寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3088話) 集団感染との闘い

2021年01月31日 | 出来事

 “自分の住む地域でも新型コロナウイルスヘの感染者が報告されて随分用心してきたのに、まさか自分の勤める法人でも感染者が出ようとは想像すらしていなかった。私は高齢者介護のデイサービスに従事しているが、同じ法人が運営する特別養護老人ホームで感染者が確認され、クラスターとなったのだ。デイサービスは一時休止となり有志の職員が老人ホームに応援として派遣されることになった。幸い私は高齢の両親と同居しておらず基礎疾患を持つ家族もいない。家族の同意を得て昨年、老人ホームの応援要員となった。
 手袋、マスク、フェースシールド、防護ガウンに身を包みアルコール消毒に日々まみれた。施設内の区域分け、入所者間のソーシャルディスタンス、防護アクリル板の設置・・・。当初ごった返していた施設内では日に日に対策が充実していった。1カ月に及ぶ格闘の末、クラスターの終息が宣言されたときの安堵感、達成感といったら。二度と経験したくないようなつらく苦しい日々だったが、私たち職員は確実に強く、たくましく成長できた気がする。”(1月8日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の介護福祉士・原田さん(男・63)の投稿文です。このコロナ禍は社会を混乱させ、多くの人を苦境に晒している。特に病院や老人施設は大変である。原田さんは、老人施設で集団感染と闘われた。その体験である。本当にご苦労様、ありがとうと言いたい。
 当初のころ、感染者や病院関係者を攻撃する記事がよくあった。これだけ多くなると、自分もいつ感染者になるか分からず、また病院関係者が大変な労働を強いられていることが分かり、こうした攻撃は減った気がするが、どうだろうか。余程の悪事以外、こうしたことで人を攻撃するなどもってのほかである。
 病院も逼迫状態になってきたようである。感染しながらも病院に入れず、自宅待機の人が増えている。自宅でどうして家族にうつさずに過ごせるだろう。考えるだけでぞっとする。医療崩壊が起これば、他の対策所ではない。頑張っている医療関係者が倒れないよう手厚い対策を願いたい。
 ボクの娘も、事務職ながら病院に勤めている。感染する恐れとうつす危険が一番大きいと言って、全くわが家により着かない。


(第3087話) 魔法の言葉 

2021年01月29日 | 意見

 “若い頃、感謝することに意味なんてあるのかと考えました。「感謝して食べなさい」と言われたとき、目の前に作った人がいなければ意味がないと思ったものです。こんな私も年を重ねたからか感謝の思いは電波や音波と同じく目に見えなくても確実に空間を移動してどこかに届くということがよく分かります。思いが伝わると感謝された人だけでなくそれを口にした人も幸せになれます。
 感謝を示す代表的な言葉は「ありがとう」で、言った方も言われた人も幸せな気分になれるまさに魔法の言果です。日々私は新聞配達もしていてポストに入れるたび、「ありがとう」と独りごちています。私は「ありがとう」をたくさん言うようになって、前よりも運が随分と良くなった気がしています。”(1月7日付け中日新聞)

 名古屋市の非常勤講師・加藤さん(女・65)の投稿文です。「ありがとう」と言う言葉は魔法の言葉と言われる加藤さん、うまく言われたと思う。この言葉で、言った方も言われた方も気持ちが良くなる、確かに魔法である。「ありがとう」と言われて気持ちが悪くなる人は、余程タイミングが悪いとき以外、まずないでしょう。でもボクはこのありがとうも、どちらかというと自分のためと思っている。ありがとうと言えば感謝の気持ちがわく。感謝の気持ちは自分を穏やかにさせる、幸せにさせる。ボクは妻にも他人にも、比較的よくありがとうと言っているつもりだが、どうなのだろうか。自分の姿は分からないものである。余程注意を払わねばと思う。


