寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2793話) 風に吹かれよう 

2019年05月31日 | 知識

  “スーパーの出口付近で親子らしきり男性と男児の姿が目に留まった。男性はしゃがんで男児の両手を自身の手で包み込んでいた。「お父さんがさっき怒った訳はね・・・。落ち着いた声で話し掛け、男児は神妙に聞いていた。男性はいつもこんな調子で子どもに接しているのだろう。怒鳴ったり殴ったりしなくても子どもは最後は理解してくれることを知っているのだ。
 明治生まれの義母の教えを思い出した。「小さい子がぐずって手に負えなくなったら外へ連れ出しなさい。風に吹かれ、空を見れば機嫌はすぐに直ります」と。私たち夫婦は長女と長男を授かった。企業戦士が美徳とされた昭和の世で夫は仕事に忙しく、一人で育児を担った私は義母の教えに何度も救われた。
 昨今、子どもへの虐待が相次いで報道されている。密室での育児が問題の背景にあるようだが、子どもについ手を上げてしまいそうになったら、ぜひ親子で風に吹かれてみてほしい。”(5月12日付け中日新聞)

 岐阜市の主婦・国島さん(74)の投稿文です。「風に吹かれよう」けだし名言と感じた。一概には言えないかも知れないが、外に出れば気分は全く違ってくる。内にいるとつい内に向きがちで、狭い心になってしまう。逆に外へ出れば、気分も外に向かう。広々とした気分になる。国島さんのお母さんの教えでは、赤子でさえそうであるという。そうなるとこれはもう理屈ではない。自然のなせる技である。本来そうできているのである。ボクは元来外に出たがる性分である。じっとしていても外の方がいい。草取りも嫌いではない。家にいてボクの至福の時間は、藤棚の下でサマーベットに寝転がることである。これからこんな時間が多くなろう。そんなボクだから国島さんの投稿文に納得である。親子で風に吹かれよう。


(第2792話) 青春再び

2019年05月29日 | 知識

  “JRの「青春18きっぷ」を購入して日帰り旅行を楽しんでいます。その名称から若者しか使えないと思っていましたが、年齢は問わないことを最近知りました。三月初旬に京都府の伏見稲荷大社へ出掛けました。その二週間後、兵庫県の姫路城を訪ねました。さらにその半月後、京都へ行って二条城と東寺を見て回りました。  名古屋-京都間は新幹線なら三十分ほどですが、青春18きっぷだと在来線を乗り継がねばならず二時間以上かかります。事前にインターネットで時刻表を調べながら一緒に行く仲間と計画を立てることが楽しくて。気持ちが若返ってきます。青春18きっぷの次の販売は夏。「どこへ行こうか?」。考えるだけでわくわくしてきます。”(5月8日付け中日新聞)

 愛知県江南市の農業・青山さん(女・68)の投稿文です。青山さんが「青春18きっぷ」を使うのに、年齢を問わないことを遅がけながら知られたことは良かった。まだまだ時間はあります。これからが本当の青春かも知れません。
 ボクが青春18切符を使うようになったのは、いつの頃からかはよく思い出せない。学生時代に使ったことがあるかも知れないが、使ったとしても多くはないだろう。はっきり覚えているのは、40代後半にウォーキングの会に参加を始めてからである。春、夏、冬、その時期になると仲間とうまく利用し合った。京都や鎌倉へは毎年のように使って出かけた。特に鎌倉へは12月第3日曜日に10年間使った。尾張一宮駅を午後11時半頃出る東京行きの夜行快速列車があった。後に「ムーンライトながら」というようになります。まず12時を越える駅まで普通切符を買います。そしてその後は18切符を使って東京に行き、鎌倉を10数キロ歩いてその日のうちに尾張一宮駅まで帰ります。こうすると東京往復が3100円くらいで済みました。ムーンライトながらになる前は、非常に堅い4人相迎えの椅子で眠るどころではありませんでした。非常な強行軍でしたが、若かったからできたのでしょう。今となっては懐かしい思い出です。私はまだ使ったことがないが、老人向けの割安切符もあるようです。いろいろ知識を得て、お得感を楽しむのもいいでしょう。


