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◆主は……

2015年05月31日 16時22分30秒 | 聖書

あなたのすべての病をいやし……。(詩篇一〇三・三)

この聖句は控え目に述べているが、しかし事実ははっきりしている。私たちはみな、多かれ少なかれ罪の病にかかっている。私たちの病気をいやすことができ、また喜んでそうしてくださる偉大な医者をもっていることを知るのは、なんという慰めであろう。
今夜しばらく主について考えよう。主のいやしは迅速である。主を一目見るだけでも力づけられる。主のいやしは完全である。主は病の根源を断たれる。だから主のいやしは確実である。主は決して失敗されることなく、病は決して再発することはない。キリストがいやされるならば、病がぶり返すことは決してない。主は患者に一時的な治療をされず、全く新しい人間に造り変えられるのである。主はまた、人々に新しい心を与え、彼らのうちに正しい霊を置かれる。主はあらゆる病の治療に熟練しておられる。医師にはそれぞれの専門があり、一つの病について、特に詳しく研究している。しかし、イエス・キリストは人間性のすべてに精通しておられる。主はどの罪人についても、その状態をよく知られ、決して治療の困難な例外的な場合に遭遇されることはない。主は、非常に複雑で奇妙な病を扱われなければならなかった。しかし主は一目見ただけで、どのような治療を施せばよいかをお知りになるのである。主は唯一の万能医師であり、主が与えてくださる薬は、すべての病をいやすことのできる唯一のものである。
私たちの霊の持病がどのようなものであっても、私たちはただちにこの医師である神に相談すべきである。イエスがいやすことのできない心の悲しみはない。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
主がちょっと手を触れられただけで、数えきれないほどの人があらゆる病からいやされた事実を考えてみよう。そうすれば私たちは、喜んで自らを主の御手にゆだねるであろう。私たちが主にゆだねるならば、罪は死ぬ。私たちが主を愛するならば、恵みは生きる。主を待ち望むならば、恵みは強くされる。私たちが主を目のあたりに見るならば、恵みは永遠に全うされる。

 

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「ましてや神は、

2015年05月31日 16時21分38秒 | 聖書

夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」(ルカ18:7)

この箇所の人は裁判官であり、神を恐れず人を人とも思わない人物だ。
裁判官だという事は法律にそって裁くという事だ。
人格的にはこういう人だが、やもめが余りにひっきりなしにやって来て、うるさいから裁判をする事にした。
こういう人でも、うるさいからの理由で裁判をするのであれば、ましてや完全な愛と完全な義をお持ちの神が、正しい裁きをつけずに、放っておかれるわけがないという事だ。
つまりこんな人格の裁判官でもそうするのだから「ましてや神は」という事を言っている。
とんでもない人物を出して来て、神がどんなお方であるかを対比させている。
完璧な愛と配慮を施して下さり、常に私達の最善を考えて下さっている神なのだから、失望はあり得ないと。
祈りの執拗さでなく、祈る相手がどんなお方かが問題で重要だ。
神はすみやかに彼らのために正しいさばきをして下さる。
「パン三つ貸してくれ」と執拗に頼み続けて、パンを得た人も、友達だからでなくしつこさゆえに勝ち取った。
ここでも、「ましてや父である神は」子だから良い物を下さると言っている。
御子を賜うほどに愛し最善をして下さる神だ。
あなたの「その祈り」、いつまでも「その事を」放っておかれるだろうかと。
何と励ましだろう。切なる祈りに目を留めていて下さる。
----------
この裁判官はうるさくて仕方がないから片を付けた。
神は違う。うるさいからでなく、極みまで愛して下さっているから答えて下さる。
長い間の「その祈り」も必ず義と愛ゆえに片を付けて下さる。
失望する事なく信頼して祈り続けよう

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今日の聖人の記念日

2015年05月31日 08時33分01秒 | キリスト教

聖母マリアの訪問

 

 聖母マリアのエリザベト訪問を記念する日。マリアが、天使から受胎告知を受けたころ、彼女の親族であるエリザベトも懐妊した。エリザベトは、長年子どもができず年老いていたので、マリアはエリザベトの懐妊を聞き、神の偉大な力に驚き賛美し、さっそく山里にあるエリザベトの家を訪ねる。マリアの訪問を喜んだエリザベトは「あなたは女の中で祝福された方です。……わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう……」と感動した。マリアは、神に感謝して祈った。この祈りが有名な「マニフィカト」である。

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
  身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。……」
     (ルカ 1.46~55)

