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◆この人々は歌うたいであって……

2014年07月31日 16時55分33秒 | 聖書

昼となく夜となく彼らはその仕事に携わった……。(Ⅰ歴代九・三三)

宮の中において、聖なる歌が決して絶えないように定められていたのはよいことであった。歌うたいたちは、常に、とこしえにあわれみに富まれる主を賛美していたのである。主のあわれみが昼も夜も絶えなかったように、音楽もその聖なる務めをやめなかった。
私の心よ。このシオンの宮の絶えない歌は、おまえに快い教訓を与える。おまえもまた不断の債務者であり、主の愛が絶えないのと同じように、おまえの感謝を決して絶やしてはならない。おまえの最後の住まいである天国において、神への賛美は絶えることなく続いている。おまえもまた、とこしえにハレルヤと賛美することを学べ。太陽が地上に光をまき散らすように、神の光も感謝に満ちた信者を目覚めさせて朝の賛美を歌わせ、聖徒のもつ祭司としての職務によって、不断の賛美をささげさせる。彼らは、私たちの地球を感謝の衣で包み、賛美の黄金の帯で取り巻く。
主こそ、不断の賛美を受けるにふさわしい方であられる。そのご人格のゆえに。その創造のみわざと摂理、被造物に対するいつくしみのゆえに。ことに贖いのすばらしいみわざのゆえに。そしてそれから流れ出る驚くべき祝福のゆえに。
主を賛美することはいつも有益である。それは昼を楽しくし、夜を輝かせ、労苦を軽くし、悲しみを和らげ、地上の喜びに聖なる光を投じて、私たちの目が、地上の喜びによってくらまされることのないようにする。私たちは、今何か歌うべきことをもっていないのか。私たちの現在の喜び、過去の救い、あるいは未来の希望について歌い出すことができないであろうか。地は夏の果実を生じ、干し草は納屋に納められ、黄金の穀物は鎌を入れられるのを待っている。太陽はこの実り多い地上をゆっくりと照らす。夜も短くなった。しかし、私たちの心からの礼拝の時は長くありたい。
イエスの愛によって励まされて、今日の日を聖い喜びの歌をもって終えようではないか。

 

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「マリヤはその良い方を選んだのです。

2014年07月31日 16時54分36秒 | 聖書

彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ11:42)

善と悪なら、選択がストレートで簡単だが、どちらも良いものである時の選択は難しい。
仕事や学業や趣味に追われてしまうが、それが悪い事でないだけに気づけない。
仕事や勉強や趣味は決して悪い事でなく、むしろ良い事だ。
それに熱心である事は何ら問題を感じない。
しかし、仕事や学業に心と時間を奪われ神から離れてしまった人々は多い。
サタンの罠がある。
又、世の事でなく、教会の奉仕を熱心にするが、何のためかと言うと自分のためであったりする。
奉仕する事で自分の存在価値を確認したいし、人に認められたい。
これらは必ずマルタと同じになる。
奉仕でイライラし人を責め神まで責める。
ベターでなくベストを選択すべきだ。
マリヤのように御言葉を聞く事がベストだ。
それによって主のお心を知る。
マリヤが高価な香油を献げる事が出来たのは、御言葉に真剣に聞き入っていたからだ。
マリヤ一人だけこれから十字架に向かわれる主のみ心を悟り、主を喜ばせたのであった。
----------------
良い事に熱心になり神から離れる。
悪魔の巧妙な誘惑だ。
悪魔は善でも悪でもどちらでもよい。
神から離せさせることができれば、何でもいいのである。
心を主に向けよう。必ず御声が聞こえ、み心がわかる。
これが一番の喜びで幸せだ。