(第2791話) がん友 

2019年05月27日 | 人生

  “「生きてるっていいね」。小渕さんが「平成」の書を掲げたとき、テレビにくぎ付けになっていた四人は、新しい元号に感動しながら同じ言葉をつぶやいた。恵子ちゃん、戸田さん、蒲ちゃんと私。三ヵ月前の昭和最後の秋、私たちは県がんセンターで三ヶ月の入院生活を共にした「がん友」。退院後、初めて会っていた。
 おのおの不安な気持ちを持っていたと思うけど、四人そろって話ができるのがうれしくってうれしくって。周りの人から見ると、楽しそうなママ友に見えたと思う。三十代と四十代、随分若い。  それからも誰かの外来日に合わせランチして、前向きに病と付き合う話をしながら、明るく楽しい時を過ごした。家族にも言えない術後の傷の痛みから、「うんち」の話まで。必要なときに、必要な手を差し伸べ合える心強い仲間だった。
 それから三年後、恵子ちゃんが一人息子の小学校入学式を終えた後、入退院を繰り返し、雪の降るころ天国へ。戸田さんも。蒲ちゃんも在宅医療を続けながら、三人の子供さんに見守られ亡くなった。  一人生かされている私は、空を見上げて「平成が終わったよ。いっぱいありがと」。令和の時代に気持ちを新たにしている。”(5月8日付け中日新聞)

 愛知県一宮市の主婦・永井さん(73)の投稿文です。この4人の方は今から30年前、いずれも30代40代で愛知県がんセンターで手術された。そうして知り合い、交流されたが、3人の方は数年の後に亡くなったようである。永井さん一人が今まだ生きておられ、生きておられることに感謝し、こうして投稿されたのである。ボクも3年前に愛知県がんセンターでガン手術をしただけに、こうした話には身を惹かされる。30代40代で亡くなることは、今ボクが死ぬのとは訳が違う。いろいろな思いをされたであろう。本当に後ろ髪を引かれる思いであったろう。人間死ぬのは病気だけではない。交通事故もある。転落等もある。人間業で何でも出来るわけではない。宿命と受け入れざるを得ない。ただこの3人の方の場合、気持ちやその後のための準備期間はあった。約3ヶ月前、義弟が急死した。本人も周りの人も全く意識していなかった。どちらがいいと一概に言えないが、良い方に受け入れることであろう。そして人間とはそういう宿命のものだと、常日頃頭に入れておいた方がいい。言うは容易いが・・・・。


(第2790話) 切符あった

2019年05月25日 | 出来事

  “四月の家族旅行の帰り、東京駅の新幹線ホームで切符がないことに気付きました。子どもの手を引いて改札を通り上着のポケットに切符を入れたところまでは覚えています。この道中を戻りながら切符が落ちていないかを捜しました。改札で駅員に事情を説明したら「降車駅で再度料金を支払ってください」と。自分の不注意で招いた事態とはいえ情けなくなりました。
 名古屋駅に着き、駅員に東京駅でのことを伝えたら 東京駅に切符が届けられていたことが分かりました。指定席だったため家族の座席番号から私の切符との確認が取れ、無事改札を出られました。私の切符を拾ってくれたのはどなたか存じませんが、その節はありがとうございました。”(5月6日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・梅本さん(41)の投稿文です。新幹線の切符である。高価である。でも踏んでも何の抵抗もない小さなものである。急いでいる人は振り向きもしない。でもなくせば大変である。梅本さんは買った東京駅で気付かれたらまだよかったが、降りる駅で気づかれたらどうなるであろう。乗った駅を証明しなければならない。人を納得させることはなかなか難しいと思う。
 ところが落とした切符が届けられていたのである。そして、その切符が自分のものと納得してもらうこともできた。これはなかなか希有なことである。それが分かる梅本さんだから感激し、こうして投稿もされたのである。水臭い日本になってきたなと嘆きたくなるが、まだまだこうした話はあるのである。こうした話を少しでも多く紹介し、心温かくなって貰い、また自分も心がけようとされる人が多くなることを願って、この「話・話」を少しでも長く続けようと思うのである。


