座間コミニティー

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◆神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。

2017年04月30日 15時38分16秒 | 聖書
その総計は、なんと多いことでしょう。(詩篇一三九・一七)
神の全知は、不信仰な人の心には何の慰めも与えない。しかし、神の子どもに対しては、あふれるばかりの慰めを与える。神は常に私たちのことを考えておられ、常に目の前に私たちを置いてくださる。これは、私たちにとっても願うところである。たとえ一瞬でも、天の父の御目の届かない所で生きるのは、私たちにとって実に恐ろしいことだからである。主の御思いは常に優しく、愛に富み、賢明であり、思慮深く、広範囲に及び、数えきれない益を私たちにもたらしている。したがって、それらを思い出すことは何よりの喜びである。主は常にご自分の民のことを考えておられた。それゆえにこそ、彼らの選びがあり、彼らの救いをもたらす恵みの契約があった。主は、これからも常に彼らのことをお考えになる。したがって、彼らは最後まで支えられ、安全に最後の安息にまで導かれる。
私たちがさまよう時、永遠の見張りの者の絶えることのない視線が私たちの上に注がれており、私たちは決して、羊飼いの目の届かない所に迷い出ることはない。私たちの悲しみの時、主は絶えず私たちを見つめ、ただ一つの苦しみさえ逃されない。私たちが労苦する時にも、私たちのすべての疲れに心を配り、主の忠実な子どもたちのすべての戦いを記録される。これらの主の思いは、私たちが歩むすべての道で私たちを囲み、心の奥底まで見通してくださる。
愛する友よ。これはあなたにとって尊いことではないか。ではそれをしっかり守れ。非人格的な神などを信じてはならない。主は生きておられ、私たちのことを思っていてくださる。この真理は、軽々しく奪われるにはあまりにも大きい。高貴な人に知られるということは非常に価値のあることであり、そのようにされるならば、自分の運命が開かれたと思う。しかし、王の王によって自らの存在が知られることは、なんとすばらしいことか。主が私たちを念頭に置かれるならば、すべてはよく、私たちは永久に喜ぶ。
 
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「しかし、真理を行なう者は、

2017年04月30日 15時37分20秒 | 聖書

光のほうに来る」(ヨハネ3:21)

アルコール依存症の人は、このように言う。
どこに行っても、飲酒の誘惑の無い所がない、テレビを見れば酒のCM、街を歩けば、店、又店、誘惑があるから止められないと。
ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが存在する事が悪いと言う。

環境が悪いのだと。しかし、同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症にもならない人々が大勢いる。
これは環境のせいでは無いという事だ。何が問題なのか。
私達も形は様々だが、同様だ。止められない習慣を持っている。

しかし、その問題の底にあるものは、止められないのでなく、止めたくない自分がいる。
そこを見て、認めない限り、問題の解決はない。
人一倍思い煩い症の人もいるが、思い煩っていたいのだ。
思い煩いがないと不安で、思い煩って安心する。思い煩い依存だ。

おかしな話だが、心の底を正直にみるとそうなのだ。
主はいつでも「よくなりたいか」と問うていて下さる。出来るかと問われない。
「・・たいか」だ。本当に良くなりたいのだろうか。建前でなく本音はどうだろう。どっちでもいいのだろうか。

環境や人のせいにせず、自らの罪を認め、無力を認める時、主は癒しを与えて下さる。
「私はアルコール依存です」と認める人が癒されて行くという。
正直な姿に向き合い、認める事が、真理を行なう事であり、光のほうへ来る事だ。
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「よくならなければならない」と思っているところは沢山あるが、本当に主に「よくなりたい」と明け渡せてはいない。
何に依存し、何から解放されたいのか、自分の本当の心の内をしっかり見つめてみよう。


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おはようございます。

2017年04月30日 08時13分43秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年04月30日 08時13分10秒 | キリスト教

