座間コミニティー

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レビ記6章1-7節

2012年03月31日 08時20分22秒 | 聖書

6:5 「あるいは、それについて偽って誓った物全部を返さなければならない。元の物を償い、またこれに五分の一を加えなければならない。彼は罪過のためのいけにえの日に、その元の所有者に、これを返さなければならない。」
  人が犯した罪で、他の人々には明白でなくても、その人自身が罪責を感じるということがあります。
そのような時のことも含め、罪を認識した時に、どうするのかと語っています。
そこで命じられていることは、罪を悔いて、赦しの為に供え物をしなさいということです。また、もう1つ求められています。
それは、自分が犯した罪のために相手に損害を与えた時は、その賠償をするということが命じられているのです。
 賠償のあり方は、状況によって違っていました。
たとえば、裁判に訴えられて、有罪になった時には、その賠償額は与えた損害の2-5倍の額を支払うことが命じられました。
ところが、罪を感じて、その人が自発的に悔いて、賠償をしようとする時は、損害の賠償は、損害の返却の上に5分の1の分を上積みすれば良しとされました。
自発的であることに、理解が与えられているのです。

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◆正しい者の祝福

2012年03月31日 08時11分29秒 | 聖書

正しい者の頭には祝福があり、
悪者の口は暴虐を隠す。      (箴言一〇6)

暴虐と祝福、何というコントラストでしょう。
自分の運転手を次々と殺して保険金をごまかしていた会社社長の犯罪が、新聞に出ていました。海に連れていき、酒を飲ませて水の中で殺し、事故に見せかけたのです。ブラジルまで逃げて、とうとう警官隊に射殺されました。
暴虐な世相になってきました。自分の子を伸び伸び遊ばせられないような寂しい冷たい世の中です。
しかし私は、あるクリスチャンを知っています。その人は、金持ちでも有名でもありません。小ぢんまりした家に住んでいます。ところが、近所の人は、悩み事があるとこの家を訪ねていきます。この人の前に出ると、何でも打ち明けられるのです。話をよーく聞いてくれます。いけないことは、それはいけないとはっきり言ってくれるけれど、励まして自信を持たせてくれます。相談に来た人は心の重荷がおりて、ほっとして帰っていきます。まわりの人は、この家を尊敬をもって見ています。この家から祝福が流れてくるからです。神がその方の頭に祝福を注ぎかけ、その祝福が流れ出して、ご近所の人々までうるおしています。
神は、あなたを祝福の泉とされたいのです。そのためにイエス・キリストは十字架にかかり、あなたの罪をゆるされました。そのために、イエス・キリストはあなたを造り変えてくださいます。あなたを祝福のもとにし、神の国の仕事のため有用な存在とするために、生まれ変わらせてくださるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント五17)。

 

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◆彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

2012年03月31日 08時09分11秒 | 聖書

(イザヤ五三・五)

ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
 見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを
 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
 罪人らは全能なる主の御手をしばり
 造り主である主の御顔につばきした
 主の額には深くいばらがくい込み
 傷口より真紅の血がほとばしる
 背に鋭いむちを受けられたが
 そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。

 

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●休憩時間の考え方●

2012年03月30日 08時31分02秒 | 労働法

 労基法34条では、労働時間が6時間超で45分、8時間超で1時間の休憩時間を労働者に与えることを義務付けています。ということは、パートなどの場合に、労働時間が6時間以下であれば、休憩時間は与えなくても良いことになります。また所定労働時間が8時間の会社でも通常お昼に1時間の休憩が、「一応」設定されています。
 もし休憩時間が45分であれば、残業があった場合には、15分の休憩時間を追加で設ける必要が出てきます。また労働時間が8時間を超える場合には、労働時間が何時間でも1時間与えれば良いということになります。
 本来1時間与えられなければならない休憩時間を45分しか与えられなかった場合には、残り15分の休憩を求める必要があります。もし会社が休憩時間を与えなかった場合には、15分間分の割増賃金の請求をするほか無いでしょう。
 もし15分の休憩時間を与えられなかったからといって、勝手に休憩した場合には、懲戒処分とされる可能性はあります。しかし本来与えるべき休憩時間を会社は与えなかったわけですから、勝手な休憩に対する懲戒処分は無効とされる余地があります。
 勝手に休憩する前に、一言上司に告げることが大切です。
 ちなみに、休憩付与義務違反に対しては、慰謝料請求が認められている判例があります。

