tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

キャピタルゲインの課税問題 続

2021年10月31日 14時48分00秒 | 経済
キャピタルゲインは、典型的には株などの売買益で、実体経済の活動とは直接関係がない事は繰り返し指摘してきました。

つまり、カネ(購買力)がA氏の懐からB氏の懐に移動するという事です。これは、見方によっては、国民所得の再分配が株式等の売買によって行われているという事です。

経済と国民生活の関係から考えれば、実体経済の活動で生産された付加価値(GDP、国民所得)は賃金と利潤と財産所得として国民に分配されますが、そのままではなかなか公正な分配が実現されないので、政府が、税や社会保険料を徴収、国民の間に再分配して、過度の格差社会化を防ぎ、社会的公正、社会の安定を図っているのです。

その意味では、政府以外のもの(株式市場など)が、所得や資産の再分配をすることで、また社会に所得配分の不公正な歪みが生まれることになります。

そして最近その金額が膨大になり、一部に格差社会化を異常なまでに進めることになって来ているので、その防止のために、キャピタルゲインに適切な課税をして、国民への公正な分配が維持されるように、政府が再度是正する必要が出て来ているという事でしょう。

こうした視点から考えられているのがトービン税(外国為替取引の場合)やその他の金融取引税の構想です。

これらは、一般的に、極く低い税率(例えば1%)を「取引金額」に課すというもので、巨大な金額の取引を頻繁に行うことのメリットをなくそうという趣旨です。

しかし、現実には国内・国際等設計の困難性(たとえば各国一斉導入の必要)から実現は難しいようです。

こうした問題は税制には必ず付きまとうものですが、株式の売買の場合には、株式の保有期間によって得た「キャピタルゲイン」に対する課税の税率を変えることで対応するという方法も考えられるのではないでしょうか。

企業にとって、最も大切なのは「安定株主」です。短期の業績の変動や市場の人気を読んでキャピタルゲインを狙う投資家は、企業への安定資金提供者てはなく、逆に、往々株価の変動を大きくして経営の不安定をもたらすという事になるでしょう。

一方、企業に対して安定資金を提供し、企業の安定を支援することは、ひいては国民経済の成長、社会の安定と発展に貢献するという意味を持つと考えてよいでしょう。

そう考えれば、国の税制としても、今日のように株式売買益であれば一律22.1%(源泉徴収の場合、申告の場合は一律20%(国税地方税計)で、更にインカムゲインである配当所得も同率というのは、ほとんど合理性のない税制という事になるのではないでしょうか。

しかも今日の国際投機資本などは、巨大な資金を持ち、自力で相場を作るほどの影響力を駆使して、多様な形でキャピタルゲインを追求する様子さえも垣間見えるところです。

今日は総選挙で、次期政権はどうなるかまだ解りませんが、岸田政権は「新しい資本主義」の検討会を立ち上げ、分配と成長の問題を早急に纏めると言っています。

実体経済の活動の結果のGDPの分配、それを社会の公正の立場から再分配を行う政府の社会保障制度、それを混乱させるような金融取引から生じるキャピタルゲインによる格差社会化の傾向が日本でも顕著のようです。

岸田政権は、何故か早々金融所得課税の検討は封印したようですが、それで「分配と成長」の本格的な検討が可能なのでしょか。

明朝にかけて、総選挙の結果を見ながら、日本の将来をどう見たらいいのか、眼の離せない2021年10月31日、月末の日曜日です。

キャピタルゲインの課税問題

2021年10月30日 12時15分20秒 | 経済
T.ピケティの「21世紀の資本論」が人々の注意を喚起し、「格差社会化はSDGsに反する」、「格差社会化は社会の安定を破壊する」といった論調の合理性が浸透していきました。
マネーゲームによるキャピタルゲインが、格差社会化を齎すといった意見も少なくありません。

折しも、アメリカ発の金融工学の発達と、投資銀行、ヘッジファンドから個人投資家の「デイトレ」の盛行もあり、それに応じた多様なデリバティブなどの投資対象が生まれ、そうした投資対象には大きなレバレッジがかけられるといった投資(投機)システムが一般的になりました。

こうしたいわゆるマネーゲームは当然にコンピュータシステムに乗ることになり、何分の1秒を競い合って、巨大なキャピタルゲインやキャピタルロスが発生するというマネー資本主義が伝統的な実体経済中心の資本主義の中に入ってきました。

伝統的な資本主義は、資本を活用して付加価値(GDP)を創りその中から資本の分け前を得るというものでしたが、上記の様なマネーゲーム・金融資本主義では、付加価値生産のプロセスを省いて、カネが直接にカネを生むというシステムが一般化したことになります。

これは、伝統的な概念から言えば、賭博、ギャンブルと同じもので、実体経済とは別に購買力としてのカネを直接にやり取りする事(富・所得の再配分)に他なりません。

こうしたものは、富くじ、競馬、カジノなどとして、政府などの特別な管轄のもとでのみ認められていたものです。

ただ、気を付けなければならないのは、今日、経済活動の一環として行われているマネーゲームは、単に僥倖を願うものではなく、経済活動の結果に賭けるものですから、一見経済活動そのもののように受け取られㇾことが多いという事です。

「キャピタルゲイン」は、こうしたマネーゲームが追い求めるものですが、そのもともとが価格変動によって、「ゲイン」「ロス」が発生するわけで、こうしたマネー上でのプラス・マイナスは、経済計算では、デフレータによって消去されるもので、実体経済とは関係がなくなるものです。

しかし、ここで問題が出てきます。
価格のプラス・マイナスはデフレータで消去されますが、よく考えれば、価格の変動によって、実体経済の活動は大きな影響を受けています。

消費者の需要が多く価格が上がれば、生産を増やし製品が多くの人に行き渡るとか、日本の高度成長期のように3C、新3C といった商品の価格が下がれば、それらは急速に普及し、経済発展の原動力になるなどというのもよくある事です。

経済発展は価格メカニズムによって可能になるといってもいいすぎではないでしょう。

昨今のマネーゲームの対象の主役である「株式」にもそうした役割はあります。
多くの人が希望する製品やサービスを生産する企業は人気が出て株価が上がり、資金調達が容易になって、生産拡大に貢献するといった形です。

そうした企業に投資し、結果的に株価上昇で、キャピタルゲインを得た場合、そのキャピタルゲインは、実体経済の成長に貢献した成果と言えない事もありません。
成果は株主配当で十分と言い切るには多少問題もあるという意見もあるでしょう。

ここでちょっと横道にそれますが、今の税制では、株主配当も、値上がり益も同じ20%の課税です。これを同じにしている事には合理性があるのでしょうか?

