寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2750話) 友にエール

2019年02月28日 | 活動

 “私の友が先日、国際協力機構(JICA)海外協力隊のシニア隊員として、アルゼンチンに農業技術指導者として派遣されました。私たちはともに岐阜と長野の県境の零細農家の長男として生まれ、幼いころから野山を駆けずり回りました。親たちの農業を手伝いながら、さらなる高みを目指し、農業高校で学びました。
 その後、最新の農業技術を学ぶため、それぞれカナダ、アメリカで複数年研修。帰国して私は酪農、友は園芸に従事しました。私は十数年で力不足のため挫折し転職しましたが、友は努力のかいあり、息子を立派な後継者に育て上げ、六十五歳を転機に経営を譲りました。
 そして四十数年で身につけた高度な農業技術を、少しでも役立てることができないかと考え、海外協力隊のシニア隊員に応募。見事合格して旅立つことになったのです。努力家の友は、さっそくスペイン語の勉強に取り組み、六十の手習いで始めた趣味の津軽三味線の腕も、ますます磨き上げました。彼なら、日本の農業技術と文化を、アルゼンチンの人々に広く伝えることができると思います。ひと言、「健康に気をつけてナ」と声をかけ、友にエールを送りたいと思います。”(2月2日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の自営業・松井さん(男・67)の投稿文です。またまた凄い人があるものだ。海外協力隊など若い人でも凄いと思うが、65歳である。元気な65歳なら、今の時代全くの隠居でもあるまいが、それでも始めての海外協力隊である。技術的なことは今までの経験知識で十分であろうが、言葉の勉強から始めるのである。人の能力と意欲は凄いのである。
 そして、人によって余りに差が大きいのである。差の大きさは能力と言うよりは意欲であろう。考え方であろう。しかし、これは人間性でもある。今ボクの関心は地域の役員である。もうこの「話・話」で何度も書いているが、余りに情けないのである。従来からある組織が瀕死の状態である。海外協力隊に比べれば全く小さな事である。新たな組織の発足はあるのだろうか。ないことが当たり前の社会になるのだろうか。
 先日ボクが会長を務めるサロンで「三味線と唄の集い」を催した。50名近い参加者で大いに盛り上がった。ボクが司会を務め、三味線に合わせ斎太郎節を唄った。疲れたが一番楽しんだのはボクではなかろうか。しなければ楽しみもない。みんなの協力を得ればこんなこともできるのだと、喜びもある。


(第2749話) 見守りおじさん

2019年02月26日 | 出来事

 ”一月の「成人の日」、新成人の男女計六人が晴れ着姿で私を訪ねてきた。かつて私が小学校の通学路に立って登校を見守った地域の子たちだ。成人式を終えて一人が「見守りおじさんに会いたい」と言ったので皆で来てくれたそうだ。
 私はとてもうれしかったが、少し驚いた。会いたいと言いだしたのは、あのときはとてもやんちゃで登校時の分団の列を乱すことが多かった男の子だったからだ。見かねた私は彼が小学校五年生のとき、「高学年なのだからしっかりしろ」とつい叱ってしまった。以来私は彼に嫌われているとばかり思っていた。
 小学校を卒業してからは一度も会わなかった彼は好青年になっていた。他の五人と同じく礼儀正しくて落ち着いていた。短時間だったが皆童心に帰って小学校時代の思い出話に花が咲いた。帰り際に全員で記念写真を撮った。彼らが私のことを忘れずにいてくれたことに目頭が熱くなった。”(2月2日付け中日新聞)

 名古屋市の自営業・宮地さん(男・74)の投稿文です。宮地さんには嬉しかったことであろう、こんなこともあるのである。このやんちゃな子にとって、叱られたことは余程心に残ったのであろう。子どもは社会で育てるものだ。自分の子も他人の子も同じように接する。叱るときには叱り、褒めるときには褒める。とは言うものの、他人の子を叱るには大きな勇気が要る。今の時代は更に難しくなっているだろう。ヘタに叱ろうものならどんな反響が返ってくるのか知れたものではない。宮地さんには叱れるだけの信頼があったのであろう。
 ボクに他人の子を叱った覚えはない。最近のボクが子どもと接するのは、夏休みのラジオ体操と地元の役員をしているときの登下校の見守りくらいである。ラジオ体操では子供らと一緒にやり、そして見守っている。これだけでも感謝されている。今年4月からまた老人会の役員をするので、登下校の見守りに参加しなければならない。大きな声で挨拶をする。心がけたいと思う。