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レビ記5章17-19節

2012年03月30日 08時24分48秒 | 聖書

5:17 「また、もし人が罪を犯し、主がするなと命じたすべてのうち一つでも行なったときは、たといそれを知らなくても、罪に定められ、その咎を負う。」
  罪刑法定主義という言葉が法律関係にあります。
これは、罪に定められるのは、成文化された法の条文に違反する時にのみ、犯罪として有罪とされるということです。
従って、例えば、それは可笑しいと人に思われても、条文に違反行為として記述されていない時には、犯罪にはならない事もあるのです。
 ところで、聖書も同じようなことを告げています。
「罪とは、神の戒めに背くことである。」と告げているからです。
神の戒めは、律法に記述されています。
今では、十戒が、神の戒めです。
それによって、裁かれるのです。
 ここでの問題は、その戒めを知らなかった時には、その犯した罪は許されるかということです。
聖書は、それは不可能だと語っています。
理由は、律法が記されているということは、誰にも分かるようにされているからです。
知らなかったのは、その人が知ろうとしなかったからです。
無知の罪は、無罪ではないのです。

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◆時を惜しんで働く人

2012年03月30日 08時09分56秒 | 聖書

夏のうちに集める者は思慮深い子であり、
刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。(箴言一〇5)

長野県のある中学校のPTAで、三年生にアンケートをとりました。それを整理して、PTAの総会で発表しました。「困った時だれに訴えるか」という項目で、約二百人の中学生のほとんどが「父・母・おじ・教師」などと答えた中に、たった一人「神」と書いた中学生がありました。この発表を読みあげた時、出席していた母親たちが思わずドッと笑ったとのことを聞きました。
このことには、私たち日本人の平均的な気持ちが表れていないでしょうか。けっして、悪気があったり軽蔑したから笑ったのではないでしょう。思わず笑ったのです。
しかし思わず笑ったその中には、「神のこと・霊的なこと・永遠のこと」を人生の中・頭の中から押し出そうとしている私たちの生き方が映し出されているのではないでしょうか。ほんとうに困った時に、なぜ私たちは、「神さま」と神の前にひざまずこうとしないのでしょうか。
働き盛りの人生の夏のうちに、健康で働けるうちに、今は見えていないもの、つまり永遠の神の存在を認め、その神のみこころを知ることに努力を傾けないでよいはずはありません。また人生の刈り入れ時を迎え、人生の結論をそろそろ出さなければならないころ、やがて永遠の世界と正面きって対面しなければならないのに、何の用意もせず、眠りこけているのです。
これは大変なことではないでしょうか。「恥知らず」といわれても返すことばがありません。

 

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◆彼が……そむいた人たちとともに数えられたからである。

2012年03月30日 08時08分19秒 | 聖書

(イザヤ五三・一二)