 聖ピオ5世教皇

在位1566年-1572年

 アントニオ・ギズリエーリは、1504年にイタリアのロンバルディアの貧しい家に生まれた。若いときにドミニコ会に入り、1550年に宗教裁判所長となって異端審問官を長く務めた。厳格で禁欲的な人であり、また、信心深く、臨終の人を慰めたり、施しを求める貧者を家に招いていた。教会に対する大きな愛と、聖母マリアに対する熱烈な信心が、彼の活動のエネルギーだった。

 教皇になってからは、教会全体から不道徳を払拭し、トリエント公会議の改革規定の実現に力を注いだ。ローマ・カトリック要理(1566年)を出版し、聖務日課書を改訂し、ミサの形式を確立した。現在行っているミサの形式は、この時代に定式化されたローマ典礼によっている。

 晩年は、ロザリオの祈りの形態を定め、トルコ軍の攻撃によって危機に陥ったヨーロッパ・キリスト教諸国のために、マリアの保護を求めてロザリオの祈りを広めたので、「ロザリオの教皇」と呼ばれている。没150年後に列聖された。

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◆家族への態度

2017年04月30日 08時12分06秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)
家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。
 
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◆イスラエル人はみな……

2017年04月30日 08時11分17秒 | 聖書
つぶやき……。(民数一四・二)
昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」
 
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詩篇35篇17-22節

2017年04月30日 08時09分46秒 | 聖書


35:21 彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ」と言います。
35:22主よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ。私から遠く離れないでください。



自分は何も悪いことをしていないのに、あざけって、「おまえが悪いことをしたのを、俺たちは見たぞ。」と言って、脅す人がいます。

そうすることによって相手を萎縮させて、苦しめようとするのです。

多くの人たちは事実を見ていませんから、彼らが言うことが正しいように思ってしまうことがあります。

ダビデはそうした時、「しかし、主よ、あなたは見ておられる」と語りました。

主の前には誰も、また何も隠すことが出来ません。

主はすべてのことをご存じです。

ですから、このお方に訴えて、自分を助けて下さいと告げました。

なぜなら、事実を知り、そのために弁護が出来るのは、このお方以外におられないからです。

主こそが、彼の望み、また彼の真の頼りであるのです。

ですから、彼は「わが、主よ。」と叫んで、その主に助けを求めるのです。

主こそ、砦であるからです。

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1列王記18章30節

2017年04月30日 08時07分23秒 | 聖書


★エリヤは民全体に、「私のそばに近寄りなさい」といったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼は壊れていた主の祭壇を建て直した。

■O:今日のコラム
おはようございます!4月28日の朝です。
18章では、エリヤとバアルの預言者による、どっちが本物の神かを決める戦いが始まります。アシェラの預言者も含めると、エリヤ1人vsバアルとアシェラの預言者850人の戦いです。(19節)なんと、不公平な戦い。
結果はエリヤの勝利です。主はエリヤに答え、天から火をもって、主こそ真の神であることを示しました。主はなぜエリヤに答えてくださったのでしょうか?

30節に注目します。エリヤが近づきなさいというと、民は近寄りました。これはエリヤにではなく、神様の側に立つということを民が選択したことの表れだと思います。民は、どっちの神に近づこうかと迷っていたからです(21節)

私たちは、都合の良い時だけ、また日曜日だけ主を選択するどっちつかずのものではなく、絶えず主を選択するものでありたいと願います。熱くも、冷たくもないものを主は吐き出すと黙示録に書かれています。
もし、私たちが生ぬるい者であったとしても、熱心な悔い改めを通して今日新しく共に主に近寄り、主からの力を求めましょう。悔い改めに導くのは、神の慈愛ですから、今日も神様の絶対的な愛を受け取っていく必要があります。

また、30節の後半に、こわれていた主の祭壇をエリヤが立て直しました。主の祭壇とは礼拝です。礼拝の回復です。バアルの預言者たちは、自分たちの力で、神様からの火を求めました。一方、エリヤはこの戦いにおいて、こわれていた主の祭壇をまず立て直しました。

