寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第3430話) 先入観

2022年12月29日 | 行動

 “性別にとらわれず制服や水着、おもちゃを選ぼうとする最近の取り組みを紹介する報道に触れるたび、半世紀以上前のことを思い出します。私が高校を卒業して就職した証券会社には新人の女性は手芸クラブに入るという不文律がありました。それでも頑として断り続けた結果、私は英会話部に入ることができました。部員のほとんどは男性の営業マンながら、先輩や同期入社の面々、英会話講師と楽しく過ごしました。スキルを磨いて英検二級に合格したとき、上司の男性は自分のことのように喜んでくれました。
 そこで挑戦の楽しさを覚えてから通信教育で経済学を学び、独学で保育士の資格を取りました。絶えず私が前向きに取り組めたのは、「男女はかくあるべきだ」との先入観より自分の意志を優先させてくれた周囲のおかげだと思っています。”(12月9日付け中日新聞)

 愛知県豊橋市の主婦・水川さん(71)の投稿文です。これはまた貴重な話ですね。何事もまだよく分からないときは先入観が大きく左右する。どこかで修正できれば良いが、多くはそのまま進んでしまう。これが変化を阻んだり、停滞の原因にもなる。水川さんは勇気がありました。手芸クラブに入るという不文律を破って、英会話クラブに入られた。更に挑戦する楽しさを覚えられ、次々目標をクリアーされていく。
 人間一事が万事です。一つのことができる人は何でもできる。やる人は何でもする。やらない人は何もやらない、これが個人的なことの内はまだいいが、社会的なことまでそうなるからいけない。例えば地元役員です。できる人は、次々押しつけられる。それが感謝されるときはいい。今の時代、見方は厳しい。あら探しばかりして文句ばかり言う人がいる。逃げる理由ばかり探す人がいる。そうして役員選びが難しくなる。そうしてだんだん寂れていく。


(第3429話) 朝活、最高!

2022年12月27日 | 行動

 “中学生のときから朝型の生活となりました。弁当を自分で作ったこともあって午後九時に就寝し、午前四時に起床する生活が習慣化しました。ベッドの上で軽くストレッチしてから朝食を取り、トイレや玄関の掃除を済ませて時間に余裕があれば散歩に出かけます。週に三~四日、三十分ほど歩き、出会う近所の人たちはウオーキングやジョギングをしたり、愛犬と散歩したり、庭の手入れをしたり・・・。あいさつを交わすと、それだけで私の気分は上がって気持ち良く一日が始められます。
 こうして出勤前の時間を有効に使えば後から起きてくる家族にも優しく接する余裕ができ、何事もポジティブに考えられます。朝活、最高!”(12月5日付け中日新聞)

 三重県鈴鹿市の公務員・桑原さん(女・38)の投稿文です。最近は夜寝るのがどんどん遅くなる傾向のようだ。忙しくなったからだろか、いや、そればかりではない気がする。ボクの家は農家であったので、太陽と共に生活をしてきました。太陽が上がれば畑に出かけ、沈めば帰る、それが基本です。ボクも小さい頃からこの生活が身についていました。ところが高校に入って、町の人の生活が分かります。勉強で夜遅くなったりします。そして、休みの日に遅くまで寝ていました。これが父の癇に障り、次第に親子の仲が悪くなっていきました。遅いと行っても普通の人にしてみれば早いほうです。そしてインターネットを始めた2000年頃、当時は電話回線を使っていたので、インターネットを使うと電話が使えません。それなので、朝5時起きにしました。それ以来、今までずっと5時起きをしています。休みの日も同じで、年中です。そしてこの時間は非常に貴重な時間となりました。インスタントコーヒーを飲みながら新聞を読み、日記を書きます。そして、インターネットの各種データを確認し、「話・話」を掲載し、自分の掲示板に書き込みをします。更に、メールを書き、新聞の書き写しもします。7時頃に朝食をし、8時前後に寺社、お墓参りを兼ねた20分ばかりの散歩に出ます。ほとんどこの順序です。いろいろなことが冷静にでき、私の充実の時間です。桑原さんも「朝活、最高!」と言ってみえます。朝遅い人、やってみませんか?