(第2748話) 主治医の言葉

2019年02月24日 | 意見

 “二十五年前にリウマチを発症し、子育てをしながら病院通いを続けています。いま診てもらっている整形外科クリニックの先生はリウマチの専門医で、患者の気持ちをよく分かってくれます。リウマチは関節が炎症を起こして軟骨や骨が破壊され、ほっておくと関節が変形する病気です。「痛いのにいつも前向きで明るいね」「一生懸命頑張ってくれるから、自分もリウマチの医者になったかいがある」とやさしい言葉をかけてくれます。
 正直、手足が痛くて泣けてくるときもありますが、先生の言葉が励みになって頑張れます。本当に良い先生に巡り合えて良かったなと思います。
 本欄には、患者に暴言を吐いたり、ひどい態度をとったりする医師についての投稿があって驚きます。つらい治療を乗り越えることは患者だけではできません。私の主治医のように患者に寄り添う医師もたくさんいると信じているし、そうあってほしいと願っています。”(1月29日付け中日新聞)

  「ホンネ外来」という欄から愛知県の女性(50)の投稿文です。「ホンネ外来」には病院や医師等の対応で、いろいろな意見が出てきます。このように良い医師に会えた、医師の言葉が冷たかったなど、患者も様々、医師も様々です。店や学校等でもいろいろありますが、病院や医師は常時、それも大半が苦痛や命に関わる人を相手にするだけに、その重さは訳が違います。ちょっとした言葉が患者に与える影響もとてもなく大きい。ですから「ホンネ外来」でも不満の投稿が多いのでしょう。そして、時折こうした感謝の投稿があります。
 不満を言われる患者の気持ちはよく分かりますが、医師の立場に立つとそうばかりとは言っておられません。医師も人間です。気分の良い時も悪い時もあります。一々親身に感情移入をしていたら体が持ちません。医師は選ばれた人でしょう。高収入の人も多いでしょう。でもあの勤務状況を見ていると、ボクにはとてもなく酷に思えます。パソコンばかりみていて患者を診ていないという不満があります。これも程度でしょうが、でもあれだけパソコンに打たなければならない状況になっているのでしょう。後でパソコンに打っていれば患者の待ち時間は長くなります。ボクも本当のことは分かりません。場合、状況もあるでしょうが、ここは一度医師の立場に立ってみることも必要ではないでしょうか。


(第2747話) 新年ビンゴ

2019年02月22日 | 活動

 “昨年十二月二十五日付本欄「家族でビンゴ 景品何に」を読み、すてきなおじいちゃんだなと温かい気持ちになりました。新年に親戚でビンゴをするのは良いアイデアだと思い、今月三日に夫の実家に集まったときに私もやってみました。
 投稿を読んだ翌日から早速景品を探しました。義兄一家とわが家の子どもたち計六人は幼児から大学生までと年齢はさまざまで商品選びは迷いましたが、投稿にあったように少しでも皆が笑ってくれるような中身にしたくて菓子やおもちゃ、入浴剤などをいろいろと買い求めました。
 親戚十二人で同じゲームをするのは初めてでしたが、小学生の娘たちが司会をしてくれ、皆で楽しむことができました。夫の両親と義兄夫婦にはお世話になってばかりなので、少しですが恩返しができた気がしています。来年は皆にもっとビンゴで喜んでもらえたらと思っています。”(1月29日付け中日新聞)

 愛知県江南市の主婦・伊藤さん(37)の投稿文です。ビンゴゲームというと、ボクはバス車内を思い浮かべますが、当然家族でもできますね。でもなかなか思い浮かびません。良い思いつきだと思います。ボクの家も正月は子どもや孫が集まり、10人になります。孫が小さい頃はゲームでしたが、今は何となく食べてしゃべるばかりです。そして、ボクらは話に入れません。迎える側は大変だけで、最近は詰まらない思いでした。そして、今年は、疲れるからわが家での集まりを止めると言いました。そしたら、長女の家に集まろうということになりました。老いた親に子どもといえど、多くの人が集まるのは大変だと分かってくれたでしょうか。そしたら妻は、家にあるいろいろなものをかき集めて、10人分の景品を作りました。ジャンケンで勝った人から順に景品をひいていきます。ジャンケンの親はボクです。結構盛り上がりました。そして、ボクも中に入ることができました。妻の気遣いです。ビンゴゲームと同じようなことです。家族に合ったいろいろな工夫が必要でしょう。


