寺さんの【伝えたい話・残したい話】

新聞記事、出来事などから伝えたい話、残したい話を綴っていきます。
(過去掲載分は「付録」の「話・話」を開いて下さい)

(第2451話) おしゃべりで脳も体操

2017年05月30日 | 活動

 “私の地域の老人クラブはゲートボールやグラウンドゴルフ、パソコン教室、バス旅行などを会員たちで楽しんでいる。三年前からは市の指導で週一回体操にも取り組んでいる。体操後のおしゃべりも癒やしの時間となっている。
 「百歳体操」として全国的に知られているもので、椅子に座ってゆっくりと腕や脚を曲げ伸ばす動作などをし、体への負担が軽く高齢者も続けやすい。七十代の会員を中心に毎回二十人ほどが集まり、私も役員として参加している。
 四十分間の体操が終わると、「このまま帰るのはもったいない」と誰かが言い出して、おしゃべりを楽しむ時間となる。体のあちこちが痛いという話や役立つ生活の知恵などを情報交換し、気付けば、あっという間に一時間半近くもたっている。中には一人暮らしの会員もいて、聞いてくれる相手がいると会話に力も入るよう。脳の活性化や長生きに役立てばと思う。”(5月10日付け中日新聞)

 滋賀県甲賀市の主婦・小島さん(73)の投稿文です。4月から老人クラブ連合会長になって、老人クラブの役割についてボクの関心は深まっています。活動はクラブによって様々です。この小島さんのクラブなどの活動は参考になります。
 ボクの今の理解では、老人会は町会長や民生委員など他の公職的な役割と違って何の後ろ盾もありません。先に挙げた公職は行政などの委嘱状があるはずです。老人会長には何の委嘱状もありません。単なる趣味の会です。小島さんのクラブがやってみえることも単なる趣味です。行政も行政の意向に沿うようなことをすると助成金を与えるという姿勢です。老人会は自由意思による会員制です。だから老人人口は増え続けているのに会員は減るばかりです。しかしその割には役割が大きすぎる。これが今のボクの感想です。
 よく知っている人は、老人クラブ連合会長は町会長の長より大変だと言います。ボクもそんな気がしてきました。趣味の会ですから好きなようにやればいい、無理してまですることではない、と言うことになります。大変ですと言えば、好きでやっていることでしょう、ということになります。では好きなようにやれるのでしょうか。無理です。ボクにはまだ分からないことばかりです。


(第2450話) 案内看板を寄贈

2017年05月28日 | 活動

 “一宮市の浅野公園が開園百年になるのを記念し、一宮ロータリークラブ(松田暁昌会長)は園内の見どころを紹介する案内看板を市に寄贈した。同公園は戦国武将浅野長政の屋敷跡に整備された。看板は山内一豊が岩倉城に戻る途中に浅野邸に立ち寄った際の馬のひづめの跡とされる「馬蹄石」など、九ヵ所に六十万円をかけて設置した。
 公園はツツジの名所としても知られ、現在、園内に植えられた約千株が見ごろ。四月二十九日の一宮つつじ祭(中日新聞社後援)では看板の除幕式もあり、つつじ祭推進協議会の岸友治郎会長(六一)は「案内看板を見ながら、ツツジと一緒に郷土の歴史にも触れてほしい」と話していた。”(5月9日付け中日新聞)

 記事からです。浅野公園はボクの近くの公園です。説明板が着くのは嬉しいことです。この「話・話」でももう何回も注文したと思いますが、ボクのように各地の見所を巡って歩くような人には本当に欲しいことです。市町によってその対応は大きく違います。その姿勢が問われます。更に注文を付けておきます。1)一度設置して終わりではありません。メンテナンスをしっかりして欲しい。見えなくなったり壊れたものは修理をして欲しい。これが結構多い。見えないようなものはいっそ外した方がいい。返ってみっともない。2)パンフレットには載っているがその場所に行ってみると何もない。これなど紛らわしいので、載せないで欲しい。載せたからには行って解るようにして欲しい。3)現地にはもう何の形跡がないものでも、説明板があればそれだけで嬉しい。こういう形跡がない場所にはより設置して欲しい。4)学校内など中に入らないと見えないように設置したものがある。今は校内に自由に入るのは控えられるし、又大回りしなければならないことがある。誰に見せるものなのか考えて設置して欲しい。できれば道路側から見えるように設置して欲しい。等々いろいろあります。説明板は大きな費用をかけず、その効果は大きいものです。配慮をお願いしたい。


