座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

申命記20章10-18節

2013年02月28日 08時05分12秒 | 聖書

20:16 「しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。」


イスラエルの民が約束の地に入るためには、途中でいくつかの町や国に遭遇します。

その時に、もし戦わなければならなくなったら、まずその人々に降伏を勧めなさいと言われています。

しかし、降伏をしないために戦になって、イスラエルの民が勝利を得た時には、彼らを自分たちの奴隷とし、また戦利品は自分たちのものとしてとってもよいと言われました。

 しかし、約束の地に住んでいる人々に対しては、全く違っていました。

その人々と戦って、戦いに勝った時には、男や女、大人や子供にかからず、皆殺害しなさいと言われました。

聖絶しなさいと言われたのです。

なぜかと言いますと、イスラエルの民がこの地に住む時に、彼らが生かされていることによって、彼らの祭っている偶像礼拝に、民が陥ってしまうことがないためでした。

つまり、信仰的な理由によったのです。

ですから聖絶、つまり、神の命による殺害と言われたのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

申命記20章1-9節

2013年02月28日 08時03分17秒 | 聖書

20:1 「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。」


約束の地に入る時には、そこでは戦いがあります。

入ってからも戦いはあります。

そうした時に、敵は自分たちよりも軍事力があり、また町が強固であったりする時もあります。

そうした時に、あなた方は恐れるなといわれるのです。

主が与えると約束してくださっているので、主を信頼していけば、必ず勝利を獲得できるからです。

しかし、その時にも、戦いに出ることを強要はされませんでした。

家を建てたばかりの人、畑で収穫を終えていない人、婚約しているが結婚をしていない人、恐れて弱気になっている人、そうした人は家に帰れといわれるのです。

主が召された戦いは、主を信頼して戦うことです。

それがないと、主の戦いではなくなって、単なる強がりになってしまうからです。

これは伝道も同じです。

いつも主を見つめ、主が共にいてくださるという信仰を持って、成していくのです。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆目 を さ ま せ

2013年02月28日 07時56分14秒 | 聖書

なまけ者よ。いつまで寝ているのか。
いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、
しばらく手をこまねいて、また休む。
だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、
あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。(箴言六9―11)

いつか駅の職員が寝坊して、駅のシャッターをおろしたままで一番電車を通らせてしまい、お客さんが電車に乗れなかったという事件がありました。しかし、これはニュースになるほど特別なことでした。日本人は勤勉で清潔です。
ところが、その私たち日本人の怠惰でだらしがない点は、「神」とか「愛」「永遠」「きよさ」についてです。
ある時ホテルにとまって、朝早く出発しなければならないことがありました。フロントに行ってみると、ボーイさんがフロントの向こうで横になって寝ています。声をかけると起きあがったのですが、寝ぼけまなこで、こちらが何を言っても要領を得なかったことがあります。
人生も、寝ぼけているとそのとおりです。絶対にきよく正しい神の前に立つと、どうしていいか分かりません。愛とか永遠とかの前におどおどしてしまうのです。
いつも一生懸命働き、勤勉に商売しているように見えても、神の愛が分からず、神のきよさ・永遠も分からず、死とさばきも何のことかと目をこすっているようでは困ります。やがてすべてを神が分からせられる「死」を待っているのではおそいのです。私はまっすぐ歩いている、一生懸命やっていると思っても、愛がなければ曲がっています。きよくなければ、よろめいているのです。神の愛と神のきよさに目ざめましょう。
「目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます」(Ⅰコリント一五34)。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆私の望みは神から来るからだ。

2013年02月28日 07時54分01秒 | 聖書

(詩篇六二・五)