(第3428話) 第二の人生

2022年12月25日 | 人生

 “その昔、高校を卒業した後は大学への進学を希望してきましたが、農家だった実家には経済的余裕なんてなく、いったん就職しました。それでも夢を諦めきれず、翌年春から夜間大学に通って法律を勉強しました。病気や仕事でなかなか授業に出席できないこともありましたが、何とか四年で卒業できました。
 その後は就いた仕事に専念し五十三歳で退職しました。以降、農業やアルバイトをしながらも、夜間大学で学んだ法律の知識を生かせる裁判所の調停委員になりたいという思いが強くなり、六十歳で委員になることができました。
 それからは、司法委員時代も含めた七十五歳までの十五年間は、わが人生の中で最も充実できた時期だった気がしています。消費者金融で多額の借金をした男性が過払い金を請求した事案は私たちの努力で解決できました。その昔、苦労して大学に通い続けたことが報われた瞬間でした。”(1月29日付け中日新聞)

 三重県東員町の水谷さん(男・81)の投稿文です。人間真価を発揮できるのはいつのことか分からない、と思っているが、その見本のような水谷さんの人生です。「七十五歳までの十五年間は、わが人生の中で最も充実できた時期だった」という言葉にそれがよく現されています。夜間大学で学んだ法律の知識を生かせる裁判所の調停委員になりたいと思い、60歳でなられる。これにも驚きです。20代で学んだことを60代で生かす。本当に人は様々です。
 ボクの妻は、中学卒業後勤めに出、やはり高校に行きたくて翌年夜間高校に入ります。そして夜間大学まで行きます。ボクは昼間の大学を卒業し、就職した後、学士入学で夜間大学へ行きます。そこで妻と知り合いました。ボクはそんな努力家の妻に好意を持ちました。でもボクと結婚したことで、専業主婦になり、今に到ってしまいました。妻の努力は報われたのでしょうか。専業主婦となって時間的余裕はあり、PTA活動や公民館活動を長くしてきました。悔いはないと言っていますので、ホッとしています。ボクが老人会など地元デビューしたとき、ある人から「“○○子の夫です”と言った方が分かってもらえますよ」、と言われたことがあります。これで安心しました。


(第3427話) アサガオ

2022年12月23日 | 行動

 “今年もアサガオを育てて緑のカーテン作りに取り組んだ。春過ぎ、芽が出やすいようにと昨年取ったアサガオの種の表皮をやすりで削り、ぬるま湯に浸してからプランターにまいた。そのかいあってか多くのつるが長く伸びて軒下に張ったネットに絡んでいった。初夏、赤や青、ピンク、紫と色鮮やかな花を次々と咲かせた。水をやって、しぼんだ花を摘み、猛暑時は日よけとして遮光ネットやビニールシートをかけ、虫を駆除した。世話は大変だったが、アサガオのおかげで楽しい日々を過ごせた。十月末までにたくさんの種が取れた。来年も、アサガオの種をまこうと思っている。”(11月28日付け中日新聞)

 愛知県日進市の福山さん(女・78)の投稿文です。福山さんの文で、一生懸命な人はこういうことまでするのか、と感心した。表皮を剥くなど知らなかった。朝顔の棚は良いものである。綺麗だし、場所によっては日よけにもなる。
 ボクも朝顔を作り始めてもう10年くらいになるだろうか。最初は花屋さんに行ったとき、何気なく一株買った。大きな花が咲いた。翌年はこぼれた種から芽を出し、花が咲いた。それからは種を採るようになった。大きな鉢で育て、張らせる場所も考えた。見栄えがする場所である。今や定番になった。楽しみにもなった。
 日よけにしたいところにはゴーヤを植えた。ゴーヤの方がよく茂り、期間も長い。これも定番になった。植物を育てるのは大きな楽しみを与えてくれる。


(第3426話) 食べ物大切に

2022年12月21日 | 行動

 “実家は現津市にある農家で、その昔は毎日釜で炊いたご飯を食べて育ちました。父からは「米の字をばらすと八十八になる。八十八も手間をかけて作る米を一粒たりとも粗末にするな」とよく言われました。母は釜にへぱり付いたご飯粒を熱い茶で落として食べていました。こんな家で育ったため、私も息子二人には「食べる分だけ取りなさい」と伝えました。長男は小学生のとき給食を残そうとした子からその分をもらって食べたそうで、卒業する際は大柄となり私が「相撲部屋から声がかかるよ」と冷やかしたほどです。
 わが家では「食べ物を粗末にすると罰が当たる」と言い合い、食後の家族四人の器はピッカピカです。”(11月22日付け中日新聞)

 愛知県日進市の主婦・本田さん(81)の投稿文です。食べ物を大切に、言うまでもないことである。粗末にすれば罰が当たる、目が潰れると言って、戒めたものである。本田さん宅は、その教えをよく守り、家族全員が今も大切にされている。小さいときにしっかり躾けたことは生涯守られるものである。ボクは貧しい農家育ちである。まさに小さい頃から身についている。絶対に残さない。もし残したら持って帰る。大勢のバイキングなどでも持って帰ったものである。妻はそれを嫌がった。
 ところが飽食日本である、食品ロスの多さは目に余るところがある。その多くを輸入に頼りながらである。それでも最近はそれを少しずつ戒める風潮になってきた。レストランなどでも持ち帰りを勧めてきた感じである。先日は、妻もパックをもらって詰めていた。分不相応な対応はそのうち身に返ってくる。