(第2746話) 平成の言葉

2019年02月20日 | 活動

 “【二十数年間、干潟を守る市民運動を続け、ようやく挙げた一勝。九回裏二死からの逆転本塁打だ。  *日本湿地ネットワーク 山下弘文さん】
 一九九九(平成十一)年一月二十五日、渡り鳥の有数の飛来地、名古屋市の藤前干潟の埋め立てを市が断念。ごみ処分場にする計画だったが、環境保護の声に屈した。三年後、国際的に重要な湿地の保護を定めるラムサール条約にも登録。(肩書は当時)”(1月26日付け中日新聞)

 「平成の言葉」と言うコラム欄からです。藤前干潟が騒がれてからもう20年になるのか・・・干潟は残った。一宮友歩会の例会で見に行ったこともある。今年になってまた騒がれている新聞記事を見た。プラスチック始め、上流からのゴミがとてもなく多く堆積しているという。ボランティアの人ではとても裁ける量ではないという。川は上流があって下流がある。全体が一体にならないと守れない。先人の努力を無駄にしてはならない。
 ボクが今回「平成の言葉」としてを取り上げたのは、もう一つ別の理由がある。ボクは毎朝、この言葉の書き写しをしているのである。数年前に「天声人語」の書き写しを始めた。しかし、なかなか続かない、書けない。昨年からこの「平成の言葉」に切り替えた。約600字から約200字に減った。昨年中頃から軌道に乗り始め、今では半分程度気に入った言葉を書いている。書き写しはいい。まず楷書で丁寧に書く。次第に字も整ってくるし、キチンと覚える。言葉も覚える。こちらはすぐに忘れるが。600字はかなり疲れるが、200字は楽である。いつか600字に戻りたいと思っているが、今は200字を日課になるまで続けたいと思っている。是非お勧めしたい。


(第2745話) 教科書のお下がり

2019年02月15日 | 活動

 “一年前大学生になった孫娘から、中学三年用教科書「国語3」をもらった。小さな書き込みや赤鉛筆の線引きが多くある。時々取り出して、目を通す。繰り返し読んでいるのは、井上ひさしの小説「握手」。終戦直後に児童養護施設の生徒だった人たちを、元園長の修道士が訪ね歩く話。「死ぬのは怖くありませんか」と問われたが、修道士は「天国へ行くのですから、そう怖くはありません」。このセリフが気に入っている。
 孫娘が遊びに来た。「もらった教科書、よく読んでいるよ」と私。孫娘は教科書を手に「今道友信の随筆『温かいスープ』が大好きだったわ」と。哲学者の作者が、戦後間もないころに外国勤めをしたときの体験談である。昭和に書かれた文章を、平成生まれの孫が読み、心に留めている。私は「いつまでも覚えていてね」と話した。
 卒業すると、教科書はどこへ行ってしまうのか。「国語3」は小説、古文、論文、随筆、詩、短歌、俳句などの章があり、好きなところを開いて楽しめる。これからも読もう。そしていつの日か、「ありがとう」と返そう。孫娘は「今度来るとき、高校の教科書を持ってくるね」と約束した。”(1月26日付け中日新聞)

 愛知県犬山市の主婦・武内さん(77)の投稿文です。読書に、ボケ防止に中学校の国語の教科書を読む、こんな方法があったのだ。教科書にはいろいろなことが書いてある。中学校で学んだことなどほとんど忘れているし、かなり変わったであろう。新たな気分で読めるだろう。気易く読めるであろう。また孫との交流のきっかけにもなる。いいことずくめである。しかし、している人はほとんど無いだろう。まず思い至らないのだ。投稿欄にはいろいろな知恵が埋まっている。この「話・話」を続ける気持ちに繋がっている。
 今、教科書は無償化で全員に新しいものが配布されているのだろう。ボクらが小学生の頃はお下がりの人も多かったと思う。ボクも近くの人から貰っていた。学校給食もなかった。今から思うと、そんな時代があったことが何か嘘のような気がしてくる。70年の時代の変遷はすさまじい。昔を懐かしむだけではいけないが、失ったものも多い。昔を生かす部分もある気がする。


