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■ 本日の聖書 ■潮田牧師著

2012年04月30日 18時32分42秒 | 聖書

「近寄る人」
マタイによる福音書13章1~17節 によるひとつの黙想

 主イエスは、よく、「たとえ話」をしました。今日は、種を蒔くという話です。
「たとえを用いて彼らに多くのことを語られた」。いきなりですね、そこに書かれ
ているような、たとえを話し出すのです。これを聞いていた人たちは、「それでど
うしたの?」と、口から出てしまうような、そんな話なのです。
 だから主イエスは、話のあとで「耳のある者は聞きなさい」と言っているわけで
すから、これにはもう一つ、別な意味が含まれている、という言葉です。だから聞
きなさい。そこで、突っ込んできたのは、群衆ではありませんでした。10節「弟
子たちは(が)イエスに近寄って」来たのです。
 もう、お分かりのように、聖書が言う「たとえ」とは、一種の「謎」のようなも
ののことなのです。最初に、ポンとそれを置く、そして訊いてくる人を求める、そ
れが、ここで言う「たとえ」なのです。実は、それこそが他の人と、弟子とを分け
るものだったのです。聞いても、聞き放しにしない。その話はどういう意味ですか?
本当ですか? と、これが弟子、キリスト者でありました。
 近寄って訊く/聴くから、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されて
いる」(11節)のです。
 「悟る」と言っても、しかし、難行苦行などの修行を積み重ねて遂に到達する境
地なのではありません。ただ、「イエスに近寄った」だけの人を言います。この
「悟る」と言う言葉を、誤解のないように、「響く」と言う言葉に言い換えてみた
いと思います。心に響く/響かせることです。心に、天の国の秘密が、その奥義が、
「ああ、そうだったのか」と響くのです。主イエスに近寄ったとしても、初めは半
信半疑なのかも知れません。しかし、そこに、その人に天の国の秘密が開かれてい
く。響いていくのです。そして、当然のことですが、「持っている人は更に与えら
れて豊かになる」(12節)。
 教会においでになる人は、おそらく分かって来る人など、一人もいない。しかし、
近寄るのです。近寄る人が、変わっていくのです。近寄った人に対して、主は言わ
れました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されている」「さらに与
えられて豊かになる」。アーメン。

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■ 牧会のはなし 85 ■潮田牧師著

2012年04月30日 18時30分14秒 | 聖書

「教会があるところ」

 今年の「中会女性の集い」は泉教会が会場担当なので、駅の近くのテアトルフォ
ンテ(泉区民文化センター)を会場に借りました。
 私たちは、そこのホールを過去、何度も使っています。伝道教会設立式に際して
は、「マリー・マグダレーン」という一人芝居を上演しました。その後、「塩狩峠」
の朗読劇、続いてラニー・ラッカーのゴスペルコンサートを行いました。ギャラリ
ーでは、「アドイッシュ展」という作品展を、2年、実施しました。テアトルフォ
ンテは、教会として、よく使う施設なのです。また、NPO法人 心を聴く市民ネ
ットワークの活動では、年間を通じて、会議室を勉強会の会場として使います。駅
周辺には、その他、社会福祉協議会の施設や地域ケアプラザ等がありますが、それ
らも頻繁に使っています。
 私たちは、教会としての場所を、泉教会の建物に、固定していないのです。確か
に、何かをする場合にはこの場所は狭すぎるという理由もありますが、それだけで
はありません。私たちは、教会の活動の場所として周辺施設を、自由に使うのです。
今回の女性の集いも、場所がないなら、お金のかからない大きな教会を借りたらい
いだろうという話もあるかと思います。しかし、お金はかかるかもしれませんが、
テアトルフォンテもまた、私たちにしてみれば、普通に、教会の場所なのです。
 教会とは何か、と考えます。地図を見れば泉教会と書いてありますが、それはこ
の建物の地図であって、教会ではありません。教会(エクレーシア)とは、私たち
一人ひとりのことです。そうであれば、私たちが集まる場所もまた、この建物に固
定して考えないのです。テアトルフォンテに集まるなら、そこもまた、教会なので
す。
 そういうわけで、今年の女性の集いはテアトルフォンテで行なう、というように
したわけです。泉教会は狭いから、近いところにある大きな施設を借りた、という
ようには考えていません。そこもまた、泉教会なのです。
 教会は、いったいどこにあるのでしょうか。建物の中だけにあるのではありませ
ん。主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう・・・そのためにわたしは出てきた」
と言われました。自分の町カファルナウム、そこに戻るときには、教会は出来なか
ったのです。主のあとに従う時、どこにでも教会が生まれ、教会が動き出したので
す。私たちは、自分の建物の中、自分の領域に主を引き戻すのではなく、逆に、主
の見るところに進み出ていき、どこにでも教会を現していく者なのです。