なぜイエスは、自分が罪人とみなされることを忍ばれたのであろうか。この驚くべき謙遜は、多くの有力な理由によって解くことができる。
こうされたため、主は罪人の代弁者となることができた。ある種の裁判で弁護士は被告と同一視され、法律的に二者は分離されない。さて罪人が法廷に引き出される時、イエスはご自身でそこへ出て来られる。主は審問に答えるために立たれる。ご自身の脇腹、両手両足を指さして、ご自分が代わられた罪人のために、正義の糾弾に答えられる。ご自身の流された血をもって抗弁し、自ら罪人となり、完全に弁護の任を果たし、裁判官は「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」と宣告する。
私たちの主イエスは、罪人の心をご自分のほうに引きつけるために、背いた人たちとともに数えられた。私たちは、同じリストに載せられている方をどうして恐れることがあろうか。私たちは、はばからず主のもとに行き、自分の罪を告白することができる。私たちとともに数えられている方が、私たちに罪を宣告することはおできにならない。
主が罪人のリストに載せられたのは、私たちが聖徒として登録されるためではなかったか。主は聖く、聖い者の中に名を記され、私たちは罪人であり、罪ある者の中に数えられていた。主はご自分の名前を向こうの聖なる表からこちらの起訴状に移され、一方私たちの名前は、起訴状から取り去られて、受け入れられる者の表に記される。ここでイエスとその民とは、完全に入れ替わるのである。イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有されるすべてのものが与えられる。主は私たちに、主の義、主の血、また他の一切の所有物を持参金として与えられる。主にある友よ。背いた人たちとともに数えられた主とあなたが結合されることを喜べ。また明らかに主にある新しき者の中に数えられることにより、あなたが真実に救われたことを証しせよ。

 

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レター・泉教会120329

2012年03月29日 17時05分15秒 | 聖書

 ある教会の壁に、大きな時計がかけてありました。でも、何か変なのです。よく
見ると、傾いています。そばにいた人に、時計が傾いていることを話すと、いや、
これでいいのだと言う。この傾きを直すと、止まってしまうのだと言う。つまり、
時計の外枠と中の機械部分とがまっすぐに留められていないため、こういうことに
なったということです。壁にかかっている絵の額など、曲がっているとすぐに直し
たい私には、どうも落ち着かない時計でした。
 しかし、その時計を見ていて改めて、ひょっとしたら私たちもこんな感じなので
はないか、と思ったのです。真直ぐに立っているようで、実は傾いている。傾いて
いるので、人間関係に調和が保てないわけです。依存的になってみたり、支配的に
なってみたり、いつもぎくしゃくしているのではないでしょうか。また、ものの考
え方や世界を見る目、といったところにも、実は偏見や差別が付きまとっているの
ではないでしょうか。どこか傾いている、と言った方が真実に近い気がするのです。
 だからと言って、神は私たちを捨ててしまわない。傾いたままで、あの時計のよ
うにちゃんと居場所があるのです。受け止められたその場所で、あなたはキリスト
ご自身と、その方がすることを、じっと見つめるように、と神は置いていてくださ
るのです。あの傾いた時計が教会にあるのは、象徴的でした。あの時計のように、
私たちは誰も傾いたままキリストに受け止めてもらえる、ということです。イエス
・キリストは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人であ
る。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
傾いた者、倒れかけている者、曲がった者を招くために私はいるのだ、と言われた
のです。ですから、このキリストの前から(教会から)、私たちは始めることがで
きるのです。教会は、立派な人が行くところではないのです。どういうわけか傾い
てしまっている、しかし自分の居場所を発見した人が、そこにいる。「医者を必要
とするのは、丈夫な人ではない」のです。

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レビ記5章14-16節

2012年03月29日 10時22分22秒 | 聖書

5:16 「彼は、その聖なるものを犯した罪の償いをしなければならない。それにその五分の一を加えて、祭司にそれを渡さなければならない。祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される。」
  人が、主の聖なるものに対して罪を犯した時のことを語っています。
たとえば、祭司しか食べれないものを、誤って食べてしまった時のことです。
その罪に対して、償いをしなさいと命じています。
償いは、同じものにさらに5分の一を加えて償えと語っています。
私たちは時々、罪を告白すれば赦して戴くことが出来るので、こうした代償を支払うことを考えないことがあります。
 イエス様によって与えられた罪の赦しも、私たちへの無償の赦しです。
しかし、その赦しは、神様の御子であられるイエス様が、私たちの罪のために身代わりになって、そのご自分の死によって、私たちの罪のための代償を支払って下さったのです。
そのことによって、罪が赦されているのです。
人が犯した罪は、誰かが、その代価に相応しい値を支払わなければ、赦されないのです。