(第2449話) 次の誕生日には

2017年05月26日 | 人生

 “先日近所のスーパーに買い物に行き、レジに並んでいた時に、すてきな会話を耳にしました。私の前のお客さんが「きょう、わたし誕生日なのよ」と知り合いらしいレジの人に話しかけると、「おめでとう。いい日ですね」と返事があり、「最高の日だわ。ありがとう」と答えていました。
 私くらいの年になると年をとることが寂しくなってきて、誕生日はゆううつな日なのですが、誕生日を喜ぶ会話をしていたのは、ともに60代と思われる女性でした。ちょっと驚きつつ、2人の口調が明るかったせいで、私も幸せな気分になったのでした。
 誕生日がうれしいのは若い時だけだろうと思っていた私は反省しました。誕生日は、自分が1年頑張って過ごしてこられたことと親が生んでくれたことを感謝する日なのだと考え直しました。今年の誕生日はすでに過ぎて、その日はブルーな気持ちで過ごしました。2人の会話を聞いて、来年の誕生日は笑顔で過ごし、家族がおめでとうと言ってくれたら、素直にありがとうと言えるようにしよう、と考えました。それもまた親孝行なのだと思います。次の誕生日が楽しみです。”(5月10日付け朝日新聞)

 愛知県愛西市の主婦・丹羽さん(53)の投稿文です。誕生日を喜ぶか、ゆううつに思うか、捉え方と年齢に負うことが多いと思う。1段階の成長段階は喜びであり、2段階の衰えを感じる頃になると憂鬱になる。更にそれを越え、3段階のこの歳までよく生きてこられたと思う頃になると嬉しさと感謝に変わるだろう。この変化は人間の必然である。2段階では体力や容貌の衰えを嘆くのであろうが、実は人間的には大きく成長していることが多いのである。社会的責任、子育ての経験、一番行動するときである。目のとらえどころである。特に女性は容貌を気にしがちだが、家庭を築いた女性にそんなことは重要なこととはボクには思えない。嬉しいことに目を向ければいいのではないか。丹羽さんが言われるように、いつも「1年頑張って過ごしてこられたことと親が生んでくれたことを感謝する日」と捉えればいいのではないか。丹羽さんはそのことに気づかれた。来年はいい誕生日になるだろう。ボクなどはとっくに3段階である。


(第2448話) 安心して投票

2017年05月24日 | その他

 “世界のジョークが好きだ。こんな選挙の小話があった。「ジョン、君の奥さんは、今度の選挙で誰に投票するんだい」「もちろん、ぼくと同じ候補者だよ」「そうかい。じゃあ、君はだれに投票するのかな」「うーん、妻がまだ決めていないんだ」
 十年以上前、妻が生きていた頃、投票日はいつも二人で投票所に出掛けた。しかし、誰に投票したかは秘密にしなければならないと長年思ってきたので、夫婦間でも当然、投票の秘密は守られていた。だから選挙の投開票日の夜、テレビの速報で開票スタートと同時に「出口調査などの結果、○△さん、当選確実」と報じられることが苦々しかった。
 海外では、投票しただけで命を狙われるケースがあるという報道を見聞きし、そんな苦々しさも吹っ飛んだ。投票の秘密が守られる必要があるのは、投票したか否かによって身辺に危害が及ぶ場合があるからだろう。少なくとも日本の選挙では決してそんなことはない。憲法で規定された民主主義は生きているのだから。”(5月3日付け中日新聞)

 「憲法」と言う課題から名古屋市の川上さん(男・64)の投稿文です。わが家は川上さん宅と全く同じである。2人で投票に出かけるが、誰に投票したかは話さない。そして、夜の開票スタートと同時に当選確実の報じられるのを苦々しく思うのも全く同じである。テレビ局の調査がそれ程権威付けされているのか。公的機関でもない発表に、なぜ万歳三唱をするのか。なぜ選挙管理委員会などがクレームを付けないのか、不思議である。何だか落選者側に投票した人を愚弄している気さえする。あまりこの批判を聞いたことがないので、当然なのだろうか。ボクには不思議である。
 それにしても日本の投票率の低さには驚くものがある。それだけ平和と言うことであろうか。自分達で築いた平和でなく、敗戦によってもらった平和であるからだろうか。いやそうではあるまい。国会議員ならそう言う見方もあろうが、市町村長や議会議員の選挙でも低い。それは生活に係る身近な選挙である。口を開けば議員に対する不平不満は多い。それは選挙に行ってからである。ボクは近年、市議会議員事務所の事務長に着いているのでより気になるのである。


