彦四郎の中国生活

中国滞在記

鴨川の源流域を巡る❸―鞍馬川・貴船川・静原川、京都大原に源を発する高野川、そして比叡山中から流れて来る白川

2023-08-16 13:17:00 | 滞在記

 京都の町の北方の北山連山(丹波山地)を主な源流域とする鴨川だが、主な川は雲ケ畑地区を流れる雲ケ畑川・貴船川・鞍馬川が合流した「賀茂川」、そして三角デルタで合流する「高野川」の二つの川だ。

 鞍馬寺で有名な鞍馬地区を流れる鞍馬川は、花背峠付近の天ケ岳(788m)などの山々を源流域として、鴨川に流れていく。そして、この峠を越えた花背地区を流れる川は桂川(大堰川)の源流域となる。鞍馬には山椒の木が多く、地区にある林(ハヤシ)商店の山椒入りの木ノ芽煮(佃煮)は絶品だ。(8月10日、林商店で木ノ芽煮を買い、車をそこに駐車して、鞍馬川を撮影した。)

 『源氏物語』(紫式部著)では、鞍馬寺が光源氏と紫の上の出会いの場所としても描かれている。(来年度のNHK大河ドラマは「源氏物語」なので、この鞍馬山も登場するだろう。)

 貴船神社や京都の奥座敷として、貴船川の渓流にある川床料理店などで有名な貴船地区。貴船神社はまさに、鴨川の源流域で水に祈る神社であり、おみくじもまた、紙を水につけると吉などの文字が浮かび上がってくるというもの。この神社は平安時代から都人の信仰が篤く、「万物の命の源である水の神を祀る、全国二千社を数える水神社の総本宮」である。水に祈り、また、恋愛成就の神社として平安の時代から有名で、平安時代の歌人で『和泉式部』などの著書もある和泉式部の歌碑もある。また、『枕草子』の作者である清少納言や紫式部も参拝しているようだ。

 貴船神社の奥の院付近の貴船川の河原には、私は娘と孫娘とともに2018年に川遊びにも来ている。この河原から山道が、貴船川の源流域沿いに、くねくねと急坂で続き、しかもとても狭い道が芹生峠(せりょうとうげ)へと続いて行く。とても怖い、危険な峠道だ。峠を越えると京北町となり、桂川の源流域となる。鴨川の源流域の一つである貴船川は、貴船山(698m)や鞍馬山(513m)に源を発している。(※貴船神社の境内付近には、「丑の刻参り/呪いの藁人形」をしている木々の場所がけっこうある。現代でもこの丑の刻参りをしている人がいるようだ。)

■この貴船川は鞍馬川に貴船口で合流し鞍馬川となる。そして十三石橋付近で、前号のブログで記した雲ケ畑川(賀茂川)と合流し、賀茂川となる。

 賀茂川が鴨川と漢字が変わる高野川との合流地点の三角デルタ。ここから高野川の上流域に行くと八瀬がある。京福(叡山)電鉄の「八瀬駅」付近の清流と河原は、電車でも来れる遊泳場所として、たくさんの人が訪れる。バーベキューなどを楽しむ人たちも多い。そして、さらに上流域に行くと大原の里がある。高野川はこの里を流れ、さらに源流域にと川は続く。

 京都から私の故郷・福井県南越前町との行き帰り。行きは琵琶湖西岸の湖西道路(国道161号線)を通り、帰りは安曇川沿いに朽木町などを経由する鯖街道(国道367号線)を利用し、京都の大原や八瀬地区を通って自宅に戻ることが多い。帰路、滋賀県と京都府の県境近くにある峠が花折峠(はなおれとうげ)だ。その峠下の花折トンネルの手前から山々を見上げる。山々の手前の滋賀県側に降る雨は、安曇川の源流域となり、琵琶湖に流れていく。

 トンネルを抜けてから山々を見上げる。その山々に降る雨は、大原や八瀬を流れる高野川の源流域の山々となる。県境のなだらかな途中峠を越えてると大原地区の小出石の集落に至る。ここに「高野川」と書かれた小さな橋がある。ここは鴨川に流れる高野川の源流域に近い場所。

 もう一つ、高野川の支流である小出石川がある。その川の幅はけっこうあり、清流が流れる。ここも鴨川の源流域となつている。ここをこの8月上旬に、福井県からの帰路に巡ってみた。

 最後にもう一つの鴨川の源流となる川がある。白川だ。この川は川底の砂が白っぽい花崗岩なのでこの名がつくが、比叡山山中の山中町付近が源流となる川だ。この川は比叡山山麓の京都北白川地区や銀閣寺の近くを流れて、平安神宮の近くや祇園の町中を流れて、鴨川に架かる四条大橋の近くで鴨川に合流していく。(祇園の白川沿いに、歌人の吉井勇の「かにかくに碑」がある。歌碑には、「かにかくに  祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」と和歌が書かれている。)

