座間コミニティー

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◆アヒマアツは低地への道を走って行き、

2017年01月31日 17時05分33秒 | 聖書
クシュ人を追い越した。(Ⅱサムエル一八・二三)
どこでも走りさえすれば、早く目的地に着くというのではない。私たちが選ぶ道の上には多くの障害がある。丘を登り谷を下る迅速な足は、平地をゆっくり歩く旅人に及ばない。私の霊の旅はどうだろう。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下ってはいないだろうか。それとも私は、「信じて、生きよ」との平坦な道を走っているだろうか。
信仰によって主にお仕えすることは、なんと幸いなことか。たましいは信仰の道を疲れることなく走り、くじけることなく歩むのである。キリスト・イエスはいのちの道であられる。主は平坦な道であり、楽しい道であり、罪におののく人々のよろめく足や弱いひざにもふさわしい道である。私はこの道を見いだしているであろうか。それとも、宗教家や学者が約束するような他の小道を捜し回っているのであろうか。聖なる大道は、そこを通る人がたとえ愚かであっても、迷うことのない道だと記されているのを私は読んだ。私は学問の高慢から救われているだろうか。そして、幼児のようにイエスの愛と血潮の中に憩う者とされているだろうか。それなら、他の道を選んでいる最も強い走り手をも神の恵みによって追い抜くであろう。この真理を覚えて、日ごとの関心や必要において益としたい。
友の間を駆け回るよりも、すぐに神のみもとに行くのが、私にとって最も賢明な道である。主は私の乏しさを知り、そこから私を助け出すことができるお方である。私は率直な祈りをもって神に嘆願し、神の明白な約束に基づいて求める。「まっすぐ走るのが最高の走り手である。」私はしもべたちと口論しないで、まっすぐに主人のもとに行く。
この箇所を読んで気づくことは、もし人が些細な問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。私は真剣に走らなければならない。
主よ。私が心を引き締め、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走ることができるよう助けてください。
 
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「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、

2017年01月31日 17時04分36秒 | 聖書

そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて・・」(ルカ10:34)

良きサマリヤ人の動機は「同情」であって、それ以外の何の下心も無かった。
憐れみとは、かわいそうに思う心プラス行動だ。

単に感情的な同情でなく、行ないが伴っている。
彼は、目の前の苦しんでいる、助けを必要とする人に、自分に出来る事をした。

避ける事をせず、「近寄って」ぶどう酒は消毒に、オリーブ油は薬として惜しげもなく使った。
自分の家畜を使って、予定を急遽変更し、宿に伴い、一泊し親身に介護の上、費用も全額負担した。

愛するとは犠牲を払う事だ。金銭、労力、時間、突如の必要のために、彼は躊躇せず犠牲を払った。
犠牲を払わずして愛する事は出来ない。

そして、彼はきちんと自分自身の仕事をするために出て行った。
自分の仕事を成し遂げ、再び帰りにお世話をした。
ここで、自分の義務と責任を放り投げて、世話するのではないと学べる。

自分自身の責任は果たすべきだ。尚且つ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行くことだ。

自分の力でなく、御霊が助けて下さる。今、目の前に御霊の示しがあるだろうか。
「近寄って」と、なすべき事を促されているか。
祭司とレビ人は保身のために、その場を逃げた。

「自分の家畜に乗せて」自らの何かを献げて、仕える事を、今、導かれているだろうか。
-------------------------
避けることなく「近寄って」行くと犠牲が生じる。
適度な距離を保って、気持ちだけ寄りそって、ではなく目の前の助けを必要とする人がいるなら、何をしたらいいのか、よく祈って主に尋ねてみよう。


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おはようございます。

2017年01月31日 07時32分43秒 | 日記

今日も1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年01月31日 07時32分08秒 | キリスト教