(第2789話) 小さな一歩

2019年05月21日 | 活動

  “新しい元号になりました。まだピンとこないものの、私は昭和、平成、令和と三つの元号を生きることになり、感慨深いものがあります。そこで、六十代も半ばを過ぎた私も、何か人の役に立つことをと思いました。小学校の交通安全指導ボランティアを担当していた人が、体調を崩されたのを機会に、交代することになりました。
 毎朝少し早めに起き、道路を渡る子供たちに「おはよう、いってらっしゃい」と声をかけて見守ります。「おはようございます」と元気に返事を返す子供たちの姿は、ばあちゃん世代の私から見れば、それはかわいいものです。
 この春に息子の家を訪ねた時に、新一年生になった孫はうれしそうに新しいランドセル姿を見せてくれました。毎日、交通指導に立ちながら、孫もこうやって毎日元気に登校しているのだなあと、子供たちを見送ります。おばあちゃんも頑張っているから、あんたも頑張りなさいよと、新一年生たちに孫の元気な姿をだぶらせています。
 おばあちゃんのささやかなボランティアですが、元気な子供たちの姿を見ていると、何か毎日が充実している気がします。令和元年、私のささやか過ぎるボランティア生活の始まりでもあります。”(5月5日付け中日新聞)

 三重県いなべ市の自営業・近藤さん(女・66)の投稿文です。子どもにとっても近藤さんにとってもいいことです。これはこの文で十分に分かります。  ボクの町内では、団体毎に当番日を決め登下校の見守りをしています。例えば老人会は毎週月曜日が当番日です。老人会では役員が当番に当たります。ボクは今年また老人会の役員ですので、見守りに行っています。自分から積極的に挨拶をします。当然返ってきます。これは登下校ではないときにもつながっていきます。こうして地域全体の安全安心が図られていきます。
 いろいろな地域の話を聞いていると、近藤さんのように自主的にされている町内が多いようです。そこで問題になっているのは、後継者がいないことです。今やっている人はもう70歳過ぎ、それも後半です。子どもと一緒に歩けません。近藤さんは後継者として始められましたが、近藤さんのように若い後継者が出て来ないのです。地域についていろいろ言う人はありますが、やる人が見当たりません。地域はどうなっていくのでしょう。


(第2788話) 中日ビル

2019年05月18日 | 活動

  “名古屋・栄の中日ビルが開館した一九六六(昭和四十一)年の数年後、私は短大を卒業してすぐにビルに入る中日文化センターの社員となった。ビルはいつもにぎわっていて、一階で受講生を出迎えるときのあのりんとした空気が好きだった。
 センターを訪れた版画家の巨匠棟方志功さん(一九〇三~七五年)や、ビルにあった中日劇場でリハーサル中のシャンソン歌手越路吹雪さん(一九二四~八〇年)を見掛けたときはそれぞれのオーラに圧倒された。諸事情のため二年弱で退社したが、栄の中心地で文化を発信しているビルの一員だったという自負があった。
 建て替えのため昭和と平成の世を見守ってきたビルが三月末で閉館すると知り居ても立ってもいられずビルを訪ねた。二〇二四年度に生まれ変わるという新しいビルが新元号「令和」の精神を具現化するものになることを願っている。”(4月28日付け中日新聞)

 愛知県清須市の主婦・横井さん(67)の投稿文です。昔名古屋は栄が中心市街地であった。ところがその後、鉄道交通の発達と共に名古屋駅周辺が急激な勢いで開発された。その分、栄が低下していった。そして、名古屋駅周辺の開発が進むと、栄がこのままではいけないと、また最近栄の開発が盛んになってきた。中日ビルもその一つである。
 実はボクの妻は中日文化センターの料理やお花の教室に通っていた。ボクと妻が交際していた昭和44年の頃からである。妻の教室は土曜日午後で、ボクは終わるのを中日ビルで待ち、そして2人で出かけた。結婚した後まで数年続いたと思う。そんな思い出のある中日ビルである。中日ビルの会館が昭和41年とはこの投稿文で知った。開館してまもなくであったことになる。横井さんが勤められたのは全く同じ頃となり、ヒョッとしたら出会いがあったかも知れない。その中日ビルももう50年以上立ち、建て替えとなったようである。栄もこれから建設ラッシュである。数年後にどのようになるのか、楽しみである。