(第2744話) 新しい年号

2019年02月13日 | 人生

 “新しい年が明けました。年末年始は、テレビのニュースなどで「平成最後」という言葉がよく言われていました。この三十年間で、私は平成二十三年の出来事が忘れられないのです。
 一月十六日、最愛の娘を三十八歳で亡くしました。その二ヵ月後の三月十一日、東日 本大震災が起きました。そして五ヵ月後の八月六日、四十年連れ添った夫が娘の初盆を 待たずに旅立ったのです。震災では、多くの方々が帰らぬ人になりました。ちょうど私が還暦の年でした。
 三十年間の思い出は、人それぞれでしょう。思い出したくない平成二十三年です。そ うはいっても、忘れるものではないのです。私にとってあまりにもつらく、悲しい年でした。皆さまもその時代時代にはきっと、何かあったでしょう。七回忌がきてしまいました。夫の実家がある東北に行って、法要を済ませ、涙があふれることは何年たっても同じです。
 五月の改元、そんなに経験することはないです。ちょうど今年は気持ちを切り替えるチャンスなのです。一歩前に進んでいける年なのです。亡くなった多くの方々の分まで生きなくてはいけない年なのです。人生にもう一回春が来ます。それを信じて。”(1月25日付け中日新聞)

 名古屋市の石川さん(女・68)の投稿文です。石川さんの23年のように悪いことがいろいろ重なる年があるものです。なぜ私ばかりと嘆かれたでしょうが、それもじっと我慢でした。そして、改元の年を迎えることになりました。亡くなった人の分まで生きていこうと思われるようになりました。いろいろ乗り越え元気になられた証拠です。もう1回春は来ます。これからを楽しんで欲しいと思います。
 ボクは6のつく日が嫌だと思った時期があります。伊勢湾台風が26日、第二諸戸台風が16日、そして父の交通事故が6日でした。1、2年の間に重なって起こりました。逆に良いことが重なる年もあるでしょう。多分ボクにもあったと思いますが、今急には思い出せません。多くの人に大きな出来事の卒業、入学、就職は同じ年に起きます。思うようにいった人は大喜びの年になります。ボクは近年では平成18年でしょうか。でもものは捉えようです。良いことばかり、悪いことばかりということは少ないでしょう。1年365日の間にはいろいろなことが起こります。悪いことは忘れ、良いことを覚え前向きに生きたいものです。でも人間、逆になる傾向が多いのですから、気をつけたいものです。


(第2743話) 四国遍路

2019年02月11日 | 活動

 “年明け、高野山にお礼参りに行ってきた。念願だった四国遍路を無事結願したのだ。きっかけは、高校時代の映画会で見た「旅の重さ」だった。この映画は、少女が遍路をしながら、人との出会いの中で成長していく話で、印象深く頭に残っていた。もう一つは、母親の実家に途中までの納経帳が、仏壇の中にしまわれていたことだった。幼いころ、かわいがってもらった祖父の弟のもので、体が弱く、志半ばで結願できず、無念だったことがしのばれる。
 いつかこの納経帳を持って四国遍路をしたいと思っていた。その矢先である。娘に自転車遍路を実行されてしまった。半分悔しさもあり、勢いがつき、二年がかりで娘の自転車を借り遍路を終えた。遍路では道中、娘がお世話になった遍路宿や自転車屋などの人たちを訪ね、娘の頑張りを垣間見ることができうれしかった。一人で頑張っていたんだな、と娘ながら褒めてあげたい。
 遍路での人との出会いが、何よりの財産となった今、娘がつないでくれた縁のおかげで、道中お世話になり心強かった。このご縁を大事にし、さらなる目標の歩き遍路につなげていきたい。”(1月24日付け中日新聞)

 愛知県碧南市の主婦・小笠原さん(59)の投稿文です。本四国88ヶ寺参拝、大変な難路と聞く。一昔前は徒歩だったろうが、今はいろいろな回り方があるようだ。車、バスツアー、飛行機もあるようだ。そして、自転車もあったのだ。小笠原さんはいろいろな思いの中で、自転車で達成された。次は歩いて達成されたいと言われる。余程の感激があったのであろう。新たな目標である。達成されることを祈りたい。
 遍路は今はブームでもあるようだ。納経帳に書いて貰うことだけを目標にしている人もあるようだ。きっかけは何でもいい。それが仏縁に、心の静穏に繋がればいい。実はボクも昨年12月、4年がかりで西国33ヶ寺参拝の満願を達成した。バスツアーで行った。参拝すれば、先達の指導で般若心経等を唱える。これが気に入った。さて今年からどうするか。知多四国88ヶ寺参拝を検討した。鉄道会社の歩いてまわる参拝にも参加した。自分1人で歩いてまわることも考えた。そしてバスツアーに参加した。そして、これにしようと決めた。理由は般若心経等を唱える回数である。先達の指導で1ヶ寺で2回、1日に12ヶ寺まわればバスの中と都合26回唱えるのである。これはもう半端ではない。1日中般若心経を唱えているようなものである。こんなことがあってもいい。さて今年は何回、何ヶ寺行けるであろうか。