(第2447話) 夢ポケット

2017年05月22日 | 人生

 “二十年以上も前に、職場の仲間であり、よきパートナーでもあったTさんから届いたはがきに、「えっ」と驚くことより信じられないその言葉がありました。十万人に1人といわれる難病にかかり、治療中であるとのこと。連絡してみると、人生の終焉の覚悟はできていると、明るく話してくれたのを聞いて、それまでの葛藤を思い、慰めの言葉もありませんでした。
 久しぶりに会って、さらに驚きました。ご自分が元気なときに、ボランティアをしていた障害者のためのケア施設や作業場があまりに貧窮だったので、見かねて自身の実家の土地を無償提供。過ごしやすい、働きやすい施設ができないかと行政に掛け合い、実現させていました。
 その施設の一画のスペースで、ご主人と一緒に、絵、書などの個展を聞かれたのを機に訪れたのです。薬のせいでさまざまな症状が出ているにもかかわらず、この個展も施設の存在を広く知ってもらい、地域の交流の場になれば、という気持ちで開いたとのことでした。地域の交流スペース「夢ぽけっと」。まだまだ、いっぱい詰めたいものがあるそうです。いつまでも変わらず、たくさんの夢が実ることを願いながらの帰り道でした。”(5月2日付け中日新聞)

 名古屋市の前田さん(女・74)の投稿文です。素晴らしい!人様々と言うが全く素晴らしい。難病となれば落ち込んで当たり前である。多分落ち込まれたときもあったと思うが、それを見事に乗り越え、新たな出発とされた。それも人に役立つ形として復帰された。「夢ポケット」とは又いい名付けである。発想に人柄が表れている。開き直りもあろう。一つの前進の仕方としてあると思う。
 4月4日、ボクはいきなり老人クラブ連合会長に選ばれた。仕組まれていた。こんなやり方あるかと、一時腹も立ったが、もうくつがえるものでもない。先日の委員会で今の気持ちを話した。選ばれたからには、前向きに積極的にやりたい。老人は残り少ない人生である。後ろ向きにぶつぶつ言いながらやってはこの1年がもったいない。楽しくあらねばならない。名刺に「老人は楽しく!」と刷り込んだ。それには前向きに取り組むことである。こんな蛇足的な話もした。そして名刺には、ボクの座右の銘「明日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい」と言うマハトマ・ガンジーの言葉も刷り込んだ。連合会のやり方に、もう改めたいことがいっぱい浮かんでいる。


(第2446話) 本当の気持ち

2017年05月20日 | 人生

 “約五十分間の記者会見を一枚の写真で、どう表現するか。フィギュアスケートの浅田真央さんの引退会見は、難しい判断だった。四人の本紙カメラマンがさまざまな表情を撮っていた。テレビで生中継もされたので、多くの読者も見たことだろう。ほとんどの時間が笑顔で、本人も「すごく晴れやかな気持ちです」と語っていた。質問も尽き、さあ最後のあいさつ。そこで初めて沈黙し、後ろを向いて涙を指で押さえた。翌日、朝刊一面を飾った一枚は、その最後のあいさつを終えて会場を後にするため、体の向きを変えた瞬間の顔だった。
 引っ込めた涙の痕が目尻に残っている。表情を追い続けたカメラマンは「真一文字に結んだ唇に、浅田選手の気持ちが表れていると思う」と言った。
 五歳から二十六歳まで。良い時も悪い時もあり、挑み続けた長い競技人生を終える。「晴れやか」「何も悔いはない」の言葉通り、笑顔の写真を選択する手もあった。でも、最後の涙の意味を考え始めると、それでいいとも思えない。確かなのは、この会見が新たなスタートだということ。「笑顔で前に」と語った決意は、この唇に示されていると思った。”(4月30日付け中日新聞)