 エリザベトを励まし手伝うマリアの行為は、神と隣人に対する愛の業である。

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◆利 益 と 欠 損

2015年05月31日 08時31分01秒 | 聖書

すべての勤労には利益がある。
おしゃべりは欠損を招くだけだ。   (箴言一四23)

石油ショック以来、いろいろの国や国民や会社が石油問題で苦しんでいます。
ところで三年近く前のこと、ある産油国の様子をテレビで見ました。採掘や精製に使う設備が保全や修理がされないで、ほったらかしになっています。そこで、自分の国で使う灯油にまで事欠いて輸入しなければならない情況になるだろうと、くさったりさびたりした設備の写真が映し出された時には、心を刺されました。産油国であるその国にも、いろいろむずかしい複雑な事情もあることでしょう。しかし、石油でもうけて、なまけていて全く働かなかった結果を見せつけられたような気がしました。
勤労と労働は、人間に神が与えてくださった祝福です。
「働かざる者は食うべからず」(Ⅱテサロニケ三10参照)も、聖書のことばです。働くことをいやがったり憎んだりするのではなく、神からの贈り物とすることは、どんなに大切なことか分かりません。こう考えて、社会が必要とするものを骨身を惜しまずに生み出し、社会が必要とする仕事につく時、人は、自分の値打ちを認識できます。
そこには、働く喜びが伴います。自分のしていることが、教えることであれ生産であれ商売であれ、神の任命によっていることが分かり、生きていく力が与えられます。経済的な収入面ばかりではなく、目に見えないその他の点や目に見える多くの面で、利益・収益を得るのです。勤労と労働を尊ばない時、人生に必ず何かの欠損が生じるでしょう。
愛してくださる神のもとで、神から与えられ預けられた人生を、神から与えられた仕事のために労する勤労は尊いのです。

 

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第2列王記15章27-28節

2015年05月31日 08時29分54秒 | 聖書

15:27 ユダの王アザルヤの第五十二年に、レマルヤの子ペカがサマリヤでイスラエルの王となり、二十年間、王であった。
15:28 彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させた
ネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。



 ペカは、20年間北イスラエルの王として支配したことが語られています。

しかし、彼の神の前に置ける歩みは、相変わらず先代の王に習って「ヤロブアムの罪を離れなかった」と語られています。

その罪とは、「イスラエルに罪を犯させた」ヤロブアムの罪であると言われています。

王としての使命は、義と公平とを行うことですが、同時に、王に求められたことは、主なる神を敬い、そのみ言葉に従って歩むということでした。

ヤロブアムは、その主の御心を無視して偶像礼拝を行い、その結果、彼の下にある民に同じように偶像礼拝を行わせて、神に背く道を歩ませ、滅びの道へと誘ってしまったのです。

 神を敬って、その道に民を導くという、上に立つ者の責任を、彼は全く失っていたのです。

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第2列王記15章27-28節

2015年05月31日 08時29分54秒 | 聖書

15:27 ユダの王アザルヤの第五十二年に、レマルヤの子ペカがサマリヤでイスラエルの王となり、二十年間、王であった。
15:28 彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させた
ネバテの子ヤロブアムの罪を離れなかった。



 ペカは、20年間北イスラエルの王として支配したことが語られています。

しかし、彼の神の前に置ける歩みは、相変わらず先代の王に習って「ヤロブアムの罪を離れなかった」と語られています。

その罪とは、「イスラエルに罪を犯させた」ヤロブアムの罪であると言われています。

王としての使命は、義と公平とを行うことですが、同時に、王に求められたことは、主なる神を敬い、そのみ言葉に従って歩むということでした。

ヤロブアムは、その主の御心を無視して偶像礼拝を行い、その結果、彼の下にある民に同じように偶像礼拝を行わせて、神に背く道を歩ませ、滅びの道へと誘ってしまったのです。

 神を敬って、その道に民を導くという、上に立つ者の責任を、彼は全く失っていたのです。

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◆王はキデロン川を渡り……。

2015年05月31日 08時26分58秒 | 聖書

(Ⅱサムエル一五・二三)

