座間コミニティー

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申命記28章7-14節

2013年04月30日 08時13分55秒 | 聖書

28:14 「あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」


主は主の言葉に聞き、その教えに従う人々に対して、豊かな祝福を約束されました。

敵の前で敗北することがなく、穀物が豊かに与えられ、聖なる民として立たせてくださる事などを告げています。

 ここでは同時に、こうした恵みを受けるために、大切なことを語っています。

それは、あなたに語りかけてくださった主と、主の言葉のみに従いなさいということです。

 この世にはたくさんの神々が祭られていたり、また、人の歩むべき道ということで色々な教えがなされています。

そうした時に、誰に聞き、またどの教えを聞くのかということが、重大な問題となってきます。

 今、この天地を造られた神様は、ご自分の御心を、聖書を通して語っておられます。

ですから、大事な事は、その主が語られたことを、文字として記され文章として表されている聖書を通して、神の御心を聞き、また知るということです。

それが、心を左右にそらされない道なのです。

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◆家族への態度

2013年04月30日 08時00分03秒 | 聖書

自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(箴言一一29)

家庭がうまくいかないということは、私たちのまわりを見まわすと、それこそどこにもあるようです。
家庭の中心となるべきものは愛です。愛によって、家庭はやすらぎの場となります。ここでやすらぎを得てこそ、外で活躍する力が私たちに与えられましょう。家庭が平和でないと、外での対人関係もスムースにいきません。家の中がいびつなら、外に出てもいびつです。
「自分の家族を煩わせる者」=家族にひずみを与える者です。家庭にひずみを与える子がいると、その家庭はどんなに苦しく、また暗いことでしょう。また、父親が家庭を顧みず、家庭に仕える愛の責任を果たさない時、どんなにその家庭は、冷たく寂しくうつろなことでしょう。家族の一人一人の心に与える傷は深く、家庭をだめにしてしまうのです。
「風を相続する」=人生をうつろにしてしまうことです。心の一番奥底に、後ろめたさ・寂しさがつきまといます。その結果、対人関係も自信がなくなり、うまくいかなくなります。他人なら逃げ出すことができても、家族は互いに逃げ出せません。苦しめたり苦しんだりするのです。そして、もし逃げ出せばおしまいです。そんな情況の原因となる人は、それ以外のことでもうまくいかないでしょう。
人の実力とは、単なる能力だけではありません。頭が切れること・仕事ができること・人が使えること・先が読めること・計画がよく立てられることでもありません。まわりの人を愛し受け入れていけることではないでしょうか。
現代ほど愛の歌をうたう時代はありません。しかし、愛はどこにあるのでしょう。「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ四10)と聖書は言います。神に、キリストに、その十字架に、現代の奇蹟があります。

 

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◆イスラエル人はみな……つぶやき……。

2013年04月30日 07時57分59秒 | 聖書

(民数一四・二)

昔イスラエルの宿営に不平があったように、今もクリスチャンの中に不平がある。彼らはむちが加えられると患難の時をのろう。彼らは尋ねる。「なぜこんなに苦しむのだろう。私がどんな悪事をしたというので、このように罰せられるのだろう」と。つぶやく者よ。なぜ天の父のご配慮をうらむのか。主があなたを苛酷に扱いすぎることがあり得るのか。あなたはかつていかに神に反抗したことか。しかし神はあなたを赦された。もし神がその知恵によりあなたを懲らしめるのをよしとされたなら、あなたは不平を言うべきではない。
あなたは自分の罪に相当する厳罰を受けているか。あなたの心中の腐敗を考えてみよ。そうすれば、腐敗が除かれるために、そのように多くのむちが加えられなければならないことに驚くであろうか。あなた自身を量りにかけて、自分の金の中にいかに多量の不純物が含まれているかを確かめよ。それなら、多くの不純物をきよめるため、火が熱すぎると思うであろうか。あなたの高慢な反抗的精神は、あなたの心が全くきよめられていないことを証明しているではないか。その不平のことばは、神の子たちの聖い従順な性質に反するものではないか。それの矯正が必要ないであろうか。しかし、もしあなたが懲らしめに対して不平をもつならば、つぶやく者にはいっそう激しい罰が下ることに注意せよ。神は最初のむちを素直に受けない子どもに、いつでも再び懲らしめを加えられる。しかし次の一事を知れ。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」
主の矯正はすべて愛から出ており、あなたをきよめ、ご自身に引きよせようとされるためである。もしその懲らしめが父から来ることを認めるならば、たしかに素直に受けるべきである。「『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」「彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」

 

