寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3102話) ムーンライトながら

2021年02月28日 | 人生

 “旧国鉄時代から親しまれた夜行列車が、半世紀余りの歴史を終えた。JR東海とJR東日本が一月二十二日、東京駅と大垣駅(岐阜県大垣市)を結ぶ臨時夜行快速列車「ムーンライトながら」の運行終了をひっそり発表したのだ。同じ区間を走った名物夜行列車「大垣夜行」の後を継いだムーンライトながらも、時代の波にあらがえなかった。帰省や貧乏旅行に使われ、時に感傷を誘う夜行列車を惜しむ声がやまない。
 「ついになくなるのか・・・。大垣市の元職員田中重勝さん(七一)が嘆息する。市役所に入って間もない二十代の頃、研修で東京に向かう際に大垣夜行に乗った。「朝六時前に東京に着く。一日が有効に使えると考えたんや。でもね、席がとにかく窮屈。体を横にしたくて新聞紙を持ち込んで床に寝そべったなあ。そんな苦労も振り返ると楽しいね」(後略)”(2月4日付け中日新聞)

 記事からです。ボクも「大垣夜行」から「ムーンライトながら」とよく利用した。一番よく利用したのは、日本ウォーキング協会が歩き納めのウォークとして、毎年12月第3日曜日に開催した「鎌倉歴史探訪ウォーク」に参加するときである。この列車に乗り、東京駅に朝5時前につく。それからこのウォークに参加し、その日の9時頃一宮に帰る。もちろん青春18切符の利用である。仲間8人ばかりで10年連続参加した。今思えばよくやったものだと思う。できるときにしておいて良かった、と言う感である。
 記事にもあるように「大垣夜行」は辛かった。窮屈で寝るに寝られない。「ムーンライトながら」に変わって楽になった。でも予約になったのでこれを取るのが大変になった。
 この他にも東京方面へ行くときはこの列車をよく利用した。宿泊費が1泊分助かるのである。これは大きい。今は高速バスなど、いろいろな方法がある。利用客も減ってJRにとっては重荷になってきたのかも知れない。これも時代の移り変わりであろう。


(第3101話) ハイキング

2021年02月26日 | 活動

 “友達に誘われてハイキングの会に入り、十一年がたちました。しかし感染が拡大する新型コロナウイルスの影響でこの一年、毎月楽しみにしてきたバスで出掛けるハイキングは軒並み中止となったままです。
 会での活動を振り返れば、個人ではなかなか行けない場所に行ったり年に一度の一泊ハイキングをしたりと大いに楽しんできました。低い山でも登るのが結構きついこともあり役員の方に励まされながら登頂できたときのあの感動といったら。近年参加者の高齢化が進み入会時はバス三台で出掛けたのに、ここ数年は一台となっていました。しばらく会っていない会の皆さん、その後お変わりはありませんか。”(2月4日付け中日新聞)

 岐阜県海津市の主婦・後藤さん(74)の投稿文です。どこのどんな会もこのコロナ下で中止に追いやられている。後藤さんのハイキングの会も同じであった。早く復活すること祈りたい。
 このハイキングの会は、毎月バスで出かけられているようである。以前は3台、泊まりもあったと言われる。どんな運営をされているのか、非常に興味が沸く。これだけの運営をしようと思ったら並大抵のことではできないと思う。ボランティアの役員だけなのだろうか。
 ボクもハイキングの会の運営に関わり、もう20年以上になる。時折特別の行事はあったが、定例は駅に集まり駅で解散である。これだけでも、10人以上の役員で、大騒ぎしながら進めてきた。今は一宮友歩会だけである。それも隔月である。それでも計画から下見、案内の作成、例会開催、更に例会状況の作成と結構忙しく過ごしている。これも生きがい、楽しみだからできている。