ダビデは裏切りの子アブシャロムに追われ、悲しみのうちに部下とともに陰気な川を渡った。神のみこころを求めていた彼は、困難から除外されていたのではなく、むしろその生涯は患難に満ちていた。彼は主に油注がれた者であると同時に、主の悩みを負う者であった。それなのにどうして私たちが困難を免れることを期待できるだろう。悲哀の門の前で、最も気高い人々が灰をかぶって座していたのに、私たちは困難に際して全く予期しないことが起こったかのように不平を言うことができようか。
王の王も楽しい立派な道を歩まれなかった。エルサレムの汚物が流れているキデロンの濁流を渡られたのである。神は罪のない子をただ一人もっておられたが、むちを加えられない子は一人ももたれなかった。イエスがすべての点において私たちのように試みられたことを信じるのは、私たちにとって大きな喜びである。
今朝私たちの渡るべきキデロンは何か。不信の友か。悲しい死別か。中傷か。暗黒の前兆か。私たちの王はこれらのすべてを渡られた。肉体の苦痛、貧困、迫害、侮辱か。私たちの王は先に立ってこれらすべてのキデロンの上を行かれた。私たちの試練が特珠なものであるとの考えは、ただちに、また永遠に捨てなければならない。なぜならすべての聖徒のかしらなるお方が、そのご体験により、私たちが特別なものと考えているその悲しみを知っておられるからである。すべてのシオンの民は、インマヌエルがかしらであり隊長である名誉ある哀悼者の群れに加わらなければならない。
ダビデは一時卑しい身分に下ったが、やがて勝利を得て都に帰り、またダビデの主は勝利を得て墓からよみがえられた。だから私たちも勇気を奮い起こそうではないか。なぜなら、私たちもまたいつの日にか勝利を得るからだ。今しばらくの間は罪と悲しみの汚れた流れを渡らなければならないが、やがて喜びにあふれて救いの井戸から水をくむのである。十字架の兵士よ。勇敢であれ。王ご自身がキデロンを越えて勝利を得られた。あなたもまた同様に勝利を与えられる。

 

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5月30日(土)のつぶやき

2015年05月31日 01時42分28秒 | キリスト教

マルコの福音書15章43節(エゼキエル17章) goo.gl/bU6H6Y


「自分にも言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。 goo.gl/hARnT1


◆私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである……。 goo.gl/Eh8GdF


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◆私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである……。

2015年05月30日 17時10分30秒 | 聖書

(ローマ六・六)

クリスチャンよ。あなたは、罪をどうしようと言うのか。あなたはすでに高価な価を払ったではないか。やけどをした子どもよ。また火遊びがしたいのか。あなたはこうかつな蛇に、もう懲りたはずではないか。その蛇は、あなたの全部の血管に毒を入れたのに、それでもあなたは蛇の穴の上でたわむれ、再び毒蛇の穴に手を入れようというのか。
おお、愚かなことはやめよ。罪が一度でもあなたに真の喜びを与えたことがあるか。そこにあなたは真の満足を見いだしたであろうか。もし見いだしたとすれば、再びあなたの古い奴隷のころに帰り、鎖でつながれるがよい。しかし、罪は決してあなたに約束したものを与えずに、虚言で惑わすのみである。だから、こうかつな猟師のわなに再びかかることのないように注意せよ。自由の身になっても、昔の捕われの経験を思い出して、再び網にかかることのないようにせよ。それは永遠の愛のご計画に背く。その計画のすべては、あなたの純潔と聖潔を目的としている。
さらにもう一つの考えが、あなたが罪に走るのをとどめる。クリスチャンは決して安易に罪を犯すことはない。彼らは、自分のした悪に対して大きな代償を支払うことになるからだ。咎は心の平和を破壊し、イエスとの交わりを曇らせ、祈りを妨げ、たましいに暗黒をもたらす。だから罪の奴隷になってはならない。
さらに大きな理由がある。「罪の奴隷となる」たびに、あなたは主を新たに十字架につけてさらしものにしているのである。このような思いに耐えられるか。
おお、もしあなたが今日何かの罪に陥っているならば、ひどくならないうちにあなたを引き止めようと、主が今夜、私を通してあなたに語られたのではないだろうか。イエスに帰れ。主はあなたに愛を注ぐことを忘れられず、その恵みは変わらない。涙と悔い改めをもって、主の足もとに来れ。主は再びあなたを心の中に受け入れ、あなたは千歳の岩の上に置かれ、あなたの行く道が定まるであろう。

 

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「自分にも言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。

2015年05月30日 17時09分36秒 | 聖書

なすべきことをしただけです。』と言いなさい」(ルカ17:10)