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◆怠 惰 と 勤 勉

2012年03月29日 10時14分08秒 | 聖書

無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。     (箴言一〇4)

無精者が寄り集まって相談しました。「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎると言われています。
「わたしゃ、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」という人にも会いました。これもどうかと思います。けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた一九七八年の数字によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇10)。

 

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◆キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び……。

2012年03月29日 10時11分54秒 | 聖書

(ヘブル五・八)

私たちの救い主イエスでさえ、苦難によって完全になられたと言われている。したがって、完全にほど遠く、罪深い私たちが、苦難を通るように命ぜられたとしても驚いてはならない。かしらである方がいばらの冠をかぶらせられたのに、そのからだの肢体が安逸をむさぼっていてよいのだろうか。キリストがご自身の血の海を渡って冠を得られたのに、私たちは銀のスリッパをはいて、足をぬらさずに天国へ歩いて行くのだろうか。否! 主のご経験は、私たちに苦難が必要であることを教え、真に新生した神の子どもがそれを逃れたり、逃れようと欲してはならないことを教える。
しかしキリストが「苦しみによって従順を学び、完全な者とされた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。それは、主が私たちに対して全き同情をもたれるということである。このキリストの同情が私たちを支える力となる。昔、ある殉教者はこう言った。「私はこの苦難のすべてに耐えることができる。それはイエスが苦しまれたからであり、今も私の中にあって苦しんでおられるからである。主は私に同情してくださる。それで私は心強い」と。主にある友よ。苦しみの時いつもこのことばを思い出せ。
あなたが主の足跡に従う時、主を思い、自らの心を引き立てよ。主のご同情の中に麗しい心の支えを見いだせ。そして苦しみは名誉であり、キリストのための苦しみは栄光であることを深く覚えよ。使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜んだ。キリストのために苦しみ、キリストと共に苦しむ恵みを与えられるのに応じて、主は私たちに栄誉をも与えられる。クリスチャンの宝石はその苦難である。神の油注がれた王たちの位を証明するものは、彼らの困難と苦悩と悲哀である。だから、この名誉が与えられる時にそれを避けず、抜擢されるのに顔を背けることのないようにしようではないか。悲しみは私たちを高め、困難は私たちを引き上げる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」

 

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●裁量労働制という制度●

2012年03月29日 10時08分26秒 | 労働法

 18時間週40時間という労働時間の原則を大幅に緩和した制度がこの裁量労働制です。この「裁量」とは、労働者自身が仕事をする時間や進めかたについて、自ら決めることができるという意味です。労働者に裁量があるということです。
 ですから、この裁量労働時間性の適用を受ける労働者には、遅刻早退はありえません。その一方で、残業もありえないことになります。この場合の労働時間は通常業務に必要とされる時間となり、実際の労働時間とは一切関係がありません。
 このみなされた時間が、もし18時間を超える場合には、割増賃金が発生します。
 しかしこの裁量労働制は、すべての労働者に適用されるわけではなく、ある一定の専門的な業務に従事する労働者のみに適用することができます。またその適用にあたっては、健康管理面での様々な措置が必要な要件となっています。
 それは実際の労働時間とは関係なく労働時間がみなされるため、長時間労働による健康管理が重要な問題となってくるからです。労働者自身が自発的に労働態様を管理できる制度とはいえ、一方で合法的に割増賃金の支払いを免れる制度でもあるため、この制度の適用、運用については、十分な理解が不可欠であろうと思います。