このことばを用いることは信者の特権である。彼がこの世からなんらかの望みを期待しているとすれば、それはまことにつまらない望みである。しかし、この地上の祝福であると霊的な祝福であるとを問わず、神によって欠乏を満たされたいと望むなら、その望みは決してむだになることはない。彼は信仰の銀行から常に資金を引き出し、神の恵みによってその必要を満たされる。私がこのことを心得ているならば、大金持ちのロスチャイルドに金を預けるよりも、神と取り引きしたいと思う。私の主は、決して約束を破られることはない。約束を御座に携えて行くならば、神は決してそれを無視されることはない。だから、私は神の戸口に立って、豊かな恵みの御手をもって戸を開かれるまで待とう。その時に約束の真偽ははっきりする。
さらに、私たちは、この世以上の望みをもっている。やがて、私たちは死ぬだろう。そうすれば「私の望みは神から来る」。私たちが病の床にある時、神が御前の使いを遣わして神のふところに運ばれることを期待しないだろうか。脈が衰え、呼吸が乱れた時に、天使は私たちの枕もとに立ち、あわれみの目を注いで、「私の愛するたましいよ。私とともに来なさい」とささやく時のあることを私たちは知っている。私たちが天の都の門に近づく時、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」という歓迎の声を聞くことを期待する。さらに、私たちは黄金の琴と栄光の冠を期待し、まもなく御座の前の輝く群衆の中に入ることを望む。私たちは栄光の主に似せられる時の来ることを心待ちにしている。なぜなら「私たちはキリストのありのままの姿を見る」と書かれてあるからである。
私のたましいよ。もし以上のことがおまえの望みであるならば、ただ神のためにのみ生きよ。おまえの必要をすべて満たし、その恵みによっておまえを召し、贖い、救われた神の栄光を現すことを願い、かつ決意して生きよ。これがおまえのもつべき、来るべき栄光の望みである。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

イエス・キリスト:「妻」真偽論争 米国発、古いバチカン批判 女性地位に敏感、背景に

2013年02月27日 17時00分54秒 | 聖書

 独身だったとされるイエス・キリストに「妻」がいた可能性を示す古文書が見つかったと9月に報じられ、キリスト教界に波紋を広げた。「イエスの結婚」はカトリック教会のタブーだけにローマ法王庁(バチカン)が反応したのは当然としても、専門家が相次いで疑問を呈し、真偽論争まで巻き起こすに至った。その背景は何か。【ローマ福島良典】

 問題の古文書を解読し、9月18日にローマで開かれた国際学会で発表したのは米ハーバード大神学大学院の歴史学者、カレン・キング教授。4世紀後半のものとされるパピルスの断片(縦約4センチ、横約8センチ)には、古代エジプトのコプト語で「イエスが彼ら(弟子たち)に言った。『私の妻は……』」(続きは断裂して不明)、さらに「彼女は私の弟子になれるだろう」との記載があった。

 カトリックの伝統的な見解ではイエスは結婚しなかったとされる。キング教授はパピルスについて「イエスが結婚していたことを証明するものではない」と断りながらも、古文書が書かれた時代の信者の間で「イエスの結婚」が議論されていた証拠−−と見る。

 これに対して、バチカンは日刊機関紙オッセルバトーレ・ロマーノを通じて「パピルスは下手な偽造品」(ジョバンニ・マリア・ビアン編集長)と一蹴した。パピルスは遺跡発掘で見つかったのでなく、骨董(こっとう)品市場で入手されたとされ、そもそも本物ではないという主張だ。「(新約聖書の外典)『トマスによる福音書』の写本の切り張りだ」と指摘した英教授や、字体から偽造説を唱える専門家もいる。

 パピルスを本物と仮定した上で、「妻」の解釈に疑問を投げかける意見もある。学会を主宰したローマ大学史学部のアルベルト・カンプラニ教授(51)=キリスト教・教会史=もその一人。「イエスが『私の女性』と言う場合、自分に付き従い精神的なつながりを持つ人物のこと。パピルスの『妻』も象徴的な意味」と解釈する。イエスの言動を伝える福音書にイエスの結婚に関する記述はなく「当時、信者の間で話し合われたことはなかった」と結論付ける。