(第3086話) 掛け軸

2021年01月27日 | 出来事

 “昭和四十七年七月十日、私たちの結納の日、床の間に真新しい掛け軸が掛けられていました。この日のために母が購入してくれたことと、水辺にきれいな鳥が描かれていたことは記憶にありました。
 実家を建て直す時も、両親が亡くなった時も、掛け軸のことはすっかり忘れていました。何げなく見ていたテレビで、あの水鳥が放送されていました。オシドリだったのです。夫婦仲が良く、常に連れ添い、一生相手を替えないとか。そういえば「おしどり夫婦」という言葉がある。こんな願いを込めて母は祝いの日に掛けてくれたのかと、今更ながら親心のありがたさに頭が下がります。そうだ、あの掛け軸は一体どうなっているんだろうか。いても立ってもいられず実家の姉に電話をかけました。
 「捜してみるよ」という返事の後、しぱらくすると「出てきたよ、あったよ」とのこと。母の思い出に、掛け軸を分けてほしいとお願いすると、快く譲ってくれました。
 四十数年ぶりに掛けると、大切に保管してくれてあったおかげで、想像以上に良い状態でした。物忘れは年々多くなりましたが、二人ともおかげさまで健康です。母の気持ちを胸に金婚式を目指して頑張りたいと思います。”(1月6日付け中日新聞)

 浜松市の松下さん(女・71)の投稿文です。床の間に掛け軸、まさに日本の住宅である。昔は小さな家でも床の間があったろう。ボクは結婚して間もなく、30坪弱の建売住宅を買ったが、そこにも半間の床の間があった。娘2人は自分達の意見を入れながら住宅を新築したが、共に床の間はない。
 松下さんのお母さんは、娘さんの結納の日に、その日にふさわしい掛け軸を購入し、床の間に飾られた。松下さんはそれを思いだし、お姉さんから譲って貰われた。40数年ぶりの出会いである。お母さんに対する新たな思いを感じられた。こういうことの積み重ねが良い人生を形作るのである。
 ボクの家は、築70年以上の昔ながらの農家住宅である。座敷に1間の仏間と1間の床の間がある。ここに再び移り住んでから、床の間の掛け軸を何本も購入した。そして季節に合わせて掛け替えた。それを何十年も続けた。楽しみでもあった。その前でゆっくり茶を飲むこともあった。客もこの部屋で迎えた。しかし、母が施設に入ってからは、離れであった母の部屋を改造し、生活の主な場がここに移った。座敷に行くことはほとんどなくなった。そして、掛け軸も替えなくなった。家にいることが多くなったので、復活を考えねばいけないだろう。


(第3085話) 同姓同名

2021年01月25日 | 出来事

 “今から二十数年前、豊橋市主催の花フェスティバルが開かれました。吉田城のある広い公園の中は花、花、花、香りでいっぱいでした。きれいな空気の中で、私は耳の聞こえない人たちの耳代わりになる手話通訳のお手伝いとしてボランティアで参加しました。
 手話通訳が一段落したので、受付兼休憩所のテントの下で椅子にかけて休むことにしました。何と私の座席の斜め前の机上に、私と同姓同名の名札があるではありませんか。その方も同時に気がつきました。私はびっくりして同姓同名の水谷みち子さんに話しかけました。名札には英語通訳と書かれています。年齢はお聞きしなかったけれど、私より少し若くきれいな方でした。
 その方のお話によると、中日新聞の発言欄に載った私の文章を見た知人から「あなたの発言見たわよ」と言われ、その都度、「私ではないのよ」と弁解するのだそうです。豊橋在住、同姓同名、年齢も同じくらい。間違えるのは無理もないことです。なかなか信じてくれないそうです。
 私は今も手話通訳のお手伝いをさせていただいていますが、あの方は元気に英語通訳をされているのでしょうか。他人とは思えないのです。気になって仕方ありません。”(1月5日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・水谷さん(78)の投稿文です。同姓同名はままあることです。これが地域が同じだったり、年齢が近くだっりすると混乱の元です。わざと同じ名にする人はいないと思いますが、多い姓だったりすると可能性は大きくなります。また姓が変わって同姓同名になる場合もあります。これも、奇縁と思える程度のことであれば人生の妙味でしょう。もう一人の水谷さんはどう思われていたのでしょう。これが悪い出来事だったりすると迷惑この上ないことになります。同姓同名の人のためにも、悪いことで名を広めてはいけない、ということでしょう。水谷さんはこの同姓同名で思い出ができました。
 実はボクは小学2年の時に改名をしています。引っ越したら全く同姓同名の人の近くなりました。また男子16名ばかりのクラスで、漢字は違いますが、同名が3人ありました。そこで父は改名を決心したようです。小学生の時でボクによく覚えはないのですが、裁判所に行ったりかなり苦労したようです。こうして話せば、あまりない経験者です。
 それにしても今の子の名付けには、疑問ばかりが浮かびます。