話を戻して、株式やそのデリバティブなどの売買からのキャピタルゲインにも、企業・経済活動の実態の即した資本の配置に貢献した成果という説明は不可能とは言えません。
しかし、秒速で売買し、巨大なレバレッジをかけて巨億のキャピタルゲインを得るといった取引にもそうした説明が可能でしょうか。

同じキャピタルゲインでも、政府が税金をかけるという事になれば、何らかの合理性の根拠が必要なように思えます。

キャピタルゲインの世界は、アジア通貨危機のように、巨大なヘッジファンドが、経済的に弱体と見た国の通貨を空売りし、暴落したところで買い戻すといった、一国の経済活動を破壊するようなものもありました。

マネーゲームは、企業や経済の発展に役立つものから、企業活動や実体経済を破壊するものまであります。

金融所得課税問題は、巨大な仮想空間にまで広がったマネー取引の世界にいかなる税制を対応させるかといった大変困難な問題をはらんでいるように思います。
次回は、そのあたりを少し整理出来ればと思っています。

インカムゲインと課税問題

2021年10月28日 20時47分52秒 | 経済

前回までの検討で、見えてきたことは、税金というのは本来、「その年に生まれた付加価値」の中から、政府が徴収するものであると言えるのではないかという事です。(このブログでは、インカムゲインとは、付加価値(GDP)を構成する利得と仮に定義しています)

そして徴収の目的は、大きく2つあって、1つは、政府の活動を維持するための費用、そしてもう1つは、格差社会化を防ぐための政府による付加価値の再配分(社会的公正の維持、社会正義の実現)システムの適切な維持、と言っていいのではないかという事です。

つまり、課税というのは、本来「実現した付加価値」から徴収するもので、もともとは個人の所億税、法人の所得税(法人税)、それに財産の帰属収入という一部は見えない所得に課税する固定資産税、という事だったのでしょう。

しかし、社会における富の分配の公正化、格好よく言えば、社会正義の実現のために社会保障の概念を現実に導入するための、GDPあるいは国民所得の再配分の手段としての付加価値税あるいは社会保険料(社会保険税)がこれに加わることになったという事になるのではないでしょうか。

国民所得統計では分配面で見た「分配国民所得」は
 ・雇用者報酬(社長以下、企業で働く人の人件費総額)
 ・企業所得 (法人企業、公的企業、個人企業の所得総額)
 ・財産所得 (利子・配当などの投資所得、賃貸料)
の3項目で、これで国民所得(純付加価値=GDP-減価償却費)の全部です。

その意味では所得の捕捉が比較的容易で、課税対象として解りやすい事が、本来の税としてのメリットという事でしょう。

付け加えておかなければならないのは、この中で個人所得である雇用者報酬にかかる個人所得税においては、かなり一般的に累進税率方式がとられていることです。

これは所得税課税の中で、国民が不公正と思うほどの所得格差の発生を防止しようと導入されたものでしょう。
その意味では、分配の公正という意識を所得税制の中にビルトインさせるという意味で、重要な点ですが、国民の公正についての意識は時代や国によって違いますから、その違いが累進度に現れていると言えるようです。

こうして国は付加価値の中から国の運営と国民の経済的公正のための所得再分配の原資を得ているのですが、ピケティの言うように、資本主義社会は格差社会化する傾向が強いので、再分配の要請が強くなるのが一般的なようです。

それに応えるために、負担感が小さく、税収が安定する付加価値税が導入されてきたのが現状でしょう。

付加価値税は付加価値が分配されたところから取るのではなくGDPの生産段階で付加価値が生まれたところから逐次とっていき最後にその全額を消費者が払うというシステムです。

ある意味では、付加価値の発生段階で課税し、分配された先でまた課税という二重課税ですが、それを言う人はあまりいません。矢張り付加価値税が必要だとみんなが解っているから受け入れられているのでしょう。

こうして、インカムゲインつまり付加価値からの徴税制度は出来上がって来て、それなりに認められているようです。

という事で次は、これから問題になるキャピタルゲインについての課税問題になります。

「資本」主義の意味と金融所得課税問題 続

2021年10月27日 11時45分29秒 | 経済
前回は金融所得に課税するという問題を考えるうえでそのベースになる資本の働きについて見てきました。

人間は働いて価値を生み出します。その働きの効率(生産性)を高めるために資本は役立ちます(歩いて運ぶより1万円の自転車を買ってそれで運べば楽してたくさん運べます)。
効率のよくなった分は1万円の資本の貢献です。

税金というのは、こうして生まれた人間と資本の協力の成果である「付加価値」にかけられるものです。
付加価値にかけられるのは付加価値税(日本では消費税)だけではありません。付加価値税というのは比較的新しい発明で、以前は付加価値の分配先、人間と資本に「所得税」と法人税(法人所得税)」それに金利や配当に金融所得課税がかけられていました。

もともと税金というのは、政府が国民のために仕事をするのが通常無償ですので、それを補うために行政サービスの代金として付加価値の中から取っていたものです。

しかし、社会保障制度などが生まれて、税収が足りなくなったので、その分は社会保険料として徴収したり、付加価値税として徴収したりして、社会の中での所得の偏りを是正するようになりました。

これは、資本主義の手法だけですと、どうしても所得の配分が偏って、格差社会になり、社会が健全でなくなるという事から、社会主義的な手法を資本主義が取り入れた結果です。

つまり、税金(社会保険料も含む=国民負担)というのはその年に生まれた付加価値つまりGDPの一部を政府に納め、それを「政府の仕事への対価」と「社会保障のための所得の再配分」に政府が適切に使うというシステムなのです。