 以上が鴨川の、いくつもの源流域を巡る、この夏の「水に祈る」記録でありました。

 

 


鴨川の源流域を巡る➋―1300年余りにわたり鴨川源流の「水の守人」、山寺「光明院」に行き、源流の一滴を見る

2023-08-16 08:16:45 | 滞在記

 8月10日(木)、京都市内を流れる鴨川(かもがわ)源流域の一つ、丹波山地の山間集落・雲ケ畑地区にある岩屋山志明院(山寺)を目指して鴨川沿いに車を走らせた。賀茂川と高野川が合流する三角デルタ▼地点から賀茂川を堤防道沿いに遡(さかのぼって)って行く。上賀茂神社付近の堤防道を過ぎ、賀茂川の上流域へと入る。高校生くらいの年代の4人が滝のような突堤の付近で泳ぐ姿が。さらに遡ると、鞍馬川や貴船川、静原川などが賀茂川と合流する十三石橋。

 賀茂川の上流域を雲ケ畑集落を目指してさらに進むと、山間の上流域らしき川のようすが見られてきた。「洛雲荘(川床料理・料理旅館➡3キロ」の看板が道路わきに。

 雲ケ畑集落の中心地・出合橋に到着した。雲ケ畑集落は賀茂川沿いに細長く続く集落で、2010年には71世帯177人が暮らしていた。雲ケ畑小学校・中学校が2011年まであったが、廃校(正式には休校)となっていた。(1960年には雲ケ畑小学校には84人の児童が在籍していた。)  出合橋の下の川は、賀茂川(雲ケ畑川)と中津川が合流する地点で、少し深い淵(ふち)があり、京都市内から母親らといっしょに泳ぎにきていた。2012年まで京都バスがこの集落まで運行していたが撤退。その後、「雲ケ畑バスもくもく号(マイクロバス)」が、京都市内の北大路駅まで1日に2便運行している。細長い集落なので、乗り降り場所は乗客の随時のようだ。

 京都北山友禅菊が美しく咲いていた。この辺りは4月から5月にかけて、石楠花(しゃくなげ)の群生が咲き誇るようだ。また、オオサンショウウオの生息地らしい。出合橋付近には、この雲ケ畑地区の案内絵地図看板が掲示されていた。

 出合橋から賀茂川のさらに上流域である雲ケ畑川沿いにすすむと、厳島(いくつしま)神社の赤い鳥居や樹齢数百年の杉があった。この神社もまた、賀茂川の水源地を鎮守する神社のようだ。映画「八墓村」にでてくるような立派なお屋敷の家もみられる。ここ雲ケ畑集落は古代より昭和30年(1955年)ころまでは、都の鴨川の水源地として、死者の埋葬は(穢れとなるとして)、持越峠(鴨川流域と桂川流域の分水嶺の峠)を越えて、桂川の源流域の眞弓集落まで運び埋葬していたようだ。このように雲ケ畑住民は、水を穢(けが)さない心持ちをもちながら古代より生活していた。

  雲ケ畑川(賀茂川)をさらに遡ると岩屋橋に着いた。この橋の下で、雲ケ畑川は岩屋川と祖父谷川に分岐する。この岩屋橋のところに「洛雲荘」があった。祖父谷川の渓流にそって川床があり、川床料理を食べさせてくれる。80歳くらいの店主に聞いてみると、「今はもう旅館の方はやってなくてえ、川床料理を金土日の週末3日間くらい営業しているんですわ」とのこと。2018年の7月に、私は娘と孫の3人で、この祖父谷川の渓流に水遊びに来たことがあった。

 岩屋橋からさらに岩屋川沿いに山道を車で2キロほど登って行くと、目指す、鴨川の源流を守る寺であり、この7月上旬にNHKBSプレミアムで「水の守人―京都鴨川の源流・めぐる生命(いのち)の物語」で放映された志明院(金光峯寺/岩屋山)が見えて来た。境内入り口の駐車場には車が10台ほどは置ける広い場所があった。駐車場わきの細い小川には、小さな魚が群れていた。

 ここ岩屋山光明院の開山は650年。そして、山寺である光明院の建物などが建立され創建されたのは、794年の平安京設営から35年後の829年。「水源を祈願し祀らなければ、暴れ川である賀茂川は治まらず、都の平穏はない」として、空海(弘法大師)が創建した真言宗の水源地を守る山寺で、不動明王が祀られている。寺の標高は450mと高い。駐車場から石段を少し登ると、古色蒼然とした立派な山門が見えて来た。山石楠花(やましゃくなげ)の大きな樹木が群生している。現在の住職(49歳)の母親(前住職の妻)が、寺院参拝の受けつけをしていた。(入山料は400円/この入山料収入などで、寺院の運営・生活をしているのかと思われる。)

