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◆もし神が光の中におられるように、

2013年08月31日 16時26分48秒 | 聖書

私たちも光の中を歩んでいるなら……。(Ⅰヨハネ一・七)

私たちはこのような水準に達し得るのだろうか。私たちが「私たちの父」と呼ぶ神に関して、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と記されている。私たちは、この神のように、はっきりと光の中を歩むことができるだろうか。たしかにこれは、私たちの前に置かれた模範である。救い主ご自身がこのように言われたからである。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」私たちは、神の完全にとうてい及ぶことはできないと感じるかもしれない。しかし、それを追求すべきであり、その標準に達するまでは決して満足してはならない。まだ若い芸術家が鉛筆を手にする時、ラファエロやミケランジェロに匹敵することを望めない。しかし、心に高貴な理想をもたないならば、平凡な画家で終わるだろう。
神が光の中におられるように、クリスチャンも光の中を歩めというみことばは、程度ではなく、類似を意味するものと思う。私たちは真に、また心から、正直に光の中にあるが、神と同じ程度に光の中にいることはできない。私は太陽に住むことはできない。それは私の住まいとしては明るすぎる。しかし、私は日光の中を歩くことはできる。そのように私は、本質的に無限に善であられる万軍の主に属している完全な純潔とまことには達し得ないが、主を常に私の目の前に見て、内に住んでくださる聖霊の助けによって、その御姿に似るように努力することはできる。
有名な聖書注解者ジョン・トラップは言った。「私たちは質(クォリティ)において、神が光の中におられるように光の中にいるかもしれない。しかし、神と同程度(イクォリティ)にいるのではない」と。
私たちは神と同じ光をもち、神がその中を歩かれるようにその中を歩くべきである。しかし、聖潔と純粋とにおいて神と程度を同じくすることは、私たちがヨルダンを渡り、いと高き方の完全に入るまで残されなければならない。聖なる交わりと完全な聖めは、光の中を歩くことと結ばれていることを心に留めよ。

 

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ヨシュア記19章10-16節

2013年08月31日 10時50分48秒 | 聖書

19:10 第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、
19:11 その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。


残された7つの部族のうち、3番目に決められたのは、ゼブルンの部族であったと語られています。

ここでは、諸氏族と語られています。

その部族を形成するところの多くの氏族がいましたので、その氏族の人々に割り当てられた地であると言っているのです。

 ゼブルンの地とは、イエス様がご誕生された時に、「光が上った」地と言われています。

「ゼブルンの地、ナフタリの地…異邦人のガリラヤに…光が上った。」と言われている地のことです。

この地はガリラヤ地方の南部にある所で、大変肥沃な地でした。

しかしそこは小さい地域であって、当時は開墾の進んでいない所でした。

しかし、その働きは知られています。

彼らは良くダビデ王に仕えました。

また予言者のヨナは、この地の出身です。

また、イエス様が若い時に過ごされたナザレの村は、この地にありました。


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◆善  意  の  人

2013年08月31日 10時47分19秒 | 聖書

善意の人は祝福を受ける。
自分のパンを寄るべのない者に与えるから。(箴言二二9)

さて、「善意の人」が登場しましたが、あなたは、どんな人になりたいでしょうか。人に何と言ってもらいたいでしょうか。
ところで、この聖書のことばは「善意の人」を推奨しています。「利口な人」「アイデアマン」「先が見える人」「実力者」「やる気のある人」「ユーモアのある人」「明るい人」「まじめな人」「親切な人」、皆それぞれいいのですが、「善意の人」とはどんな人でしょうか。「善意の人」の直訳は、「目のよい人」です。それは、神のように人を見ることのできる人なのです。
聖書の言う「善意の人」のすばらしい解説が、コリント人への手紙第一、一三章にあると思います。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(5―7節)。
・ 人の悪を思わない人。
よいほうへよいほうへと善意に解釈し、ひがみっぽくない人です。
・ 人のうわべや過去にこだわらず、差別しないで受け入れる人。
・ 人を信じ期待し忍耐深く待つ人。
つまり、真実の愛のある人ではないでしょうか。そして愛は、惜しみなく与えます。お返しのできない人に与えて、お返しを期待しません。私たちのために、ご自身を十字架の上で与えつくしてくださったイエス・キリストの中に、この愛の完璧な模範を見いだすことができます。
キリストの愛の中にとかされた人こそ、判断力のない愚かなお人よしではなしに、祝福を受ける善意の人になりうるのではないでしょうか。

 

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◆わたしの腕に拠り頼む。

2013年08月31日 10時46分26秒 | 聖書

(イザヤ五一・五)