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レター・泉教会120430

2012年04月30日 18時25分46秒 | 聖書

 あなたは、車の免許をお持ちでしょうか? では、キリスト教の免許はいかがで
すか? あなたはキリスト教の免許を、お持ちでしょうか。キリスト教の運転 
キリスト教による生活は、あなたが思っているよりはるかに楽しいのです。もしこ
の免許を持っていなければ、さっそくお取りになったらいかがでしょうか。いろい
ろと資格を持っている人がいますが、私は真っ先にキリスト教の免許取りをお勧め
したいのです。
 加賀乙彦という精神科の先生がいますが、この人は作家でもあります。キリスト
教信仰を主題とした小説をずっと書いてきました。だから、当然ですが、聖書も読
んできました。しかし、聖書を繰り返し読みながら、彼は、あるところまでで理解
が止まってしまう感じがあって、戸惑っていたのです。そんなある時、遠藤周作さ
んから冗談で言われた。「君はキリスト教を無免許運転しているね」
 この言葉は、無免許運転であるからどこか遠慮がちで煮えきらず、おそるおそる
しか進めない自分の気持ちを言い当てていたのです。加賀さんは思った。「よし、
それならば免許を取ってやろう」。洗礼を受けよう、ということです。
 洗礼の決心をしてみると、大きな変化を感じたそうです。次のように言っていま
す。「聖書の読み方がすっかり変わってしまった。読んでいて渇く人が水を与え
られたような"喜び"が起こってきたのだ。福音書がこんなに楽しい文書だとは、今
までついぞ知らなかった。おそらくわずかな一歩なのである。このわずかな一歩
は、しかし、無限に大きな一歩でもあった」。
 私は、この電話を聞いているあなたにも、この「わずかな一歩」を踏み出してほ
しいと思っています。必ず、「後の日の無限に大きな一歩」になります。あなたに
も、キリスト教の免許を取ってほしいのです。そのために私は喜んで、できる限り
お手伝いさせていただきます。あなたが私たちの教会をお訪ねくださるのをお待ち
しています。

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レビ記11章1-8節

2012年04月30日 12時25分16秒 | 聖書

11:3 「動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。」
  今までは、聖なる幕屋での働きのことを語ってきました。
この11章の箇所からは、民が日常生活の中で、聖なる神の民として、どのように生きるのかということを語っています。
まず、日常生活に関わる食べ物についてです。
神様はここで、清いものと清くないものとを示されて、その戒めを守ることにより、民が神の前で清く生きることを求めました。
 本日の箇所では、動物のことが言われています。
ひずめが分かれ、反芻するものは食べてよいが、そうではないものは食べてはならないと、告げられました。
  食べれないものとして、らくだや岩たぬき、野ウサギ、豚などが挙げられています。
こうした分類がなぜなされるのかと言いますと、その動物自体が悪いからというのではありません。
神の示された戒めに基づく判断を、汚れの基準として生きることを求められたのです。
それは、神に従うことになるからです。

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◆家族への態度

2012年04月30日 11時38分42秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)

家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。

 

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◆イスラエル人はみな……つぶやき……。

2012年04月30日 11時37分01秒 | 聖書

(民数一四・二)

昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」

 