(第3084話) 和食は文化

2021年01月23日 | 意見

 “和食はわが国の重要な文化です。四つの特徴があります。まずは栄養バランスが優れていることです。和食は「一汁三菜」を基本としていて長寿や肥満防止にも役立っています。二つ目は種類が多様で新鮮な食材とその持ち味を尊重していることです。三つ目は季節感を重視することです。そして最後は正月をはじめとする年間行事と深く関わりのある料理があることです。
 和食は2013年、無形文化遺産に登録されました。これは、この先も和食を守っていこうとする姿勢の表れでもあります。日本人である以上、和食を口にし続けたいです。“(12月31日付け中日新聞)

 岐阜県土岐市の中学生・早川さん(女・12)の投稿文です。中学生の文である。どこかで得られた知識であろうが、これは誰もが同じである。得てきた知識をどのように活用するか、血とし肉とし、それをまた発展させ、自分の意見とする。立派なものと思う。
 和食は本当に素晴らしい。外国へ行ってくると本当に和食の素晴らしさを知ることが多いと思う。外国も高級レストランならまた違うかも知れないが、ボクらが行く一般レストランの話ではあるが。早川さんは4つの特徴を挙げておられて、いずれももっともである。ボクは他に食器もあげたいし、盛りつけもあげたい。外国へ行くと、大皿1枚にいろいろ盛ることが多い。日本のバイキングもそうである。ボクはバイキングは嫌いである。いくらいいホテルでも、バイキングと聞くとうんざりである。会席料理はいい。時には20枚くらいの器が出てくる。この器をみているだけでも楽しい。本当に日本食を大切にしたいとボクは思っている。


(第3083話) 今できることに

2021年01月21日 | 行動

 “今年はボランティアしながら世界を回り、大学でのゼミ活動の一環でアフリカ・ウガンダを訪ね、自分にとって意味のある一年にする計画だったのに、感染が拡大する新型コロナウイルスの影響でこれら予定はキャンセルとなり、いろいろなことができなかった。
 何もできないことが悔しくて苦しかった。そんな中、外国人の子どもに在宅で日本語を教える機会を得た。インターネットを介して日本語を学ぶ子どもの笑顔に触れつつ頑張っている姿を見ると、今自分ができることに全力を傾注すべきだと思った。家で語学の勉強に励み、本を読み、たくさんの情報を得た。外国にルーツを持つ子どもたちと将来について考えるキャンプに参加し、意思疎通には苦労しながらも将来の夢について熱く語る子どもたちの姿は輝いていた。私は、誰かのために何かしたいと強く思うようになった。そんな子どもに負けず自分も夢を諦めず頑張りたい。”(12月29日付け中日新聞)

 愛知県愛西市の大学生・井戸田さん(男・21)の投稿文です。大学生なら、こんな計画を立てていた人もあろうと思う。このコロナ下で計画は大きく変わった。それでも新しいできることを見つけられた。さすがと思った。どこにいてもその気があれば道は開ける。その代表例と思った。
 ボクは娘の男孫、2人も気になっている。大学生の孫は親元を離れ、大阪で共同生活をしている。娘は、楽しく有意義にやっているようだと、余り心配していない様子だ。今年高校受験の孫は、高校時代に海外研修のある国際科を目指している。この3年間の間に海外研修ができないこともあり得る。ベストな選択だろうか。こう見るとボクの孫も結構夢を抱いているようだ。ボクら爺婆はただ気にしながら見ているだけである。