激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。

 

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ルカによる福音書24章31-32節(箴言24章)

2013年08月31日 10時43分44秒 | 聖書

★  それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。?そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

■O:今日のコラム

イエス様が十字架に架けられた後、エルサレムから徒歩3時間弱くらいのところにあるエマオという村に向かって、二人の弟子が歩いていました。すると、そこにイエス様が近づいて来て、一緒に道を歩き、そのうち、「何の話しをしているんですか」と話しかけて来られました。

この箇所を読むたびに、ほんとうに、イエス様って面白いなぁと思います。人が悪いというか...。

でも、実は、私たちが、何かを悩んだり、心配して、友達などに相談したりしている時にも、「何やら熱心にお話のようですね。いったい何が、そんなに問題なのですか。」(リビングバイブル訳)って、聞いておられるのかなと思います。

イエス様を信じてイエス様につながっているなら、イエス様はいつも一緒にいてくださるのですが、私たちの目が開かれて、そのことに気づくことが大切です。

イエス様が一緒にいてくださるなら、悩みや心配はなくなって安心します。

さらにイエス様は、私たちが聖書を正しく悟ることが出来るように、心を開いて下さいます。(同45節)

それにしても、3時間も、イエス様ともう一人の友人と三人だけで一緒に話しながら歩けるなんて、なんていいんでしょう!

霊の目が開かれて、イエス様が一緒にいて下さることが悟れるように、祈り求めて行きましょう。

目が開かれることを励ます御言葉を載せてみます。

パウロがエペソの教会のために祈った祈りもこれでした。

エペソ人への手紙1章17-19節

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。?

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、?また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

こちらは主御自身がラオデキヤの教会に語られたチャレンジ。救いは無料、ただ、ですが、火で精錬された金、白い衣、目に塗る目薬は、買わなければなりません。私たちの祈りを、心を、時間を主に捧げて、目が見えることを求めて行きましょう。

黙示録3章18節

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。?

■A:考えてみよう

神様がどのようなお方か、自分が今どのような状態か、世界がどのような状態か、正しく悟って、主の御心を見極め、主の喜ばれることを実行していけるように、霊の目が開かれるよう、祈っていきましょう。

問題や悩みがある時も、解決そのものである、イエス様がともにおられることを悟れるように、祈り求めましょう。

■P:祈り

主よ、私の心の目を開いてください。心を清めてください。神様を見ることができますように。神様がどんなに偉大な素晴らしい方か、もっと知ることができますように。

自分がだれなのか、どんなに素晴らしいものをいただいているのか、私たちを通して神様が表してくださる力がどれほどすごいものなのか、もっともっと知ることができますように。

また自分の状態を正しく悟り、御心にそって悔い改め、さらに神様に喜ばれる者となっていけますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン

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お帰りなさい

2013年08月30日 21時35分47秒 | その他

そろそろ あなたが帰ってくる時間だと想っていました。

今宵もカクテルを用意してお待ちしていました。

http://www.youtube.com/watch?v=sq2Bq7e2_xI

http://www.youtube.com/watch?v=PG_1iZ5gerI

http://www.youtube.com/watch?v=9jcg6PLAFwQ

http://www.youtube.com/watch?v=QTUB4aD_cgg

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◆私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。

2013年08月30日 16時59分46秒 | 聖書

(エレミヤ一七・一四)

わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ五七・一八)
霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。しかしその時ですら、薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。「わたしは主、あなたをいやす者である。」このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。友よ。今夜、主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。

 

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◆種まきの人生

2013年08月30日 10時00分26秒 | 聖書

不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。
彼の怒りの杖はすたれる。      (箴言二二8)

ここでソロモンは、王座から不正をほしいままにする暴君はその結果、必ずわざわいを刈りとり、その支配の杖はいつか折れてしまうと言っているようです。
しかし、まいたものは刈りとるようになるとは、何という厳粛な事実でしょう。パウロはこう言いました。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラテヤ六7―8)。
私たちの人生を、種をまいている人生だと考えたことがおありでしょうか。昔ユダヤ地方では、畑に畝などつくらないで、パアッパアッと種をばらまいたそうです。そこで、イエス・キリストは、「まかれた種のうち、道ばたの種は鳥に食われ、岩地に落ちた種は日に照りつけられて生えても枯れ、いばらの中にまかれた種はひょろひょろ伸びるだけで実を結びませんでした。よく耕された土地にまかれた種だけが、三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです」と話されました。
悪の種をまいても、生えないで無事のことがありましょう。しかし、あなどってはなりません。最後には、滅びの刈りとりをきっとどこかでします。善や愛の種をまいても、踏みにじられて生えないことも多いでしょう。しかし、いつかどこかで、愛の花が咲き、その実がみのるのです。私の家のおばあちゃんは、小さな小さな土地を耕して種をまきます。肥料をやり、水をやります。私たちが忘れたころに、私に「初物だよ」と言ってブロッコリーを食べさせ、「咲きましたよ」と言って、かわいい鉢の花を私の机の上に飾ってくれるのです。
何とかして、私たちは愛の種をまく者となりたいものです。