(第3425話) 鶏卵

2022年12月19日 | 出来事

 “妻を二月に亡くし、今は一人暮らしです。最も苦労しているのが一日三度の食事です。長年妻に頼ってきたためい献立を選んで食材を用意し、さらに調理しようと考えるだけで気が重くなってきます。そんな中、とても助かっている食材が鶏卵。卵かけご飯に、目玉焼き、オムライスと比較的簡単に調理できる上、昨今の物価高でも価格は安いままで重宝しています。
 こんな鶏卵も、思えば子どもだった高度経済成長期前までは「高根の花」でした。両親や祖父母は飼っていたニワトリの卵を箱に詰め、親戚への手土産にしていたものです。私はこの先も栄養たっぷりの鶏卵を食べ続け、長生きしたいです。”(11月21日付け中日新聞)

 愛知県津島市の横井さん(男・79)の投稿文です。ボクも今年10月に妻が十日ばかり入院し、久しぶり一人暮らしを味わった。作り置きや、娘が差し入れてくれたが、それでも自分で用意しなければならない。食事を作るという時間をほとんど持ったことがない。レンジで温め、並べるだけでも苦痛になる。新たな時間を持つと言うことは全く大変なことである。1日3度である。いくら短くても時間を要する。
 横井さんは奥さんを亡くされ、今その苦労を味わってみえる。その中で鶏卵の有用性を知られた。ボクもこの間、いくつの卵を使ったろう。温かいご飯に卵をぶっかければ、後は何でも良くなる。昨今の物価高でさすがの卵も上がっているようだ。でもその有用性にしたらまだ重宝である。
 ボクはつい最近まで、ボクが早く亡くなるだろうと思ってきた。ところが予断を許さなくなった。横井さんのようにならないことをただ祈るだけである。


(第3424話) 移動販売

2022年12月17日 | その他

 “戦後すぐのことだ。現岐阜県瑞浪市にある母の実家近くでは、よろず屋がリヤカーや車に食品や雑貨を積んで走り回っていた。しばらくして、すぐに子どもたちの間で人気となった、パンを扱う移動販売車を見るようになった。
 私が生まれ育ち、現在も暮らしている名古屋市中川区の地元市場や商店街は昨今、シャッター街と化している。住民の高齢化はどんどん進み、車を運転しない高齢者は買い物で遠方のスーパーに向かうのも大変となってきた。このため地元住民組織による買い物支援の一環で、食品を扱う移動販売車が毎週のようにやって来る。昔の懐かしい記憶がよみがえる今日この頃だ。”(11月21日付け中日新聞)

 名古屋市の丹羽さん(男・85)の投稿文です。最近ボクの町内でも移動販売車が来ていることを聞いて驚いた。まさに信じられない、エエッという感じであった。ボクの町内は一宮市東部であるが、過疎地というところではない。食料品店もあるが、部分的に捉えるとかなり不便な村もあるようだ。そう思ってみればボクの村にもない。ただボクの村では隣村に大きな店があり、自転車ならいける。歩いてもいけるだろう。
 昔はほとんどの村に雑貨屋やよろず屋があった。ボクの村にもあった。大きな店が所々にでき、小さな店はほとんどなくなっていった。そして車でいけなくなった人には全く不便となった。名古屋市でもあるという、この投稿文である。そして、地域住民で買い物支援の組織を作ったという。昔は老人だけという世帯は少なかった。今や若い人との同居世帯は希少種となっていく。効率化を求めた結果、何が良かったか分からなくなってきた。


(第3423話) 草野球

2022年12月15日 | その他

 “「投げたっ! 打ったあ! いい当たりぃ・・・」 
 だが、打った当人は一塁には目もくれず、バットを放り出すとボールの行方を追いながら草むらへと走る。こうなると、もう敵も味方もない。古びたボールだが、これがなくなると明日から野球ができなくなる。「どこへ打ったんだよ」怒号を飛ばしながら、全員が目の色を変え、手足で草を分ける。
 しばらくして誰かが「あったぞ!」と叫び、ボールを握った手を上げた。皆ホッとした顔で戻ってくるが、周囲はもう薄暗く、淡い月も出ている。「明日も、またやろうな」言いながら、それぞれの家へ向かっていくが、子どもたちが帰った河原は月も明るさを増し、今日も静かに暮れていく。”(11月20日付け中日新聞)