付け加えますと固定資産税というのがこのほかにあります(今度中国お導入するようです)。これは架空の計算ですが、その固定資産を借りていれば発生する賃借料(本人が払って本人が受け取る)に相当する収入(帰属家賃など)という経済計算上の見えない付加価値への課税です。

税金と社会保険料を合わせて「国民負担」と言い、GDPの中でそれが何%を占めるかといいう数字を「国民負担率」と言い、北欧などの福祉国家では高く、アメリカが主要国の中では最も低い事は良く知られています。

という事で、税などの国民負担は付加価値の中から支払われるというのが基本的な設定です。

ここで金融所得課税の問題をどう考えるかという問題に繋がっていくわけです。

問題は、金融所得と一口に言いますが、その中身は、全く違った性質の2つのものが入っているという点をまず考えなければならないでしょう。
それは、「キャピタルゲインとインカムゲイン」です。
(ちなみに、これは私のブログでも長期に安定したアクセスがある項目です)

キャピタルゲインとインカムゲインの基本的な違いは、インカムゲインは付加価値の構成要素になるのですが、キャピタルゲインはもともとが「値上がり益」ですから、付加価値の構成要素にならないという点です。

付加価値の構成要素にならないものから税金を取るというのはどういう意味を持つのでしょうか。また取らなかったらどうなるのでしょうか。

この点はもっと深く検討して、金融所得課税を、国民経済の正常な発展に整合するような精緻な理論の構成も含めて、誰もが納得できるものにしていくことが、岸田総理の下での検討会に課せられた使命でしょう。

次回はインカムゲインの性格について見てみたいと思っています。

「資本」主義の意味と金融所得課税問題

2021年10月26日 18時28分48秒 | 経済
岸田総理の掲げるスローガン「新しい資本主義」のための検討会もできたようです。
結論を急ぐようですが、恐らくはまだ中身がないのでしょう。
「早く中身を」という気持ちは解りますが、これは容易な問題ではないように思います。

それは、「人間と資本との関係」を確り見て、資本の性格(実は資本を使う資本家の性格)を確り抑えたうえで、政策を打つ、特に問題になるのは、その先、資本利得(資本を動かすことで得られるリターン)に対する税制をどうするかが最も重要な点になるのでしょう。

という事で、まず「人間と資本の関係」から見ていきたいと思います。
資本は人類社会の発展のために役に立つ重要なものです。だからこそ、資本主義といった考え方が生まれたのです。

近代文明は、資本を確り蓄積し、それを的確に活用したことによって、発展して来たいのです。資本がなければ工場もできませんし、研究開発で新しい技術を開発し、社会を豊かに快適にすることもできません。

原始の昔から人間がもともと活用していた資本は「土地」でしょう。占有する土地が広いほど、採集も農業も畜産も有利です。ですから個人も国も、広い土地を欲しがりました。
今でもその記憶が脳の奥底に染みついていて、領土問題が起きるほどです。

しかし今は会計上は土地は資本の一部で、土地は狭くてもおカネという資本を蓄積し、それを適切に活用していけばいくらでも経済発展出 来ることが解ってきました。

例えば、戦後の日本は領土が狭くなってから、最高の経済発展をしま した。
今、台湾は土地は狭いですが、高度な半導体の技術開発をし、世界に供給、最近ではソニーと一緒に大きな半導体新工場絵を作る資本力を持っています。

財務分析でいえば、「労働の資本装備率」(固定資産/従業員数)と労働生産性は比例関係にあることが経験的に証明されています。

資本蓄積をし、それを適切に投資することで生産性を向上させ、それが社会を豊かで快適なものにするという経済社会の開発・発展の構図はすでに世界共通の常識になっていると言えるでしょう。

さて、岸田総理の「新しい資本主義」これから中身が作られるようですが、どんなものになるのでしょうか。良い物が出来てくれればいいと思います。

という事で資本が人間社会にとって大変重要な役割を果たすものであることは間違いないのですが、矢張り大きな問題があります。

資本には意思はありません。資本が「悪者だ」などと言われるのは、資本が悪い事をするのではなく、その資本を持っている「人間」が適切な使い方をしないという事なのでしょう。

結論から言ってしまえば、上記の「労働の資本装備率」のように、「働く人間の役に立って生産性を高める」のは「本来の資本蓄積の目的にかなった」使い方でしょう。
もともと資本主義というのは「そういう意味で資本の重要性」を認識して付けられて名前でしょう。

「生産性を高める」と言いましたが、それは「一人の人間が、資本装備のお陰でより多くの「付加価値」を作り出せる」という事です。

一人一人の人間がより多くの付加価値を生み出せれば、付加価値はその生産要素である、労働(社長以下の人間)への分配としての賃金も上がり、生活の豊かさ、快適さは増します。同時に資本への分配としての利益も増え資本蓄積も増え、資本装備率を上げより高い生産性への準備が出来ます。(労資はwin=win の関係になります)
これが本来の資本主義の姿でしょう。

ところが、こうならない資本の使い方もいろいろとあります。これは資本を持つ人間の意思によります。
次回その問題を考えてみたいと思います。

ますます「変な」経済学、続編・補遺

2021年10月24日 11時03分36秒 | 経済
「益々変な経済学」で試みたことは、MMTのいう「政府は必ずしも財政規律を守らず、国債を発行して赤字財政をやっても構わないい」という考え方を逆にして「国民はいくら政府からカネを借りてもいい」という事にした場合どうなるかを、ちょっと「遊んでみた」という事になりました。

結果は、経済学、経済行為には倫理感、自制心、はっきり言えば、社会全体の安定と調和を重視する心がないと持続可能ではない、SDGsにかなうものではないという事になりました。

そこから、特にこれまでアベノミクスでやってきた経済・財政政策は持続可能ではないという事が見えてきてしまいました。

そして、それにもかかわらず、アベノミクスが10年近く継続でき、日本経済の国際的信用が維持されてきたのは、ひとえに、国民が恐ろしいほどの自制心を持って、家族や自分の将来・老後のことを考え、消費を抑えて貯蓄に専念し、日本の経常収支の万年黒字を支えたからだという事になっていることが解りました。

