるのですか」と祈り、「彼らのあふれる涙を取り払って下さい」と願っています。

民が受けている苦しみは、民が神様の前で罪を犯したためです。

それは、当然の裁きの結果です。

しかし作者は、神様に対して、この民のために執り成しをするのです。

それは、「この苦しみに遭っている民は『あなたの民です』。ですから、そのあなたの民のために恵みを注いで、その罪を赦し、早くその苦しみから解放して下さい」と祈っているのです。

私たちにも、罪の故に苦しみもがく時があります。

そうした時、自分の為に執り成しをして、支えてれる祈りほど、大きな慰めになる事はありません。

主は熱心な祈りに答えて、御心を開いてくださるのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ヨハネの福音書4章7節

2017年12月12日 07時11分34秒 | 聖書

★ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

9節
★そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
ーユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからであるー


■O:今日のコラム
今日の通読箇所の4節には「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」とあります。詳訳聖書には、「どうしても」と書かれています。「どうしてもそこを通らなければならない」と主が思うほどに、主の心が注がれていることは何だったのでしょうか。

主の心はサマリヤの女性に注がれていたのです。今日の箇所でイエス様が話しかけたのは、異邦人のサマリヤの女性でした。

6節に時は第六時(正午)とありますから、彼女は日が照っているとても暑い時間に水を汲みに来たのです。それは人々を避けていたこと、人前に出る資格などない立場であることの表れであると思います。

また、ユダヤ人とサマリア人が交流しないという文化から考えても、今日の箇所にあるように、「どうして私なんかに求めるのですか」という反応は一見もっともらしいです。

しかし常識や文化、自分がどのような者であるかを主は見ておられません。今日の箇所のサマリヤの女性に主が目を留めておられたように、主は一人も忘れることなく、一人一人と出会ってくださり、差し出すことを求めてくださるのです。

主は私に語り掛けてくださる、私のものを求めてくださる。全部造られたお方に、全部を持っているお方に捧げられるものがある、これはなんという恵みでしょうか。

それに対してどのように答えているかと考えさせられました。完璧な方に完璧なもので答えることはできません。私たちは完璧を捧げようとするからこそ、そんなもの捧げられないと思ってしまうのではないでしょうか。

しかしここに、へりくだりのように思えるむさぼりがあるのではないでしょうか。私は捧げる資格なんてない、ちっぽけなものしか捧げられないから、完璧ではないから、、、などと惑わされて、捧げることさえ拒んでしまうことがあることを思います。

完璧なものを捧げることなど私たちには出来ないことを主はご存知です。しかし捧げるべきものはあるのです。むしろ、完璧なものはいらないけれど、今持てるもの、今の自分の持てるものは主に捧げるべきものなのです。

そしてなにか完璧なことをイメージすると抽象的な感じになりますが、今捧げるものは、今向き合っていること、今握っているものですから、実際的であり、ある意味苦しいでしょう。捧げるとは実際的なものなのです。

「ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。」(2コリント8:11-12)

主はそれを受け取られるのです。ですから、主に今日の私の、今の私の持てる全部を捧げていきたいです。それが毎日毎日主について行く歩みではないでしょうか。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)

4章を読み進めると、みなさんもよくご存知のように、物質的な水の話をした後に、主は霊的な水の話をして、それを主が与えるとおっしゃります。私たちに求めたあとに、主は、主のものを与えてくださることを覚えます。だからこそいつも良きものを、本当に握るべきものを与えてくださる主に信頼して自分のものを捧げていけるのです。