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今日の聖人の記念日

2014年07月31日 07時15分11秒 | キリスト教

聖イグナチオ(ロヨラ)司祭

1491年ごろ-1556年

 イグナチオは、スペインのバスク地方の貴族ロヨラ家に生まれ、幼いころから騎士道精神を身に付け、名誉を求めることを価値としていた。1521年、戦場で負傷し、病床にあったイグナチオは、キリスト伝や聖人伝を読んで感銘を受けた。そしてすべてを捨ててキリストに従う決心をし、マンレサに退いて、祈りと苦行に専心した。このときの霊的体験が、有名な著書「霊操」を生みだした。それから、ローマとエルサレムに行き、ヨーロッパに戻りパリ大学で勉強をした。学友の中から6人の同志を集め、パリのモンマルトル聖堂で、「より大いなる神の栄光のために」、また「すべての人のために」働くことを誓って、「イエズス会」を創立した(1540年に正式に認可)。そのなかには、日本の最初の宣教師であるフランシスコ・ザビエルもいた。

 現在会員は、世界各地で、教育など多くの分野で活躍している。日本では、東京の上智大学をはじめ、鎌倉市、神戸市、広島市、福岡市などでの教育事業や、黙想指導、教会司牧、社会正義など、社会の中で人々の必要のために働いている。

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◆人の計画・神の計画

2014年07月31日 07時14分02秒 | 聖書

人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言一九21)

ナポレオンは、実にちみつな計画を立てた人だったそうです。ワーテルローの戦いに臨んだ時も、一点の非の打ち所もないプランを立てていました。しかし、その日に朝から降った大雨のために、十二分に立てられたそのはかりごとは、ついえ去りました。ナポレオンとその軍隊は敗れ、ついに、その敗北から立ちあがれなくなったそうです。人が、人の力によって人のために立てる計画とは、そんなものではないでしょうか。むなしいものです。
しかし、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言一六9)と聖書は言います。どうせなるようにしかならないんだ、そんなやけのやんぱちからは、何の祝福もよいことも出てきません。どうすれば、主から祝福を受けることができるでしょうか。
第一に、自分の考え・願い・計画を祈りの中で神の前に持ち出し、神に相談してみることです。神に正し、力づけていただくのです。
第二に、「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。……信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(ローマ一二3)とパウロが述べたすすめに従うことです。
第三に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ二13)とあるように、神に与えられた志を働かせそれを実践していくことです。神は私たちに、その時々にその力をも与えてくださいます。いいえ、成し遂げてもくださるというのです(ヘブル一三21参照)。
これが、祝福を受ける理想的な姿ではないでしょうか。

 

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◆わたしは彼らにおり……。

2014年07月31日 07時12分56秒 | 聖書

(ヨハネ一七・二三)

このみことばのように、私たちのたましいと主のご人格が結合しているならば、私たちの霊の交わりの水路はなんと深く広いことであろう。これは糸のような流れが曲がりくねって通る狭い鉄管ではない。驚くほどの深さと幅をもつ水路であり、それに沿って豊かな水がとうとうと流れている。
見よ。私たちの前に主は門を開いてくださる。ためらうことなく入ろうではないか。この霊の交わりの都にはたくさんの真珠の門がある。それはそれぞれ一つの真珠によって造られ、各々の門は私たちを歓迎し、私たちが入ることができるように最大限に開かれている。仮に、ただ一つののぞき穴があり、それを通してイエスと会話をもつことができるとしても身に余る光栄であるのに、まして、このような大きな門から大手を振って入れるとは、なんという祝福であろう。仮に、イエスが私たちをはるかに離れ、あらしの海がその間に横たわっていたとしても、私たちは使いを送って自分たちの愛を主に伝えたいと願い、御父の家からの便りを得ようとするであろう。
しかし、主の心づくしを見よ。主は私たちの隣に家を建てられた。否、主は私たちと同居し、あわれな、卑しい心とともに宿ってくださり、私たちと永遠に親しく語ろうとしておられる。
ああ、もし私たちが不断に主と親しくお交わりしようとしないならば、なんと私たちは愚かであろうか。友人同士が遠く離れており、しかも道が危うく困難であれば、互いに会うことの少ないのは当然である。しかし同じ屋根の下に住んでいて、ヨナタンがダビデを忘れることがあろうか。
主にある友よ。なぜ主のぶどう酒のうたげにつらならないのか。あなたの主を求めよ。主はあなたの近くにおられるから。主を抱きしめよ。主はあなたの兄であられるから。主にすがれ。主はあなたの夫であられるから。主をあなたの心に押しつけよ。主はあなたの骨肉であられるから。