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■ 本日の聖書 ■潮田牧師著

2012年04月29日 07時37分06秒 | 聖書

「新しい家族の誕生」
マタイによる福音書12章46-50節 によるひとつの黙想

 「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」、それで神の国に応答する人々
が次々と出てきた。そういう人たちがいる中で、起った出来事が今日の出来事でし
た。「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」多くの人が、
新しい歩みに立ち上がっている時。その時に、母や兄弟たちが「話したいことがあ
って外に立っていた」。外に立っていたのです。明らかに、主イエスのもとに集ま
った人々の「外」に立っているのです。「外に立っている」という言葉から、私は、
ある距離を置いている、というように読みます。そこにいる人や、主イエスと距離
を置いて、少し離れたところから、見ているのです。あるいは、離れたところから
主イエスの言葉を聞くのです。観察する、と言っても良いかもしれない。そこに、
彼らが主イエスに対して取っている姿勢、または教えておられることに対しての思
いがよく出ているのではないかと思います。そして、これは決して主イエスの母や
兄弟たちという身内に限られた事柄ではない。「神の国はあなたたちのところに来
ているのだ」。そういうときに、私たちは、外に立っていないだろうか?
 私たちは、確かに内にいて、仲間として、礼拝する共同体として、ここにいます。
しかし、ふと外に立つ。何か、気に入らないと、ふと、外に立つ気持ちになる。気
持ちになるだけでなく、本当に外に立ってしまうのです。気持ちが外に立つと、事
ごとに批判的に見えてくるのではないでしょうか。
 外ではなく内にいる人々とは、主イエスに従う弟子たちです。キリスト者です。
だからと言って、いわゆる身内の者たちは家族ではない、と言われたのではありま
せん。家族が迎えに来たので、家族の話になっただけです。「(家族と言えば、そ
うだ、ここにいるではないか。外に立つのではなく、ここにいることで御心を行う)
人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と。
 外の人は言います。「私たちは分かっている。あなたは危ないところにいるから
出てきなさい」外からコントロールしていこうとする、のです。それは、「御心を
行う」ことにはならない。主イエスは、血の結びつきを越えた、新しい家族を誕生
させました。主イエスが作られる新しい家族というのは、主イエスの差し伸ばされ
た(傷のある)手に招かれ、ただ、内に立つ人の群れです。そこから、再び身内、
肉の家族に戻っていくとき、起ることは何でしょうか。

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■ 牧会のはなし 84 ■潮田牧師著

2012年04月29日 07時34分09秒 | 聖書

「兄弟姉妹」

 教会に始めて来られた方が、週報等に書かれてある信徒の名前の後に「姉」「兄」
という敬称が付けられているのを見て、「教会には家族で来ている人が多いんだな
あ」と本気で思われたそうです。言うまでもなく、それは、キリスト者同士、互い
を呼ぶときの「敬称」です。
 ところで、なぜ教会で兄弟・姉妹という敬称を用いるようになったか、その起源
は、主イエスが言われたからです。すなわち「家族の者」(マタイ10:25)、
「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天の父の御心を行う人が、わたしの兄
弟・・・」(マタイ12:49-50)、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥と
しない・・」(ヘブライ2:11)。
 また、パウロも異邦人キリスト者を指して「あなたがたはもはや、外国人でも寄
留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり・・・」(エフェソ2:19)
と言っているからです。
 こういうところから分かるのは、兄弟・姉妹、また、家族というのは、信仰にお
ける関係性である、ということです。神の御心を行うから、共に迫害を受けるから、
「罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じように」なったイエス(ヘブライ
2:17)を信じるから、だから、信じる者たちのことを兄弟・姉妹、また、家族
と言うのです。主イエスが関係付けてくださったから、私たちは、兄弟・姉妹なの
であって、つまり、ほかの理由や目的があるのではありません。
 普通私たちが家族を考えるのは、血肉関係の範囲にあって、お互いに訪問しあい、
物品の遣り取りや、世話をしあう、そこに兄弟・姉妹を見ています。しかし主イエ
スは、それをする関係として兄弟・姉妹だと言われたのではなかったのです。もち
ろん、そういうことは「教会の働き」として別に考えるべきことは、言うまでもあ
りません。しかし、教会員の構成次第では「してほしい」という要求に応える力を
持ち合わせないこともあります。すると、そこには教会はないのだろうか。そんな
ことはありません。主イエスが兄弟・姉妹、また、家族としての新しい共同体を作
られたとき、血肉関係から来るイメージに縛られていてはなりません。人が満足で
きるため、血肉関係の延長で何かをすべきだと議論し始めたら、私たちはきっと、
焦燥しきってしまうでしょう。
 兄弟・姉妹という言葉は、そういうこととは無関係に主イエスによって使われま
した。罪を償ってくださった主イエスを信じる仲間という意味において。聖書を共
に読み、礼拝に共に集う仲間という意味において。そこで信仰を励ましあい、迫害
さえ共に受ける仲間という意味において。その意味において、兄弟・姉妹、家族な
のです。