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申命記28章1-6節

2013年04月29日 08時18分34秒 | 聖書

28:1 「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。」


今までは、神様から受ける呪いのことが語られてきました。

呪いについてはまた、15節からも告げられています。

しかしここでは、神の祝福が語られています。

特に6節までには、その祝福を受ける人々は、どのような人であるのかと言うことを語っています。

まずその人は、主のみ声によく聞く人だと言っています。

つまり、礼拝に出るということのみだけではなくて、礼拝に出たならば、そこで語られる主の御言葉に、よく耳を傾けるということです。

次のことは、聞いた言葉を守り行いなさいと言っています。

守り行うためには、その聞いた言葉を、しっかり心に留めておくことが必要です。

心に留めておくと、問題が起こった時に、自分がどちらに従うべきかということが、意識されてくるからです。

こうした、主の言葉にまず耳を傾け、それを心に留め、従う人が、神様から祝福を受けるのです。


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◆何をたよりにするか

2013年04月29日 08時11分47秒 | 聖書

自分の富に拠り頼む者は倒れる。
しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(箴言一一28)

年末に売り出されるジャンボ宝くじは、予約をしないと買えないほどの人気だそうです。夢を買うつもりなら、一枚ぐらい買ってみてもいいかもしれませんが、「富に拠り頼む」のは絶対にだめです。
何年か前、二千万円の宝くじに当たった人の悲劇物語が新聞に出ていました。ああ、これでおれも人生一息つけると思ったことでしょう。ところが、今まで知らん顔だった親戚や友人まで、砂糖にたかる蟻のようにやってきます。彼は人間不信に陥り、おれのものはおれのものと、その二千万円をかかえこみました。やがて、心の中に巣くうみにくい欲望にしてやられて、悪とけがれに転落し、三年後には、水死体となって川に浮かびあがったのです。
遠いお話と聞かないでください。お金には力があります。正しい心で用いれば、どんなにあってもいいものでしょう。しかし、お金に「拠り頼む人は倒れる」のです。石油をドルに換えても、ドルはさがればおしまいです。お金を金に換えて、大損をした人の話も聞きました。持っていると思っていたのに、一夜明けるともう持っていなかった。――これがお金です。
私たちは裸で生まれ裸でこの世を去ると、聖書は言います(ヨブ一21参照)。生まれてくる前・現在の人生・死後の世界のすべてを支配しているのは神の力であって、お金ではありません。
目に見えない大切な愛・誠実さ・偽りのないやりとり・そこから出る信頼感、こういうものなしに人生は成り立っていきません。そして、これらのものは、何一つとして金では買えないのです。このようなものはみな、自分の誠実さであがなうものです。そして、神の助けなしには誠実に生きることはできません。しかし、神にたより神に助けられて誠実に生きる時、人生は若葉のように生え茂り繁栄するのです。

 

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◆あなたは、わざわいの日の、

2013年04月29日 08時10分17秒 | 聖書

私の身の避け所です。(エレミヤ一七・一七)

クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。なるほど神のみことばには、「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。

 

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申命記27章26節

2013年04月28日 12時42分43秒 | 聖書

27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。


今まで、偶像、土地、両親、弱い人への配慮、不品行、殺人の問題などを語ってきました。

そして、これらに関する主の御心を無視して勝手な行動を取る者を、主は呪いの内におかれると告げてきました。

つまり、そのようなことをしてはならないと命じられているのです。

 今の私たちの世界では、神の戒めに背くということには、あまり関心がありまません。

むしろ、この世の法とか理性を基準にして、物事を判断し、善悪を思うのです。

つまり、神様の御心との関係で事の善悪を考えたり、物事を判断をするということは、あまりなされないのです。

 しかし、神様はこの世界を支配しておられるお方です。

ですから、主にある人々にとって、この世の法以上に、神様が与えてくださったお言葉を通して、その御心を知り、そこに自分の判断の基盤を置くことが、霊的な歩みにとってより大切なことなのです。


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申命記27章26節

2013年04月28日 12時42分43秒 | 聖書

27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。


今まで、偶像、土地、両親、弱い人への配慮、不品行、殺人の問題などを語ってきました。

そして、これらに関する主の御心を無視して勝手な行動を取る者を、主は呪いの内におかれると告げてきました。

つまり、そのようなことをしてはならないと命じられているのです。

 今の私たちの世界では、神の戒めに背くということには、あまり関心がありまません。

むしろ、この世の法とか理性を基準にして、物事を判断し、善悪を思うのです。

つまり、神様の御心との関係で事の善悪を考えたり、物事を判断をするということは、あまりなされないのです。

 しかし、神様はこの世界を支配しておられるお方です。

ですから、主にある人々にとって、この世の法以上に、神様が与えてくださったお言葉を通して、その御心を知り、そこに自分の判断の基盤を置くことが、霊的な歩みにとってより大切なことなのです。


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◆他人をうるおす人生

2013年04月28日 12時37分20秒 | 聖書

おおらかな人は肥え、
人を潤す者は自分も潤される。   (箴言一一25)