■A:考えてみよう
今日、私が捧げられるものはなんでしょう。主は他の誰でもなく、お一人お一人に求めておられることがあると思います。

例)賛美すること、祈ること、聖書を読むこと、握ってるものを手放すこと、経済を捧げること、従順になること、上司を祝福すること、人と時間を過ごすこと、、、、など。

求めておられるものを主に聞き、また語られたならば今日、具体的に行動として答えていきましょう。



■P:祈り



愛するイエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆あなたがたは主キリストに仕えているのです。

2017年12月11日 16時26分13秒 | 聖書
(コロサイ三・二四)
どのような高官に対してこのことばは語られたのであろう。神からの権利を得々と主張する王に対してか。否、彼らはあまりにもしばしば、自己やサタンに仕え、彼らの物まねの威厳をしばし黙って見逃しておられる神を忘れている。では使徒は、「神にあって尊敬される教父たち」「主教たち」あるいは、「尊い大執事たち」に対して語っているのか。否、パウロは人間の考案したこのような階級については、何も知らなかった。このことばは、牧師、教師、信者のうちの富んでいる者、尊敬されている者に対して語られているのでさえない。このことばはしもべに対して、奴隷に対して語られたのである。勤労する多くの人々、職人、日雇い労働者、家事手伝い人、台所のしもべの中に、使徒は、主のお選びになった人々を見いだして――今日私たちも、彼らの中に主が選ばれた人々を見いだしている――こう言う。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい、あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」と。
このことばは、地上の職業の退屈な機会的な流れ作業を尊いものとし、最も卑しい仕事にも光を添える。足を洗うことは卑しいことかもしれない。しかし、主の御足を洗うことは高貴な仕事である。店も、物置きも、食器置き場も、かじ屋の仕事場も、人々がすべてのことを神の栄光のためにするようになれば、神の宮となる。その時「礼拝」は、ある時間にある場所ですることではなく、すべての生活が、主にささげた聖潔の生活となり、すべての場所や物が、幕屋やその中の金の燭台のように聖くなる。
「主よ。すべてのことにおいてあなたを見、またすべてのことをあなたのためにすることを教えてください。あなたのためにする時、どのような仕事も卑しいものとならないからです。あなたのためにする時、単調な仕事も聖なるものとなり、あなたのために部屋を掃く時、それはすばらしい仕事となるからです。」
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。

2017年12月11日 16時25分22秒 | 聖書

そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(箴言16:3)

私たちは、色々な計画を立てる。目先の計画から、人生プランまで様々だ。
財を築くこと、出世すること、幸せな家庭を築くこと、趣味を充実させる事・・財を築く事も、仕事で精一杯努力する事も、名を上げる事も、全く悪いことではない。

一生懸命労する事は良いことだ。大切な事は、それらに突き進ませている、心の内側の「動機」だ。
なんで財を蓄えるのか?なんで仕事に邁進するのか?私たちの動機はとても大切である。
今、立てようとしている計画の動機をよく探ってみよう。

「自分の行ないがことごとく純粋だと思う」が、「主は人のたましいの値うちをはかられる」。
動機を見ておられる。慈善や、奉仕の計画の動機はどうか。
自分を喜ばせるためか。自己満足、自己実現、虚栄心、プライド、人からの評価、賞賛、それとも神をお喜ばせするためか。

主に心探って頂こう。そして、「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」だ。
一旦握りしめたプランは、誰が何と言おうと固執して放さないだろうか。
どうしても通そうとする、そこに自我はないか。
プランと自我が一つになっている。

又、自分でしようとすると、思い通りにならないため、思い煩い、不安、イラ立ち、焦りで平安が失せる。
そのプランをまず主に渡すなら、「あなたの計画はゆるがない」。主が成し遂げらる。
----------------
人の思いは不完全で良いもの悪いもので混乱している。
強い目的があればなおさら主の前に自らの心の内を尋ねて行かなければならない。
計画の前であれ、途上であれ、正しく導き返して下さる主に聞こう。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆中傷でなく仲介