ある人が、主の愛に応えて、主がどんなに素晴らしいかを、職場で証ししたいと願った。
心に願いはあるのに、どうしても出来ない。
語る勇気が無い。
話す事を恐れる自分がいる。
又、どう語っていいかがわからない。
毎日、そうしたいと願いつつ出来ないまま日が過ぎた。
思いはあるのに、勇気が無く、いつしか人を避けてしまっている自分に気づいた。
主がこんなに自分を愛して下さっているのに、申し訳ない。
心悶々が膨らみ、主の御前に出た。
あるがままを主に申し上げ「ごめんなさい、出来ません、助けて下さい」と心のままを祈った。
そして祈り続けていた数日後、突然、職場の主任が「○○さんはクリスチャン?」と話しかけて来た。
びっくりし、聖書、教会の事、自分の信仰の事等色々話せて、そばにいた同僚も加わって来て、話が盛り上がり、何と証しが出来たのだ。
翌日にはトラクトも渡せた。
祈りに答えられた事、自分でなく、神がされた事がわかり、感謝が溢れた。
弱さの中に働かれる神に触れ、喜びで一杯になり、御名を崇めた。
弱くなくて、強ければ、自分の力で出来たなら、必ず自分を誇ったに違いない。
しかし、心から「役に立たないしもべです」と認める事ができて、喜んで神にのみ栄光を帰し、神の御名をたたえる事ができた。
主に頼る時に、自分ではなく主に栄光を帰して行く。
-------------
神の力は弱さの内に、完全に現れる。
いつも「できません」を喜んで下さり、そこに御力を現して下さる。
何と肩の力の抜ける恵みのまっただ中だろう。
あるがままを認めて行けば良いとは。

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今日の聖人の記念日

2015年05月30日 07時39分55秒 | キリスト教

聖ジャンヌ・ダルクおとめ

1412年-1431年

 「オルレアンの少女」と呼ばれたフランスの国民的英雄であるジャンヌは、ドレミという貧しい農家の娘として生まれた。当時、フランスでは英仏百年戦争が始まり、国内は王族が分裂して危機の状態にあった。ジャンヌは、幼いながらも祖国の危機に心を痛め、毎日祈っていた。

 ある日、彼女は「フランスを救え」という神からの啓示を受ける。13歳のときだった。しかし、フランス軍の司令官は彼女の言葉を信じなかったので、フランス軍はオルレアンの近くで敗北するだろう、ということを彼女は予言した。そのとおり、フランス軍は敗北。神学者たちは、ジャンヌが神から啓示を受けたことを認め、彼女はフランス軍を率いる許可を得た。彼女は白い軍服を着て馬にまたがり、イギリス軍に包囲されたオルレアンに進撃して、解放した。第2、第3と勝利を得て、皇太子をシャルル7世として王位につかせた。

 しかし1430年、対立していた軍に捕えられ、イギリス軍に引き渡された。宗教裁判にかけられたジャンヌは、魔術によって神を冒とくしたという罪をきせられ火刑の宣告を受けた。燃えさかる炎の中でも、彼女はイエスとマリアのみ名を呼び、息絶えたといわれる。その25年後、教皇カリスト3世によって、宗教裁判のやり直しが命じられ、無罪の判決をうけてジャンヌの名誉は回復された。

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◆隣人をどう見るか

2015年05月30日 07時38分34秒 | 聖書

自分の隣人をさげすむ人は罪人。
貧しい者をあわれむ人は幸いだ。   (箴言一四21)

何年か前、カンボジアの難民の有様を視察する日本人視察団が派遣されました。女の方が団長さんでした。その報告の第一声として、「こんなひどいことが、隣の国にあるのに、日本人は行って助けていない。日本人も、お金だ政策だと言うより、まず第一に行って助けるべきです」と話されました。ほんの数えるほどしか、日本人は行っていないとのことです。
その報告がのった次の朝、新聞の漫画を見ました。「ルック」とか「ヨーロッパ二週間の旅」の旗をたてて、毎年何十万と出かける日本人旅行団が、旗を塗り替えて、「カンボジア難民を助ける旅」を組織して出かけるところでした。
日本人には、自分の家庭・職場・会社を守り、他人に迷惑をかけなければそれでいいという考えがあるのかもしれません。しかしほんとうの愛は、利害関係を越えて、隣人に助けの手をさし伸べないでしょうか。日本人の親は、関係のない人、いいえ、あなたの兄弟姉妹である世界の、国内の同胞たちに、無条件で愛の手をさし伸べる模範を、子どもたちに示していないのではないかと、私自身も反省しています。
三浦綾子さんは、長い病床の苦しい経験の中から、同じく病床で苦しんでいる病人の方たちに慰めの手紙をせっせと書き始められました。そして、このように言われたのです。「他人を慰めようとすること以上に、自分自身が慰められることはほかにない。」こうして具体的に隣人に愛の手をさし伸ベさせるものは、自然に心からわき出るものです。ほんとうの愛の行為は、ほんとうの愛の心から出てくるのです。そんな愛は、無条件で愛し、すべての人のためにいのちを捨てられた神を知り神に従うへりくだった心に、神から注がれます。そして、そのような人はことばで表せない幸せを経験するのです。