聖ヨハネ・ボスコ司祭

1815年-1888年

 ヨハネは、イタリア、トリノの貧しい農家に生まれた。幼いとき父親に先立たれたが、信仰深い母の影響で司祭になることを志し、神学校に進み、1841年に司祭に叙階された。トリノの貧しい青少年の教育のために、骨身を惜しまず活動した。彼は、愛と優しさをもって子どもたちに接し、「虫を取るためには、酸っぱい酢よりも、1滴の蜜のほうが効果がある」という聖フランシスコ・サレジオ(1月24日 参照)の言葉を心に刻み、実行した。1859年に「サレジオ会」という男子修道会を創立し、1872年にはマリア・マザレロを指導して「扶助者聖母会」(今日では、サレジアン・シスターズと呼ばれている)という女子修道会を創立した。

 ヨハネのモットーは、「愛なくして信頼なく、信頼なくして教育なし」ということであった。両会は急速に発展し、世界中に学校や施設を運営し、多くの子どもたちの教育にあたっている。日本でも、青少年のための学校教育を始め、出版活動などをとおして大きな貢献をしている。

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◆うるわしい首飾り

2017年01月31日 07時31分05秒 | 聖書

わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、
これらを見失うな。
それらは、あなたのたましいのいのちとなり、
あなたの首の麗しさとなる。         (箴言三21―22)
あなたの魂にいのちがみなぎり、あなたの首には美しい首飾りが輝いていますか。――つまり、あなたは美しく魅力的でしょうか。
私の妻は、少女時代に、妹のほうが美人で自分はそうではないという劣等感に悩まされたそうです。この世には自分の容貌もさることながら、生き方にも仕事にも人間関係にも、自信が持てないで悩んでいる人が実に多いのです。
私と結婚してからというのでもないでしょうが、今の妻には劣等感のかけらもありません。私も、妻を不美人と思ったことがないのです。
神に愛されていると知ること、これこそすぐれた知性・すばらしい思慮です。心に神の愛が満たされると、もう小手先細工をしなくてもよくなります。神が心をいのちで満たすばかりか、首には美しい首飾りまでしてくださいます。そこに、何ともいえない自分だけの持ち味・魅力がただよいます。
ですから、神の愛を知る知恵を見失わないように見張れと聖書は言うのです。
「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」(箴言一8―9)。
 
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◆主は私たちの正義。

2017年01月31日 07時30分03秒 | 聖書
(エレミヤ二三・六)
クリスチャンがキリストの完全な義を考える時、いつも深い落ち着きと、静けさと、安心と、平安をいただく。神の聖徒たちも、しばしば気落ちしたり、悲しんだりすることがあるが、それではいけないと思う。もし彼らが、キリストにある自己の完全を常に見ることができるなら、そうはならないであろう。
ある人々は、常に自分の心の腐敗堕落や、たましいの生来の悪い性質を口にする。それは真理ではあるが、なぜ一歩進んで、私たちが「キリストにあって完全な者」であることを考えないのか。自分の腐敗のみを見つめている人に元気がないのは当然である。しかし、もし私たちが「キリストは、私たちにとって……義となられた」ことを思い起こすなら励まされる。困難が私を悩まし、サタンが私を攻撃し、天国に到達するまでには多くの経験が必要だとしても、それらは神の恵みの契約によって私のためになされている。
私の主には欠けたところが一つもない。キリストはすべてを成就された。もしすべてが成就されているなら、私は主にあって完全であり、「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」いる。「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」のである。
あなたは、この地上の天国において、キリストの義の奥義を心に受けた人々よりも聖なる者を見いだすことはないであろう。信者が「私はキリストの中にのみ生き、その救いにより頼み、自らは価値のない者であるが、イエスによって救われていることを信じる」と告白する時、感謝に満たされて次のような思いが起きてくる。「私たちはキリストのために生きるべきではないか。キリストにのみ仕えるべきではないか。」「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。」「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
もし転嫁された義によって救われたのなら、この与えられた義を高く評価すべきである。
 
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詩篇10篇12-13節

2017年01月31日 07時28分31秒 | 聖書


10:12 主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。
10:13 なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたは追い求めないと言っています。



