座間コミニティー

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◆私たちはあなたによって楽しみ喜び……。

2017年01月01日 15時56分42秒 | 聖書
(雅歌一・四)
私たちは、神によって楽しみ喜ぼう。琴の悲しい音によって新しい年の門を開くのではない。喜びのたてごとの美しい調べと喜びのシンバルの高い音に合わせて押し開くのだ。「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」召され、信じ、また選ばれた私たちは、内にある悲しみを追い出し、主の名によって信仰の旗を打ち立てよう。ほかの人々は患難を嘆くであろう。しかし、苦いマラの水を甘くする木をもつ私たちは、喜んで主をあがめよう。永遠の御霊、私たちの慰め主よ。あなたが住んでくださる宮である私たちは、イエスの御名をあがめ、ほめたたえることを決してやめません。
一大決心をして、私たちは心の喜びの冠をイエスにささげよう。主の御前にありながら悲しんで、私たちの花婿を辱しめるようなことはしないようにしよう。私たちは、天の歌い手となるように定められている。新しいエルサレムの大広間で歌う前に、永遠の賛歌の練習をしておこう。私たちは、主によって楽しみ喜ぼう。この楽しみ喜ぶという二つのことばは共通の意味をもち、二重の喜びを示している。今も主によって喜ぶことを、なんでためらうことがあろう。恵みにあずかった人々は、主をヘンナ樹のようにも、ナルドの香油のようにも見ている。まして、天上にはどれほどすばらしい香りがあることだろう。私たちは、神によって楽しみ喜ぼう。最も重要なことは、この「神によって」ということである。イエスの中には、どんなにすばらしい天が隠されていることだろう。無限の祝福の川がここに源を発し、その一滴一滴がここからしたたり落ちている。
おお、尊い主イエス様。あなたはその民に与えられた喜びの源であられます。どうかこの年、私たちにあなたの尊さを知らせ、この年の一日より終わりの日まで、楽しみ喜ぶことを得させてください。正月を、主にある楽しみによって始め、師走を、イエスにある喜びによって閉じさせてください。
 

「天の下では、何事にも定まった時期があり、

2017年01月01日 15時55分53秒 | 聖書

すべての営みには時がある」(伝道者3:1)

信仰生活で、段々わかって来る事の一つが、すべてにおいて「時」があるという事だ。
様々な出来事の中で、経験して行く。

「神の時」がある。すぐ決断すれば、手に入れられたのに、ぐずぐずしたために機会を失ってしまったり、又、もうしばらく待てば、すべてにおいて栄光が現われる「時」が満ちるのに、待てないで自分で動いて、失敗してしまったり。

厳粛な「神の時」というものがあることを、経験の中で知る。

とある教会の会堂建設は土地もかなりの値段であったが、神の「今」と言う御声を聞き、信仰と祈りによって前進した。
見事に会堂が建ち上がった。
すべての面において完璧に「神の時」であった。
その前でも、後でも建たなかったろう。

ある人が話した。「うちの教会では、時期的に土地の値段が急落し、まさに買い得で、今だ!チャンス!これを逃したら、こんな好機は二度と無いと思えた。
見える所では、早く、早くと心急く。

しかし、牧師は『時』では無いと頑として動かない。
価格ではなく、牧師が見据えていたのは、教会の一致であった。
一致のために、まだ祈りが必要、時が必要と。
やがて時満ちて、土地購入に至った。
土地の高騰で、大変な額であったが、献金の方が満たされ、素晴らしい神の栄光を見た。
牧師に脱帽でした」神の栄光が現わされる、神の「時」がある。

良い企てであっても、神の時ではなく、機が熟さなければ成功しない。
良い企画だが、何かがギクシャクし、うまく行かず、時期尚早、「時」ではなかったと学ばされた事がないだろうか。

すべての事に、「時」がある事をしっかり覚えるなら、焦る事なく失望する事なく、神を待ち望める。
又、「神の時」を祈る時、強烈な「自分の時」がある事に気づく。
「自分の思い通りの時」「自分の願う時」があり、強い自我に気づかされる。
明け渡して行こう。
あなたの、その祈りも最も美しい時に叶えられる。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」時を待とう。

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最も完璧で、美しい「時」がある。
それ以前でも、以後でもない。まさに神の時だ。
神の時でなければ、何一つ動かない。
全く動かない。どんなに焦っても、急いてもどうにもならない。
神の時には、目の前で自然に門が開いて行く。神を待ち望もう。


今日の聖人の記念日

2017年01月01日 08時24分19秒 | キリスト教

神の母聖マリア

 