 

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◆待ち望め。主を。

2013年08月30日 09時58分58秒 | 聖書

(詩篇二七・一四)

待つということはたやすいようであるが、キリストの兵士にとってはきわめて困難なことである。神の戦士には、じっと立ち止まっているよりは、前進や強行軍のほうがほるかにたやすいのである。
熱心に主に仕えようと願うたましいが途方にくれることがある。そのような時にはどうしたらよいか。気落ちしていらだつのか。後ろに逃げ出すのか。単なる推定から、前に突進するのか。否、ただ待つのである。しかし祈りつつ待つのである。神を呼び求め、事の詳細を神の前に広げよ。直面する困難を神に語り、私たちを助けられるとの約束のみことばを握って求めよ。
二つの義務の間にはさまれた時、幼子のように謙遜になり、単純な心で主を待ち望むのは、実に麗しい。私たちが自分の愚かさを知り、みこころのままに導かれることを願うのは、たしかによいことである。
そして信仰をもって待て。あなたの神に対する揺るがない確信を表明せよ。信仰なくして、また信頼なくして待つのは、主を侮ることである。たとえあなたが真夜中まで待って、なお主が来られないとしても、主がよいと思われる時必ず来られることを信ぜよ。ビジョンは来るであろう。決して遅れることはない。
静かに忍耐して待て。苦しみの中にあっても神に逆らうことなく、かえってそのために主をあがめよ。イスラエルの民がモーセにつぶやいたように、決してつぶやいてはならない。古い世界に再び戻ることを願うな。与えられた試練をあるがままの姿で受け入れ、自己中心の思いを退け、単純にしかも全き心をもってそれを神の御手にゆだねよ。そしてこう祈れ。「主よ。私の願いではなく、みこころのとおりにしてください。私は進退に窮し、どうしたらよいのかわかりません。ただあなたが洪水を裂き、敵を散らしてくださるのを待ちます。たとえ待つ日が何日であろうとも、私はあなたを待ちます。なぜなら、神様。私の心はあなただけに向けられているからです。あなたこそ私の喜び、私の救い、私の避け所、また私の強いやぐらであるとの確信をもってあなたを待ち望みます」と。

 

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ヨシュア記19章1-9節

2013年08月30日 09時47分45秒 | 聖書

19:9 シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。


まだ分配されていない7つの民の相続のうち、シメオン族の相続地のことが語られています。

それは、「ユダ族の割り当て地から取られた。」と言われています。

 その理由は、ユダ族の相続地がその人口に比べて、広すぎたからである、と言われています。

シメオン族の祖のシメオンという人は、ヤコブの2番目の子供です。

彼から出た民は、エジプトを出た時には、部族の中で3番目の人口を持っていましたが、約束の地に入る時には、一番少ない人口の部族となっていました。

20才以下の若い人たちが少なかったようです。

ユダの部族の相続地は、南方の一帯でありました。

そこに、このシメオン族がユダ族の支配地の中に加えられて、ユダの部族と一緒になって治めたのでした。

大切な井戸のあるベエルシバなどの町も、彼らの地となりました。

この部族が、最南端の地を与えられたのです。

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ルカによる福音書23章46節(箴言23章)

2013年08月30日 09時22分19秒 | 聖書

★  イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

■O:今日のコラム

主は天地創造の初めに私達人間を地のちりから創造し、そして、その肉に御自身の息(霊)を吹き入れた時、人は生きたものとなりました。
   
しかし、その後アダムとエバが善悪の木の実を食べ罪が人類に入った時から、人の霊は完全に死んだ状態になり、私達の生まれながらの肉の性質では神様を知る事が出来なくなりました。  
   
しかし、今日の箇所で主イエスはその人類の全てのそむきの罪を担い、十字架の上で死を味わわれます。
   
その十字架の上で主イエスは最後に「完了した」と叫び、御自身の霊を父なる神の御手にゆだね、息を引き取られました。人類に息を吹き込まれた方が、自ら息を引き取られたのです。  
   
