tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

報復と寛容、争いと競い、多様性の尊重

2024年04月17日 16時52分34秒 | 文化社会

ロシアのウクライナ侵攻で世界中が心を痛めているのに加えて、パレスチナとイスラエルの問題が起き、それがさらに飛び火してイランとイスラエルの対立を誘引する様相で、地球人類社会の平安を願う多くの人々の心配は拡大しています。

ロシアの場合は中世の領土拡張の欲望の延長でしょう。イスラエルの場合は報復の応酬で、ガザのパレスチナ人を殲滅などという言い方も聞かれ、何処まで何が目的かを考えるのも恐ろしい限りです。

ダマスカスのイランの大使館爆撃から起きたイランとイスラエルの問題ではパレスチナ問題と同じように、「報復」という言葉がもっぱら使われます。

この「報復」という言葉は日本ではあまり良い語感を持っていません。理由は多分「報復」が正しいとなれば、報復の連鎖で、争いは永遠に続くという事が日本人の感覚の中では一般的だからではないでしょうか。

「報復」の連鎖を止めるためには、相手を殲滅しなければなりません。相手を根絶やしにすれば「報復」はなくなるのでしょうが、歴史上でもそれは不可能です。

出来ない事をできると思って、人間が人間を殺す事を正当化するというのは、人類にとって、余りに不幸な事と日本人には感じられるのでしょう。菊池寛の「恩讐の彼方に」は報復を超越したあるべき人間本来の心を描いて、広く人びとの共感を得た作品でしょう。

 

このブログでは人類社会には「争いの文化」もあるが「競いの文化」もあり、例えて言えばこれは「戦争」と「オリンピック」で、相手を征服するのではなく、共存して競い合う事が人類社会に平和と発展を齎す源という理解をしています。

「報復」を否定し「寛容」を求めると言ってもそれは容易ではありません。人間がその大脳の発達を人類社会の安定と発展のために使おうと本気で考えるとき、「争い」や「報復」も文化は否定され、「競い」が人間の持つべき文化という「共存」と「寛容」の世界が実現されるのでしょう。

そして、それと同時に人間の気付くべき人間本来の意識があります。これは意識というよりも、本能に近いのかもしれませんが「多様性への憧憬」や思考のレベルでいえば「多様性の尊重」でしょう。

人類は多分時間についての特異な認識を持つ生物として、過去、現在、未来を統一的に理解できる「万物の霊長」としての意識を強く持っています。

この自己認識は「人間さえ良ければ」、「特定の人間集団さえ良ければ」といった利己的、自己中心的な認識に繋がったようです。

しかし同時に、人間は本来、自分以外の者、異種のものにも関心や興味を持っているのです。動物園、植物園、水族館を作り、異文化への関心、異国情緒への憧憬等々の感覚を持ち、今やそれが、生物多様性の尊重、異文化との交流が人類社会の発展のために必要という「多様性の尊重」の合理性の認識に到達しているのです。

国連はこうした人類の文化の進歩を、ユネスコなどの活動を中心に、世界に広め、争いの文化の否定、多様性の共存の尊重が人類社会の発展を促進するという思想、哲学を世界が共有するという事で、国際紛争をその根から断つことを目指す時期が来ているのではないでしょうか。

こうした活動については、日本と日本人は、世界の平和と発展のために役立の多くの知恵を持って多大な貢献が可能のような気がしています。