(第2787話) 奇跡の友

2019年05月16日 | 活動

  “昭和三十四年のことです。岐阜県の田舎にある本屋さんで買った月刊誌「少女」に、一通の手紙が入っていました。誰かのいたずらだろうか。しかし、あることに気が付きました。当時は文通ブームで、希望者が編集部に手紙を送り、それを次号以降の雑誌の間に挾み、発売する企画があったことを思いだし、納得しました。
 期待と緊張で、ワクワクドキドキです。読んで思わず感嘆。美しい文字と巧みな文章に感動したことを、鮮明に覚えています。何かに背中を押された気がして、返事を書きました。手紙は群馬県の小学六年生の少女からのもので、同い年。共感することが多く、月に二回程度のやりとりから始まり、文通の楽しさと面白さを次第に実感していきました。
 お互い結婚してからの悲喜こもごもの日々の中で、子どもや孫の話題などになり、今は一年に数通の便りと電話で、季節の移ろいや健康のことを話すのが中心です。流れゆく日常の雑事に追われる中で、癒やしのひとときです。全国で誰の元に届くか分からなかった手紙で、偶然に知り合った奇跡とも思われる不思議なご縁は、六十年たった今も続いています。”(4月27日付け中日新聞)

 名古屋市の寺沢さん(女・71)の投稿文です。奇跡と言われる通り、こんな話があるのかと思ってしまう。まず雑誌に本物の手紙が入っていることである。アナログ時代と言えこんな企画があったことに驚く。昭和30年代前半と言えば、電話も一般的ではなく、通信手段は手紙くらいであったろう。見ず知らずの人と交際する手段は、ほとんどなかった。そんな中、雑誌に文通希望者の名前が記載されていた。実はボクもここで名前を見つけて文通したことがある。実際の手紙が同封されているものがあったとは今まで知らなかった。そして寺沢さんはこうして出会った小学6年の同級生と、60年以上立った今も交際を続けられているという。文通希望者として名が載った人には、何通、何十通と届いたという。それとは違うのである。最初から1対1である。こういう話を聞くと人の縁とは何とも不思議なものと思う。でも少し考えて見ると、人生はこうしたものの積み上げであることに気付く。今交流している人一人ずつについて、どんなきっかけであったか、考えてみると面白い。きっかけは些細なことが多い。人生とは妙味のあるものである。


(第2786話) オールドルーキー

2019年05月14日 | 活動

  “元号が令和に変わる今年は、私の四十代最後の年で、この節目に介護職の資格を取りました。新しいことにチャレンジするには勇気が必要です。介護の仕事をできるかではなく、やりたいかどうか、と考えました。いつか介護される身になる。生きていれば誰もが通る道です。両親や自分の老いにも、不安を感じる。老いや介護について知らないからです。心を空にして、きちんと学ぼう。学校で習おう。知識と技術を身に付けたい。
 ありがたいことに、今までよき師に巡り合ってきました。学生の時から水泳を続け体力もあります。何事にも不器用で苦労してきましたが、できないなら練習すればいい。失敗して覚えるたちだ。自分を信じてやってみようと思いました。
 福祉専門学校在学中から就活を始め、一目ぼれした開放感ある、景色のよい施設に就職できました。施設の前の桜が、私をやさしく迎えてくれました。配属されたユニットでは、最年長のオールドルーキーです。これから人生の大先輩の心に触れる。焦らず、慎重に向かい合おう。先生はおっしやった。「完璧な介護はない」と。私なりにすてきな介護をしていこう。”(4月24日付け中日新聞)

 三重県四日市市の介護職・森下さん(女・50)の投稿文です。50歳を前に福祉専門学校に入り、介護職の資格を取る。そして、施設に就職する。時折聞く話ではあるが、そうそうあるとは思えない。かなりの決意を必要とする。そして、何よりもそれだけのチャレンジ精神を持ち合わせていないとできない。そして言われることがいい。「できるかではなく、やりたいかどうか」と言われる。やりたい気持ちであれば、何にでも挑戦できる。できるかではする前に怯んでしまう。介護は生きていれば誰もが避けて通れない道です。これだけ長寿社会になればよりである。わが家でも長年、母を介護してきた。素晴らしい選択だったと思う。それにしても森下さんはそれまでどんな生活をされていたのか、気になる。どんな生活をされていて、このようなチャレンジ精神を持ち合わせておられたのか。
 ボクはもう余生、余生と言っている。本当に余生でいいのであろうか。


