座間コミニティー

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7月10日(火)のつぶやき

2018年07月11日 02時30分49秒 | 仏教

◆こうして夕があり、

2018年07月10日 20時16分41秒 | 聖書
朝があった。第一日。(創世一・五)
夕は「やみ」であり、朝は「光」であった。しかしながら、この二つを一緒にして、光のみに与えられる「日」という名称で呼んでいる。霊的経験においても、これと同じ類比がある。すべての信者の中には、やみと光がある。しかし、彼は罪をもつために罪人と呼ばれるのではなく、ある程度の聖さをもつゆえに聖徒と呼ばれるのである。
これは自己の弱さを嘆き、「私はこんなに多くのやみをもっているのに、神の子であり得るのか」と言う人々には、最も慰めとなる思想であろう。そう、あなたは日のように、あなたの名前を夕からは取らず、朝から取らなければならない。そしてあなたは、神のみことばの中においては――あなたはまもなく全く聖なるものとされるが――今、完全に聖なるものであるかのように呼ばれている。あなたの中にはなおやみがあるが、あなたは光の子と呼ばれている。あなたは、神の目から見て最も著しい性質によってそう名づけられている。そしてその性質は、いつの日にか、あなたの中の唯一の原則となる。
夕が先に来ていることに注意せよ。生来の私たちは、時の順序から言えば、最初はやみである。暗やみが、私たちの悲しみに沈む不安な心の中にあって、初めにしばしば私たちを駆り立て、深いへりくだりのうちに、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と叫ばせる。次には朝が来る。恵みが生まれつきの性質に打ち勝つ時に夜が明ける。「終わりに来るものは永遠に続く」とは、ジョン・バニヤンの尊い格言である。最初のものは、時が来れば最後のものにゆずる。しかし、最後のものの後には何も来ない。あなたの生まれつきの性質はやみであるが、一度あなたが主にあって光となるならば、その後に夕が続くことはない。「あなたの太陽はもう沈まず……。」
人生の第一日は、夕があり、朝があった。しかし第二日は、私たちが永遠に神とともにあろうとする時、夕はなく、一つの、聖く、尊い、永遠なる昼があるだけとなる。
 

箴言4:23

2018年07月10日 20時14分17秒 | 聖書

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4:23)

自分の心を見張るのは誰だろう。誰かが見張ってくれるのだろうか。
そうではない、他人が見張ってくれない。
自分が自分の心を見張らねばならない。
自由意志が与えられており、神もそこを支配されない。
あなたの心の態度は、あなたの自由な選択の結果だ。

神はあなたの態度をコントロール出来ないし、されない。どこまでも自由だ。
次から次へと問題は起きる。私たちを悩ませる対人関係が出て来る。
環境を変えれば何とかなるのでは、職場を変われば・・、相手が変われば何とかなる・・、

又、困難な事態が目の目に生じると、ちょっと時間を置けば何とかなる・・、環境、相手、時の問題にしようとするが、そうではなく、最大の問題は自らの心の態度だ。

苦難の人ヨセフは、兄達の妬みを買い、エジプトに売り飛ばされ、大変な苦しみに会う。
そこで、主人の好意を得、認められるが、又、苦難が来て、無実の罪で投獄される。
しかし、そこでも、模範囚となり、監獄長に認められる。

「主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」。
神がそのようにされた。しかし、そこに、ヨセフの神の御前における正しい態度があった。

環境、状況がどうであろうと、どんなに悲惨であろうと、心を歪ませないで、屈折させず、真っ直ぐに神を見て行く時、立って行ける。
ヨセフが自分の心を歪ませないよう、心をガードしたように、私たちも心を堅く見張っていよう。

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信仰生活で重要なものが、心の態度だ。自分次第だ。
心を屈折させて、いじけたり、すねたり、反抗する事ができる。
しかし、どんな中でも、自己憐憫、自己卑下せずに、主を信じて行こうとすることができる。
態度は自分の選択だ。
苦しい中で、素直に主を信じて行く選択が出来るよう祈ろう。


今日の聖人の記念日

2018年07月10日 08時03分46秒 | キリスト教

ゴルクムの聖殉教者

16世紀

 当時、オランダでは宗教改革のさ中に、多くのカトリック信者が弾圧を受け、殺された。このとき、ゴルクム市では、4人の司祭、修道士を含む19名が捕えられ、ひどい拷問ののちに処刑された。

 彼らの遺体はのちにブリュッセルに移され、彼らは「ゴルクムの聖殉教者」と呼ばれ、人々から崇敬されるようになった。


◆閉ざされた心・開かれた心

2018年07月10日 08時02分21秒 | 聖書

おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、
すべてのすぐれた知性と仲たがいする。(箴言一八1)
以前「私は貝になりたい」というテレビドラマが話題になったことがあります。人々にかかわるたびに問題に巻き込まれて苦しむと、いっそ貝のように心を閉じて、人に干渉しないし、干渉されたくないという人の気持ちを表したものでしょうか。
自分の心を閉じてしまうことは、恐ろしい結果になります。独りぼっちで、ある時は劣等感に悩み、ある時は挫折感にうちひしがれます。また、独り善がりの独善家は、自分ではよいと思っても、人に捨てられるのです。開いた心が持てないで、自分のからの中に閉じこもってしまうことを悩んでいる人は非常に多いと思います。そのような閉ざされた心の一つの秘密を、聖書ははっきり語っています。それは、「自分の欲望のままに求める」ということです。
「おのれを閉ざす者」は、自分以外に他者を持たない心のことです。ここには、人間としての本質に問題があります。それは、けっして小さな問題ではありません。神は、人間を造られました。それは、人間が神に対して愛と喜びの交わりをするためであり、人を愛し、人と分け合い、助け合う、人と人との交わりのためでした。独立独歩の精神はよいでしょう。しかし、孤立独善は感心したものではありません。反対に、心が結び合って、よいことのために協力して重荷を負い合うなら、そこにこそ人生の力も喜びもあります。
アウグスティヌスは、「大きなことでは一致、小さなことでは自由、すべてのことに愛」と、人との一致と交わりの原則を教えたそうです。イエス・キリストは、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ一八20)と言われました。神の愛を認め、神によって心が開かれる時、大きな祝福が与えられます。
 