 写真部長・八木さんの「世談」と言う記事欄からです。タレントやスポーツ選手などにあまりのめり込まないボクであるが、浅田真央選手は例外である。演技の優雅さ、さわやかさ、可愛さ、インタービューも素晴らしい。妻はフィギュアスケートの大ファンであり、テレビ中継は何をおいてもみているが、ボクはチラッとだけである。でも浅田選手の時だけはしっかり見てきた。その浅田選手が引退である。この会見もテレビで見た。そしてこの記事である。カメラマンにもいろいろな思いがあって、ファインダーを覗いている。中日新聞だけでも4人のカメラマンがいたとは驚きである。報道とはそういうものかと知った。そして、あの写真である。浅田選手はやはりプロである。そして人間である。いい写真であったと思う。
 浅田選手は一度引退し、そして復帰した。復帰後の成績はあまりいいものではなかった。「ソチオリンピックシーズンの世界選手権は最高の演技と結果で終える事ができました。その時に選手生活を終えていたら、今も選手として復帰することを望んでいたかもしれません。実際に選手としてやってみなければ分からない事もたくさんありました。」とあります。良いときに辞めて花道を飾ると言う生き方もありますが、ボロボロになるまでやってやり尽くしたという思いで辞めるという方法もあります。この言葉を聞いて、浅田選手にはこれでよかったと思いました。この言葉を聞いて、ますます好感を持ちました。新たなスタートを期待します。


(第2445話) いつも3人

2017年05月18日 | 人生

 “早いもので、もう十年になります。あなたが来てくれてから。当時、主人は人工透析をしていました。闘病は十三年になり、心も体も悲鳴を上げていました。限界でした。そんなとき、腎移植の話をいただきました。待ちに待った朗報でした。手術は成功しました。その日から、私たちは三人になりました。
 どこへ行くのも、何をするのも、三人になりました。三年前には、主人の退職記念に西日本を旅しました。念願だった道後温泉に行きました。フェリーで別府に渡り、新婚旅行の地をたどりました。その後、あこがれの由布院に滞在し、南国鹿児島を目指しました。夢のような幸せな時間でした。
 苦しい食事制限、水分制限から解き放たれ、人工透析から解放された日常は、何にも代え難い喜びの日々です。あなたは主人の中で力強く、生き続けてくれています。あなたの鼓動を感じます。病気がちで、若く亡くなったというあなた。まだまだやりたいことや行きたいところが、いっぱいあったでしょう。これからも私と主人が、あなたのお供をします。いろいろなところへ出かけましょう。春らんまん。この国が美しく輝く季節です。あなたはどこに行きたいですか。”(4月27日付け中日新聞)

 岐阜市の肱黒さん(女・67)の投稿文です。腎移植された人がこのように思って生活されているとは、提供した人も嬉しいことでしょう。透析等で苦労された人が、移植を受けたときの嬉しさは例えようがないでしょう。その嬉しさをいつまでも忘れずにいる、その人の分を生きているつもりで暮らす。お互い本当によかった思います。
 ボクは保険証の裏に、臓器提供の意思表示をする欄があり、「私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します」という欄に○印を打っています。生涯にそんな機会があるのかどうか分かりませんが、意思表示はしています。死んだ後もこのように思ってもらえれば、一つの生き方だと思います。


(第2444話) パセリ彩りも栄養も

2017年05月16日 | 知識

 “自宅の庭で数種類の野菜を育てていて、春先に種をまいたパセリの芽が出ました。ビタミンやミネラルが豊富で私の好きな野菜の一つで、食べた翌日は肌の調子が良いような気もします。プランターなどで丹精しています。
 育てるにあたってインターネットで調べると、料理に添えるパセリを日本人の多くが食べ残していて、農家の人たちは残念に思っているとか。ただの彩りのように思われがちなパセリですが、栄養価は高く、栽培する人たちは自信を持って出荷しています。もっと多くの人がパセリを食べるようにすれば、日本での食べ残しの量も少しは減るのではないでしょうか。
 私は小・中学校で家庭科などを教えています。学校では食育の一環として、子どもたちと野菜を育てることもあります。この取り組みが農家の人たちの苦労を知り、食べ残しを減らすことにつながるといいなと思っています。”(4月25日付け中日新聞)