(第3082話) 「僕」の多用

2021年01月19日 | 意見

 “テレビやラジオの出演者が自身のことを「僕」と言うのが私には耳障りでとても気になります。元来「僕」は対等か目下の相手に向けた言葉で、しかも私的な場で使うものだと思ってきました。昭和生まれの私はほとんどの場合で「私」と称してきました。入学試験や入社試験での面接に始まり、仕事の場面でも常に「私」でした。
 しかし最近は芸能人をはじめとして文化人とされる方でも「僕」を使うことが多い気がします。さらに放送という公の場で「僕」以上にぞんざいな印象がする「俺」を平然と使っている人も少なくなくて・・・。場違いな言い方が乱用されているこの時代そのものに懸念を覚えます。”(12月29日付け中日新聞)

 愛知県小牧市の苅谷さん(男・81)の投稿文です。ボクはこの「話・話」 で、自分のことをボクと書いている。普通ボクはボクと言わない。ボクを使うのはこの「話・話」 だけであるが、少し違和感もあるが使っている。この投稿文を読んで、僕が「目下の相手に向けた言葉」とは知らなかった。早速調べてみた。いろいろな使い方があり、「現代では親しみのあるくだけた言い方」として使われ、改まったときは「わたくし」を用いる、ともある。ボクはまさしくこの意味で使っている。「わたくし」は全く改まっている気がしていて、この「話・話」 にはふさわしくないと思ってきた。
 この投稿文の後半に言われる、放送の場でのボクには、ボクも違和感を覚える。俺はなおさらである。言葉の使い方も時代によって違っていく。それは分かるが、それにしても今の時代の使い方には、違和感を覚えることが多い。分からない言葉も多い。ボクにしてそうだから、苅谷さんにはなおさらであろう。自分の身は守りながら、流れは受け入れざるを得ないのだろうか。


(第3081話) 書き写し

2021年01月17日 | 行動

 “子どもに勧められて本紙一面コラム「中日春秋」の書き写しを始めた。今や生活の一部となっており、新聞をざっと読みコラムを切り抜いて書き写さないと一日が始まらないほどだ。
 最初は二時間かかったが、書き写しノートが七冊目に入った頃から一時間で終えられるようになった。ニュースに触れながら丁寧に字を書き漢字の難しさも知った。書くことは手先を動かすことにつながり認知症の予防にも役立っている。
 今はスマートフォンがあれば何でも済ますことができる時代だからこそ、ペンで字を書くことの大切さ、その効用を皆さんにかみしめてもらいたいと思う。”(12月19日付け中日新聞)

 愛知県春日井市の林さん(男・83)の投稿文です。書き写しのことももう何度も触れたと思う。その効用は書き出さなくともいろいろ浮かぶであろう。林さんは83歳である。高齢者に特に効用は大きいと思う。
 ボクはもう何年も前から、書き写しに挑戦してきた。しかし、なかなか続かなかった。それは出かけることが多く、つい忘れてしまうのである。旅行など泊まりで出ることも多かった。ところがこのコロナ禍である。出かけることがぐっと減った。泊まりはほとんどなくなった。毎朝がよりきちんと生活できるようになった。そして書き写しが定着した。昨年3月以降はほとんど毎日書き、年間320日書いた。そしてボクが書き写しの材料にしているのは「編集日誌」という欄である。「中日春秋」という欄の半分くらいの長さである。この欄にしたのは、短ければ続けやすいと思ったことと、この欄を書くにちょうどいいノートをたくさん持っていたからである。そしてこの欄の書き写しには他にない効用があった。この欄は、その日の記事に関わることが書かれていて、もう一度その欄を読み直すことが多くなったのである。この欄の思わぬ効用である。ちなみにボクはその新聞の翌日朝書いている。