 

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◆私たちのために、

2015年05月30日 07時37分41秒 | 聖書

ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。(雅歌二・一五)

小さなとげが大きな苦痛を与え、小さな雲が太陽を隠すことがある。小狐がぶどう園を荒らし、小さい罪が柔らかい心に害を与える。小さい罪がたましいの中に巣を作り、キリストの憎まれるもので満たすので、キリストは私たちと親しい交わりを続けるのをやめられる。大きな罪はクリスチャンを滅ぼすことはできないが、小さい罪は彼をみじめにすることができる。
イエスは、その民が身に覚えのあるすべての罪をことごとく捨てなければ、共に歩まれない。主は言われる。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」と。
あるクリスチャンは、ごくまれに救い主のご臨在を経験するにすぎない。これはなぜか。たしかに弱い幼児が父親から離れているのは苦痛に違いないのに。あなたは神の子でありながら、父の顔を見ないで満足していられるのか。おお、あなたはキリストの花嫁でありながら、一緒でなくても満足していると言うのか。たしかに、あなたは悲しむべき状態に陥っている。なぜならキリストの貞節な花嫁ならば、夫が去ってしまえば、鳩のように嘆き悲しむはずだからである。
それゆえ、なぜキリストが去られてしまうかを考えてみよ。主はあなたの罪の塀の背後に身を隠された。塀は大石でも小石でも作れる。海は一滴の水が集まって、岩は砂の集まりによってできたものである。あなたを主から隔てている海も、あなたの小さな罪が集まったものかもしれない。あなたの船に致命的な大損害を与えた暗礁は、あなたの小さな罪というさんご虫の日ごとの働きによって造られたものかもしれない。
もしあなたがキリストと共に生き、共に歩み、キリストを見、そして交わりたいと願うなら、花盛りのぶどう畑を荒らす小狐に注意せよ。イエスは、共に狐を捕えに行こうと言われる。主はサムソンのように、ただちに狐を捕えられるだろう。主と共に猟に行け。

 

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第2列王記15章23-26節

2015年05月30日 07時36分19秒 | 聖書

15:25 彼の侍従、レマルヤの子ペカは、彼に対して謀反を企て、サマリヤの王宮の高殿で、ペカフヤとアルゴブとアルエとを打ち殺した。ペカには五十人のギルアデ人が加わっていた。ペカは彼を殺し、彼に代わって王となった。



 メナヘムが死んだ時、その子のペカフヤが王となりました。

彼は2年間だけ王でありました。

彼は、自分の侍従であったペカの謀反にあって、殺害されてしまったのです。

 その殺された所は、王宮の高殿であったと語られています。

つまり、大変身近な場所で、また、ごく親しくしていた人から裏切られて殺されたことがわかります。

この殺害を実行したペカには、50名のギルアデ人が関わっていたと語っています。 

ペカは、こうした外部の人を用いて、殺害の計画をなしたようです。

 ペカフヤはヤロブアムの罪を離れることをしなかったのでありますが、その彼を殺害したペカも、主君を敬うという、主の御心を思う心はなかったようです。

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マルコの福音書15章43節(エゼキエル17章)

2015年05月30日 07時32分58秒 | 聖書

★アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
■O:今日のコラム
シャローム!
最近私は「御国」はどんな所なのか?という事を考え、御言葉で「御国」があれば印を付けることをよくしています。

マタイ27:57では、「アリマタヤの金持ちのヨセフ」という事が記されています。

金持ちであり、議員であり、この状況でイエス様の仲間であると公言することは自分の地位、名誉、持ち物(お金持ちが失うお金はすごい額でしょう)を失うことも考えられますが、アリマタヤのヨセフはそれを恐れずイエス様のからだの下げ渡しを申し出ました。

それは彼が神の国を待ち望んでいたからです。御国のことを考えていたからだと思います。


■A:考えてみよう
私たちは目の前で起こる事、自分の置かれている状況であらゆる事を測ってしまいますが

御国の基準、御国の価値観で生きたいと願います。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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