(第3100話) ミニ通信

2021年02月24日 | 行動

 “奇数月にB4判の紙に近況をつづったミニ通信「くじゃくもみじ」が新年で百八十号となった。三十年前、今は亡き夫が病魔によって重い障害が残り、私が夫の介護をするようになった。そんな折、夫に少しでも穏やかに接することができるように、そして自らの息抜きの場を求めつつ、社会との接点がほしくて知人や友人に配ろうとミ二通信をつづり始めた。現在は六十人ほどに配っている。
 ミ二通信には季節の移ろいや野菜作りの妙味について書いたり、地域の行事を紹介したり・・・。詠んだ俳句や短歌を載せることもあれば、エッセーを記したり、時季のイラストを添えたりしている。題字は、夫が庭で丹精したクジャクモミジから取った。共働きしていた頃はゆっくりと観賞する余裕なんてなかったが、このモミジを軸として生活する自分がいる。
 十五年余の介護の末、夫は天国ヘ召された。その後も継続して書いているミニ通信は、今やすっかり私の生きがいとなっている。たわいないミ二通信でもこの新年、五人から身に余る祝辞をいただいた。ありがたい限りだ。”(2月2日付け中日新聞)

 三重県大台町の上平さん(女・79)の投稿文です。頻度を推定すると、30年180号と言われると、年に6回隔月と言うことになる。B4、1枚と言われるが、すべて自分の文である。60人に配布すると言われるが、手渡しだったり郵送だったりするだろう。それだけでも大変である。そして継続である。数号、数年ならまだしも30年180号である。やる気になればできるものである。今79歳と言われるので、50歳くらいから始められたことになる。いろいろな生き方、やり方がある。特に賞賛したいことは、やはり継続である。B4、1枚くらいなら誰もがその気になればできるであろう。これが30年180枚と言われると、もう凡人技でない。ボクは継続の力を昔から言ってきた。ボクら凡人が、非凡人になろうとすればそれは継続であると。継続はそれ程に難しいものである、と思っている。ボクのホームページの付録には継続の話を数話載せている。次のページにいろいろな事例を載せている。見て頂けると幸いである。
 http://terasan.dousetsu.com/zu063.html (継続の話話)


(第3099話) 毎日を大切に

2021年02月22日 | 人生

 “私は一昨年に大きな手術をしてから、毎年のテーマを決めるようにしています。一昨年は「志太くエイエイオー!」。名医に出会えた運の良さもあり今こうして生きていますが、あのときは「負けないぞ」と随分気合が入っていました。そして昨年は「どんとこい!」。まさかの新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大しましたが、「なるようになるさ」との思いで過ごしました。
 今年は、これまで力が入りすぎた反省から、音楽用語で「一歩ずつ、少しずつ」という意味の「ポコアポコ」にしました。焦っても病状がみるみる改善するわけでなく、毎日を大切にしようと思ったのです。コロナ禍の収束は見通せませんが、私は心穏やかさを保ち続けようと考えています。”(1月29日付け中日新聞)

 愛知県江南市の保育士・青山さん(女・53)の投稿文です。前話と同じような話です。こんなことを意識していなくて選ぶのですが、不思議にテーマが連続することが多いのに驚いています。
 今回は53歳の女性が大手術から生還し、その後の生き方の話です。毎年テーマを設けて生きると、言われる。「一年の計は元旦にあり」にも通じる話です。しかし、具体的行動の話ではなく、心構えの話です。心構えは忘れがちになるものですので、なかなかいいところに気づかれたと思います。一言で表し、今年の心構えとする。短いだけに、いつでも心の中で反復もできます。「毎日を大切に」は、誰にでもそうでしょうが、特に高齢者には大事な心構えです。何しろ残された年月は少ないのですから、毎日毎日が大切です。ボクの机の上には「明日死ぬと思って生きなさい」と書いてある。
 またボクの日記帳の「1年のはじめに」に何を書いたか、読み返してみた。「できることはする」とある。また「チャンスは生かす」とある。これが後期高齢者の心構え?青年ではないか。


(第3098話) 命の「足し算」

2021年02月20日 | 人生

 “緩和ケア医である私は今、治療を続けるがん患者でもある。二〇一八年六月、胃に希少がんが見つかって手術し、抗がん剤治療を受けた。翌年四月、肝臓への転移が分かり、それまでの手術や治療に意味がなかったことに大いにへこみ、思わず主治医にわが余命を尋ねてしまった。長年自分は医師として「統計からは言えても個々の余命を正確には推し量れない」と受け持つ患者に答えてきたにもかかわらず、だ。もちろん主治医の返事も同じだった。
 私は「あと何日生きられるか」という引き算の発想ではなく、転移が分かった時点からこの先どれぐらい生きられたかという足し算で物事を考えるようにしている。名付けて「足し算命」。これで私は随分と気が楽になった。”(1月28日付け中日新聞)