ここまでは、「貯蓄は美徳」日本経済のへの世界の信用を維持したと称賛されるべきものですが、それが、日本の経済社会にいかなる影響を与えているかを考えると、大変重要な、困った問題をはらんでいるようです。

具体的に言いますと、節約生活で消費が伸びないことで経済が成長しない、結果的に、将来の見通しが暗い事から、結婚をためらう、こどもは作らないか出来るだけ少なく、といった意識で、少子化が進むといった状況を作り出しているようです。

つまり将来を暗くしていることが、日本経済・社会自体の発展を抑制してしまっているのです。これでは、日本の将来を長い目で見た場合にSDGs(持続可能な開発目標)に反することになってしまっているのではないでしょうか。

今の日本に必要なことは、将来の暗さに脅えた「縮小志向」を脱却することでしょう。
日本には昔から「稼ぐに追いつく貧乏なし」という諺があります。これが社会の自然だからこそ諺になっているのでしょう。
それが実現しない社会というのは、今の社会システムがうまく出来ていないからなのではないでしょうか。

脱出の方向は2つあるように思います。
国民は「頑張れば、将来はきっと良くなる」と信じて、生活の仕方を積極的なものに変えていくという意識改革。
政府は、徹底して格差社会化を許さない、国民みんなが積極的になれる政策を堅持すること。

前者は、国民が、思い切って意識を変えていくこと、コロナも終盤に近付いているようです。
後者は、政権が政策選択を変えること、これには総選挙での国民の政権選択が必要かもしれません。でしたら今がチャンスです。

明るい明日を目指して国民の意識改革とそれを支える政治がそろえば、もともとエネルギーレベルの高い日本人です、日本は変えられるはずだと思っています。







ますます「変な」経済学、続編

2021年10月22日 20時20分56秒 | 経済
9月25日の土曜日に「変な経済学」を書きましたが、今回は(今日も土曜日ですので)その続きです。

日本の政府は国民が「カネを返せ」と言わないことを良いことに、無闇に国債を発行して国民から金を借り、選挙に有利なようにとカネをバラマキます。
それでもインフレになったり、円安にいなったりしないので、今の世の中、財政赤字でもいいのだというMMT理論が出てきました。

考えてみれば、これは日本とアメリカでしか成り立たないという特殊な状況の下でだけ成立のはずで、普通の国でやったら、忽ちIMF管理下に入るはずです。

アメリカは基軸通貨国で、財政と経常収支がいつも赤字ですが、黒字国は余った金をドル(通常米国債)で持つので、資本収支で遣り繰りが着くのでしょう。

日本の場合は、国民がIMF管理下でもないのに、自主的に貯蓄に励み、政府の借金の2倍もの貯蓄を持っているので、計上収支は万年黒字です。
何故経済が低迷しても赤字にならないのかというと、経済が低迷すると、真面目な国民はますます将来のためにと貯蓄をするので、何時も国民総所得を使い切らずに残し(将来への蓄え)、その分が、経常黒字になるという「キリギリス」ならぬ「アリ型」の経済になっているからです。政府にとっては「アリガタい」ことでしょう。

そんな特殊な場合のみ成り立つMMT理論がまかり通るのなら、逆提案で「こんなのもアリですか」と提起したのが「ますます変な経済理論」です。

政府がカネを印刷して、お金がなくて困っている国民に貸したらどうかという提案です。
国民が政府に「カネを返せ」といわないのと同じように、政府も返せとは言わない、出世払いでいいですというわけです。借金は相続して子供や孫が金持ちになったら返せばいいという事にします。

国民はカネが無くても、いつでも「政府サラ金から国債と同じゼロ利息、催促なしのカネ」を借りられますので、どんどん消費をし、景気は良くなり、みんな幸せになるのです。経済は活況、誰も金には困らない、こんな良いここはないという経済理論です。

国民が政府にゼロ金利で、返済の催促もしないカネを貸しているので、その逆を政府が国民に対してするのです。

これが成り立ったら、こんな良いことはないのですが、巧くいくのでしょうか、というのが問題です。

これに対して答えを考えてみました。
例えば、国民が政府に貸しているカネ、国債残高と、この「変な新理論」で政府が国民に貸しているカネが同額になったら、どうでしょう、お互い様で棒引きにすれば、国民と政府の貸し借りはチャラになって、「もう貸し借りなしよ」で一件落着・・・、とはいかないですよね。

政府は1人ですが、国民は大勢で、政府に金を貸しているのは金持ち、借りているのは貧しい人、です。
それを纏めてチャラでは、突然政府経由の徳政令で、金持ちから貧しい人に富が移転することになり、金持ちは納得しないでしょう。

本来は年々税制と社会保障の組み合わせで、高所得者から低所得者に所得の再配分がなされているべきだったという事でしょう。その必要性が、こうして見ると、ますますはっきりするという事でしょうか。

更に考えてみれば、貧しい人が政府から金を借りすとき黙って信用して貸すべきかという問題があります。
国民が国債を買う時に、政府が本当に必要なことに使うかどうか解らないのだから、逆の場合も詮索するなという理屈のあるかもしれませんが、曲がりなりにも国会の予算審議はあるのです。

こうしたことが成り立つ条件というのは、政府でも国民でも、金を借りるときは、本当に必要な金だけを借りる、そして真面目に返す努力をするといった倫理感の徹底が必要なのでしょうが、国会の予算審議でもそれが出来ないのに(選挙公約ではさらに)、対個人の場合はもっと大変でしょうし、カネの問題でそんなことを要求するのはもともと無理というものでしょう。

つまり、人間が全て、倫理的に相当程度完全でないとこの「変な経済学」は(本当はどんな経済学でも)成り立たないという事になってしまうようです。
渋沢栄一が「論語と算盤」を書き、アダム・スミスが「道徳感情論」を書いている所以でしょう。 、 