主が息を引き取られた時、人類の歴史の一つの幕が閉じ、新しい贖いの歴史が幕開けする事となります。
   
そのため神殿の分厚い幕が上から下まで真二つに裂け、もはや人と神の間の隔たりの壁は取り除かれ、私達は主イエスを信じる信仰によって大胆に確信を持って、いつでもどこでも、あらゆる場所と時間に主の御顔を求め、祈り礼拝し、神との親しい交わりの中を生きる者とされました。  

さらに、私達の霊が生き、神様との親しい関係の中に生きて行く為には主イエスの十字架の血潮と共に聖霊の力が必要です。
   
その為に主イエスは復活された後に、弟子達の前に現れ、そして彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい。」(ヨハネによる福音書20章22節)と言われました。  
   
これは、初めに神が人に息を吹き入れたのと同様に、主イエスの十字架を通して私達は御霊によって新しい命に生きる者として再創造された事を意味します。

その事によって私達は主とのいきいきとした愛の関係の中を生きる者とされたのですが、しかしパウロは宗教的な行いによって神に近づこうとしていた人々に対して「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ人への手紙6章15節)と言っています。
   
今日、主イエスの十字架の恵みと、御霊の力を受けて、私達は新しく創造された者だと言う事を覚え、主を礼拝しましょう。  
   
■A:考えてみよう

主とのいきいきとした交わり、祈りと賛美、礼拝の時を持ちましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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◆彼のナジル人としての聖別の期間には、

2013年08月29日 17時06分14秒 | 聖書

ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

(民数六・四)

ナジル人には数々の誓いがあるが、その一つに、ぶどう酒を飲まないことがある。この義務に違反しないために、彼らはぶどう酒の酢になったもの、濃い酒を飲むことを禁じられていた。そしてこの規則をさらに明確にするために、未発酵のぶどう液にも触れてはならず、なまのものでも干したものでも、ぶどうを食べることさえならなかった。その誓いを完全に守るために、ぶどうにかかわるすべてのものを食べることが禁じられた。それは外見的な悪をも避けるためであった。
たしかにこれは、主に聖別された人々に対して教訓を与える。あらゆる形の悪から遠ざかること、醜悪な形のものを避けるだけでなく、その精神も類似物も避けることを教える。今日、厳正な生活は軽蔑されている。しかし、親愛なる友よ。心を安んぜよ。厳正な生活は、最も安全で最も幸福な生活である。世俗に対して一歩でも譲歩するものは、恐るべき危険の中にある。ソドムのぶどうを食べる者は、すぐにゴモラのぶどう酒を飲むことになる。オランダの防波堤の小さな割れ目が海水を侵入させるなら、それは急速に大きくなり、ついに一州が水でおおわれるようになる。世俗との妥協はどれほど小さなものでも、たましいにとってはわなであり、いよいよ深く罪に陥らせる傾向をもつ。
そのうえ、ぶどう液を飲んだナブル人は、それがある程度まで発酵しているかどうかはっきりせず、そのため心の中で誓いが守られているかどうかわからなくなる。そのように世俗と妥協するクリスチャンは、罪意識のない良心を保つことができず、心の中の戒告者は彼を疑うことになる。疑わしいものについて、疑う必要はない。それは私たちにとって悪である。私たちは誘惑するものに対して手を出してはならない。ただ逃げ去ればよい。偽善者としてさげすまれるよりは、むしろ清教徒として冷笑されるほうがよい。油断なく生活するには、自己否定が必要であろう。しかし、それは楽しいものであり、また何にもまさる報酬である。

 

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ルカによる福音書22章3、40節 (箴言22章)

2013年08月29日 10時43分21秒 | 聖書

★  ルカ22:3  さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

★  ルカ22:40  いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

■O:今日のコラム

ユダは十二弟子のひとりに選ばれた時から、イエス様を裏切ろうと思っていたわけではありませんでした。ユダもイエス様をメシヤと信じ、尊敬し、イエス様がこの世を変えてくれると信じていました。

けれども、ユダがイエス様に期待していたのは、イエス様が政治的に権力をもって、この世的に成功していくことでした。
彼の期待に反して、イエス様は政治的権力を持つわけでも無く、華々しく力を振るうわけでもなく、主の御前にへりくだる、つつましい王でした。

ユダの中には「こうあるべき」という理想があり、その理想を譲ることが出来ず、イエス様に失望してしまいました。そして、その失望の隙間にサタンが入り込んできたのでした。