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レター・泉教会120429

2012年04月29日 07時32分22秒 | 聖書

 「アンクル・トムの小屋」という、ストウ夫人の名作があります。この小説の主
人公は、黒人奴隷、トムです。あるとき、トムは、綿摘みの過酷なノルマが果たせ
ず、疲れきった女を助けて、代わって綿を摘むのです。しかし、そのことで主人レ
グリーの怒りを買って、冷血漢の主人は、トムに激しい拷問を加えます。レグリー
はトムを鞭で打ちながら、こう言うのです。「俺はお前を買った。お前の体も魂も
俺のものだ」。すると、即座にトムが返した言葉は、こうでした。「違います。私
の魂は旦那のものではありません。旦那は体は買っても、魂は買うことができない。
私の魂は、守ってくださることができるただ一人の方にすでに買われて、支払も済
んでいます」。
 こうして、レグリーは鞭でトムの体を傷つけても、魂までも屈服させることはで
きなかったのです。ここがキリスト教信仰の要、大事なところなのです。トムの中
には「自分はもうイエス・キリストに買われている。自分はその方のものだ」とい
う強い思いがあって、これが現実の拷問、苦しみに打ち勝つ力となり、トムの人間
としての尊厳性を守り抜いた、ということになったのです。キリストに買われてい
るというのは、言い替えると、キリストはこの自分のために十字架に死んでくださ
った。十字架という値を支払って、私を罪の支配から解放してくださった、という
ことなのです。
 人生の荒野・荒波の中で、何が私たちの盾となり、砦となり、私たちを投げやり
の人生とならせず、私たちに人格の尊厳性を守らせるかと言うと、私たちはキリス
トに買われていることだと、あの小説は語っていたのです。私たちはキリストのも
のだから何者も私の魂を奪うことはできないのです。言い方を変えると、キリスト
に無条件に愛されている、ということ。私たちは一人も洩れなく、キリストの代価
によって買い取られ、罪の支配から解放され、今や、神の宝とされているというこ
とです。これが人生の荒野・荒波の中で、私たち人間の尊厳を守るのです。

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レビ記10章16-20節

2012年04月29日 07時25分29秒 | 聖書

10:17 「どうして、あなたがたは聖なる所でその罪のためのいけにえを食べなかったのか。それは最も聖なるものなのだ。それは、会衆の咎を除き、主の前で彼らのために贖いをするために、あなたがたに賜わったのだ。」
  主が、祭司たちに「食べよ」と命じられたものは、聖所でその通りに食することが求められていました。
ところが、ここで1つの問題が起こりました。
罪のための、山羊の生け贄の供え物を与えられたのに、その食べるべき分を祭司たちが食べないで、みんな燃やしてしまったということでした。
 そこで、モーセはアロンの息子のうち、残された二人の息子に怒りを持って語りました。なぜ食べなかったのかと問うたのです。
 そこでアロンは弁明して、先に二人の息子が罪を犯して殺害されてしまったので、自分たちがここでそれを食べることによって、同じような罪を犯した者として、殺されはしないかと恐れたのだ、と告げたのです。
 意図的にしたのではなかったことがわかったので、モーセは了解しました。
彼らは主を恐れ敬っていたのです。

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◆何をたよりにするか

2012年04月29日 07時16分21秒 | 聖書

自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(箴言一一28)

年末に売り出されるジャンボ宝くじは、予約をしないと買えないほどの人気だそうです。夢を買うつもりなら、一枚ぐらい買ってみてもいいかもしれませんが、「富に拠り頼む」のは絶対にだめです。
何年か前、二千万円の宝くじに当たった人の悲劇物語が新聞に出ていました。ああ、これでおれも人生一息つけると思ったことでしょう。ところが、今まで知らん顔だった親戚や友人まで、砂糖にたかる蟻のようにやってきます。彼は人間不信に陥り、おれのものはおれのものと、その二千万円をかかえこみました。やがて、心の中に巣くうみにくい欲望にしてやられて、悪とけがれに転落し、三年後には、水死体となって川に浮かびあがったのです。
遠いお話と聞かないでください。お金には力があります。正しい心で用いれば、どんなにあってもいいものでしょう。しかし、お金に「拠り頼む人は倒れる」のです。石油をドルに換えても、ドルはさがればおしまいです。お金を金に換えて、大損をした人の話も聞きました。持っていると思っていたのに、一夜明けるともう持っていなかった。――これがお金です。
私たちは裸で生まれ裸でこの世を去ると、聖書は言います(ヨブ一21参照)。生まれてくる前・現在の人生・死後の世界のすべてを支配しているのは神の力であって、お金ではありません。
目に見えない大切な愛・誠実さ・偽りのないやりとり・そこから出る信頼感、こういうものなしに人生は成り立っていきません。そして、これらのものは、何一つとして金では買えないのです。このようなものはみな、自分の誠実さであがなうものです。そして、神の助けなしには誠実に生きることはできません。しかし、神にたより神に助けられて誠実に生きる時、人生は若葉のように生え茂り繁栄するのです。