 ここで作者は、自分のことを貧しい者と言っています。

貧しい者というのは、経済的な意味での貧しさとか、あるいは人から見下げられている事による、身分的な意味での貧しさということもあります。

ここでは、主に従っていくことによって、人から起こされる様々な苦しみに置かれている、そうした苦しみの中にいる人のことを語って、貧しい人と言っています。

そうした人は、神を敬わず神を恐れない人々からは馬鹿にされて、その結果、軽蔑と大きな苦しみを受けることがあります。

特に、その人は主を恐れますので、悪いことを避け、また人を苦しめること、騙すことを避けようとします。

ところが、こうした姿勢を持つ人を、この世の人はいじめ苦しめるのです。

しかし、彼は自らの手では抵抗しません。

主に委ねると共に、主が自らその力を現して下さることをのみ、願うのです。

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マルコの福音書13章9~11,31節

2017年01月31日 07時26分31秒 | 聖書


★ だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。
彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
★ この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

詩篇132篇14~15節
★ 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。


■O:今日のコラム
しゃろーむ!1月31日の朝です。今日1日も、主を求め、主の御言葉を受け取っていきましょう。主の御言葉は、決して滅びることがない、永遠に続く食物だからです。

主御自身がシオンを安息の場所としておられます。シオンは主への礼拝をする場所です。天の御国は礼拝の場所です。主は、天の御国の礼拝だけではなく、この地の礼拝をも楽しみとされています。だから、僕らは、天の御国とその義とを求める時、それに加えてすべての必要が満たされるのです。

そして主は、礼拝の中に霊の食物であられる御言葉を祝福してくださいます。主だけを必要とする心の貧しい者に、御言葉のパンで満ち足らせ、天の御国をあたえてくださるのです。

イエス様は、十字架と復活の勝利によって、救いを与えてくださいました。僕らが助け主なる聖霊様が内側に住んでくださる者となれるように御言葉で整えてくださいます。その信仰さえも主が与えてくださるものです。主が与えてくださる信仰によって
永遠のいのち、永遠の住まい、永遠の喜びを受け取ることができます。僕らの毎日が礼拝へと導かれていきます。主が礼拝を喜んでくださいます。天の御国をこの地に求めていきましょう。

そして、僕らが今、この地でやるべきことと、天の御国に行ってからのことを知ることは、とても重要です。御言葉が示しているゴールを見ていることが大切です。そうでなければ、これから必ず起こる迫害に耐えることができないでしょう。

約400年前の我々の先輩、日本の切支丹達は、大きな迫害の中でも主を愛していました。御言葉の翻訳は断片的だったと言われています。御言葉を読むことが困難な時に、信仰を保つことはとても大変です。信仰さえも、主から与えられているものだからです。聖霊様の食事が御言葉だからです。

今の時代、聖書を全部日本語で読むことができる恵みを感謝します。手のひらの中で御言葉が読める時代に僕らは生きています。この恵みを感謝して、無駄にしないようにしたいです。これからの世の終わりの時代には御言葉の飢饉がやってくるからです。

「見よ。その日が来る。―神である主の御告げ―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんてはない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書8:11)

僕らが、御言葉を宣言し、聖霊様によって知恵と啓示を受け取っていくことは、今、とても重要なのです。イエス様の御言葉は、決して滅びることがない永遠の約束だからです。

だから、目をさまして、御言葉に満たされていきたいです。これから先におこることのために、今、御言葉を宣言していきましょう。全てを話させてくださる聖霊様を歓迎していきましょう。イエス様の十字架の血潮と復活の勝利を宣言していきましょう。天のお父さんの素晴らしさを賛美していきましょう。


■A:考えてみよう
今、御言葉を朗読し、宣言していきましょう。
与えられた御言葉を、思いめぐらしていきましょう。
迫害のおこることを怖がるのではなく、主と永遠に過ごすゴールを見ていきましょう。
主から信仰を受け取っていきましょう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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1月30日(月)のつぶやき

2017年01月31日 01時29分03秒 | キリスト教
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