 愛知県豊田市の教員・早川さん(女・24)の投稿文です。パセリが料理に添えられているのは食中毒などを予防する働きがあるからとボクは思っていました。わさびと同じようなことです。調べて見ると、そういうこともあるようですが、その栄養素にびっくりします。栄養素のバランスよく、しかもビタミン・ミネラルがたっぷり、特にβカロテンは100gあたり7,400㎍、ビタミンCは120㎎も含有しており、野菜の中でもかなり豊富なため、パセリの動脈硬化を予防する効果や、美肌効果はとても高いと書いてあります。ボクはパセリも紫蘇も出されたものはほとんど食べますが、早川さんが言われるとおり残す人がほとんどですね。ボクは意味があるから添えられていると思って食べています。意味を知らなくても食べています。
 ボクもパセリを栽培してます。一度苗を買ってきて植えたら、種がこぼれて毎年出てくるのです。強いものです。ありがたいものです。三つ葉もそうです。ボクは多くの野菜を種ができるまで残しています。大根や小松菜、南瓜やゴーヤ、オクラなどは自分で採った種を蒔いて作っています。商品にするつもりがなければ、何でもできます。


(第2443話) シジミ屋さん

2017年05月14日 | 教訓

 “俳句の好きな妹にシジミが春の季語だと聞き、昔のことを思い起こしました。水戸の実家には、毎週シジミ屋さんが来ました。自転車に大きな缶を載せてきて、ますのようなものですくい、家の外のバケツに入れてくれました。
 ある時、3回続けて購入を断ると、シジミ屋のおじさんは変だと思ったのでしょう。「あのー、うちのシジミ、悪かったんですか」と聞きました。母は言いにくそうに「実は、お金がないんです」と答えました。
 戦後、古いお札を使う時は各家に配られた切手のような証紙を貼らねばなりませんでした。新円切り替えという措置ですが、その証紙が足りなかったのです。(後半はコメントの中で)”(4月25日付け朝日新聞)

 千葉県柏市の皆川さん(女・88)の投稿文です。この後どうなったのでしょう。ボクは多分、シジミ屋さんが気の毒に思ってただでくれたのだろうと思いました。ところが違っていました。その後半です。
 “しばらく考えていたシジミ屋さんは、家の周りにある古い梅の木々に目をとめました。「奥さん、こんなに梅の木があるんじゃ、梅干しもあるでしょう。だったら、シジミと梅干しを交換しませんか」
 母は物置から大きな梅干しのたるを出してきました。おじさんは、シジミに見合うだけの梅干しを持って行きました。そんなことがどれくらい続いたのでしょう。今でもシジミ汁を作るたび、あの戦後のくらしを思い出します。”
 となっていたのです。ボクはただでくれるより大きな配慮を感じます。ただでくれたら大きな引け目や負担を覚えます。いつもという訳には行きません。梅干しとの交換なら対等です。引け目なくもらうことができます。皆川さんも嬉しかったことでしょう。だから今でも覚えておられるのです。親切も相手が負い目に思えるほど大きいと考え物です。ボクも若い頃、そんな友人がいていつの間にか疎遠になっていました。


(第2442話) プチ親切

2017年05月12日 | 活動

 “スーパーのレジの行列に並んでいたときのことです。私のかごには山盛りの食料品が入っていました。ようやく次が私の番になって振り返ると卵のパックを手にした中年男性が私のすぐ後ろにいました。時間に余裕があったので男性に順番を譲りました。彼は驚きながらも、お礼を言って先にレジを済ませました。
 ちょっと気分が良くなり、私の番になりました。すると、レジの若い女性まで「ありがとうございます」とお礼を言ってくれました。男性とのやりとりを見ていたようです。レジの人にまで感謝されるとは思ってもいなかったので、さらにうれしくなりました。
 ささいなことでこんなに良い気分になれるのなら、これからも「プチ親切」を続けていこうと思います。”(4月23日付け中日新聞)

 名古屋市のパート・藤田さん(女・44)の投稿文です。レジの前で、わずか1、2個の買い物にたくさんのものを買った人が前にいるとイライラする時がある。特に急ぐような時はそんな気持ちになる。本当に順番を変わって欲しいと思うことがある。この話はまさにその順番を変わった話である。これこそ配慮である。男は目的を持って買いに行き、そのものさえ手に取れば終わりである。ボクなどその典型だ。1,2個買うだけである。長く並ばされるのはたまらない。藤田さんのような人に出会ったら本当に感謝するだろう。
 ボクはコンビニやスーパーで一宮友歩会や老人会等の資料をコピーをすることが多い。枚数も結構多い。している時にコピーをしに来た人と出会うことがある。その人の枚数を聞き、自分の残り枚数を数え、自分が一時中断して、その人に譲ったことはもう度々である。先日は使い方も教えてあげた。これはボクの「プチ親切」である。これからも心がけたいと思う。