 

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◆あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。

2012年04月29日 07時14分52秒 | 聖書

(エレミヤ一七・一七)

クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。なるほど神のみことばには、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。

 

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新宿区大久保アパート火災が投げかけたもの

2012年04月28日 15時19分04秒 | セーフティーネット

 

稲葉剛

 

(住まいの貧困に取り組むネットワーク世話人、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい代表理事)

 

  

 

■はじめに

 

 二〇一一年一一月六日、東京都新宿区大久保の木造二階建てアパート「ローズハウス林荘」で火災が発生。そこで暮らしていた五名の住民が亡くなり、二名が負傷するという惨事になった。亡くなられた五名の方のうち、四名は七〇歳以上の高齢者であり、歩行が不自由なために逃げ遅れた方もいた。

 

 林荘に居住していた二三名のうち一九名が生活保護の受給者であったことから、当初、「新宿区の生活保護施設で火災」と誤って報道したメディアもあったが、林荘は宿泊施設ではなく、民間の賃貸住宅であった。新宿区福祉事務所は「区が紹介して入居したわけでなく、個々の受給者が個別に賃貸借契約を結んで入居していた」という説明をおこなった。

 

 この火災では、亡くなられた方の親族となかなか連絡がとれなかったことから身元確認が難航し、最終的に一人の方の身元が確定できなかった。親族と確認がとれたものの、引き取りを拒まれた三人も含め、四人の方のご遺骨は「無縁仏」として山梨県上野原市の寺院に預けられている。こうした経緯は、「都会の独居老人の孤立」を象徴するものとして注目され、NHKの「クローズアップ現代」では、二〇一二年一月に「“無縁老人”をどう支えるのか」という番組を放映している。

 

 しかし私は、今回の火災の背景にこうした孤立の問題だけでなく、「住まいの貧困」という問題があることを見逃してはならないと考えている。なぜ高齢の生活保護受給者が老朽化した木造アパートに集住していたのか。その背景にある構造的な問題を問うていきたい。

 

 

 

■「福祉可」物件の実態

 

 私が代表理事を務めるNPO法人自立生活サポートセンター・もやい(以下、〈もやい〉と略す)では、施設・路上・病院など「広い意味でのホームレス状態」にあり、独力でアパート入居時の連帯保証人を見つけられない人に対して、団体が連帯保証人になる事業(入居支援事業)をおこなっている。事業開始以来の一〇年間で連帯保証人を提供した人は一九〇〇世帯を超えている。

 

 実は林荘にも、私たちが連帯保証人や緊急連絡先になっていた人が複数入居していた。そのため、火災発生直後に安否確認をおこない、〈もやい〉が関わっていた方が無事であることをまず確認した。

 

 そのような関わりがあったため、火災発生以前にも〈もやい〉のスタッフが林荘に家庭訪問をおこなったことがある。そのスタッフの報告によると、部屋は四畳半で風呂なし。アパートというより、昔ながらの下宿屋や「ドヤ」(簡易旅館)と言った方がよいような居住環境だったという。家賃は五万円前後であり、家賃水準の高い大久保地域にあっても、居住環境に応じた家賃とは言えないのではないか、ということであった。

 

 東京二三区の生活保護の住宅扶助費(家賃相当分)の上限は五三七〇〇円である。生活保護受給者の多い地域では、もともと四万円や四万五千円で賃貸されていた物件の家賃が生活保護受給者の入居を見込んで上限額に近い水準まで引き上げられてしまう傾向がある。生活保護受給者の入居を断らない、いわゆる「福祉可」物件の多くは、そういうカラクリを持っているのだ。林荘も、そうした「福祉可」物件の一つであった。

 

 

 

■きわめて難しい高齢単身者の部屋探し

 