新型コロナ、未だ解らない事ばかり

2021年10月22日 20時20分56秒 | 新型コロナ
新型コロナもいよいよ終盤戦ということになりそうですが、「いや、まだまだ」という意見もあります。

専にも第6並みの襲来を懸念する方もおられます。我われ素人には解りませんが、懸念されるからには、何か理由も可能性もあるのでしょう。

それにしても、この所の新規感染者の減少は「異常」と感じるほどに急速です。正直、こんなことで収まっていくのかと疑心暗鬼の方も多いと思います。

ニュースでは、ワクチン接種率の数字を発表していますが、このところ殆ど増えていません、一回接種が1%増えるのに何日もかかっているように感じています。2回接種の方は、比較的順調に伸びていますので、安心という感じもしますが、2回接種は1回接種があれば半ば自動的に追いついていく話ですから、1回がまだ人口の75%程度というのであれば、そこを早く伸ばしてこそ安心にしかづくと思うのは当然の心理でしょう。

ワクチン担当総理大臣はやめてしましたし、新しいワクチン担当大臣は選挙区でのプレゼンスの方がお忙しいのでしょう。

しかし、ウィルスには、人間の都合は通用しないので、人間の方が、接種率の早期の徹底上昇に向かって、もっともっと積極的な活動が必要ではないのかと思うのも当然でしょう。

新型コロナが流行り始めた2020年の3月に、このブログでは「新型コロナの説明、 解らない事ばかり」と感想を書いていますが、その後対策は後手後手に回る事ばかりで、首相はじめ政治家が口ばしるデータも、根拠のないものが多かったり、緊急事態宣言解除で安心かと思っていたらどんどん感染者が増えたりといったことが繰り返されました。

ところが今の段階は、皆が心配しているのに、「そんなに心配しなくても」と言わんばかりの沈静化の様相です。
ワクチン接種率はあまり上がっていなのに、新規感染者は減る一方、人流が増えても感染者は増えない、先日まであんなに相関性が高かった人流と感染者の関係はどうなったのか何か別の理由があるのではなどと勘繰る人もいます。

偶々、島根で急に感染者が増えたのは、出雲に神様が大勢集まった(本当は旅行する人間が増えた)からやっぱり人流は関係あるという人もいたり、本当にこれで収まるのか、素人には解らにない事ばかりです。

恐らく専門家からも官庁からも意見がないという事は、データがないからでしょう。コロナ問題では初めからデータがきちんと取られていないことがいつも誤算を生んできているように思われます。 

選挙で政治家諸氏は皆様お忙しいでしょう。しかしコロナ対応のの現場のお役所はどうでしょうか。現場でしかつかめない情報やデータは必ずあるはずです。
それを常に報告し、情報を発信することが最も重要でしょう。地方・中央の官庁は基本的なデータを常に現場からきちんと収集し、国民に周知する事だけはかかしてはいけません。それとも、そのシステムが出来ていないのでしょうか。

いよいよコロナ問題も終息に向かうべき段階にきているという事であれば、気を緩めずに、重要なデータを揃え、専門家による的確な分析を行い、何とか早く、国民が現状を正確に理解できるような、出来れば安心につながるような状況を作り出してほしいと思う所です。

 


注目すべきアセアンの対ミャンマー政策

2021年10月21日 17時43分08秒 | 国際関係

去る6月の3日に、アセアンの対ミャンマー軍事政権の対応について取り上げました。

国連がほとんど何の政策もとれない中、ミャンマーは国際的な常識から見て極めてまっとうな要求をミャンマーの軍事政権に対して示し、自らもそれに沿っての行動を行い、ミャンマーの軍事政権に適切な対応を求めています。

その時にバンコク・ポストに載ったアセアンの「決議」をここに再掲します。

・ミャンマーにおける暴力行為の即時停止
・全関係組織による全国民の利害にたつ平和的な解決探求のための建設的対話
・アセアン事務局長中心のアセアン主導による仲介
・アセアンAHAセンターによる人道的援助
・ミャンマーにおける諸種の活動の現実確認のための特別使節団、代表団の派遣

アセアンは、メンバー国で起きた軍のクーデタによる政権のやり方を認めないことを「決議」として明確にしたのです。

この影響は大きかったと思います。事態は沈静化に向かいましたが、軍事政権は強力に権利を主張、軍事政権と呼ばれることを嫌い、通常の政権と国際的にに認めてもらおうとしているようです。

しかし、アセアンは、それを認めてはいません。
今月26日から開催されるアセアン首脳会議に軍事政権のトップであるフライン将軍を招かないことに事を決めたのです。

これは、ミャンマーの首脳としてフライン将軍を認めていない事に他なりません。
軍政に反対する市民を1000人以上殺戮して、政権奪取をしたつもりでいても、アセアンがそれを認めてくれないのです。

国連の常任理事会は何も決められないという情けない状態ですが、アセアンは明確に、多くの一般市民を殺戮してまでクーデタで政権奪取するという行為は、それを認めないという、今日の人類社会では常識と言うべき行為に反対の意思表示をしているのです。

これに対して、軍事政権も、無視することは出来なかったのでしょう。これまで拒否していたアセアンの特使の受け入れについての交渉を継続することとしたようですし、首脳会議に招かれないことが解った直後には軍への抗議活動に参加したことにより拘束されていた市民5600人の釈放を決めています。

軍事政権にしてみれば、国際社会から認められなければ、国の運営もままならないとの認識は多少とも持っているのでしょう。

アセアンは、最も重要な近隣国との協調の場です。そのアセアンが、人類社会の常識として認められないような形での政権奪取をしたものを、自分たちのメンバーとして迎え入れるわけにはいかないという毅然とした態度を取っていることに深い敬意を表するところです。

アセアンのこうした毅然たる政策が、今後どう展開しくか、同じアジアの国の人間として強い関心を持ちつつ応援と見守りを続けたいと思っています。
何時の日かこうした人間としての「当たり前」が国際社会でも当たり前になることを願いながら。

原油価格高騰への対処法

2021年10月19日 16時27分36秒 | 経済
ガソリンが高いですね。車をハイブリッドにしてから給油の頻度の随分減りましたが、それでもリッタ―160円を超えると些かびっくりです。