 聖母マリアは、神からのお告げによってイエス・キリストを懐胎した。

 5世紀に、コンスタンチノープルの司教ネストリウスが「キリストは、神性と人性という二つの異なる本質を持っている。そして聖マリアは人間キリストの母<クリストトコス>であるが、神の母<テオトコス>であるとはいえない」と唱え、教会を混乱させた。その解決のために、431年、エフェソ(現在のトルコ)公会議が開かれ、「キリストは、真の神、真の人間であり、両性は一致している」ことを再確認した。また「聖母マリアは、キリストの人性と神性における母であるので、神の母<テオトコス>と呼ばれる」ということを決定した。

 この日はクリスマス(12月25日)から数えて8日目であり、昔からみどり子イエスと聖母マリアの関係を祝う習慣があった。

 「神の母」という祭日は、エフェソ公会議から1500年祭にあたる1931年に、教皇ピオ11世によって制定された。


◆恐れることを知る生活

2017年01月01日 08時23分05秒 | 聖書

主を恐れることは知識の初めである。(箴言一7前)
「恐れることを知る生活」は尊いと思います。
友人に言わせると、「事故を起こしたことのない人の運転はこわい。一度事故を起こした人はかえって慎重だ」とのことです。やはり、事故は起こさないにこしたことはありません。しかし、考えさせることばです。
人生には、恐ろしいことがあります。それに気がつかないことは、また恐ろしいことです。恐ろしさに気がつかないのは、どんな場合でしょうか。
・ 欲望と衝動と自分のことだけで明け暮れしている時。
三年ほど前に横浜で、シンナーを吸った高校三年生(男・十八歳)が、車の助手席に女友達(高三)を乗せてジグザグ運転をしました。そして歩道に乗りあげて、七人をなぎ倒し、二人は重体・四人は重傷・一人は軽傷という結果を引き起こしました。
・ 若くて人生を知らない時。
経験がないので恐ろしさが分かりません。
私たちがまずほんとうに恐るべきものは神です。神は、全世界を造り支配している力ある方、しかも、私たちを愛しておられる方です。このきよい神を敵にまわしたら、それこそ大変です。勝ち目はありません。しかし、この方を知り、この方の愛を受け、この方に従って生きるなら、すばらしい人生を送ることができます。神がいらっしゃることに気がつかないでいるなら危険です。しかし、神を恐れることを知る生活は幸いです。
一月一日、新年の祝福を祈ります。しかし、「神を恐れる」ことをも、肝に銘じていきたいものです。
 

◆彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

2017年01月01日 08時22分14秒 | 聖書
(ヨシュア五・一二)
イスラエルの民の、荒野をさまよい歩く旅もようやく終わり、約束の安息をついに得ることができた。もう天幕を移動する必要もなく、燃える蛇も残忍なアマレク人も、また野獣のほえる荒野もない。彼らは乳と蜜の流れる約束の地で、そこにできた穀物を食べた。
この年、私たちの上にもこのようなことが起きるかもしれない。私たちの前途は希望にあふれている。もし私たちの信仰に生き生きとした活力があるなら、私たちは清らかな楽しみを味わうことができるだろう。神の民に残された安息をイエスとともに楽しむことこそ、最高の喜びであり、しかもこの栄光が私たちの目前に迫っていることは、二重の祝福である。良い地と私たちとの間に横たわるヨルダンの流れを見て、不信仰は恐れおののく。しかし、私たちはすでに、死よりももっと恐ろしい暗黒の中を通ってきたことを思い、安息をもとう。すべての恐れを捨て去って、この年こそ「いつまでも主とともにいる」望みのうちにスタートできる幸いを、大いに喜ぼうではないか。
私たちのうちのある者は、今年もこの地上にとどまって、主への奉仕をするであろう。私たちにそれが許されるなら、この聖句はさらに適切なものではないか。「信じた私たちは安息にはいるのです。」聖霊は、私たちの受け継ぐことの保証であられ、私たちを天の栄光にあずからせてくださる方である。天にいる友が安らかであるように、私たちもキリスト・イエスに守られている。天にいる友が敵に対し勝利を得ているように、私たちにも勝利が約束されている。天にいる霊は主との交わりを楽しんでいるが、その特権は私たちにも拒まれてはいない。彼らは主の愛の中にいるが、私たちも主にあって平安である。彼らは主をたたえているが、私たちにもまた、主を賛美する特権がある。
私たちはこの年、地上にいて天の果実を集めるのである。昔、人間も御使いのパンを食べたが、今なぜそれができないのだろうか。ああ、イエスに養われる恵みよ。私たちは、この年こそカナンの産物を食べよう。
 

詩篇1篇4-6節

2017年01月01日 08時20分45秒 | 聖書


1:4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
1:6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。