 〈もやい〉では、生活困窮者が少しでも良い条件で入居できるようにするために、アパートの連帯保証人や緊急連絡先を提供している。だが現状では、残念ながら部屋探しの支援まではできていないため、ご本人が見つけてきた物件にそのまま入居していただいている。だが、特に高齢の単身者の場合、部屋探しは困難を極める。

 

 財団法人日本賃貸住宅管理協会が二〇〇六年におこなった調査では、民間賃貸住宅において入居制限をおこなっている家主の割合は十五・八%であり、そのうち五三・一%が「単身の高齢者は不可」と答えている。だが、これはあくまでアンケート上の数値であり、実際に単身の高齢者を拒絶している物件はもっと多いと考えられる。

 

 家主が単身高齢者を敬遠する第一の理由は孤独死の可能性があるということである。たとえば私は、〈もやい〉で関わった八〇代の高齢者の賃貸借契約に付随する「連帯保証人承諾書」に下記のような文面が記されているのを見て、驚愕したことがある。

 

「契約者(借主)が単身で入居される方の保証人は、契約者(借主)が病気で倒れ、誰も気づかないまま、死亡される事故が多発しておりますので、常に連絡を取り合い、安否を確認してください。死亡されて時間が経過しますと、貸主・近隣に迷惑を及ぼすばかりでなく、部屋全体を原状回復することとなり、莫大な費用負担が掛かりますので充分注意して下さい」

 

 〈もやい〉のように団体で保証人となっている場合は別として、親族や友人などが個人で連帯保証人となる場合、このような文面の承諾書に署名をしろと言われたら、躊躇する人がほとんどであろう。実際に〈もやい〉でも、入居者の死亡時に百万円以上の原状回復費を請求された例もある。

 

 このように、単身の高齢者に対する入居差別はかなり厳しいものがある。そのため、結果的に他の人はあまり見向きもしないような老朽化した木造住宅がこうした人々の「受け皿」になってしまっている現状があるのだ。

 

 

 

■都営住宅の戸数抑制策

 

 では本来、住宅に困窮している人たちが優先して入れるはずの公的住宅はどうなっているのだろうか。

 

 東京都は石原都政になって以来、都営住宅の戸数を増やさないという政策を一貫して進めてきた。二〇〇七年に制定された「東京都住宅マスタープラン」においても、「既に都内の住宅の数が世帯数を1割以上上回っており、さらに、将来的には東京においても人口減少社会の到来が見込まれていることなどを踏まえ、引き続き管理戸数を抑制し、既存ストックの有効活用を図っていきます」と戸数抑制策を正当化している。

 

 特に単身者向けの都営住宅は不足しており、平均の応募倍率が五〇~六〇倍、地域によっては数百倍まで跳ね上がっている。

 

東京都は民間の空き家が多いため、都営住宅を増やす必要はないと主張するが、空き家があるということと、その空き家が高齢者に貸し出されるのかということは別問題である。すでに指摘したように単身・高齢の低所得者に対する深刻な入居差別が存在するからだ。

 

 

 

■さらに困難な生活保護受給者の部屋探し

 

 そして、生活保護受給者の場合、各区の福祉事務所による不当な「入居制限」が部屋探しをさらに困難にしている。

 

 東京二三区の各福祉事務所には、通勤上の都合などの事情がない限り、お互いに自区内の生活保護受給者を他区に移さないという暗黙の了解が存在している。福祉事務所職員の間では、「自区内処理」という言葉が使われることもある。その理由は定かではないが、移管をすると転居先の役所の仕事量が増えるという発想から、お互い遠慮しあっているのではないかと推測される。

 

 そのため、たとえば路上生活状態から新宿区に生活保護を申請した人が施設入所を経てアパートに入居する際、「新宿区内でアパートを見つけてください」と言われることがほとんどである。一つの区の中に複数の福祉事務所が存在する区では、「この福祉事務所の管内で部屋を見つけてください」と言われることもある。憲法が定めている「居住の自由」が実質的に制限されているのだ。

 

 東京二三区の住宅扶助基準は一律五三七〇〇円だが、新宿区などの都心部と郊外との家賃水準にはかなり違いがある。そのため、たとえば「風呂付きで耐震性の高い部屋を借りたい」という人が他区への転出を希望する場合も多いが、その場合の福祉事務所との交渉は困難を極めることが多い。

 

 そのため、生活保護受給者の部屋探しは地域的にも限定を受けてしまうことになる。そのことがさらに部屋探しを困難にしているのだ。

 