ニュースや専門家のコメントを見ますと、年末に向かってもっと上がるとかLNGにも波及するなどというのもあって、困った事だと思いますが、石油の採れない日本ではどうしようもありません。

そこで、こういう時にはどう対応すればいいか、過去の経験を整理して見ました。

参考になるのはやっぱり、かつてのオイルショックで、第一次(1973年)と第二次(1979-80年)の時の対応の仕方ということでしょう。

あの時は第一次の原油価格4倍引き上げ、第二次の更に3倍引き上げという事で、OPECの結束も固く、日本は備蓄の極めて不十分という事だっらので、第一次の時はまさにパニックでした、

しかし第二次の時は、殆ど平穏で、日本経済は極めて安定していて殆ど誰も心配などはしなかったという変わりようで市た。

これは、 二回のオイルショックの時の消費者物価の動きを見れば想像がつくと思います。
      オイルショックの頃の日本の消費者物価上昇率(%)

                資料:総理府統計局「消費者物価指数」

第一次の時は、消費者物価の上昇は年度平均20%を超え、ピークでは26%に達しました。それに引き換え、第2回の時はせいぜい7%ほどで、当時は4~5%の上昇は普通でしたから原油価格が3倍になって大変と大騒ぎすることはありませんでした。

さて、何が違ったのでしょうか。それは国民の意識が、第一次オイルショックの経験からの学習で第二次の時は、周章狼狽しパニックを起こすといった状態を卒業していたからです。

第一次オイルショックの経験の結果、国民や家計が理解していたのは、

・原油の値上がりは原油輸入国の富が「値上げ」によって産油国に移転するので、その分輸入国は貧しくなるが、対抗策はない。あるとすれば値下げを待つことのみ。

・日本は石油の99%を輸入に頼っているが、その額は、GDPの2%ほどで、それが3倍になって100%物価に転嫁されても4%ほどの物価上昇だから、冷静に行動すればパニックは起きない。
といったことでしょうか。

今までの経験で言えば、原油の価格は、産油国の事情もあり、時に値上がりするのですが、値上がりすれば売り急ぐところもあったりで、また下がり、簡単には上がりません。

産油国にしてみれば、再生可能エネルギーへの動きもあり、値上げは容易でないという感じでしょう。

それに原油の価格は世界中同じように動くので、日本だけが損するのではありませんから円高などの影響とは違います。

世界共通の問題として、上がった時は受け入れて、値上がり分は価格転嫁し、値下がりしたらその逆をやり、日本の国内ではどうしようもないものだと考えるより仕方ないようです。

対抗する方法があるとすれば、原油価格より安い再生可能エネルギーの開発を頑張って早期に実現することということになるのでしょうか。

「分配と成長」の問題は何処でも同じ

2021年10月18日 16時27分26秒 | 経済
中国経済の減速も明らかになり、中国経済を牽引してきた恒大集団の蹉跌もその影響の広がりが懸念されています。 

一方中国の指導部は、「共同富裕」という新しい中国の発展方向を明確にし、それを「新常態」にしようという方向を打ち出しているようです。

そこで出て来ているのが、経済発展を第一義にして急速に発展してきた中国の経済社会を、これまでの成長発展の成果を活用して、中間層の拡大を含め、中国人民全体が豊かになって行くための政策に方向転換しようという事のようです。

こんな話を聞いていると、そういえば、アメリカもバイデン大統領になって中間層の拡大を目指しているし、日本も分厚い中間層などというのが選挙公約になったりで、一体共産主義社会と自由主義経済社会と何処が違うの、といった感覚に襲われます。

日本も、一億総中流などと言われた1980年代中葉が「良い時代だった」と思い返す方も中年以上の年代の方々には多いと思いますが、目指しているのは、主義主張に関わりなく、結局は似たような事だということが見えてきてしまったのではないでしょうか。

中国は鄧小平が「先富論」を掲げて「改革開放」を行った後に来るべきは「共同富裕」という思想を持っていたとのことで、習近平さんが、いよいよその時代と考えているとしてもおかしくはありません。

少し前の報道では、中国は巨大な利益を上げた企業が富の再配分を自主的に考えるべきという事で、慈善的に寄付を求めると言い、いくつかの大企業が相当額の寄付を申し出たと、テレビでも報道されていました。

ところが、昨日、朝日新聞が報じた8月の中央税経委員会の習近平の演説では、共同富裕のための政策として、
・所得税制度の改善(おそらく累進度の強化)
・固定資産税制度の立法化
・消費税の適用範囲の拡大
といった税制による再分配政策も、前述の寄付制度への減税に加えて言及されているという事です。

金融所得課税については入っていないようですが、何やらバイデン政権や日本の野党の発言と共通する所も見られます。

中国は「社会主義自由経済」で急速に成長発展したわけですが、政治的には共産党一党独裁であっても、経済成長のためには、自由経済体制の方が絶対に有利だということを先ず実証し、次いで、自由主義経済では、放置すれば 格差が拡大して、社会が不安定になるので、「自由」を制限して、対立概念である「平等」に配慮しなければならないことを証明したという事でしょうか。

習近平さんは「共同富裕は社会主義の本質的要求」と言われたようですが、言われてみれば共同富裕(平等指向)は社会主義、共産主義の基本理念だったわけです。

ただし「富裕」の実現のためには、自由主義経済システムを「借りて」来なければならなかった」ということになるようです。

岸田さんも言っている「成長と分配」の問題は、煎じ詰めれば、何処まで自由主義経済の長所を生かし、どこまで社会主義の長所を生かすかという組み合わせの問題に尽きる感じです。
 
そういう意味では、国民生活の「豊かさ」「快適さ」を望む一国のリーダーの立場としては、「自由経済システム」と「平等思想」とを、如何に上手に使って国民の輿望に答えるかが最も大事ということになるのでしょう。

こんな歴史的実験が見られる今の世の中は、本気で今後のより良き人類社会のために勉強する材料に事欠かないという事でしょうか。

「家計調査」の貯蓄は増えない、個人金融資産は2000兆円へ

2021年10月17日 14時30分12秒 | 経済
前回は、総務省の「家計調査」で、2人以上所帯の所帯主年代別の貯蓄残高を見ました。
30歳代の300万円レベルから60歳代の2400万円レベルまで、日本の家庭はは頑張って老後のための貯蓄を増やしています。