◆今は聖徒たちと同じ国民であり……。

2018年07月10日 08時01分15秒 | 聖書
(エペソ二・一九)
私たちが天国の市民であることは、私たちが天の支配下にあることを意味する。天国の王であるキリストは、私たちの心の中にあって、支配しておられる。私たちの日ごとの祈りは、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」である。栄光の御座からの布告を、私たちは何のためらいもなく受け入れ、大王の命令に喜んで従う。
私たちは新しいエルサレムの市民として天国の誉れにあずかる。世を去った聖徒たちが受けている栄光は、私たちのものでもある。私たちはすでに神の子であり、王族であり、すでに汚れのないイエスの義の衣をまとっているからだ。すでに天使を従者とし聖徒を友としている。キリストは私たちの長兄であり、神は父であり、朽ちない冠は私たちの報酬である。私たちは市民の誉れをになう。天に登録されている長子たちの教会の会員となったからである。また市民として天国のすべての財産に対して共同の権利をもつ。天国の真珠の門と碧玉の城壁も、ろうそくの光も日の光もいらない天国における明るい光も、私たちのものである。いのちの水の川、またその対岸のいのちの木に結ぶ十二種の実も、私たちのものである。天上にあるもので、私たちのものでないものはない。「現在のものであれ、未来のものであれ」すべて私たちのものである。
さらにまた、天国の市民として私たちは天国の喜びを味わう。天国にいる者たちは、罪人が悔い改めた時――放蕩息子が帰ってきた時喜ぶであろうか。そうだ。私たちもまたそれを喜ぶ。彼らは勝利の恵みの栄光をたたえて歌うであろうか。そうだ。同じように私たちも歌うのである。彼らは、自分の冠をイエスの足もとに投げ出すであろうか。私たちもまた自分のもっている誉れを御前に投げ出す。彼らはイエスのほほえみに心を奪われるか。地上に住む私たちにとっても、イエスのほほえみはそれに劣らず美しい。彼らは主の再臨を待ち望むか。私たちとてそうである。
このように天国の市民ならば、私たちの歩みや行動が、それにふさわしいものであるよう心がけよう。
 

詩篇105篇1-7節

2018年07月10日 07時57分12秒 | 聖書

105:4 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
105:5 主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。


作者は主を褒め称えよ、主を讃美せよと語ります。

その讃美のあり方は、主が行われた奇しいみ業を思い越すことによってであると言います。

 私たちは日常生活で苦しみや困難に遭いますと、主を褒め称えることが出来ず、讃美もなくなってしまいます。

それは、自分に降りかかっている現実に、圧倒されてしまうからです。

これは、旧約の時代の人でも同じでした。

ですから、そうした中にあって、讃美をもたらす力を与えられ、また励ましを与えられたのは、主がなされた素晴らしい御業を思い起こすことにあると言っているのです。

その主の素晴らしいみ業を思い起こす時に、讃美が湧いてくると言うのです。

私たちは今までに、沢山の恵みを与えられています。

それを数えることによって、心の内に感謝と喜びと讃美が湧いてくると言うのです。

主の恵みを数えること、それが私たちに主への讃美の歌をもたらすのです。


創世記45章28節

2018年07月10日 07時50分56秒 | 聖書

★ イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」


■O:今日のコラム
ヨセフはもう死んだと思っていたヤコブでしたが、そのヨセフがエジプトで生きているということを聞いて元気を取り戻しました。

それは、年老いたヤコブに飛び込んできた思いもかけない希望のニュースでした。ヤコブは元気を取り戻し、気を取り直して、これから待っている新しい人生、希望の人生に期待を寄せているそんなヤコブの姿が目に浮かびます。

息子たちからは、「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」(創世記45:26)そのような報告を受けた時も、信じることができないでいたヤコブでしたが、そこには息子ヨセフがエジプトから子どもたちを遣わしたという事実がありました。

おそらく話を聞くだけでは、相変わらずヤコブはボーっとしていたことでしょう。しかし息子たちは、話だけではなくヨセフがヤコブを乗せるために送ってくれた車を見せたのです。するとヤコブは元気づいたのです。

現実を受け入れるのに多少の時間が必要だったでしょう。しかし、納得と同時に彼の心の中には新しい希望の光が差し込んできたのです。

神様のなさる事は本当に不思議です。人生はいつどのように進んでしまったとしても、そこには希望があります。人生の土壇場にいる状態から、信じられないほどの大逆転を神様が用意しておられることを私たちは期待して信じていきましょう。

暗いニュースから一変して、年老いたヤコブの生活に明るい希望のニュースが飛び込んできて、ヤコブの中には希望の光が差し込み、信じられないくらいの元気を取り戻したことでしょう。心の中で神様をほめたたえたのではないでしょうか。それと同時に、ヤコブの霊が生き返り、神様との関係が復活したと信じます。

飢饉という緊迫した状況の中で大切な息子を1人失い、また1人失うという家族の崩壊の危機から一変して、失った息子までが回復して、完璧なかたちで家族が回復されるという希望の世界へと移されたのです。



■A:考えてみよう
人生の大逆転は神様を信じる者への特権です。どんな下り坂でも神様が用意された最後の大逆転があることを私たちは信じ、期待して、主に委ねていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。