(第3080話) 友が支えに

2021年01月15日 | 出来事

 “二十年以上前、父ががんを患って入院したときのことです。独身だった私は仕事が終わると父のいる病院へ見舞いに行くのが常でした。毎日がいっぱいいっぱいで自然と笑顔が消えていきました。
 ある日、午前の仕事を終え、昼ご飯を食べに母の待つ自宅に戻ったら家の中から大きな笑い声が聞こえてきました。「えっ? 誰だろう」と思ってドアを開けたら一斉に「お帰り!」の声が上がって。私の友人が五人ほどいました。皆の顔を見るなり涙があふれてきて、そんな私を代わる代わる抱き締めてくれました。父のことで食欲がなくなっていた母と私を心配してお弁当を作ってわざわざ持ってきてくれ、一緒に食べようと待っていてくれたそうです。
 その日から私も悲しんでいる人や苦しんでいる人の力となり、彼らの気持ちに寄り添いたいと思うようになりました。感染が拡大する新型コロナウイルスは収束の見通しが立っていませんが、私は手紙を書いたりウェブ会議システム「Zoom」を活用したりしながら会えない友達との時間を大切にしています。”(12月18日付け中日新聞)

 愛知県岡崎市の主婦・天野さん(65)の投稿文です。毎日いっぱいいっぱいの苦しい生活の中で、友達の優しい心遣いに、涙が溢れた話である。いい友を持たれた。もう20年の前のことながら今も思い出される。印象に残った行為と言うものはそういうものである。
 このコロナ禍の中で、苦しんでいる人は多いのであろう。しかし、このコロナ禍では出かけるに出かけられない。特に問題を抱えた人は大変だろうと思う。人と接触するのを避けよと言われるのだから、近くの人にも頼るに頼られない。また助けるに助けられない。人間社会を試されれているような災難である。先日出かける機会があったので、久ぶり会おうと連絡したら断られてしまった。いろいろな絆が破壊されそうである。
 そんな中で、会わないでもいい仕組みが作り出されている。12月下旬「Zoom」の講習を受ける機会があった。どんなものか知りたかったので出かけた。おおよそのことは分かった。でも、高齢者には難しいことと思った。まずスマホ、タブレットなどがそれなりに使いこなせないといけない。それができる人の中でグループを作らなければならない。ボクは挑戦したいと思っているが、まずは仲間が見つかるかである。天野さんはそんなグループを作られた。10歳若いのは大きい。


(第3079話) 自転車

2021年01月13日 | 人生

 “私が高校に入るとき、病気の父が必死で働いて私のための自転車を買ってくれた。「家から三十分かけて坂の上にある学校に通うのだから」。当時高価だった変速ギアが付き、がっしりとした自転車だった。いつも父はパンクしていないか、空気が入っているかと気に掛けてピカピカに磨き上げていてくれた。
 嫁ぎ先も坂の上にあった。昔ながらの重い自転車は父の思いがこもっていただけに手放せず、なかなか新調できなかった。前のかごにはダイコンや牛乳を入れ、後ろにはわが子を乗せて坂道を上がった。寒い冬でも汗が出た。まだ車を運転できなかった私にとって自転車はなくてはならないむのだった。壊れて乗れなくなるまでの三十年以上こぎ続けた。”(12月17日付け中日新聞)

 愛知県豊川市の主婦・鬼頭さん(52)の投稿文です。今度はお父さんの愛の話である。高校に入学したとき、高価な変速ギア付の自転車をお父さんが買ってくれた。それを30年以上遣い続けたというのである。タイトルは「父の愛 詰まった自転車」とある。お父さんの愛を感じられ、手放すに手放なせなかったと言われる。そういうものもある。伝わるのである。
 ボクは中学高校6年間、自転車通学であった。そして大学時代、その自転車で東は神奈川まで、西は岡山まで旅行した。更にはアルバイトをして3段変速自転車を購入し、自宅から山陰道を通って熊本まで行き、山陽道を通って帰るという19日間の旅行もした。今も自転車を愛用し、近場はヘルメットをかぶり3段変速自転車で走っている。自転車には思い出いっぱいである。
 「父の愛」と言うことで言えば、わが家は農家だったので、農業用品など父の残してくれたものがまだたくさんある。先日地元神社のしめ縄に「父が作った遺品だから」と言って使って貰った。