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レビ記5章5-13節

2012年03月28日 10時00分48秒 | 聖書

5:5 「これらの一つについて罪に定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。」
  過失の罪とか、あるいは消極的な意味で犯した罪について、それに気がついた時には告白をしなさいと語っています。
告白をすることによって、自分が罪を犯したことを悔い改め、「新しい思いで主の前に生きよう」という自覚が与えられるからです。
ですから、告白した人は、それぞれに与えられた力量に応じて犠牲を献げ、そのことによって、罪の赦しが与えられることを語っているのです。
 この告白の大事さを覚えて、後のユダヤの人々は、たとえ故意に犯された罪であっても、その罪を告白をした時には、罰を軽減しようという思いが出たほどに、告白が重要視されました。
告白は、自分を赤裸々に告げ、神の助けを求める真実な行為とみなされたからです。
  パウロも、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、」と語って、自分の罪を悔い改め、イエス様こそ自分の罪の贖い主であるという信仰を、告白することの大切さを教えています。
彼は、人を恐れないで信仰を告白する者に対する、救いの恵みの賦与の確かさを、告げているのです。

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◆正しい者を飢えさせない

2012年03月28日 09時48分52秒 | 聖書

主は正しい者を飢えさせない。
しかし悪者の願いを突き放す。    (箴言一〇3)

日本人は、「飢える」ことを忘れてしまいました。私たちのまわりには、あり余るほど食べ物があるようです。しかし今でも世界人口の三分の一は飢えています。三分の一は十分食べられないで、おなかをすかしたまま寝るのです。残りの三分の一だけが、十分食べているそうです。
今の日本人の多くは、食べ物には飢えていません。しかし、この富める社会にも飢えがあると思います。それは、人と人との間の心のぬくもり・愛情の飢きんです。教育は十分、お金はどっさり、着る物は流行の先端をいっていたとしても、この飢えは解決されません。
この飢えは、神の愛を知ることによって満たされます。十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛を受け、自分も他人に与える喜びを知った時、この飢えは初めて解決するのです。人間関係も変わってきます。神を知り神の愛を心に住まわせる人に、一人として飢える人はないのです。
パウロはこのことをあかしして、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ四19)と言いました。
神の愛を知らず、知ろうとせず、自分の能力や自分の魅力だけでやっていこうとする自信家は、やがて突き放されてしまいます。

 

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◆人知をはるかに越えたキリストの愛……。

2012年03月28日 09時47分31秒 | 聖書

(エペソ三・一九)

キリストの愛の麗しさ、その満たし、その偉大さ、真実さは、人間の知り尽くし得ないものである。人の子に対するそのたぐいない愛を語ることばがどこにあろうか。それは全く広く大きいので、つばめが水面をかすめて飛ぶように、すべての人のことばは表面に触れるだけであり、測り知れない深さは、依然としてその下に横たわっている。
「おお愛よ。あなたは測ることのできない深淵だ」と詩人が歌ったのは、まさに真実である。なぜなら、このキリストの愛は測り得ないものであり、だれであっても、その深奥を極めることはできないからである。
イエスの愛について正しい概念をもつために、私たちがまず知らなければならないことは、主の初めの崇高な栄光の高さと、受肉された恥辱の深さである。しかしだれが私たちに、キリストの栄光の崇高さを語ることができようか。主がいと高き天上の王座におられた時は、主の主、神の神であられた。もろもろの天とそこにある万軍とは主の造られたもので、全能の御手は天体を支え、ケルビムとセラフィムの賛美の歌は絶えず主を囲み、全宇宙のハレルヤコーラスは、その王座にみなぎっていた。主はすべての被造物を統べ治め、万有の神として永遠にほめられるべき方であられた。いったいだれがその栄光の高さを語り得ようか。
また一方、主がいかにへりくだられたかを語ることができようか。ただ人になられたということと、悲しみの人になられたということとの間には、非常に隔たりがある。神の子であられた主が血を流し、死に、そして苦しまれたのである。そのご苦難は無比であり、恥辱の死を遂げられ、父なる神に捨てられなさったのである。これこそ、いかに深い霊感を与えられた人もうかがい得ない、愛によるへりくだりの深奥である。
ここに愛がある! その愛は、「人知をはるかに越えた」ものである。ああ、この愛により、私たちの心を賛美と感謝に満たし、その愛の力を現実に現すものとしてください。

 

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