 

ヨハネ一七・二三)

このみことばのように、私たちのたましいと主のご人格が結合しているならば、私たちの霊の交わりの水路はなんと深く広いことであろう。これは糸のような流れが曲がりくねって通る狭い鉄管ではない。驚くほどの深さと幅をもつ水路であり、それに沿って豊かな水がとうとうと流れている。
見よ。私たちの前に主は門を開いてくださる。ためらうことなく入ろうではないか。この霊の交わりの都にはたくさんの真珠の門がある。それはそれぞれ一つの真珠によって造られ、各々の門は私たちを歓迎し、私たちが入ることができるように最大限に開かれている。仮に、ただ一つののぞき穴があり、それを通してイエスと会話をもつことができるとしても身に余る光栄であるのに、まして、このような大きな門から大手を振って入れるとは、なんという祝福であろう。仮に、イエスが私たちをはるかに離れ、あらしの海がその間に横たわっていたとしても、私たちは使いを送って自分たちの愛を主に伝えたいと願い、御父の家からの便りを得ようとするであろう。
しかし、主の心づくしを見よ。主は私たちの隣に家を建てられた。否、主は私たちと同居し、あわれな、卑しい心とともに宿ってくださり、私たちと永遠に親しく語ろうとしておられる。
ああ、もし私たちが不断に主と親しくお交わりしようとしないならば、なんと私たちは愚かであろうか。友人同士が遠く離れており、しかも道が危うく困難であれば、互いに会うことの少ないのは当然である。しかし同じ屋根の下に住んでいて、ヨナタンがダビデを忘れることがあろうか。
主にある友よ。なぜ主のぶどう酒のうたげにつらならないのか。あなたの主を求めよ。主はあなたの近くにおられるから。主を抱きしめよ。主はあなたの兄であられるから。主にすがれ。主はあなたの夫であられるから。主をあなたの心に押しつけよ。主はあなたの骨肉であられるから。

 

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第2サムエル記8章1-8節

2014年07月31日 07時11分31秒 | 聖書

8:3 ダビデは、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来たとき、彼を打った。
8:4 ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。



 神様はダビデと共にいてくださり、その王国を守り、栄えさせてくださることを約束してください。

その約束通りに、ダビデは多くの民と支配者との戦いに置かれましたが、皆勝ちを得て、勝利を手中にいたしました。

ここを見ますと、東のモアブ、北のユ-フラテス川近くの王を打ちました。

また、ダマスコのアラム王を打ち砕きました。

こうして沢山の戦利品と捕虜を得ることが出来ました。

 ダビデが戦いに勝ったのは、かつて彼がゴリアテを倒した時に、自分が普段使っていた石投げで倒したことからわかりますように、彼の賢さと勇気によっていることを見ます。

しかし、戦いはそれだけで勝つわけではありません。

ダビデの戦いの勝利は、いつも主が共にいてくださったことによっています。

ダビデも、いつも主により頼んでいました。

彼は信仰によって生き、戦ったのです。

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エペソ人への手紙1章3-4節 (詩篇62篇)

2014年07月31日 07時08分43秒 | 聖書

 ★  私たちの主イエス・キリストの父であられる神は、なんとすばらしいお方であろうか。この神は、天のあらゆる霊的祝福を、キリストを信じる私たちに注いでくださった。それは、神がこの世界を造られる前から、キリストを信じるように私たちを選んでいてくださった祝福であり、神の御前に、愛において聖く、何一つ欠けの無い者としてくださるというものであった。(Modern Japanese Bible 現代訳)

■O:今日のコラム

ワールドカップ試合のために、勝利を託され、厳選された選手。国民からも監督からも絶大な信頼と期待を寄せられている選手が、「選ばれた」という自覚もなく、選手としてのトレーニングはそこそこにして、お弁当運びやボール磨きだけして毎日を過ごしていたらどうでしょう。

監督は恐らく「あなたは勝利のために選ばれたのだから、そのために力を尽くしなさい。」と言うでしょう。もし、そこでその選手が「そう言えばそうでした! ん~でも、勝利は別にいいです。海外試合に行く時、インタビューされたりしてテレビに映れたら、それで満足です。」と答えたら、皆さんはどう思われるでしょうか?