 三重県木曽崎町の医師・大橋さん(男・57)の投稿文です。医者ががんにかかられた。それも57歳という若さである。今までは他人を見る立場であったが、今度は自分が見られる立場である。他人に言っていたことが我が身になった時、どのように思われ、対処されるのか、非常に気になるところである。それがこの文である。冷静である。それもあと何日、何日と引き算でなく、今日も生きられた、今日も生きられたと足し算で考えると言われる。足し算で考えると気分も楽になり、感謝の気持ちも起ころう。
 ボクらの歳になれば、残された寿命はあと何日、何日と、そんなこと分かるはずもないのに、考えがちになるものである。ボクも残された寿命は短い、とよく言う。ここは木崎さんを見習うべきか。あるショックの時点から足し算にする。ボクは1月27日に転倒事故を起こし、右手指を15針程縫った。あれだけ強い転び方をしてよく骨折もしなかったものだ、と内心ホッとした。この不幸中の幸いを起点にできるか。この引き算、足し算をもっと考えてみたいものだ。


(第3097話) ひとりの世界

2021年02月18日 | 人生

 “夫婦で暮らすのは幸せ、という高齢女性が何人もいる。私は「うらやましい」とか「結構なことです」と笑って応えていた。それが去年から「コロナ禍」で、雲行きがあやしくなってきた。
 「夫と一緒にいると息が詰まるのよ」「毎日だらだらお酒飲んでる姿を見るたび、うんざりするわ」「どうして一日中ぼやっと動かず、家にいるのかしらねえ」みんな口をとがらせて嘆き、「あなたみたいに一人でテキパキ生きてる人になりたい」と言うでではないか。
 私は「うーむ」と考え込んでしまう。何年か前に彼女たちは「夫といるのが一番安心よ。あなたは一人で、忙しそうによく働く人だこと」と驚いていたことを思い出すからだ。
 私の場合、結婚直後から料理やケーキ作りが面白くてたまらなかった。絵を描いたり、小説を書くのが好きで、作家になった。会社員の夫は、重役に昇格しても車で会社を往復するだけの男だった。(後略)”(1月27日付け中日新聞)

 作家・西田小夜子さんの「気まぐれ定年塾」という欄からです。続いて夫婦の話である。この欄からも始めてか?。コロナ下で外出を自粛、夫婦がそろって家に中にいる時間が増えた。どこの夫婦も多かれ少なかれそのようだろう。そして、夫婦の別の面がみえてきた。良い面が目につく場合もあるし、悪い面のこともあるだろう。この話は女性から見た悪い面の話である。
 確かに多くの男性はこれに近いのではなかろうか。男は仕事一筋で、他の面に目を向けてこなかった人が多い。仕事を辞めて、何かをしようと思うと新たな挑戦になる。老いてその意欲を保つのは難しい。じきに諦めてしまえば、この話のようなことになる。特にこのコロナ下で目立つようになる。仕事を除けば、カルチャーセンターに講演会にレストラン等にどこへ行っても女性ばかりである。まさに女性天国である。男性はどこにいるのか?
 ボクはまだ良く出かけている方だと思うが、でもコロナ下でいろいろな行事が中止になった。出かける機会はグッと減った。今は冬である。畑仕事等もできない。妻も同様にいろいろ減った。夫婦一緒にいる時間は凄く増えた。さてボクはどう思われているのか、恐くて聞くに聞けない。