 現代欧州の信者はどう思っているのか。ローマ中心部にあるサンタ・マリア・マッダレーナ教会。日曜礼拝を終えたイタリア人の元薬剤師、チンティ・ビートさん(65)は「イエス妻帯説はキリスト教世界にとってショック。でも、信じてはいない」と語った。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

申命記19章15-21節

2013年02月27日 10時52分48秒 | 聖書

19:15 「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」


主は、モーセを通して、日常生活における民の生活のあり方を告げておられます。

ここでは、裁判の時のことを語っています。

当時の裁判は、多くの時、証拠よりも証言に依存していました。

従って、証言の重さの自覚が必要でした。

ところが、中には神様を恐れないで、相手を不利にしようと思って、偽りの証言をする人もいます。

そうしたことを防ぐために、証言の立証は、2名以上の証言の確認によってなされなければならないと命じられました。

その証言が、確実なことであることを知るためです。

ところで、偽りの証言であるということが、調べた上で確認された時はどうするのでしょう。

その時には、この偽った人が、その偽りによって相手の人から利益を得たいと思ったいたそのことを、この偽りの証言者から求めてよいと言い渡されたのです。

同等の報復です。

言葉における真実さは、証言の時にも重要視されたのです。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆蟻  を  見  よ

2013年02月27日 10時47分43秒 | 聖書

なまけ者よ。蟻のところへ行き、
そのやり方を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もつかさも支配者もいないが、
夏のうちに食物を確保し、
刈り入れ時に食糧を集める。    (箴言六6―8)

日本人は蟻のように働きます。それが現在の富を築いたわけです。勤勉でよく働く日本人はほめられもしますが、「働きすぎだ」とねたまれてもいます。
ねたまれて悪口をいわれても、やはり、勤勉で働くことが好きな日本人であり続けたいと思います。健康で、やるべき仕事・働きがあって精いっぱい働けるなら、これはすばらしいことです。
イソップ物語のキリギリスのように歌ってばかりいて働かず、備えをしないでなまけていると大変です。
ところが日本人には、キリギリスよりももっと仕方のないなまけ者で、いざという時の蓄えをせず、だらしがない点があります。それは「永遠」「永遠のいのち」という点についてです。
死が一人一人に迫ってきます。人生の冬が近づいています。ところが、だれも用意していません。雪の降るきびしい冬の夜もたきぎがあり暖炉があるなら、「雪の降る夜は楽しいペチカ」です。しかし、備えがなかったらどうでしょう。
私たちは勤勉な蟻から学ばねばなりません。いま見えないからといって冬は「ない」と思ってはならないのです。蟻に冬は見えませんが、冬のために備えています。永遠の世界が見えないから「ない」といってはなりません。死のかなたに永遠のいのちが、または永遠の滅びが待っているのです。
死のかなたは、完全に神のみが支配する世界です。神の愛の中で永遠の喜びを味わうか、神の怒りの中で永遠に孤独で過ごすかの選択を、冬になる前にしなければなりません。「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と、聖書はすすめます。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

2013年02月27日 10時46分14秒 | 聖書

(詩篇九一・九)