パウロはこの章の中で、私たちは神にあって「選ばれた者、定められた者」であることを、何度も語っています。神様は私たちを、世界が造られる前から選んで下さり(4節)、また、キリストの身代わりの犠牲によって、神の子とするためにあらかじめ定めていて下さいました(5節)。そして、さらに、御国を受け継ぐ者として選んで下さいました。

この「選び」を思う時、それがもんのすごい特権であることに身震いします。
私たちが今、この時代のこの国のこの地域、そして今いるそれぞれの場所に生かされていること。それは、神様のこの完全なるご計画による「選び」なのです。この「選ばれた者」に与えられている身分、それは「神の子」としての身分です。

それには、どのような特権があるのでしょう。
御父と共にこの地を治める権利を与えられています。イエス・キリストという御名の権威も与えられています。そして、地にある悪しき力を禁じる鍵、そして天にある祝福をこの地上に解き放つ鍵が託されています。

文章だとさらりと読めてしまいますが、この特権の一つ一つはどれほどのことか! と感動を覚えるでしょうか?
それとも、自分はあんまり関係ないかな~ と涼しく読み流してしまうような事柄でしょうか?

サタンが恐れていることの一つ。それは、神の子である私たちが、自分の身分を自覚し、与えられている権威に目覚め、神と共にこの地を治め始めることです。この与えられている特権の一つひとつを握った者勝ちです。

もし、私たちの人生の目的が、死んだ後天国に入ることだけであれば、これらの権威を発揮する機会はなく、漂流している舟のように、サタンの思惑に揺らされ、脅かされ、神の子としての権威は生かされずに終わるでしょう。まるで、テレビに映ることで満足する選手のようではないでしょうか。

もし、クリスチャンが毎週日曜日に教会に行き、あとは天国に行く日を夢見るだけで良いのなら、またクリスチャンにとって神の子としての葛藤、霊的戦いなどが関係のないものならば、なぜ聖書にエペソ人への手紙があるのでしょうか。

全世界、全被造物の上に立っておられるキリストが、私たち教会の頭として与えられています。

職場において、学校において、家庭において、また教会においても、もうこれ以上サタンの好きにはさせません。私たちは霊の目を開き、神が私たちに与えてくださった身分、権威、そしてサタンの働きを明確に見分けて、御名の権威によって、悪しき力を禁じ、遣わされた場所において主イエス・キリストの主権を宣言していきましょう!

この街の王はイエス様、この教会(職場、学校、家庭)はイエス様のものです!そして、私たちは主と共に治める者です!

■A:考えてみよう

自分の神の子としての身分を回復するためには、御父である神様との関係を回復する必要があります。そしてそのためには、御霊を歓迎し、御霊と親密な関係を持つことがどうしても必要です。

今日、聖霊様をさらに歓迎し、神の奥義を悟ることが出来るよう、御父の御心を知ることが出来るよう、御子イエス・キリストの犠牲の愛をもっと知ることが出来るよう、神の子としての身分を悟ることが出来るよう、求めて祈っていこう。

そして、それぞれが置かれている場所、地域、職場、学校、教会、家庭において、イエス様こそが王であることを実際に宣言していこう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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7月30日(水)のつぶやき

2014年07月31日 01時41分45秒 | キリスト教
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◆わたしのところに来る者を、

2014年07月30日 17時26分47秒 | 聖書

わたしは決して捨てません。(ヨハネ六・三七)