現代人が見失っているものは、この「おおらかさ」ではないでしょうか。来客があっても、十分な時間をとって話を聞いてあげられません。また、ゆっくりと人を訪ねるゆとりもない状態です。みな時計のまわりにはめこまれたようにスケジュール第一で、仕事や時間にがんじがらめになっています。私自身、耳が痛いのですが、私たちはおおらかさを失ってしまったのではないでしょうか。
昔の人は、たゆたわず、たゆみなく流れる川を見て感嘆しました。川は、こだわりなく流れて、他をうるおします。昼夜を分かたないおおらかさです。
私たちの人生は、いつもうるおしてやまない川のようでありたいものです。おおらかで、よく働き、文句を言わず、こせこせせず、他人から信頼され、他人をうるおして恩に着せず、自らも豊かに生活しています。人々のまさつも解消し、あの人と話していると心がなごむというようなおおらかさ、それはどこから来るのでしょう。その人生は、すべての豊かな祝福の源である神につながっているのではないでしょうか。ダビデは神に向かって、「いのちの泉はあなたにある」(詩篇三六9)と言いました。
また、神につながるばかりではなく、この自分というものを終点にしません。自分のところで、せきやダムをつくって神の祝福をストップさせない生き方ではないでしょうか。
イエス・キリストは言われました。「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(七38)。

 

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◆どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。

2013年04月28日 12時35分42秒 | 聖書

あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。(詩篇一一九・四九)

あなたがどのような特別な要求をもとうと、それにふさわしい約束は容易に聖書の中から見いだせる。道が険しいために気力を失い、弱さを覚えているか。ここにあなたへの御約束がある。「疲れた者には力を与え……。」それを携えて、約束を告げた偉大な方のもとへ行き、御約束の実行を求めよ。
キリストを求め、さらに密接な交わりを渇き求めるか。あなたの上に星のように次の御約束が輝いている。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」この御約束を幾度でも御座に携えて行け。根気よく神のみもとに行き、「あなたのしもべへのみことばを思い出してください」と告げよ。
罪のため、不法の重荷のために苦しむか。それなら、次のみことばに耳を傾けよ。「わたし、このわたしは……あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」あなたには罪の赦しを求めるだけの功績は何もないが、書き記された神の御約束に基づいて嘆願せよ。そうすれば神は実行されるだろう。
あなたは初め自分を神の子と思っていたのに、いつか捨てられてしまうのではないかと恐れるか。それなら、次の恵みのみことばをもち、御座に行け。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」
救い主の臨在の実感を失い、悲しみの心を抱いて主を探しているなら、次の御約束を思い出せ。「わたしに帰れ。……そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。」
神のみことばであなたの信仰を満たせ。あなたの恐怖と欠乏がどれほど大きくても、あなたの父なる神の約束手形を携えて信仰の銀行へ行き、こう言え。「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。」

 

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申命記27章25節

2013年04月27日 12時22分15秒 | 聖書

27:25 「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。


 殺人という行為の中には、色々な原因があります。

ここでは、殺人が自分の思いから出たことはなくて、人から頼まれてなされた行為の場合のことを語っています。

ここでは、それが賄賂と言われる、お金をもらっての殺人である場合です。

こうした行為は、本人には直接の深い殺害行為の原因はありません。

お金のためになされた行為であるからです。

しかし、そのなされた行為は殺人という行為です。

ですから、それは呪われると語っているのです。

つまり、この場合も死刑になると言われます。

 今まで殺人のことが何回か語られていますが、それが呪いに値すると語られている理由は、人は神様によって、神の似姿に作られた者である事に、根本的な理由があります。

その命はどのような人にあっても、神の御前では尊い者として扱ってくださっているのです。

ですから、神様が大事にしてくださっている人の命を、人が勝手に奪っては決してならないのです。


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◆豊かになる方法

2013年04月27日 12時07分16秒 | 聖書

ばらまいても、なお富む人があり、
正当な支払いを惜しんでも、
かえって乏しくなる者がある。    (箴言一一24)