(第3096話) つれあいに

2021年02月16日 | 人生

 “●SDGs 最近、「SDGs(持続可能な開発目標)」という言葉をよく目にする。さて、席を外している間に、私のケーキまで食べた夫。あなたの呼び名は、これから「SDGs」よ。「すごく、どうしようもない、じいさん」の略だから。(結婚生活は持続不可能・58歳)
 ●お茶 たこ焼きを買ってきて、夫に「お茶にする?」と尋ねたら、「お茶でいいよ」。自分で聞いておきながら「え-、お湯を沸かさないと」と言ってしまった。よほど面倒くさそうだったのでしょう。「水でいいよ!」とキレられた。(心の声が出た・67歳)
 ●言えない 食器洗いを手伝うようになった夫。でも、流し台の周りがビショビショに。後始末が大変なので、丁重に二度断った後の三度目。「親切は素直に受け、『ありがとう』と言えばいいんだ」と言われた。(気持ちだけで・76歳)”(1月27日付け中日新聞)

 「つれあいにモノ申す」という欄からです。この欄はいつも楽しく読みながらも、「話・話」 で紹介するのは初めてだろうか。
 第一話の「SDGs」、全くうまく活用したものだ、感心してしまった。いつもこんな調子なのだろうか。いくら結婚生活持続不可能と言っても、ご主人はこれだから持続できると言われるのではなかろうか。
 第二話、自粛自粛で、夫婦一緒にいる時間はどこも増えたのではなかろうか。ボクの夫婦も一緒にお茶をする時間が増えたと思う。「私はコーヒーにするけど、貴方は何がいい?」と問われると「何でもいい」と言うことが多い。これが一番いけないことだろうな。
 第三話、慣れない男が炊事を手伝う、こういう家庭も多くなったろう。そしてやってやったと言わんばかりである。ボクは今のところ炊事に手出しはしていない。もっといけないだろうか。
 「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という諺があるがごとく、夫婦のことは他人には全く分からない。いろいろいざこざを起こしながら何十年と続いていく。この「つれあいにモノ申す」の欄の出来事は、夫婦生活の味付け程度であろう。わが夫婦は昨年金婚式を迎えた。次はエメラルド婚式である。その次にはダイヤモンド婚式もある。


(第3095話) 時之島物語 

2021年02月14日 | 活動

 “一宮市時之島の住民でつくる「郷土史同好部」が、時之島の歴史や文化をまとめた「時之島物語」の続編「第二集」を発行した。時之島物語は、現在七十~九十代の男女十九人でつくる同好部が「郷土愛を育み、歴史文化を後世に残したい」と、二〇一九年に創刊。時之島内外から「地元のことを知らないのでほしい」と問い合わせが相次いだ。
 第二集では、一七年に春日井市の週休寺の本尊が時之島付近で造られたことが発覚したことを受け、仏像を制作する仏師集団の存在を考察。かつてあったとされる「時之島城」やその城主・日根野弘就、時之島内の小字地名なども特集した。
 部は月一回集まり、内容を精査。中学生でも読めるよう簡易な表現にこだわり、地元小中学校や図書館に寄贈された。部長の原幹博さん(八一)は「昔を知る人は次第に亡くなっている。記録を残す大切さを感じている」と語った。
 部はすでに第三集の編さんに取り掛かっており、執筆担当の原誠完さん(八三)は「今後どれだけ発行できるか分からないが、今の姿を残すことにも挑戦したい」と話した。”(1月27日付け中日新聞)

 記事からです。時之島はボクの家から車で10分ほどの所である。その地域でこのよう活動をするグループがあった。歳も70代から90代と言われる。そして第二集の発刊であり、もう第三集に着手されているという。できるものである。
 ボクも地域の歴史を何とかできないかと、ずっと思ってきた。思いついたことでいいからメモしてもらえないかと、80代90代の人に話し掛けたこともある。でもしてくれない内に亡くなった。ボクの子供の頃はまだいろいろな行事があった。あったことを覚えているだけで、記録にできるほどの内容は知らない。80代90代の人ならまだ知っておられるだろう。ここはボクがもう一つ熱意を持つべきだろうか。
 ボクの村の神社には由緒書きがない。昨年から神社総代を引き受けたこともあって、作ってみることを思いついた。手持ちの千秋村史(昭和31年発行)と言う本を開いてみると少し書いてある。更に境内に由緒を書いた石碑文があることも分かった。この石碑文は神社の片隅にひっそりと置かれ、ボクはあることも知らなかった。そして石碑だけに読みにくい。これを参考に一部を意訳して文書を作り、今年に入って業者に掲示できる板を作ってもらった。今週中にはそれを神社に設置できる予定だ。更に、村内に2体の馬頭観音があり、その説明板も設置する予定だ。 こうなればもう一肌脱ぐのもボクの使命か。 


