寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2921話) 見ている

2020年02月29日 | 出来事

 “私はもうすぐ社会人になって三年目となる。「最低でも三年間は会社で働け」という声をよく聞き、三年働いたらその先に何かあるのだろうかとずっと思ってきたが、私はまだ分からないこと、できないことだらけだ。年齢を重ねれば自然とできることも増えるのかと思いきや、物事はそんなに都合良くは進まなかった。経験は増えたが、その分難問にぶつかる可能性も増えてきた。自分の無力さにはあぜんとする日々だ。きっと何年たっても何をするにしても悩みは尽きないのかもしれない。
 ある日、仕事がうまくいかずに弱気になっていたら職場の先輩に声を掛けられた。「いつも頑張っているから」と私の大好きな紅茶の詰め合わせをそっと手渡してくれた。じーんときた。見てくれている人はどこかにいるんだー。そう思うと先輩の優しさが身に染みた。いただいた紅茶はお守りみたいに私のデスクの引き出しに今もある。”(2月4日付け中日新聞)

 名古屋市の会社員・岩渕さん(女・25)の投稿文です。「石の上にも3年」と言う諺からの3年でしょうが、本来は3年という期間ではなくある程度の期間と言うことのようです。そして、「難しいことであってもコツコツと努力を重ねれば、いつか物事を成し遂げられる」という意味です。ことによっては1年であったり10年であることもあるでしょう。どんなことも、経験が増したら苦労が減るかと言えばそんなものでもないでしょう。ことがより分かって、更に悩むこともあるでしょう。ボクは岩渕さんのようで良いと思います。誰もが同じような体験をしてきているので、コツコツと頑張っている人を見れば、岩渕さんの先輩のように応援してくれる人も現れるでしょう。これが普通なのだ、と思ってくよくよせず続けて欲しいと思います。
 「3日、3週間、3ヶ月、3年」と言う言葉があります。うまくいくか、挫折するか、分かれ目になる節目の期間です。乗り越えられる人は続くでしょうし、この期間で挫折する人も多いと言うことでしょう。最近の就職で少し調べてみると、大卒の場合で3年以内の離職率は32.0%、そのうちの4割弱の11.4%、中卒に関しては3年以内の離職率62.4%、そのうちの7割弱の41.1%が、1年以内に離職しているとあります。ボクらの頃は一度就職したらそこで過ごすもの、離職したら落ちこぼれの感でしたから、雲泥の差です。どちらが良いという気もありませんが「短気は損気」という諺もあります。


(第2920話) 「一、十、百、千、万」

2020年02月27日 | 知識

 “虚弱体質だった私がこの年齢まで生きられるなんて思いもしなかった。「健康にいい薬でも飲んでいるの?」とよく聞かれるが、特段何かを飲んでいるわけでない。若いときから「無理はするな」と言われ、七十余年前の戦時中はいかんともし難かったが、それ以外は何もしないでぼやっと過ごしてきただけだ。
 高齢者の健康のための条件は「一、十、百、千、万」と聞く。一日に十人と話をして百回深呼吸、千字を読むか書き、一万歩を歩くというものだ。
 私は毎朝、神社ヘラジオ体操に行って五~六と話をするが、その後何もない日は買い物で訪ねたスーパーで知人一人か二人と話すぐらいだ。深呼吸は読書やテレビを見ながらもでき、千字を読むためには新聞を開けばいい。一万歩の実行は難しく、ラジオ体操に出掛けて雑事をしてもせいぜい五千~六千歩で、その日ウオーキングにでも行けば別だが、毎日は無理! そんなことを考えながらぼーっと過ごしている私だ。”(2月1日付け中日新聞)

 岐阜県大垣市の奥田さん(女・94)の投稿文です。虚弱体質だったと言われた人が、94歳でこの文章である。人生全く分からぬものである。幾つまで生きるだろうと思うほど元気な人が突然亡くなったり、奥田さんのように弱い、弱いと言いながら長生きしたり。寿命は理屈で無く宿命であろうか。良いと言われることできるだけやり、悪いと言われることは止め、後は天命を待つ、これしか無かろう。
 高齢者の健康のための条件は「一、十、百、千、万」と聞き、それを自分に当てはめておられる。ボクとして当てはめれば、1日に10人と話すのは集まりでもない限りかなり困難な気がする。ともかく出かける機会を作り、会う人ごとに挨拶をすることであろう。昨日のボクは達成している。100回の深呼吸は意識していなかったので、できていない。1000字を読む、書くは毎日できていると思う。そして今1日の歩数は5000歩前後であるが、歩くのはまだ自信がある。
 「一、十、百、千、万」は聞いたことがなかったので、少し調べてみたらこんなのが出てきた。1日に1回は自分をほめる、10回は笑う、100回深呼吸する、1000の文字を書く、10000歩歩く、と言うのである。いろいろあるものである。