この御約束には期限がない。単に「罪人が初めてわたしのところに来る時、これを捨てない」とあるのでなく、「決して捨てない」とある。このことばの原語は「わたしはしない、捨てはしない」、「わたしは決して捨てない」との意である。この聖句は、主が最初に信者を拒まれないことを意味し、最初にされないことを最後までなさらないことを言っている。
しかし、信者がキリストのみもとに来て後に罪を犯すならば、どうなるのか。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」信者の信仰が後退すればどうなるのか。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。」信者は誘惑に陥るかもしれない。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
だが信者は、ダビデのように罪に陥るかもしれない。しかし主は、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」との祈りに答えてくださる。「わたしは……わたしにそむいたすべての咎を赦す。」
主は言われた。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」おお、震えるか弱き者たちよ。あなたはこのみことばに対して何と言うか。これは尊いあわれみではないか。キリストに来た者は、しばらくの間大切にされ、その後顧みられなくなるのではない。主はあなたを受け入れ、花嫁とされ、あなたは永遠に主のものとなる。では、もう恐れを抱く奴隷の霊ではなく、「アバ、父」と呼ぶ子としての霊を受けよ。おお、「決して捨てません」というみことばの中にある深き恵みよ。

 

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「みこころが天で行われるように地でも行われますように」

2014年07月30日 17時25分44秒 | 聖書

(マタイ6:10)

私達は何を願っているのだろうか。
主よ、あれを下さい、これを下さい、主よ、あちらに行って下さい、こちらに来て下さい、主よ、ああして、こうしてと忙しい。
自分の願望と自分の思いで一杯だ。
主をあちらにこちらに動かそうとする。
しかし、間違ってはいけない。
「私の心が天で行われますように」ではない。
自分の思いが天になるのではなく、天の思いが自分の思いになるのだ。
そして、天で行われるみこころが、自分を通して、地で行われるのだ。
自分の思いでなく、神の思いが成りますように。
自分の計画でなく、神の計画が成し遂げられますように、という事だ。
神を越えて、自分の思いを通す事がないように「みこころが天で行われる通りに、地でも行われますように」これは重要な祈りだ。
すぐに自分中心に物事をとらえてしまう。
自分の肉の思いを捨てて、神の思いに、自分を合わせて行く時、神と一つだ。
今日、捨てるべき自分の思いがあるだろうか。
肉の思いを捨てる時、神のみ思いへと入る。 
----------------------
ただ、みこころだけが成りますように。
自分の祈りが叶えられると感謝。
叶えられずとも、そこから学ぶ事の方がはるかに多いからこれも感謝である。
みこころだけを尋ね求めて行こう。

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今日の聖人の記念日

2014年07月30日 07時51分15秒 | キリスト教

聖ヨハネ・コルンビニ

1300年ごろ-1367年

 ヨハネ・コルンビニは、イタリアのシエナの貴族の家に生まれた。巨額の富を築いたが、貧しい人々を少しも心にかけなかった。ある日、妻が持っていた「エジプトの聖マリア」の伝記を読んで感銘を受け、今までの自分の態度を深く反省した。彼は、財産を貧しい人に与え、病人を世話し、泊まるところのない旅人に宿を提供するようになった。そしてついにはすべての財産を人々のために与えた。ヨハネの徳は広まり、多くの貴族が彼のもとに集まって指導を求めるようになったので、彼は共同生活を始め、修道会を創立した。会員はいつも人々を訪問するときに「イエス・キリストが賛美されますように!」と祈っており、その会は「イエズアト会」と呼ばれるようになった。

 聖ペトロ・クリソロゴ司教教会博士

380年ごろ-451/485年

 聖ペトロ・クリソロゴ(金の言葉の意味)は、380年ごろ、イタリアのラヴェンナ(イモラ誕生ともいわれる)に生まれた。424年~431年の間にラベンナの司教に選ばれた。当時、この古い都は帝政時代の栄光期にあったが、その中で、ペトロ司教は牧者としての任務を忠実に果たし、また、優れた政治家でもあった。福音に基づいて生活へと導く彼の説教は有名で、その多くが今日まで伝わっている。そこには、同時代のアウグスチヌスのような雄弁も、レオ教皇のような神学もみられないが、彼の説得力と実生活に即した教えがあり、また飾り気がなく分かりやすい教えで、ラヴェンナの市民は高く評価していた。ペトロ司教は日ごろからこう言っていた。「民には民の言葉で話さなければならない。」