(第2785話) 私の平成 

2019年05月12日 | 人生

  “私なりに平成の三十一年を振り返ってみた。二十二年前の正月に書家の夫が七十三歳で急逝した。エレベーターに駆け込んだ弾みで転倒し頭を強く打ったのだ。その翌年。夫が残した作品を関係先三ヵ所に寄贈して回ってからの帰宅途中のことだった。乗り込んだバスがすぐに動きだした。私は車内で転倒して救急車で搬送された。それから一ヵ月間の入院生活を余儀なくされた。退院したら警察に呼び出され、なぜかバスでの私の失態を責められた。
 夫の死後、俳句に親しむようになった。飲料メーカが募る俳句に五回応募しこれまでに二度入選した。私の俳句が刻まれたペットボトルを知人に差し上げては喜びを分かち合った。私の「平成自分史」はとてもひと言では表せない。程度の差こそあれ文字通り喜怒哀楽の連続だった。しかしながら、こんなとりとめもないことしか思いつかないということはこの間の日本が平和だった証しのような気がしている。”(4月20日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・一上さん(88)の投稿文です。平成から令和になった。この機会に平成時代がいろいろなところで振り返られている。広い眼で言えば日本に戦争がなかった。明治、大正、昭和と戦争はあった。戦争がなかったことは大きな平和であった。でも日本はもう戦争などできる状況にはない。だからこれだけでは喜べない。ボクには総じて大きな負の遺産を残した気がする。
 そして、個人的にはどうであったろうか。これは千差万別であろう。ボクには40代前半から70代前半に当たる。人生の最盛期が大半であり、終末期に入ったところと言えよう。当然良いことも悪いこともいろいろあった。ただ総じて良いことが多かった気がする。これは、今静穏に過ごしているから言えることかも知れない。一上さんのようにこの機会に振り返ってみるのもいい。人生には正月や誕生日、新年度など気分を新たにするときがある。改元はスパンの大きいいい機会である。振り返り、新たな気分で次に臨むのである。
      「令和が始まる気分新たにし」  今月のボクの句である。


(第2784話) 「無念日」

2019年05月10日 | 活動

  “昨年末に会社を辞めてから手帳に空白が目立つようになっていた。そんな中、また「三月十一日」が巡ってきた。東日本大震災から丸八年。自宅で妻と一緒に東北の方角を向いて黙とうした。ふと「無念日」という言葉が浮かんだ。それからというもの御嶽山噴火の九月二十七日、阪神大震災の一月十七日、日航ジャンボ機墜落事故の八月十二日など過去の天災や事故の発生日をインターネットで調べては手帳に書き込んでいる。それこそ真っ白だった手帳が少しずつ埋まってきた。
 私自身これまで大病やけがをすることもなく生きてこられた。しかし世の人の中には天災や事故などで生きたくても生きられないことがあったことを知った。悲しい事故で惜しくも亡くなられた人を悼むためにも、手帳に記した数々の「無念日」には静かに目を閉じ、手を合わせようと思っている。”(4月18日付け中日新聞)

 愛知県瀬戸市の鈴木さん(男・62)の投稿文です。「無念日」とは聞いたことがない記念日である。鈴木さんの造語であろう。日本各地の天災や事故を手帳に書き込んでいく。無念な日の記録である。そしてその日になると、静かに目を閉じ、手を合わせる。何と奇特な行為であろう。関係者ではやっているかも知れない。でも無関係の人が、そこに思いを至らせながら供養する。天災や事故は誰にも起こりうることである。たまたま今まで起こらなかっただけである。もっと公にやって、戒めてもいい行為である。でも、毎日がそんな日になってしまって、とてもできることでは無いかも知れない。近年はそれ程に自然災害が多くなった。
 それにしてもいろいろな人があるものである。いろいろな知恵があるものである。自分なりのものを考えてもいい。参考になろう。