 悪者と正しい者の違いが語られています。

悪者というのは、神さまの御心に従って生きようとしない人のことです。

正しい人というのは、神さまの御心に従って生きようとする人のことです。

でも人の内には、神さまの前で、完全な正しい人というのはおりません。

従って、この正しい人というのは、信仰を持って、イエスさまによる救いを信じて、そこに立って歩む人のことです。

その信仰の結果として、導き出される違いは、悪人は、神さまの裁きの時には耐えることができないで、滅ぼされてしまうことを語っています。

ですから、その存在は現時点でも軽く、風に吹き飛ばされる籾殻のようだというのです。

しかし、主にあって生きる正しい人は、主によって知られ、その道が覚えられるというのです。

生きがいのある、人生なのです。




黙示録22:10-12

2017年01月01日 08時18分20秒 | 聖書


★また、彼は私に言った。「この書の預言の言葉を封じてはいけない。
時が近づいているからである。不正を行うものはますます不正を行い、汚れたものはますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、生徒はいよいよ聖なるものとされなさい。「見よ。私はすぐに来る。私はそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である、初めであり、終わりである。」

■O.今日のコラム
とうとう読み進めてきた聖書朗読箇所の最後、22章を迎えました。この一年の終わりであり、聖書の最後を読むこの日、私たちは何を覚えたらよいのでしょうか。
今日の箇所には、いよいよ終わりの時代に、ますます聖なるものとされていくと書いてあります。ますますです。聖さから聖さへと変えられていくことを神様は願われているのです。「神のみこころはあなたがたが聖くなることです。」(Iテサ4:1)

そして、その正しいもの、聖なるものとされるために、14節:自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権威が与えられ、門を通って都に入れるようになるものは幸いであると書かれています。そうです、シンプルなことなのです。新しい啓示でもなく、なにか華やかな人の心ひきつけるような教えでもなく、日々十字架の血潮を受け取り、いのちの木なるイェス様からなるみことばを味わい続けることです。私たちは神様に向かって走っていくために、シンプルなことにフォーカスしましょう。

私たちは神様、みこころを教えてください!と求めています。しかし、神様のこころは、はっきりと聖書に書かれているのです。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩編119:9)今一度この神様からのチャレンジを自分のものとして受け取り、深みにまで入っていく必要があると思います。その者こそ、都に入っていける幸いな者なのです。

シンプルなことをやり続けることは、同じような景色をみているように思えたり、進歩がないように感じるかもしれません。しかし、実は私たちはくるくるくるくる螺旋階段を上がっているのではないでしょうか。進んでいるからこそ、やり続けるからこそ、何度も何度もみことばを受け取り、違う視点からの悟りが与えられ、深みに入っていくのです。神様の目からみたら確実に一段一段進んでいると信じます。

私たちの前にはいつも、選択する、決断する道が与えられています。汚れを行うのか正しいことを行うのか。そのみことばを行う動機はなんですか。なぜ聖なるものとされたいのですか。ただ一つ、イェス様を愛するから、一つとなりたいからです。血潮が流された源はイェス様であり、みことばなる方はイェス様ご自身です。この方ご自身がアルファでオメガです。このお方という報い、ゴールがあるのです。
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:22)「キリストイェスにあっては、・・・愛によって働く信仰が大切なのです」(ガラ5:4)私たちを揺り動かす源は絶えず花婿を愛する真実なこころだけです。「正しい者は七たび倒れてもまた起き上がるからだ。」(箴24:16)
この最高の愛のゴールがあるから、転んでも何度でも立ち上がり、何度でも何度でも前に向かって走り続けることのできるのではないでしょうか。そして、このような姿こそが、17節:御霊も花嫁も言う。来てください。と、こころから花婿を待ち望む花嫁の姿なのです。

約束の御国という賛美が大好きです。♪揺り動かされることない 天にあこがれを抱き 約束のものはるかに みつめて希望うたう 昨日も今日もいつまでも 変わらない真実な方 主イェスから目を離さず この道を走り続ける

共に最高のゴールに向かって、今日も、明日から来る新しい一年も、神様との愛の関係の中で、走り続けましょう。

そして、聖書の締めくくりは、21節:恵みです。注がれている十分な恵みに心から感謝し、すべてが主の恵み以外のなにものでもないことを絶えず覚えます!

■A..考えてみよう
愛の深みに導かれる人だけが、その愛に応える、聖なる者とされることを選択するものとなっていくのです。
「こうしてキリストがあなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また愛に基礎をおいているあなたがたが、…人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:17-19)今私たちのこころがどこに向かい、何に望み、希望を置いているのか、点検しましょう。このみ言葉をもって祈り、今日も血潮を宣言してみことばを味わいましょう。

■P.祈り

愛するイェス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。


12月31日(土)のつぶやき

2017年01月01日 01時36分07秒 | キリスト教