ゼロ金利の今日でも、消費を削って貯蓄に励み、それぞれの年代の貯蓄残高は、増えてはいませんが、15年前と同程度まで積み上げられています。

一方、日本は世界有数の個人金融資産残高を誇り、日本銀行の「資金循環統計によれば残高は、9月18日に書きましたように、GDPの4倍近い2000兆円に達しようとしています。

個人金融資産も現実には、それぞれの家計が、一生懸命貯蓄を積み上げてきた結果というのがほんとうのところでしょうが、このところ少し特殊事情がありました。

という事で、日銀の資金循環統計で個人金融資産の中身を見ますと、この所の選挙関連の与野党の議論に関係する問題点もあるように思いますので、その辺りを少し見てみたいと思います。

資金循環統計の個人金融資産は多少の増減を繰り返しながら増加傾向ですが、最近の増加の状況は下図のようです。

  個人金融資産の増加率(対前年同期比%)

                資料:日銀「資金循環統計」

一昨年度は多少減ったりしましたが、昨年は漸増、今年に入って、3月、6月には8%、6%と大きく増加し2000兆円に近づいているのです。

その中身を見ますと。最近時点の2021年6月で、対前年同期比で金額が大きく伸びている貯蓄品目は、多分皆様もご想像の通り、株式の30.0%、投資信託の28.7%です。
因みに現金預金は所得の伸びない中でも頑張って4.0%、保険・年金等1.5%、債券0.8%といった所です。

一般的に、株などを沢山を持っているのはお金持ちで、家計調査でも、収入階層別の貯蓄を見ますと、統計的にも、収入の多い世帯ほど貯蓄が多く、貯蓄の多い階層ほど株式・投資信託の保有比率が高くなっています。

日本の場合はアメリカなどに比べれば、貯蓄に占める株式等の比率は随分少ないようですが、いずれにしても株式や投信の値上がりは富裕層に、より大きなプラスであることは否定できません。

ここで話は少し飛びますが、金融所得課税(キャピタルゲイン課税)の問題です。岸田総理は、総裁選挙の時は、その検討の意向もお持ちだったようですが、総理になってからは、金融所得課税を封印されたようです。

しかし、格差社会化の弊害を考えれば、いつかは、本気で検討しなければならない問題でしょう。
格差社会化はSDGs(持続可能な開発目標)と相反するものであることは歴史の証明するところです。

この辺りも、今回の選挙で、国民としての重要な判断要素になるべき問題なのでしょう。

変わらない貯蓄指向、でも増えない貯蓄残高

2021年10月15日 20時54分27秒 | 経済
前回は、中年層以降にお生まれの世代の中に、我々は親の代より貧しくなる(なっている)という意識が生まれていることを書きました。

政府は公的年金の見通しについて、国民が安心できるような発言が出来ていません。麻生財務大臣は、かつて老後に2000万円の貯蓄が必要という審議会の答申の受け取りを拒否しました。理由は不明です。
 
本来公的年金というものは、経済成長の中からその原資を得ていかなければ成り立たないものでしょうが、ここ30年ほどの日本経済を考えればそれはとても無理でしょう。

何とかしなければという責任感からでしょうか、これまで積み立てている年金の資金を、内外の株式などに投資してキャピタルゲインを得ようとGPIFを設立して努力しているようですが、これは確実性というより「運」の要素が多く、本来年金のような支払いが確定しているものに対応する手段ではありません。

国民は、年金は将来的に減る可能性が高いと判断し、まさに自助努力で将来不安、老後不安にそなえようと貯蓄性向を高めています。

ここでまた、問題が起きています。
親の代ならば、定期預金や金融債、郵便貯金などに預けておけば6%程度の利息は当然で、100万円預けておけば、10年たてば160万円、20年たてば260万円という具合に増えていったのですが、ゼロ金利の今は全く増えません。

仕方ないからその分は自分で利息をつける(消費を削って貯蓄を増やす)ということになっているようです。
こうした努力の結果は「家計調査」の世帯の世帯主の年齢階層別貯蓄残高にはっきり表れています。

2人以上所帯の世帯主年齢階層別貯蓄残高の推移(単位万円)

                  資料:総務省「家計調査」

上図は、「家計調査」の2人以上所帯の貯蓄の残高を、2005年調査から2020年調査まで5年おきにグラフにしたものですが、60歳代の平均貯蓄保有額は2400万円レベルに到達しています。現役時代に如何に貯蓄に励んでいるかが解ります。
2005年よりずと貯蓄環境の悪い2020年に60歳代になった世帯も頑張って同程度の貯金を積み上げているのです。

年代別の貯蓄残高は、5年、10年、15年前と驚くほど似ています。消費性向を下げて、貯蓄に励んだ結果でしょうか。しかし増えるまでにはとても行っていないというのが実態です。

ベースアップという形での賃金上昇のほとんどない中ですから、ギリギリ貯蓄に励んでもこの辺りが年代別限界という事になっているのでしょう。 
 
民間の企業年金も含めて、今の年金の深刻な問題点は、何と言ってもゼロ金利だということです。
嘗ての定期預金金利5.5%は夢としても、2~3%の利息が付けば年金財政は大きく変わるでしょう。

という事で、話が少し飛びますが、問題は何故ゼロ金利なのかという点に絞られてくるのです。此の理由は簡単で、正直に言えば「円高を避けるためにはこれしかない」ということになるのでしょう。
円高の恐ろしさを30年にわたって味わった日本ならではの発想です。

そして、その背後には、今は「何かあれば円買い」という国際金融界の常識があり、その背後には、日本が万年経常黒字国という決定的な「日本の信用」があるからです。

ではなぜ万年黒字国かといいますと、特に日本の国際競争力が強いからというわけではありません。
理由は日本人が、国民総所得を使いきらずに使い残しているので、その分が経常黒字になるのです。(因みに円高で国際競争力が全くない時も黒字でした)