 境内には庫裡(寺の人が生活する建物)や宿泊棟のような建物もあった。かって、歴史作家の司馬遼太郎などもここに宿泊し、作品の執筆をしていたこともあったと、NHKでの番組内で語られていた。(夜になると、「魑魅魍魎」[ちみもうりょう]の類[たぐい]が現れたと司馬遼太郎は語る。) 魑魅魍魎とは、所謂(いわゆる)、妖怪のようなもの‥。モノノ怪(け)とも呼ばれるが、この寺での体験を宮崎駿に司馬さんが話したことがあり、宮崎駿によるジブリ映画「ものの怪姫」の着想はここから生まれたとも言われている。

 山門のそばには、山からの水がたまり、柄杓(ひしゃく)が置かれた鉢(はち)が置かれていた。手に水をすくって飲んでみると、甘くて、とても甘露な味がする軟水の美味しい水だった。ああ、この水が賀茂川(鴨川)に流れていき、京都盆地の地下水としても地下に満々と蓄えられているのかと思った。そういえば、京都伏見の酒は、甘口の銘酒で軟水の地下水でつくられている。そして、神戸の灘の銘酒は、六甲山系の花崗岩(かこうがん)から流れるくる硬水の地下水(宮水)でつくられる辛口の銘酒であることが思い出された。

 山門をくぐり、本堂に続く石段のそばには、山石楠花と杉の大木の並木が続く。この寺は石楠花が群生している寺でもあった。本堂も山門同様に古色蒼然とした面持ち。ここに不動明王が祀られている。

 本堂のそばには、「お滝」と呼ばれる「龍神の滝」の赤い祠(ほこら)。石の樋(とい)から賀茂川の源流の水が落ちてきていた。住職は毎朝、この水を碗(わん)に入れて、本堂の不動明王に供えるのだそうだ‥。この「お滝」の祠からさらに山道を少し登ると「薬師如来」や「不動明王」を祀る洞窟が。この寺の周辺で採れる薬草は、古来、都で流行った疫病の薬としても使われたそうだ。それで薬師如来が祀られてもいる。山をさらに登ると薬師峠や祖父谷峠などに至る。分水嶺の峠を越えると、そこに降った雨は桂川の源流(支流)の一つである清滝川に流れていく。

 本堂のすぐ背後にある山道の階段を登って行くと、まさに鴨川の源流の水の滴(したた)りという感じの場所に行きついた。さらに登ると「岩屋清水」という清水(きよみず)の舞台のような建物の祠が見えた。祠の背後は巨大な大岩の塊。ぱっくりと口を開けた岩窟(がんくつ)に、かすかな水の一滴が滴(したた)り落ちていた。大河の一滴、鴨川のまさに源流での、最初の一滴だった。

 寺の入り口に、この付近の山々や山道や峠の地図が木の板に書かれていた。この寺から少し行くと、京都の北山(丹波山地)最高峰の桟敷ケ岳(さじきがだけ)がある。標高は896mで、比叡山よりも48m高い。この山に降った雨は、祖父谷川となり鴨川の源流の一つとなる。この桟敷ケ岳の向こう側には、私の妻の故郷である京北町周山・山国地区があり、ここからも桟敷ケ岳が望める。この山は、鴨川に架かる市内の四条大橋や三条大橋などからも望める山だ。(最も高く見える山が桟敷ケ岳であり、その少し左側[西]の山中にこの岩屋山光明院がある。)

■ここ雲ケ畑は、西の鯖街道(若狭の小浜—堀越峠—美山―京北(周山)―京都)の、京北から京都に至る間道としての山間地の場所でもあった。(東の鯖街道は、小浜—朽木—大原―京都というルート)

■現在、北陸新幹線の延伸問題が起きている。福井県の敦賀―小浜—美山町や京北町―京都市―大阪市というルートだが、その延伸計画には美山・京北町や京都市の地元住民の多くが反対している。小浜—京都までのその区間の多くはトンネル工事となり、丹波山地の水系が破壊され、トンネル工事にともなう大量の残土問題が起きる。また、京都市内の京都盆地の地下の水脈も著しく破壊される。

 この時代に、このようなルートの新幹線の必要性はほとんどない(京都と小浜間には駅はない計画/小浜市の人たちにとっては念願かもしれないが‥)にも関わらず、なぜこんな工事を国民の血税を使ってやるのか‥。この時代の、大阪市府の大阪万博やカジノ設営と同様に、その必要性はとても薄いように思うのだが‥。まあ、百害あって一利なしのような気もする‥。大手ゼネコンなどのための政治を自民党や維新の会はやっているように思える。そんなことも思いながら、鴨川の源流域の一つ、岩屋山光明院をあとにした。