私の尊敬している友人三浦綾子さんは、ある小説の最後に、「人間の価値を決めるものは、その人が地上でどんなに集めたかでなく、どれだけ散らしたか、ばらまいたかである」というようなことを書いておられます。それが私の心にこびりついています。
私たちはだれでも、豊かな人生を望んでいます。「お金も豊か、友達も大勢。いつもにぎやかに人が寄ってくるような、知識も力も豊かな人生」と。ところが、その豊かさの秘密は、受ける側になることではなく、与える側にまわることなのです。
札幌の町の真ん中を流れる川にサケがのぼってきたという話を聞きました。それは四年前に、五センチほどに育ったサケの子を惜しげもなく放流しておいたからでした。ところで、私がつりに行った時のことですが、四、五十匹の小ブナをつってきたことがありました。放してやるのが惜しくてなりません。小さな水槽に入れ、何とかして生かして人に見せてやりたいと努力しました。けれども、二、三日のうちに、酸欠でみな死んでしまいました。
私たちの神は、祝福しようとして待ち構えていらっしゃる神なのです。受けた祝福を惜しげもなく人に流していくと、より多くの新しい祝福を次々に送ってくださいます。自分のためにだけ祝福をためこむ人には、神は新しい恵みを注ぎこめません。今まで持っていたものまでくさって、どんどん貧しくなるのです。
使徒パウロは、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ八32)と言いました。また、イエス・キリストご自身「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒二〇35)と言われたのです。

 

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◆神、私たちの神が、

2013年04月27日 12時04分59秒 | 聖書

私たちを祝福してくださいますように。(詩篇六七・六)

私たちが神の与えてくださる霊的祝福をほとんど活用していないのには、驚くほかはない。しかしさらに不思議なことは、私たちがほとんど神ご自身を活用していないことである。神は「私たちの神」なのに、私たちは神に注意を向けることが少なく、求めることも非常にわずかである。困難に会う時、重荷を主の肩に投げかけて支えていただこうとはせず、常に自分で重荷を担おうとする。私たちは故意に主の助けを仰がない。なぜなら主のほうでは「たましいよ。わたしはおまえのものだ。来て望むままに用いなさい。おまえは自由にわたしの倉庫に来ていいのだ。その回数の多いほど歓迎する」と言われるからである。神の富を自由に用いていないことは、私たちの過失なのである。
あなたはすばらしい友をもち、主はあなたを招かれる。だから、日々必要とするものを主から引き出せ。助けを得るために行くべき神がおられる限り、あなたは決して欠乏を感じないし、あなたを支えられる神がおられる限り、決して恐れや失望に陥ることはない。あなたの宝庫へ行き、必要なものを持ち出せ。神をあなたのすべてとすることを学べ。神はあなたにすべてのものを与えてくださる。さらに適切な表現をすれば、神はあなたのためにすべてのものの代わりになられる。そのゆえに、あなたの神を利用するようにお勧めする。祈りにおいて利用せよ。しばしばみもとに行け。主はあなたの神であられる。
神のみもとに急いで行き、必要の一切を訴えよ。暗黒の運命があなたを閉じ込めたなら、あなたの神を「太陽」として用いるようにせよ。敵があなたを襲うなら、主をあなたの「盾」とせよ。主はその民にとって太陽であり、盾である。あなたが人生の迷路で行く道を見失ったら、主を「道案内」とせよ。主はあなたの導き手である。あなたが何者であろうと、またどこにいようと、神は、あなたが求めるそのものであり、あなたが求めるその場所におられ、あなたの願う一切をなすことのできるお方であることを記憶せよ。

 

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申命記27章24節

2013年04月26日 09時50分29秒 | 聖書

27:24 「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。


殺人は多くの時、怒りやねたみの結果として起こることが多くあります。

また、人の前で起きるようなことではなく、密かになされる殺人というのもあります。

これは、殺人によって受ける刑罰を逃れたいという思いからなされる行為です。

 ところが、密かになされたのであれば人には分からないであろうと思うかもしれませんが、時間や事情の変化によって、事が明らかになってくることがしばしばあります。

こうした殺人の行為に対して、それは神の呪いを受けると告げているのです。

つまり、この場合にも、死刑という判決が下されることを見るのです。

ところで、人が犯した殺人の行為は、いつでもすぐに発覚するわけではありません。

幾年の時を経過することもあります。

現代ではそうした時、時効と言われて、事件が処理されます。

しかしここでは、時効は問われないのです。

神のかたちに似せて作られた人を殺害することは、言語道断であるからです。

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申命記27章23節

2013年04月26日 09時48分53秒 | 聖書

27:23 「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。


性的な問題が続いています。

こうした問題が、現実の世界の中で多く起こることがあったので、警告を逐次与えているのです。

 結婚は、現代は多くの時、本人の意向によってするということが多くあります。

しかし昔は、結婚は親の承認が必要であったり、また結婚が決まっても、相手に贈与すべき財産を持たないことによって、結婚がなかなか出来ない時がありました。

そうした時、性の相手として、母親を相手にするということがあり得たのです。

特に母親が、自分の産みの親ではないということであった時には、多く起こりうることでした。

こうした行為に対して、ここでそれを厳しく禁じているのです。

性的なことは、神様が与えられた秩序として、正しく用いることを命じておられます。

またその行為は、結婚というあり方の中で行われることを求めています。

ですから、不品行に人が陥ることがないように、本人も周りの人も、結婚のための労を執ることが必要となるのです。

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