 ラヴェンナの年代史によると、ペトロ司教は451年から485年の間の7月31日に亡くなった。

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◆自分の子をこらしめよ

2014年07月30日 07時49分49秒 | 聖書

望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。
しかし、殺す気を起こしてはならない。(箴言一九18)

「殺す気を起こしてはならない」とは、とんでもないとお感じになるかもしれません。八つ当たり・憎しみ・やけっぱちなどのヒステリー的感情で子どもをこらしめるなといわれているのでしょう。
とにかく、「むちを控える者はその子を憎む者である」(箴言一三24)とも記されているように、子どもは、望みのある幼いうちにこらしめるべきだというのが、一貫した聖書の教えです。ところがこのごろは、子どもをこらしめられない親が、大部分なのではないでしょうか。ある女性が、しみじみとこう言われました。「私の娘は、離婚して帰ってきて、もう口もきかずにふさぎこんでいます。私が甘やかしたのが悪かったと、今になると分かるのです。」
どうして甘やかしてしまい、こらしめられないのかを考えてみました。
第一に、子どもに対する責任を自覚していないことです。神は、資格もない私たちを愛し生かし、親にしてくださいました。親として任命し、こんな資格もない者に、子どもを愛する愛を与えていてくださるのではありませんか。あなたほど、あなたの子どもを叱る責任を負わされている人は、ほかにはいないのです。
第二に、子どもの前でよく思われたいという助平根性があることです。だから、きらわれると思うと、こらしめることができません。
第三に、子どもじみた「かわいそう」という気持ちに押されていることです。そこには、猫かわいがりな自己中心の愛しかありません。手術をしなければ死ぬ時、かわいそうだからやめてと言うでしょうか。センチメンタルなことでは追いつかないのです。
第四に、根本的に何が価値あり、永遠のことかが分かっていないことです。神とか絶対とかが分からないのです。

 

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◆それに思い当たったとき、

2014年07月30日 07時48分57秒 | 聖書

彼は泣き出した。(マルコ一四・七二)

ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。

 

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第2サムエル記7章18-29節

2014年07月30日 07時47分22秒 | 聖書

7:22 「それゆえ、神、主よ。あなたは大いなる方です。私たちの耳に入るすべてについて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はありません。 7:23 また、地上のどの国民があなたの民のよう、イスラエルのようでしょう。神ご自身が来られて、この民を贖い、これをご自身の民とし、これにご自身の名を置かれました。」



 ダビデはここで、主が特別に自分たちに恵みを注いでくださったことを語っています。

その特別な恵みには、2つのことがありました。

1つは、神様御自身のことについてです。

天と地を造られた誠の神様のことを、多くの民が知らない中にあって、神様はご自分のことをイスラエルの民に知らせてくださいました。

そのことによって、民は神様のことを知ることができるようにされました。

もう1つは、イスラエルの民のことです。

神様はイスラエルの民を特別にご自分の民として選んでくださり、ご自分の意志を伝え、また罪の許しを得る道を教え、ご自分と交わることが出来るようにしてくださいました。

このような祝された民は、イスラエルの民以外にどこにもありませんでした。


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詩篇60篇12節 (詩篇61篇、ガラテヤ人への手紙6章)

2014年07月30日 07時43分26秒 | 聖書

 ★  神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。

■O:今日のコラム

アーメン!! その通りです!! 神様によって、そして、神様こそです!

この詩篇は、サムエル記 第二 8章1-14節あたりに書かれたダビデの歌だとされていますが、その箇所を読んでみますと、神様がダビデに勝利を与え続けていることが見られます。また、13節にもあるように、ダビデの名は、この時期に上げられるようになりました。

この勝利と成功はどこから来たのかというと、この詩篇60篇の祈りからだと私は思いました。

主の前にへりくだり、主に助けを求め、主の救いを待ち望み、主の御腕のわざを認める。

「神によって…神こそ…」

これがダビデの宣言でした。
It's all about Him, Jesus!!!

■A:考えてみよう

どんな状況にあっても、ダビデのように、主を見上げていきましょう。主こそ勝利を与えてくださる方。主によって私たちは負けません! ハレルヤ!!!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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