(第2919話) 私たちの挑戦

2020年02月25日 | 活動

 “年号が令和に変わった昨年のこと、お気に入りの喫茶店に集まる仲間で、令和になった記念に何か挑戦しようということになりました。「令和初の歌会始はどう」という提案に、誰もが自信のない短歌ですが、やってみようということになりました。そして、それぞれがお題の「望」の文字を詠み込んで、宮内庁に応募できました。
 その後四ヵ月の間、私たちは大いに盛り上がりました。皇居へは誰と行くのか、何を着るのか、礼儀作法はなどなど。最終的にはあの長い時間、緊張と姿勢が保てるか、わくわくやら、心配やらの話で持ち切りとなりました。
 そして年末、当然といえば当然ですが、誰のところにも通知は来ませんでした。年の終わりに、みんなで大笑いしながら、「この経験は一生の宝物だよね」と言い合い、とても良い一年の締めくくりとなりました。
 年が明けた今年、私たちはまた、新たにみんなで挑戦をという話になりました。その結果、今年は「くらしの作文」と「300文字小説」になりました。どちらもハードルの高い挑戦。ですが、結果の出るまでのわくわく感、年末の大笑い、どちらも健康に良いし、若さの保てるすてきな挑戦と信じています。”(1月31日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の主婦・牧さん(74)の投稿文です。これは全く楽しい、面白い。喫茶店に集まる仲間がどんな集まりで、何人の仲間か分からないが、全員が歌会始に応募するなど、なかなかできることでは無い。かなり高尚な素晴らしい仲間であろう。叶わない夢で楽しむのもまた面白い。そして、「くらしの作文」と「300文字小説」に挑戦することになったとは、驚く。でもこの仲間ならありうることである。こちらの方は採択される可能性はかなり高い。もう夢物語で無かろう。いつかきっとこの報告があると思う。
 ボクの仲間でこんなできる可能性は・・・あるある。ひとつは「アールグレイ」という作文の会である。文を書く仲間である。今度会ったらこの文を見せ、提案してみようか。更に、川柳連れ連れ草の仲間であろう。現に、この仲間で歌会始に応募している人がある。ボクは牧さんより条件がそろっていると思う。今まで、こういう脇道を考えなかっただけである。やれることはやる、楽しめるものは楽しむ、残された人生、大いにやりたいものである。


(第2918話) お祝いの一通

2020年02月23日 | 出来事

 “今年、わが家に以前同居していた孫あてに一通の年賀状が届きました。孫たちが引っ越してすでに十年たっています。その年賀状を孫の母である娘に渡しました。じっと見ていた娘の顔が、一瞬にして笑顔満開になりました。よくよく見れば、年賀状の鏡餅の上には、ミカンの代わりに幼い孫の顔が乗っていました。差出人は保育園で年長組の時にお世話になったY先生でした。
 その心温かい年賀状に、孫は大いに喜びました。さっそく書いてあったアドレスにお礼のメールを送り、自分の近影を貼り付けて近況を伝えたそうです。その後先生から、幼かった園児の成長ぶりを見ての喜びのメールをいただいたようです。
 Y先生は毎年、新成人になった教え子の卒園児一人一人に年賀状を送られているようでした。それを受け取った元園児たちの誰もが、穏やかなお正月を過ごせたことと思います。
 孫には、Y先生の人としてのお気遣いを胸に刻んで、これからの人生を、思いやりを忘れず、生きていってほしいと思います。私たち夫婦が張り込んだ孫への成人祝いが軽く吹き飛んでしまうほどの、お祝いの一通でした。”(1月30日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・竹内さん(74)の投稿文です。保育園の卒園時の担当先生から、成人式のお祝いに年賀状が届く、卒園児の写真まで載っている、まさに感激であろう。こんな活動をされている人がある、ボクもびっくりである。本当に世の中様々、人様々である。これはY先生の大きな楽しみになっているだろう。そして、感激の返信を出す人も多かろう。それがまた楽しみであろう。素晴らしい行動だと思う。
 先生は苦労も多いと思うが、楽しみも多いと思う。何しろ幼い人を相手にするのである。日々いろいろなことが起きる。成長がある。そして、幼い頃の思い出はいつまでも残る。ボクの娘婿は小学校の教員である。話を聞くと大変だが、でも子供が好きでたまらないようである。それだけ子供には魅力があるのであろう。