自分がどれだけ頑張っても天の父の愛や力、解決は与えられません。全ての源は、主です。様々な働きやミニストリーの中にあっても、私たちは日々主を見上げ、祭壇を築き、天の父の愛、力を受け、それを解き放っていくものでありたいと願います。

詩篇121:1-2
「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」

■A:考えてみよう
私たちは、日々主の側に立ち、主の祭壇を築いているだろうか?壊れていないだろうか?
今日も悔い改めをもって、主に近寄り、イエス様の血潮を告白し、御言葉を朗読し、賛美し、主の祭壇を築き、天からの力を受け取っていきましょう。
悔い改めるのも祭壇を築くのも、全て聖霊様の力が必要です。
聖霊様を、今日も歓迎していきましょう。
■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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4月29日(土)のつぶやき

2017年04月30日 01時35分20秒 | キリスト教
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◆主は、

2017年04月29日 15時47分15秒 | 聖書
ご自分の民を愛し……。(詩篇一四九・四)
イエスの愛は、なんと広い愛であろう! 民の関心事で、主がみこころを煩わされないものはなく、民の幸福に関することで重視されないものはない。信者よ。主はあなたを滅びない者として考えておられるだけでなく、死ななければならない者としても考えておられる。それを否定したり疑ったりしてはならない。「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。」
この愛の衣が、私たちの心遣いの一切を包んでくれなかったら、それは私たちにとって悲しむべきことであろう。私たちの務めの一部が、恵み深い主の検分からもれていたならば、どのような不幸が私たちの上に降るかわからないからである。信者よ。安心せよ。イエスはあなたの一身上のごく細かなことすら、心にかけておられる。主の優しい愛の範囲はこのように広いから、あなたはすべてのことを主に訴えてよい。主はあなたのすべての悩みを悩み、父が子をあわれむようにあなたをあわれんでくださるからだ。
神の御子の胸には、単にその民の一人一人が覚えられているのみか、すべての民の種々雑多な数えきれない関心事がみな覚えられている! おお、クリスチャンよ。あなたはキリストの愛を測ることができると思うか。主の愛があなたに何をもたらしたかを考えよ。あなたは義とせられ、子とせられ、聖化せられ、そして永遠のいのちを与えられた! 主の善の富は数えきれない。否、それらを心に描くことすらできない。
キリストの愛の広さよ! 私たちはそのような愛に対して、自分の心の半分でもささげているだろうか。そのような愛に応えるのは、冷たい愛だけであろうか。イエスの驚くべき愛と優しい心遣いとは、かすかな応答と仕方なしの感謝を受けるだけなのか。私のたましいよ。おまえのたてごとを感謝をこめた喜びの歌に合わせよ。喜びに満たされて休息せよ。なぜなら、おまえは頼りとするもののないさすらい人ではなく、愛される神の子どもであり、主によって見守られ、心に留められ、支えられ、保護されているからである。
 
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『そこで彼は言った「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、

2017年04月29日 15時46分03秒 | 聖書

それを食べることはできない」』(Ⅱ列王7:2)

飢饉で人々が餓死するような、非常事態の中、エリシャは、「明日、小麦や大麦が溢れるばかりにある」と言うと、侍従はそんな事が、あり得ようかと言った。
すると、あなたはそれを見るが、食べられないとエリシャが預言した。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。
町は飢饉、ここにいてもどうせ自分達は死ぬ。
それなら、敵の陣営へ入ってみようと。
あるいは食料があるかも知れないと。

アラム陣営では、神がアラムに大軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃に勘違いさせた。
アラムは驚き恐れ、陣営を置き去りにし逃亡した。
彼らがそこに入ると、山ほどの金銀、溢れるばかりの食料があった。

彼らは、王家に知らせた。王は信じなかったが、偵察により事実を知った。
すると、大勢が殺到し、侍従は踏みつけられ死んだ。預言通りになった。

実際、溢れるほどの食料を神は用意された。
しかし、それを信じなければ、自分のものにはならない。
溢れる食料があるに関わらず、飢えて死ぬ事になる。

私達も同様だ。
十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死するように、溢れる恵みの中で、不信仰で、飢えていないだろうか。