荒野におけるイスラエル人は絶えず変化にさらされていた。雲の柱が止まるたびに天幕が広げられた。しかし翌朝、太陽が上らないうちにラッパが鳴り、契約の箱が前進を始め、燃えている雲の柱に導かれて山の狭い道を通り、丘を越え、あるいは無人の荒野を旅するのであった。少し休んだかと思うと、すぐに命令が下って「前進せよ。あなたはここに休んでいてはならない。あなたがたはカナンに向かって旅を続けなけれはならない」と促されるのであった。
彼らは決して一つの場所に長くとどまってはいなかった。泉があっても、なつめやしの木があっても、彼らはとどまることができなかった。それでも彼らは神を彼らの家とし、雲の柱をその棟木と思い、夜になって燃えるその柱を家庭の炉の火と思っていた。
彼らは一つの場所から次の場所へと前進しなければならなかった。彼らは絶えず変化を経験し、落ち着く暇もなく、「今こそ私たちは安全である。この場所に定住しよう」と言うことはなかった。モーセは、「主よ。私たちは絶えず変わりますが、あなたは代々にわたって私たちの住まいです」と言った。
クリスチャンは、神は少しも変わらない方であると知っている。人は今日富んでいても、明日は貧しいかもしれない。今日は病み、明日は健康になることもあろう。今日は幸福でも、明日は患難に会うかもしれない。しかし私たちにとって、神との関係は少しも変わらない。昨日私を愛された神は今日も愛してくださる。私の、動くことのない憩いの家は恵み深い主である。前途は曇り、希望は吹き散らされ、喜びは失われ、かびがすべてのものをだいなしにしてしまっても、私が神のうちにもっているものは何も失われない。
神は「私の住まいの岩……強いとりで」である。世にあっては私は寄留者である。しかし神にあって安住している。地にあっては私は放浪者である。しかし神のうちに静かな住まいをもっている。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

申命記19章14節

2013年02月26日 07時08分21秒 | 聖書

19:14 「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」


旧約聖書の列王記に、アハブ王からブドウ畑を売るように求められたナボテという人が、それを断ったことが語られています。

王からの要請であっても断ったのです。

 主はモーセを通して、ここで「隣人との地境を移してはならない。」と、禁じています。

その土地とは、約束の地に入った後で、分配されて与えられた土地のことです。

その土地の地境を移してはいけないというのです。 

土地の地境を移すというのは、さらに拡張するとか、売ってしまうとかいうことです。

禁じている理由には、2つがあります。

1つは、土地は「分配に預かった」と語られているように、神様から与えられて預かっているものであるからです。

もう1つは、それを売ったり買ったりして、自分の欲望のために土地を使うべきではないからなのです。

ナボテが、王にさえも売らなかった理由はここにあります。

彼は、主の言葉に従ったのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆自分を救い出せ

2013年02月26日 07時02分49秒 | 聖書

あなたの目を眠らせず、
あなたのまぶたをまどろませず、
かもしかが狩人の手からのがれるように、
鳥が鳥を取る者の手からのがれるように
自分を救い出せ。        (箴言六4―5)

勢子たちや犬に狩り出されたイノシシが、鉄砲でねらう猟師たちの待つところにふらふらと追われてきた姿を見たことがあります。また、かすみ網にひっかかって懸命に暴れる小鳥たちの姿も映画で見ました。絶体絶命です。
聖書は、人間の姿を、こんなカモシカや鳥にたとえています。孤独・不安・挫折……、現代人の憂いは濃く、現代人は深く悩んでいるのです。あなたも現代人の一人として、そのような悩みを持っているのではないでしょうか。
現代人はこの悩みから逃れようとして、網にかかった鳥のようにもがいています。レジャーに、酒や女やギャンブルに自分を忘れようとし、趣味・道楽に逃げ道を見いだそうとしたり、勉強や事業をいのちがけでやってみたりします。しかし、それはがんに膏薬をつけているようなものです。どこに救いがあるのでしょう。
現代人のこの悩みの根本原因は何かを、私たちは知らないでいます。ちょうど、自分のすみかから迷い出たカモシカや網の前に迷い出てしまった鳥のようです。
人間の悩みの根本原因は、造り主なる神の愛のふところから離れ、愛深い神のいのちのつながりから迷い出たことです。神に立ち返るところにのみ、ほんとうの解決があります。
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(イザヤ四四22)。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆救いは主のものです。

2013年02月26日 07時01分06秒 | 聖書

(ヨナ二・九)