(第2917話) 私の宝物

2020年02月20日 | 行動

 “令和二年もはや、一ヶ月が過ぎようとしています。私は結婚して五十一年。結婚と同時につけ始めた日記も、五十一冊目になりました。この日記は結婚するとき、母から、「毎日つけるといいわよ」と手渡されたのが最初でした。母も長いこと、この同じF社の日記をつけていました。
 はじめは何となく書いていましたが、毎日続けて書くうちに習慣となり、現在に至っています。書くということは、脳を活性化させるばかりか、記憶力の低下防止にもなっています。忘れかけていたことを思い出したり、人に聞かれたことにもすぐに返事ができたりしました。その日の出来事、収支計算、心に学んだこと、明日やこの先の計画など、何でも書きました。
 バラバラと繰ってみると、二人の子どもの出産、進学、結婚、孫の誕生や両親や兄弟との別れ、うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、侮しかったことなどがつづられており、これまでの来し方が思い出されます。私も後期高齢者となり、体力、知力が減退してきている今日このごろです。この五十一冊の日記を宝物として、この先も書き続けていくつもりです。”(1月29日付け中日新聞)

 愛知県常滑市の中山さん(女・76)の投稿文です。結婚と同時に付け始めた日記帳が51冊である。51年51冊と言うことは1年用の日記であろう。書くスペースも多かろう。まさに中山さんの人生、自分史である。宝物と言われる訳である。宝物と言われても言い過ぎとは思えない。習慣化すれば凄いことができるのである。
 妻は結婚した翌年から家計簿を付け始めた。今年金婚式であるので、49冊目と言うことになろうか。そして当初から同じ家計簿である。少しのスペースであるが、メモ欄がある。そこに出来事を書いている。ボクは時折それを参考にすることがある。中山さんにはとても及ばないが、支出入を付けメモを書く、立派だと思う。
 ボクは昭和60年から3年連用日記を書いている。36年12冊である。スペースは中山さんの3分の一であろうか。これも中山さんには及ばないが、それでもボクの宝物である。そして継続は宝物を生むのである。


(第2916話) 不思議なご縁

2020年02月18日 | 出来事

 “戦時中、私は女学校卒業後家業の農業を手伝っていました。ある日、女学校の校長先生がわが家を訪ねてこられ、「男の先生が軍隊に取られるので、急いで師範学校へ入学し、教員になってくれ」とのことでした。上からの命令は絶対の時代でした。師範学校では下宿生活で、三ヵ月通い、卒業の翌日から勤務。二年生の担任になりました。十九歳でした。
 時は流れて今、九十七歳となり、週二回のデイサービスに通っています。この施設に凛とした、頭髪の真っ白いおじいさんが来られました。八十四歳とのこと。話をしているうちに、七十八年前のかわいかった教え子のA君ではないかと思い、尋ねると、やはりそうでした。お互いに健康でいたことを喜び、しばし、無言で手を取り合いました。
 教え子と同じ介護施設で、同じテーブルを囲み、お茶を飲みながら当時を思い出し、タイムスリップ。廃校となった校舎、教室の片隅のオルガンなどが頭に浮かびます。さらに当時、私が勤め始めた時の校長先生は、A君の父だったことも判明。私の息子が、A君の勤めていた中学校へ新任教員として赴任していたことも分かりました。人生には不思議なご縁があるものですね。”(1月26日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の中島さん(女・97)の投稿文です。本当に縁とは不思議なものですね。中島さんのようにこのくらい重なると、もう言いようがありません。この間、80年くらい経っています。まさに人生の妙味でしょう。楽しくなってきますね。
 ボクも地域活動に関わるようになって、いろいろな縁を感じています。特に妻は昔から地域で活動してきましたので、妻の知人やその配偶者に出合うことも度々です。そうするとやはり身近に感じられ、旧知の間柄の気分がしてきます。事柄もスムーズに進みます。ボクは自己紹介するとき「○○の夫です」と言って貰った方が分かりやすいと時折言われました。妻に助けられたと言うことでしょう。サラリーマンの職場は地域から離れることが多い。どうしても地域と疎遠になる。女性は地域外に職場があっても、子供ことなどで地域に関わる機会もある。子供を妻任せの男性は、地域とのつながりがほとんど無い。それが退職すると、職場とのつながりは次第に薄くなっていく。もう地域である。ここからが問題である。それを自覚し、昔とはすっぱり縁を切り、地域に溶け込める人はいい。それが地域に入っても昔の肩書きを意識している人は溶け込めないし、排除される。ここが豊かな老後との分かれ目である。昔を見ず、前を見て歩こう。昔築いた能力は生きることもある。また思いがけない縁を見いだすこともある。
 それにしても中島さんは97歳である。そしてこの文章である。この記憶である。素晴らしい。