ユダはイエス様を尊敬していたけれど、心からイエス様を愛する主との関係が薄かったのではと思います。

もし、ユダが 「イエス様は自分が思っていた政治的リーダーではなかった。でもイエス様は素晴らしいお方だ、真実なお方だ。私のことを愛して下さっている。私もこの方を愛している。自分の願っていたものとは違ったけど、この方を信頼してついていってみよう。」 と自分の中の失望を、イエス様への愛ある信頼へと変えることが出来たなら、サタンの餌食になることは無かったのかも知れません。

ペテロもイエス様のことを3回 「知らない」 と拒みましたが、泣いて悔い改めました。彼とイエス様との間には、先生と弟子以上の愛し愛される親しい関係があったからでした。

友情関係、親子関係、夫婦関係、あらゆる人間関係は試練の時にその中にある愛や信頼が試されます。

私たちと神様との関係も、試練の時にどれだけ神様と愛の関係にあるかが問われます。

自分の期待していたとおりに道が開かれなかった時、思いがけないことが起きる時でも失望する代わりに「主はいつも良いお方。最善をなされるお方。主は私を愛しておられる」 という主への信頼を持ち続ける時、賛美し続ける時、それは天においても誉れある態度であり、神様からの報いを豊かに受けることが出来ます。主は期待のあるところに好意を注いで下さいます。

イエス様は言われました 「誘惑に陥らないように祈っていなさい」 と。
イエス様に失望させようと、イエス様との信頼関係を壊そうと、サタンは多くの誘惑をばらまいてきます。いつも御言葉、祈り、賛美を通して神様との愛の関係を築いていきましょう。試練の時にも主を見上げ続けることが出来るために。

You give and take away
You give and take away
My heart will choose to say
Lord, blessed be Your name

「主は与えて、主は取られる
私の心は (失望の代わりに) 主を讃えることを選びます
主よ、あなたの御名あがめます」(マット・レッドマン作 “Blessed be Your name” より)

■A:考えてみよう

自分の心は神様に失望しているだろうか?
失望しそうな時に、主への信頼を取り戻すことが出来る御言葉をたくわえておこう!
いつにも増して祈り賛美しよう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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ヨシュア記18章21-28節

2013年08月29日 10時40分25秒 | 聖書

18:21 さて、ベニヤミン部族の諸氏族の町々は...
18:24 ケファル・ハアモナ、オフニ、ゲバで、十二の町と、それらに属する村々であった。
18:25 また、…
18:28 ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブアテ、キルヤテなど十四の町と、それらに属する村々であった。


ベニヤミン族が相続した土地に存在する町々のことが語られています。

2つに分けて語られています。

1つは、エリコやベテルなどが存在する12の町でした。

もう1つは、ミツパ、エルサレム、キルヤテなどの14の町々でした。

当時は土地を相続すると言っても、その豊かさは土地だけではなく、そこに点在した町々のいろいろなあり方に依存していました。

また、こうした意味では、ベニヤミン族の相続した地は、イスラエルの民にとりましては、歴史的な町々でありました。

エリコやベテル、エルサレムなどは、現代で言いますと、世界遺産に属する町々であったことをみるのです。

これは驚きです。

パウロが自己弁明の時に、このベニヤミンの部族の出であると明白に告げているのは、こうした点に視点をおいてのことであったのかもしれません。

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◆借金人生のいましめ

2013年08月29日 10時34分14秒 | 聖書

富む者は貧しい者を支配する。
借りる者は貸す者のしもべとなる。  (箴言二二7)

人生の成功者とは、このような人だと定義した人がありました。
・ 金を支配できる人。金に使われず、金を支配できる。
・ 人を支配できる人。人の奴隷とならず、人を指導できる。
・ 自分を支配できる人。自分のきたない、みにくい欲望にふりまわされないで、自分をコントロールできる。
確かに、うなずける一つ一つだと思います。
借金の経験のある人は多いと思います。借金を返す当てのない人が借金すると、借金の奴隷となり、破たんを招く例も、非常に多いと思います。高利貸しから百万円を借りて競馬でもうけようとしたが大損し、ついに、親や兄弟の身代まですってしまった人のことを聞きました。
自分のできること以上に借りてやっていこうとするのは、しょせん無理ではないでしょうか。自分自身の心の中に、エネルギーというか、わきあがる力を持たない者が、他人のものをたよりにして生きる人生は、借金で身を破滅に追いこむ生き方に似ています。
イエス・キリストは、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。……わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四13―14)と言われました。ヤコブも、こう語りました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(ヤコブ一5)。
神から与えられたいのちの水を飲んで、それに従って生きる時、ほんとうの人生の成功者となるのではないでしょうか。

 

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