(第3094話) 地域貢献

2021年02月12日 | 行動

 “「一年の計は元旦にあり」を実践しています。今まで続けてきた本紙への投稿や城巡りのほか、今年から地域行事へも積極的に参加しようと考えている。民間企業を六十五歳で退職するまでは仕事を理由に地域での行事にあまり参加してこなかった。感染が拡大する新型コロナウイルスの影響で私も家にいる時間が増えただけに、少しは地域に貢献しようかなと思ったのだ。
 三年ほど前のことだ。知人から「地区の祭りに参加して」との要請を受け会場へと足を運んだ。懐かしい顔が多く、皆楽しそうに準備していた。その光景が思い起こされ、私もまずは祭りに参加し、そこから、他の地域行事にも参加してみようと考えている。
 生まれたときからこの地に住んでいるが、知らないこともまだある。新しいことへの挑戦は、やる気さえあれば何とかなるはずだ。自分を育んでくれた地域に恩返しするという気持ちで、積極的に参画していきたい。コロナ禍の自粛生活で疲れがちなわが脳を、地域との交流で活性化できたらうれしい。”(1月22日付け中日新聞)

 愛知県あま市のアルバイト・横井さん(男・67)の投稿文です。「一年の計は元旦にあり」、正月に今年一年の目標を立てられた人は多いと思う。ボクも毎年ながら日記帳に書く。横井さんは地域への参加を目標にされた。勤め人は、勤めているときはなかなか地域行事に参加できない。特に専業主婦を奥さんにしている人は、つい奥さん任せにする。ボクも役員以外の時はそうであった。定年後自由時間が多くなり、地域行事に参加しようと決意する。横井さんは、生まれ育った地域だから容易である。友人もあり、参加してこなかったと言ってもそれなりに分かっている。いずれ大いに活躍されるだろう。
 これが成人になってその地域に引っ越してきた人はなかなかこのようにはいかない。知人も少ない。行事の内容も分からない。つい消極的になる。何年住んでいても、周りは新参者としてなかなか受け入れてくれない。勤め先で地位が上だったりすると、プライドが邪魔して更に難しい。こうなると定年後と言ってももう務まらない。定年後のことといえど、ある程度の歳から頭に入れて行動しておくのが賢明である。


(第3093話) どんど焼き

2021年02月10日 | その他

 “一宮市の真清田神社で15日、お札やお守り、正月飾りを焼き、無病息災を願う小正月の行事、どんど焼き(左義長)があった。
 境内本殿前で午前8時半に神事が執り行われ、火が付けられた。どんど焼きの火で焼いた餅を食べると一年中病にならないとされ、参拝者は長さ2mほどの竹ざおの先にぶら下げたかごに餅を入れ、あぶった。
 義母と訪れた市内の神谷友江さん(36)は「すごく熱かった。新型コロナの終息、家内安全、商売繁盛を願いました」と話した。“(1月16日付け中日新聞)

 記事からです。ボクの村では「しゃぎと」と言い、「左義長」がなまったものではないかと、ボクは勝手に思っています。ボクの村では毎年1月14日で、今年はボクも手伝いました。本来の役ではないのですが、本来の役の人の出席が少ないと言うことで、助っ人を頼まれたのです。村の行事ですので、それ程の規模ではありません。
 河川堤防で行います。昔はほとんどの家庭が、古いお札様や正月飾りを持ってきて燃やしたものですが、今は神社に前日まで収める箱を置いていますので、多くの人が神社に置いていきます。このことは神社の役で初めて知りました。14日の朝に持ってこられない人も多いからでしょう。昔は餅も焼いたものですが、それがそのうち灰を持って帰りその灰で焼いたりしましたが、今はそれもありません。時代は変わっていきます。こうした伝統行事の存続は危ういものです。宿命でしょうか。ボクらにはまだ語れるものがあるだけもいいのか、と思ったりします。