自分で恵みをシャットアウトしている自分の姿がないか。
莫大な食料が目の前に備えられている。
信じようとしない、受け取ろうとしない自分がいるだろうか。

--------------------
「神に不可能が一つもない」信じている「つもり」でなく、本当に信じきれない自分がいるなら、まず「信じられません。助けて下さい」と祈ろう。
御霊は頑なな自我が妨げている事も見せて下さる。
溢れるばかりのご愛、恵みに浴したい。


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おはようございます。

2017年04月29日 10時28分01秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年04月29日 10時27分18秒 | キリスト教

聖カタリナ(シエナ)おとめ教会博士

1347年-1380年

 カタリナは、おとなしい父と働き者の母の24人の子どもの末っ子として、イタリアのシエナに生まれた。幼いときから修道生活に憧れていたが両親の反対にあい、18歳のときにドミニコ会の修道院に入ることができた。14世紀は、教会内の分裂、ペストの流行、教皇のローマからアヴィニョンへの退去などで混乱していた。カタリナはペスト患者や貧しい人々、刑務所にいる人々のために献身的に働いた。また、手紙や著書をもって教会と国家のあいだの困難な問題、特に教皇のローマ帰還、ドミニコ会の改革のために貢献した。

 現在、シエナの中心に緑と白の縞模様のカタリナ聖堂が建っている。

  カタリナの祈り
   永遠の神よ、あなたの光のうちに私たちは光を見ます。
   主よ、お願いですからこの光をすべての人々の上に注いでください。
   見えない人たちに、あなたを愛し、あなたを望み、あなたを知るように、
   彼らに目を与えてください。
   あなたに感謝します。
   私に多くの人々を愛するように
   広い心を与えてくださったことを心から感謝いたします。
   彼らをあなたの光で照らしてください。
   主よ、私をあわれんでください。
   そしてあなたの味わい深い祝福を注いでください。アーメン。

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◆何をたよりにするか

2017年04月29日 10時26分12秒 | 聖書

自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(箴言一一28)
年末に売り出されるジャンボ宝くじは、予約をしないと買えないほどの人気だそうです。夢を買うつもりなら、一枚ぐらい買ってみてもいいかもしれませんが、「富に拠り頼む」のは絶対にだめです。
何年か前、二千万円の宝くじに当たった人の悲劇物語が新聞に出ていました。ああ、これでおれも人生一息つけると思ったことでしょう。ところが、今まで知らん顔だった親戚や友人まで、砂糖にたかる蟻のようにやってきます。彼は人間不信に陥り、おれのものはおれのものと、その二千万円をかかえこみました。やがて、心の中に巣くうみにくい欲望にしてやられて、悪とけがれに転落し、三年後には、水死体となって川に浮かびあがったのです。
遠いお話と聞かないでください。お金には力があります。正しい心で用いれば、どんなにあってもいいものでしょう。しかし、お金に「拠り頼む人は倒れる」のです。石油をドルに換えても、ドルはさがればおしまいです。お金を金に換えて、大損をした人の話も聞きました。持っていると思っていたのに、一夜明けるともう持っていなかった。――これがお金です。
私たちは裸で生まれ裸でこの世を去ると、聖書は言います(ヨブ一21参照)。生まれてくる前・現在の人生・死後の世界のすべてを支配しているのは神の力であって、お金ではありません。
目に見えない大切な愛・誠実さ・偽りのないやりとり・そこから出る信頼感、こういうものなしに人生は成り立っていきません。そして、これらのものは、何一つとして金では買えないのです。このようなものはみな、自分の誠実さであがなうものです。そして、神の助けなしには誠実に生きることはできません。しかし、神にたより神に助けられて誠実に生きる時、人生は若葉のように生え茂り繁栄するのです。
 
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◆あなたは、わざわいの日の、

2017年04月29日 10時25分33秒 | 聖書
私の身の避け所です。(エレミヤ一七・一七)
クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。なるほど神のみことばには、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。
 
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