つまり日本人が特に家計が将来(老後)不安から、消費を抑えて、貯蓄に励むのが黒字の原因なのです。(そしてそれはゼロ金利の結果なのです)

それで、円高にしないためにゼロ金利にして、家計は利息が付かないので益々消費を抑えて貯金に回すという循環なのです。

何かどこかでボタンの掛け違いがあるように思われませんでしょうか。

親の代より貧しくなるでいいのか

2021年10月14日 15時35分53秒 | 経済
総選挙は19日の公示ですが、現実にはもう選挙戦でしょう。

今度の総選挙について国民の誤りない判断が求められる問題は大きく2つあるような気がします。

先ず1つは信頼できる政府を選ばなければならないという問題です。
これは安倍政権以降ひどくなってきた問題ですが、国民に対して本当の情報を提供しない。平気で嘘をいったり、説明しなければならないものについて説明を拒否するといった態度が著しくなってきていることによります。

政治は国民の為にするものですから、国民に本当のことを話し、納得のいく説明をするのは政権の義務ですが、それがやられていないのです。
今回の選挙で最も重視するテーマの第一位に森友問題といった調査結果も出たようですが、国民は本気で「信頼できる政府」を望んでいることを象徴的に示しています。

2つ目は、矢張り経済政策でしょう。
今の日本の中年以降の若い世代の多くは自分の老後は親の代より貧しくなると考えているのではないでしょうか。
典型的には、年金財政が少子高齢化の進展に対応できていないという懸念からでしょうか。

森友問題は倫理的な問題ですから、当事者たちが心を入れ替えれば解決する問題ですが、経済問題は日本経済全体に関わる問題ですから、これは高度な政策体系と国民と政府の協力の上に立つ長い時間を必要とする問題でしょう。

アメリカがスタグフレーションで悩んだ1970年代に、同じ問題が起きています。「親の代に様な良い生活はできない」という意識が広まったのです。

この時は政権交代が起き、レーガン大統領が登場、レーガノミックスでアメリカ経済の立て直しの努力をしましたが、解決を見たのはIT革命などが経済を支えてようやく実現し、その成果を刈り取ったのはクリントン政権になってからといった感じでした。、    

日本は、プラザ合意による円高とバブル崩壊のあと30年に及ぶ経済の低迷を経験しました、これは基本的には円高のせいでしたから、アベノミクスの第1段階の異次元金融緩和で円レートの正常化が実現した時が低迷脱出の好機でした。

しかしその気配が出始めた段階で、政府が国民の信頼を失う状態になり、残念ながら官民協力での経済回復は実現しませんでした。

こうしてみますと、日本の社会・経済の正常化を取り戻すためには、矢張り信頼できる政府の存在と、国民が政府と協力出来る経済政策の具体的で解り易い構想と十分な説明が必要ということになるのではないでしょうか。

さて,それが出来る政権というのは、どの政権なのでしょうか。今度の選挙は、国民にとって、大変難しい選択を迫っているように思われるところです。



アベノミクス下の企業経営を見る

2021年10月13日 21時08分13秒 | 経営
アベノミクスは自画自賛のわりに、あまりぱっとしたものではありません。求人倍率は上がったことは確かですが、企業経営自体が高度化したというのは難しいようです。

ただ、アベノミクスの第一弾を担当した日銀の異次元の金融緩和という政策は、日本がまともに為替政策を意識した金融政策を取ったという点で、特筆すべきものでしょう。
2013年から14年にかけて円レートはリーマンショックによる円高を帳消しにしました。

2013年から日本経済は、正常な為替レ-トの範囲で運営されることになりました。円高というしがらみが無くなったのですから、経済活動は活発になり経済成長、技術革新が進むと考えるのが普通ですが、そうならなかったのがアベノミクスの特徴(マイナスの)だったのかもしれません。

ここでは法人企業統計を使って、2013年度以降、コロナ前の2019年度までの売上高付加価値率、総資本付加価値率を中心に法人企業の全規模・全産業レベルの動向を見てみます。

       売上高と総資本の推移(左目盛り単位億円)

            資料:財務省「法人企業統計年報」 

まず2013~19年度の売上高と総資本の動きを見ますと、売上高は2017年度がピ-クで、4年間で8%ほど伸びましたが、19年度 には13年度の5%に落ちています。
一方運用する総資本は、一貫して伸びていて、19年度には13年度の19%の増加になっています。

付加価値額の推移は(図はありません)18年度がピークで13年度から14%増加しましたが19年度には同6%増に下がっています。
コロナの前年には景気はすでに頭打ちになっていた事が解ります。

という事で高付加価値化(企業活動の質的向上の指標)である売上高付加価値率と総資産の活用効率を見る総資産付加価値率の数字を見てみますと、下の図の通りです。

     付加価値額/売上高と付加価値額/総資産(単位%)                              
               資料:同上

売上高付加価値率は16年度17年度が20.5%でピーク18、19年度とさがって、19年度は19.9%です。

総資本付加価値率は、2015年度まで微増しましたが、それ以降は下がり続けて2019年度には16.3%とこの間の最低になってしまっています。

これをどう読むかという事ですが、最も奇妙なのは、折角為替レートが正常化したのに、それを契機にして、日本の企業経営の、ひいては日本経済の高度化を進めよという気迫が感じられないという事です。

原因は企業が積極的な産業・技術の高度化の意欲を失っているのか、政府の政策がとうを得たものでないのか、見方はいろいろかもしれませんが、企業は現実的で、国内より海外の活動を活発化し、第一次資本収支(受け取る配当、利益など)は著増していますから、活動は活発だが、国内ではあまりやらない、ということのようです。

国内より海外の方が仕事がやり易いというのは、為替レートが正常化したのに変な話です。 
そういえば最近、日本の技術力の低下が指摘されますし、研究室ごと海外に移転したり、ノーベル賞の受賞者が、母国日本には帰りたくないと言ったなどの話を聞きます。

政府と学術会議の関係はよくないようですし、政府の研究開発支出はほとんど増えないなど、何かおかしな雰囲気です。
原因究明に第三者委員会が必要なのでしょうか。