救いは神のみわざである。「罪過と罪との中に死んでいた」たましいを生かし、その霊のいのちを守られるのは神のみである。神は「アルファであり、オメガ」であられる。
もし私が祈り深いなら、それは神が私をそうされたのである。もし私に徳があるなら、それは神の賜物である。もし私が調和のある生活をしているなら、それは神がその御手で支えておられるからである。神が私を守るために先手を打たれたのであって、私が何かの努力をしたためではない。私の犯す罪は私のものだが、私のなす正しい行いはことごとく主から来たのである。
もし私が霊の敵を撃退したとしたら、主が私の腕を力づけられたからである。私が人々の前で聖い生活をしたとしたら、それは私でなく、私のうちに住んでくださるキリストである。私は聖められているか。私を聖としたのは、私自身ではなく聖霊である。私は世的なものから離れているか。私は、私のために配慮される神の懲らしめによってそうされている。知識において成長したか。それは大教師が私を教えられたからである。私の宝石はすべて天の技術によってみがかれたものである。私に欠けているものは、すべて神の中にある。しかし私の中にあるものは罪とわざわいだけである。「神こそ、わが岩。わが救い」である。
私は神のみことばを食べて成長しているか。みことばをたましいの食物として、それを食べるようにしてくださるのは神である。私は天から降るマナによって生きているか。そのマナは受肉されたイエス・キリストであって、私はそのからだを食べ、その血を飲んでいるのではないか。私は不断に新しい力を受けているか。その力はどこから来るか。私の助けは、天地を造られた主から来るのであり、イエスなしに何もすることはできない。枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことがないように、私も主につながっていなければ何もできないのである。
ヨナが海底で学んだことを、今朝は私の密室において学びたい。「救いは主のものです」ということを。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

申命記19章11-13節

2013年02月25日 07時33分03秒 | 聖書

19:11 「しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、
19:12 彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。」


逃れの町は、当初3つ作れと言われて、それはヨルダン川の西側に作られました。

他の3つは東側でした。

その町はどこに住んでいても、1日の距離で行けるような場所が選ばれていました。

逃げて行きやすくするためです。

しかし、故意に殺人を犯した人は、たとえその人が復讐が怖くなって、この逃れの町に逃げたとしましても、その町の責任者である長老達は、彼を捕らえて町から引き出すように命じられています。

その結果、殺された人の親族の人々によって、血の報復を受けさせよといわれるのです。

今の時代は、人を殺しても、こうした死刑にならないことが多くあります。

しかし、神の前では異なります。

血には血を持って裁かれる、厳しい方であられるのです。

ですから、キリストによる赦しが必要なのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆真  の  隣  人

2013年02月25日 07時28分02秒 | 聖書

わが子よ。もし、あなたが
 隣人のために保証人となり、
他国人のために誓約をし、
あなたの口のことばによって、
あなた自身がわなにかかり、
あなたの口のことばによつて、
捕えられたなら、
わが子よ、そのときにはすぐこうして、
自分を救い出すがよい。
あなたは隣人の手に陥ったのだから、
行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。(箴言六1―3)

「保証人になってあげた隣人が破産した。保証人である自分にも、破滅が迫ってくる。どうしたらいいのか。」そのような場合に聖書は、「その隣人のところへ行ってしつこくたのんで、自分を助けてもらえ」と言うのです。いったいそんなことは可能でしょうか。
私たち人間は、道徳的破産者なのです。それゆえの苦しみ・悲しみ・むなしさ・孤独・不幸をしょいこんでいます。ですから、同じ道徳的破産者である人間のお互いの知恵・思想は、私たちを道徳的破産状態から救うことはできません。
聖書がここで隣人と指しているのは、別な種類の隣人です。
・ この人も破産状態に落ちこんだ。
人が「他人を救うなどといっていたが、自分で自分を救ってみろ」とわめいてもだまっていました。
・ 頭にいばらの冠をかぶせられ、十字架上で血まみれになってだまって死んだ。
「ふん。他人を救うなどといったが、自分はだめになったのか」などの声もあびせられました。
・ ところが三日目によみがえり、道徳的な破産者(罪と死の滅びのもとにある人間)を救う人となった。
この方イエス・キリストは真の隣人です。神が私たちと同じ人となり、あなたを理解し、すべてのことを引き受け、罪の支払う値を払って、身代わりとなって死んでくださったのです。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆必ず来る御怒り……。