 ただ近年、「他区に移りたいのだが、移管してくれない」という受給者からの相談が〈もやい〉や他の相談機関に多数寄せられ、個別に交渉をしてきた結果、以前よりは「自区内処理」の縛りは弱まってきたようである。役所の一方的な都合で、憲法が定める基本的人権を制約するような慣習は、一刻も早く根絶するべきである。

 

 

 

■居住の権利を保障する政策を

 

 以上のように、新宿区大久保のアパート火災の背景にある「住まいの貧困」の問題を検証してきたが、最後に現在の状況を一歩でも二歩でも改善するために住宅行政に対する提言をまとめておきたい。

 

 単身高齢者への入居差別の問題を解消するためには、「借り上げ型の公営住宅を増設する」ことと、「公的な入居保証制度を導入する」ことの二つが不可欠である。この二つの方策は空き家になっている民間賃貸住宅のストックを活用するという意味でも有効であろう。

そして、こうした住宅政策を推進していくためにも、現在、国土交通省が各地方自治体に設置を働きかけている居住支援協議会を設立させていくことが重要であると私は考えている。

 

 居住支援協議会は住宅セーフティネット法に基づく仕組みで、地域ごとに行政機関、不動産関係団体、居住支援団体(NPOや借地借家人組合など)の三者からなるネットワークを構築することで、高齢者などの「住宅確保要配慮者」の入居を促進することを目的としている。

 

 現状では、地域の中で単身高齢者への入居差別問題を取り上げようにも、そうした問題を議論する場自体が存在しない、という状況になっている。居住支援協議会は、改善に向けた議論の土俵としての役割を期待されている。

 

 老朽化した木造住宅は火災だけではなく、地震などの天災でも大きな被害が生じる危険性がある。悲劇を繰り返させないためにも、そのおおもとにある「住宅政策の貧困」を解消する道を探っていきたい。(了)

 

 

 

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詳しくは下記ブログをご覧ください。

 

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ボラステ・ステーションカレッジ Vol.49

2012年04月28日 14時51分35秒 | 予定・告知

「居場所と貧困」

~貧困はまわりまって自分のところにやってくる~
 
 
<お話>冨樫匡孝さん(NPO法人自立生活センター・もやいスタッフ)
 
[貧困]というと、どこか日本以外の国や、日本であっても自分とは違う、と思ってしまいがちです。
冨樫さんは「街でたむろしている若者もホームレスのおじさんたちも構造的には同じ」と言います。
「貧困状態にある人」とはどのような人たちの事を言うのでしょうか。
「彼ら」の居場所がない社会に、「私たち」の居場所はあるのでしょうか?
 
ホームレスの経験があり、現在はNPO法人自立生活支援センター・もやいの
スタッフとして、生活支援や相談業務に携わる冨樫匡孝さんをお迎えして
「居場所」をキーワードに日本の貧困についてお話していただきます。
 
 
日 時:5月17日(木)19:00~21:00(受付18:30)
 
会 場:武蔵野プレイス 3F スペースD
(武蔵境駅南口徒歩1分 武蔵野市境南町2-3-18 Tel  0422-30-1903)
 
参加費:500円+お茶菓子代300円  定員:20名
 
申込・問合せ ボランティアステーション
TEL&FAX 0422-28-7728  メール:vs@vstation.gr.jp
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ホームレスの平均年齢59.3歳 進む高齢化・長期化

2012年04月28日 14時43分15秒 | セーフティーネット
 

 ホームレスの平均年齢は今年1月時点で59.3歳となり、2007年の前回調査より1.8歳高くなった。厚生労働省が27日、調査結果を公表した。路上生活の期間が5年以上の人は5割近くにのぼり、長期化の傾向もみられた。

 調査は03年に始まり、今回が3回目。東京都区部や政令指定市などホームレスが比較的多い自治体で、公園や河川などに住む約1300人に面接して行われた。平均年齢は03年が55.9歳、07年が57.5歳と上昇を続けている。

 年齢別では、60~64歳が25.7%で最も多く、70歳以上も12.9%いた。60歳以上が55.2%と過半数を占め、前回調査の42.2%より増えた。路上生活が「5年以上」と答えた人は46.2%(前回調査41.4%)。特に「10年以上」は26.0%(同15.6%)で路上生活から長期間抜け出せない人の増加が目立つ。

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