(第2742話) 駄菓子屋 

2019年02月09日 | 出来事

 “実家から徒歩で数分の距離にあった駄菓子店が昨年末で閉店しました。私は閉店前日に訪ね、子どもの頃から「駄菓子屋のおばさん」と呼んできた女性店主と話をしました。嫁いでから六十年近く店頭に立ってきて、「元気なうちに皆にお別れをして店を終わりにしたい」と幕引きを決めたそうです。
 私は小学生のとき、友達と一緒に小銭を握りしめて店に通いました。現在四歳の息子と、間もなく二歳になる娘はともに私の実家を訪れると駄菓子を買いに行くのを楽しみにしています。幼い二人がうれしそうに菓子を選ぶ姿はほほ笑ましいものでした。
 店を去るとき、私はおばさんの手を握りました。涙があふれてきて、「お疲れさまでした」と伝えるのがやっとでした。おばさん、六十年もの長い間、子どもたちのために店を切り盛りしてくれてありがとうございました。いつも私たちを出迎えてくれた、あの優しい笑顔は決して忘れません。”(1月20日付け中日新聞)

 愛知県犬山市の主婦・高橋さん(32)の投稿文です。本当に昔懐かしい駄菓子屋さんである。高橋さんはそんな思い出と、閉店される寂しさと感謝を綴られた。ボクの村にも2軒あった。ボクはほとんど小遣いを貰っていなかったので見ていることが多かったが、それでも中を見て回ったことを思い出す。おばさんの顔も思い出す。その2軒はもうだいぶ前になくなった。ボクの近村でも何件かあったと思うが、もう無い。これだけコンビニやスーパーが立地したら、駄菓子屋さんは、いやその他の小売商売屋さんも成り立たないだろう。なくなるの必然である。駄菓子屋さんはただものを売るだけではなかった。そこには交流があった。地域の要であった店もあろう。その部分はどこが担ったであろうか。もちろん、コンビニやスーパーではない。寺院でもない。あるとすれば、児童の見守り隊くらいであろうか。これも怪しいものである。高齢者が始め、その高齢者が更に高齢になった。継ぐ人はあるだろうか。社会は便利さと引き換えに大切なものをなくしていく気がする。


(第2741話) 観光ガイド

2019年02月07日 | 活動

 “昨年は全国各地で大きな災害が起き、多くのボランティアが被災地に赴き支援活動をしました。私は高齢となったこともあってもはや力仕事はできそうにありませんが、「自分なりにできることを」と思い、この十年間、名古屋城観光ガイドボランティアをしています。
 昨年、名古屋城は本丸御殿が復元され、以前にも増して連日国内外の多くのお客さまでにぎわっています。私は一人でも多くのお客さまに満足してもらえる案内をすることが自分の使命だという気概を持って、毎回全力でガイドをしています。
 被災地に赴いて復旧作業を手伝うボランティアのようには目に見える成果は出せていませんが、私もガイド活動で少しは地域に貢献できたのではとの自負があります。今年もガイドを通じて名古屋城だけでなく「住みよい街・名古屋」のイメージアップに寄与していきたいと考えています。”(1月17日付け中日新聞)

 名古屋市の鈴木さん(男・77)の投稿文です。ボクは昨年、本丸御殿を見る機会を得た。たくさんのガイド方がおられた。そして、ガイドの方にいろいろ尋ねた。こうしたガイドの方があると本当に助かる。
 鈴木さんは、老後の生き甲斐にガイドボランティアを見つけられた。元気な高齢者にガイドボランティアは本当にいいものだと思う。各地で見られるようになった。最近はツアー旅行でもよく活用されている。あると無いでは大違いである。
 ボクは一宮友歩会でもよくお願いする。そしてガイドの方と話す機会も多い。名古屋城のように観光客が多いところは引く手あまただろうが、地方に行くとそうでもない。ガイドをする方は多いが、する機会が少ないようだ。地方の観光地で、多数でいく人も少なかろうし、ガイドをお願いすることまで考えないだろう。そう知ったボクは、頼めるところは積極的に頼んでいる。そして、どこも全く熱心、親切である。持ちつ持たれつである。
 2月2日の一宮友歩会の例会ではボランティアガイドおおぶ」の方にお願いした。もう下見の時から助言を頂き、例会当日は53名の参加者に8名の方の案内、説明であった。全く以て申し訳ないくらいの丁寧、親切な対応である。当日は3月かと思われる穏やかな好天に恵まれ、素晴らしい例会になった。ありがとうございました。鈴木さんも張り切っておられます。これからのご活躍を祈っています。