2013年02月25日 07時26分36秒 | 聖書

(マタイ三・七)

あらしが過ぎ去った後、田舎の道を通り、雨後の草木の鮮やかな彩りを見るのは快いものである。雨のしたたりが陽光に照らされ、ダイヤのように輝いている。これがクリスチャンの姿である。救い主の頭上を雨が通り過ぎた後の道をクリスチャンは通っているのであって、そこに悲しみの数滴が残っているとしても、それは恩寵の雲からしたたり落ちたものである。イエスは、それが彼の滅びのためではないことを説かれ、元気づけてくださるのである。
しかし、あらしが近づいて来るのを見るのは、なんと恐ろしいことであろう。風雨の前兆は現れ、空の鳥は翼を縮め、家畜は恐れのために頭をたれ、空は刻一刻と黒ずんで、太陽は輝かず、天は怒り、顔をしかめている。熱帯地方によくある台風の到来を待っているのは、なんと恐ろしいことであろう。暴風が怒り狂って樹木を根こそぎにし、岩を吹き飛ばし、人家すら押し倒すようなものすごい光景を待っているのは、なんと恐ろしいことであろう。
罪人よ。これがあなたの現在の立場なのだ。まだ熱い雨は降ってこないが、やがて火の雨が来ようとしている。恐ろしい風はあなたの周りで叫んではいないが、神のあらしはその恐ろしい大砲を集めつつある。水はまだあわれみによってせきとめられているが、その水門は今にも開かれようとしている。神の雷鳴はなお倉に納められているが、見よ、あらしは迫って来た。神が怒りをもって迫って来られる時は、どれほど恐ろしいものであろうか。
ああ、罪人よ。あなたはどこに頭を隠し、どこへ逃げようとするのか。どうか、あわれみの御手が、今あなたをキリストに導かれるように。主は、福音によって、無代価であなたの前に提供されている。主の脇腹は、避け所となる岩である。あなたは主を要することを知っている。主を信じて、あなた自身をゆだねよ。そうすれば怒りは永久に過ぎ去るであろう。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

◆自分の咎に捕えられる

2013年02月24日 09時21分58秒 | 聖書

悪者は自分の咎に捕えられ、
自分の罪のなわにつながれる。
彼は懲らしめがないために死に、
その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。(箴言五22―23)

ある時、他の人のクレジットカードを盗み、一六七点一一〇万円の買い物をしていたOL二人がつかまった新聞記事を読みました。この二人は工夫に工夫を重ね、用心に用心をしてクレジットカードを使っていたのに、なぜ見つかったのでしょうか。新宿のカメラ店でそのカードでカメラを買ったところ、店員がカードの名前を読んで、E子さんですねと念を押した時、二人で口をそろえてハイと答えてしまったのがきっかけでした。まことに、「自分の咎に捕えられる」とはこのことでしょう。だれも罪からは逃げられません。
しかし、自分の罪を深く悟って心から悔い改めるなら、神はすべての罪をゆるしきよめてくださいます。くだけ悔い改め神にたよる人には、神はどんな罪もゆるしてくださいます。聖書の中で、神は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ一18)とおっしゃいます。
しかし、神に見放された人を、神は放置しておきます。罪のこらしめがないため、その人は罪を認めず罪を悔いません。そして、そのまま神なんかからは逃げきれると思いこんで死に、さばきに会うのです。
「幸いなるかな罪よ」とルターが言い、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれる」(ローマ五20)と聖書が言うことばは味わうべきです。
「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ五五7)。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加