(第2915話) 冷凍保管

2020年02月16日 | 出来事

 “昨年暮れの大みそかから元旦にかけて、催事のため一人で岐阜県の実家に戻りました。その後、愛知県に戻り妻の実家へ向かう電車の車内で、私は解放感と寝不足から眠ってしまいました。乗換駅に到着したことに気付くのが遅れ、慌てて降車したため網棚に保冷バッグを置き忘れてしまいました。中身は実家で食べきれなかった冷凍の牛肉でした。
 翌日、鉄道会社の忘れ物の問い合わせ窓口に電話したら、乗車した電車が折り返した先の駅でバッグは保管されているとのことでした。牛肉は処分されていると思いましたが、保冷バッグだけでも回収しようとその駅へ取りに行ったら、凍ったままの牛肉があって。駅で肉だけを取り出してわざわざ誰とも知れぬ落とし主のために冷凍庫で保管してくれたようでした。そのことに私は感激し、これぞ日本人の「おもてなし」の精神からくるものだと思いました。日本企業の仕事の質の高さを感じました。”(1月22日付け中日新聞)

 愛知県稲沢市の会社員・後藤さん(男・40)の投稿文です。冷凍保管が必要な忘れ物をどうやって預かるか・・・あまり関係ないボクには考えたことも無かった問題である。鉄道会社である。忘れ物も多い。冷凍保管して預かっていることを知って、納得すると共に、感心し、大変だなと思う。でも、冷凍保管ができない場所もあろう。警察署はどうなのだろう。その他公共施設はどうなのだろう。疑問は次々湧く。後藤さんは感激された。
 昨年12月末、ボクは帰宅のバス車内に忘れ物をした。忘れ物などほとんどしたことが無いボクなのに、これも老化かと嘆く。それも、自分で買ったものならまだしも頂き物である。家に帰ってすぐにバス会社に電話をする。しばらく待つと連絡が入った。見つかったというのである。翌日バス会社で受け取ることができた。多分終点で運転手さんが車内を点検し、見つけられたと思う。親切な対応であった。
 社会は自分の知らないところで、いろいろな配慮や対応がされている。迷惑をかけるとは、実は自分も大変なのである。ボクの忘れ物にしても、忘れなければそれだけのことである。電話をしたり、改めて受け取りに行くこともなかった。細心の心がけを改めて思った。


(第2914話) 登校の見守り

2020年02月14日 | 活動

 “今朝も一仕事を終え、熱い茶で喉を潤した。私は微力ながら八年前から地元愛知県春日井市の子ども応援団「地域のおじさん・おばさん」の一員として登校する児童らの見守り活動を続けている。十年前、妻が金婚式を目前にして亡くなってから私はどうしようもない寂しさを覚え、それから逃れようと日ごろ世話になっている地域への恩返しとして見守りに参加するようになった。
 シルバー仲間と街頭に立つのは信号のない交差点だ。そこを四百人近い小・中学生と高校生が渡っていく。ちょうど通学と通勤が重なる朝方の三十分間はこの交差点をひっきりなしに車が行き来する。事故が起きないよう、車と子どもたちのそれぞれの「ゴー」「ストップ」をタイミングを見計らいながら的確にさばいていく。この交差点を子どもたちが無事に渡り終えたら心底ホッとできる。元気に登校する子どもたちの姿に癒やされ、元気づけられ、生きがいを感じている今日この頃だ。”(1月20日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の今井さん(男・87)の投稿文です。87歳で登校の見守りとはまた元気な人である。それも80歳から始められている。その気になればいくつになってもできるものはあるのだ。それが元気の素になり、生き甲斐になる。
 きっかけは奥さんが亡くなったことからである。配偶者を亡くすと言うことはどういうことか。いくら仲のよい夫婦であっても死ぬときまで一緒と言うことは、事故で同時に亡くなること以外は難しい。後先があるのである。片方が亡くなったときの嘆きは相思相愛の夫婦ほど大きい。ボクなど絶対に耐えられないと思う。その時のための準備の話もあるが、とてもそんなこと考えられない。なったときの成り行きに任せるしかない。ただボクが先に亡くなる場合のことは考えておかねばならない。これならできる。今年は是非これを進めたい。
 女性の寿命の方が男性よりはるかに長いと言っても、それは平均である。個々は別である。そして、周りには配偶者を亡くした男性はいくらでもいる。どうされているのだろう。 今井さんのように立ち直っている人は多いのだろうか。