 「300文字」小説から、埼玉県三郷市の出口さん(男・89)の作品です。全く上手に書かれている、傑作小説と思う。こんな体験のある人やこんな時代を知っている世代には全く懐かしかろう。ボクは小学校高学年の頃、校庭でソフトボールをした思い出しかない。だから草むらではなかった。探し回ることもなかった。でも、懐かしい気分になる。
 ボクもグローブを持っていたことを思い出した。当然親が買ってくれたと思うが、あの親がどうしてあんな高価なものを買ってくれたのだろう。何も買わない親だったのに。こんな親らしいこともしてくれたのだ。この文はこんなことも思い出させてくれた。
 ものが少なく、大切にする時代であった。なんでも直して直して使った。そして自分達で作った。出口さんはボクより一回り上である。小学時代は戦争中であったろう。この小説は自分の思い話であろう。


(第3422話) 金色の祖父江

2022年12月13日 | 知識

 “稲沢市祖父江町で十九日、「第二十五回そぶえイチョウ黄葉まつり」(中日新聞社後援)が始まった。三年ぶりの開催で、名鉄山崎駅東側に昨年開園した「祖父江ぎんなんパーク」が今回から会場に加わり、規模が拡大。訪れた老若男女がイチョウとともに食事やイベントを満喫していた。二十七日まで。
 祭りは、町内にある一万本以上のイチョウや地元ブランドの「祖父江ぎんなん」をPRしようと、イチョウが色づく十一月下旬に祖父江町商工会などでつくる実行委員会が開催してきたが、コロナ禍で二年連続で中止していた。
 メイン会場の同パークと駅西側の祐専寺には、飲食や物販の計六十三店舗が出店。袋詰めされた祖父江ぎんなんに加え、ギンナン入りのたこ焼きやはんぺん、イチョウで染めた黄色いマフラーなど、祭りならではの商品も並んだ。パークの展望台からはイチョウの絶景が楽しめ、爽やかな秋晴れの下、来園者がスマートフォンやカメラで撮影したり、寝転がったりしていた。(後略)”(11月20日付け中日新聞)

 記事からです。 11月21日、ボクは久しぶりにシルバーカレッジの仲間8人とこの祭りに出かけた。以前来たのはいつだったのだろう、調べれば分かるだろうが、もう10年以上前であろう。当時は祐専寺が主会場であった。そして祭りの発展ぶりに驚いた。案内のあったコースに従って歩いたが、個人の方も自宅で趣向を凝らされ祭りに参加されていた。今の時代、人集めにいろいろ工夫をされている。こうした祭りは起爆剤になる。地元が賑やかになるのは嬉しいことである。
 でも、こうした催しもその時だけのことが多い。苦労は報われているのだろうか。スマホの活用など、個人に籠もることが多くなった。そして少子化社会である。触れあってこそ人間社会である。昔は良かった、などとは言いたくない。


(第3421話) お華束作り

2022年12月11日 | 活動

 “浄土真宗で最も重要な仏事「報恩講」が始まるのを前に、京都の東本願寺に奉納される餅飾り「お華束」が十九日、一宮市篭屋の願通寺で完成した。一宮、稲沢両市の真宗大谷派の門徒でっくる「中島郡会」が実施。メンバーを中心に延べ百五十人以上が参加し、三日間かけて作った。二百七十キロの米を使って餅約四千六百個を作り、串に刺すなどしながらハスの花の形に積み重ねた。完成したお華束は、高さ百十センチと九十センチの計六基。二十日に東本願寺へ運び、報恩講が行われる二十一~二十八日に飾られる。
 お華束の奉納は、一八九一(明治二十四)年の濃尾地震の際、本山の東本願寺から見舞いを受けたことに門徒らが感動し、お礼にと引き受けて始まった。稲垣宏海会長(七七)によると、戦中戦後など米不足の時も「食べる米を減らしてでも奉納する」と作製。コロナ禍となった一昨年以降も、密を避けるため作る数を減らして続けてきた。稲垣会長は「伝統を終わらせたくない。次の世代に引き継いでいけたら」と話している。”(11月20日付け中日新聞)

 記事からです。中島郡会は丹羽郡十八日講には比べられない大きな会である。丹羽郡十八講は名古屋東別院のお華束を作るが、中島郡会は東本願寺本山である。しかし、同じ仲間である。時折顔を合わせる。ボクの知人が幹部をしていることもあって、話も聞く。そしてこうした記事で中身を知ることもできる。やはり凄い会である。しかし、愛知県の尾張部で本山と名古屋東別院のお華束を担っているとは、地域柄であろうか、偶然であろうか、これはまた凄いものである。
 稲垣会長は「伝統を終わらせたくない。」と言ってみえるがどうであろうか。第3415話でも書いたが、仏教は衰退の一途である。老人会と同じである。12月1日の中日新聞に日本の「風流踊41件」がユネスコの無形文化遺産に登録されたとある。登録されたことは嬉しいが「担い手不足などの課題はそのままだ。」とあり、戸惑いの声も漏れたとある。ユネスコの無形文化遺産となればもう国を挙げての問題である。ボクの目にはもう消滅しか映らない。