2017年12月11日 07時04分12秒 | 聖書

しもべのことを、その主人に中傷してはならない。
そうでないと、彼はあなたをのろい、
あなたは罰せられる。         (箴言三〇10)
知恵ある人の気配りの一つが語られています。
私たちは、とかく弱い立場の人をいい加減に扱うことがないでしょうか。たとえば、友達の家を訪問して、深い考えもなく軽々しく、「あなたのところのお手伝いさんは、聞いてよ、こうなの」などと、あまり根拠もない、お手伝いさんに不利不名誉になることを口にしてしまうことはありませんか。あるいは会社で、ほかの部長のところに行って、「実は、君の部下の何々君な、こんなうわさだぞ」と、これも根拠のないうわさ話を、軽い気持ちで言ったりすることはどうですか。
パウロは、ローマ人への手紙でこう言いました。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です」(一四4)。
根拠のない悪口などを言って他人の名誉を傷つけることを中傷といいますが、同じ「ちゅう」といっても、聖書の中の「仲介」ということばは尊いことばです。仲介=仲立ち・とりなしです。
パウロは、「ああ、私なんか、もうだめだ。また、罪を犯してしまった」とうなだれている人にこう言いました。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ八33―34)。
知恵ある人は中傷するものでなく、とりなす働きをする仲介者・とりなし手になるべきだと思います。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆あなたがたを召された方は真実ですから、

2017年12月11日 07時03分25秒 | 聖書
きっとそのことをしてくださいます。(Ⅰテサロニケ五・二四)
天国は私たちが決して罪を犯さない所である。そこでは、執念深い敵に対する絶えざる警戒から解放される。なぜなら、そこには私たちの足をわなにかける誘惑者は一人もいないからである。天国は「汚れることのない資産」である。それは完全な聖潔の国であり、したがって申し分のない安全の地である。しかし、聖徒たちはこの地上においても、時に、恵まれた安全の喜びを味わってはいないだろうか。神のみことばの教理はこう教える。すべて小羊に結ばれた者は安全であり、すべての正しい者はその道を堅く保つ。自らのたましいをキリストの保護にゆだねる者は、主が真実にして変わりない保護者であることを見いだす、と。
このような教えに支えられて、私たちは地上においても安全を楽しむことができる。それは私たちをすべての過失から解放する、高い栄光ある安全ではない。しかし、イエスを信じる者は一人も滅びず、主のいます所に共にいるという確実な御約束から来る聖なる安全である。信者よ。しばし喜びをもって、神が聖徒を堅く守ってくださるという教えを熟考しよう。そして神に聖い信頼を置くことにより、主の真実をあがめようではないか。
私たちの神が、キリスト・イエスにある安全をあなたに確信させてくださいますように。主があなたの名を手のひらに刻んでおられることをあなたにはっきり信じさせ、「恐れるな。私はあなたとともにいる」との御約束をあなたにささやいてくださいますように。
契約の偉大な保証人である方を仰ぎ見よ。主は忠実であられ、真実であられる。神の家族の中の最も弱いあなたを、他の選ばれた者たちと共に神の御座にささげる義務を負われ、またその約束をしておられる。もしあなたが揺るぎない信仰をもって、「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」ということを信じることができるならば、あなたは今すでに、天上の完全な聖徒が味わう喜びの幾分かを味わっているのである。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

詩篇80篇1-3節

2017年12月11日 07時01分21秒 | 聖書


80:2 エフライムとベニヤミンとマナセの前で、御力を呼びさまし、私たちを救うために来てください。
80:3 神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。


作者は、イスラエルの神に助けを求めています。

御力を現して、私たちを救ってくださいと祈っています。

エフライムとは、北イスラエルのことです。

ベニヤミンとは、南ユダのことです。

そしてマナセとは、ヨルダン川の東の地のことです。

そこに、主の民が皆生活をしていました。

そこに御力を持って来て、助けて下さいと祈っているのです。

主が私たちの上で御顔を照り輝かせて下されば、そのことによって主の民は皆救われますと語っています。

主こそが、主のみが、主にある民の真の助けであり、また救いです。

このお方以外に、主の民が助けを求めるところはありません。

主は、主に信頼して主に助けを求める民を助けてくださいます。

主に頼り求める者を、主は辱めたもうことはないからです。

主こそが、主にある私たちの、堅き岩、また堅固な砦であるのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加