(第2913話) どぶろくまつり

2020年02月12日 | 出来事

  “大府市長草町の長草天神社で十八日、市の無形民俗文化財にも指定されている例祭「どぶろくまつり」 (二月二十三日)で振る舞われるどぶろくの仕込みが始まった。
 五百二十年を超える伝統の祭りで、酒の仕込みは六組に分かれた同地区の人たちが毎年持ち回りで担当する。この日は本郷組の人ら三十五人が同社境内の酒造所に集合。三十キロの酒米を蒸してから大きなしゃもじで広げ、熱を飛ばしてから麹とともにたるへ移した。
 今後は数日おきに同様の作業を繰り返し、最終的には約四百リットルのどぶろくが完成する見込み。本来は寒さの中じっくり発酵させるのが理想だが、今年は暖冬なこともあり、一気に発酵するのを防ぐために氷を使って冷却するなどの手間もかかりそうだという。
 本郷組委員長の加古良雄さん(七一)は「皆さんが無病息災や五穀豊穣を願って飲んでくださる祭りなので、いいどぶろくを造りたい。天気にも恵まれますように」と願っていた。”(1月19日付け中日新聞)

 記事からです。先日の2月1日(土)、一宮友歩会の例会でこの神社を訪れました。そしてボランティアガイドの方から説明も受けました。こうした記事を読み、訪れてみれば知識が深まります。この建物が酒造所で、ここに貯蔵されているのか、今年は氷で冷やしているのか、と興味も増します。また、2月に行くと言うことでこの記事にも目がとまりました。縁を持てば興味は深まるというものです。
 このどぶろく祭の継続について、状況を聞くのを忘れましたが、どうなんでしょう。どこも後継者不足に困っている話を聞きます。指定文化財でもそのようですので、そうでないものは更にでしょう。ボクは先日、地元神社の賀寿厄祭報告祭という祈願祭に参列しました。ボクは今年金婚式と言うことで、奉納しておきました。いろいろな内容で奉納されている方は50名以上あったと思います。しかし、参列された方は3名でした。お金を出して終わりです。以前は拝殿がいっぱいになるほど参列されていた記憶です。これではこれから伝統行事はどうなるのでしょう。実はボクはこの神社の氏子総代を今年4月から3年間務めることになっています。もっといろいろな実態を知るでしょう。何を知り、どうなるのでしょう。


(第2912話) ペンフレンド

2020年02月10日 | 行動

 “もう六十年近く前になるのかな。当時、文通がはやりだしていて、私もペンフレンドが欲しくて、「中ニコース」という月刊誌に出してもらったら、全国から多くの人に手紙をもらった。十人ぐらいの人と文通を始めたが、その中の一人とはいまだに続いている。
 同じ「恵美子」という名前で、不思議にも私は結婚して、彼女の旧姓と同じ名前になった。そして、私の結婚式には、遠く仙台から出席してくれた。その後、何度か会ったが、東日本大震災があった。彼女の家はそれほどの被害はなかったのだが、生活物資がなかなか手に入らずに困っているのを知る。そんな時、娘婿がボランティアで震災地へ行くというので、彼女の家に物資を届けてもらった。特に、お孫さんへのお菓子は、とても喜んでもらえた。
 彼女は携帯電話を持っていなくて、今はやりのメル友にはなれない。いまだにペンフレンドとして文通している。七十歳代のおぱあちゃん同士で。昭和、平成、令和と時代は変わったが、私たち二人は、もう少しペンフレンドとして、続いていくものと思っている。”(1月18日付け中日新聞)

 愛知県安城市の伊藤さん(女・72)の投稿文です。伊藤さんはボクと同年代である。そして中学高校生の頃、文通がはやったことも記憶している。何を隠そう、ボクもこういう雑誌から名前を見つけて、文通したことがある体験者である。そして、ボクの場合数年で終わる。伊藤さんは60年同じ人と文通をし、今も続いている。文通以外の交流もあった。近くで会える友人とはまた違った気持ちであろう。それがまたいいのであろう。手紙というのもいい。書く、残る、返信はすぐ来ない、最近はやりのメールとかラインとは違った特徴がある。
 人との交流を長続きさせることは、容易のようで難しい。これはもう相性であろうか。無理に気を使う関係では長続きしない。こういう長続きする関係を持たれたことは幸せである。これがいい出会いであろう。ボクなど知り合いは多い方だと思うが、真情を吐露できる人となれば何人あろうか。