彦四郎の中国生活

中国滞在記

ソロ山城巡り(ぼっち登山)❸―丹波篠山・細工所城①―急峻な地形そのものが難攻不落的な山城

2020-12-09 13:36:54 | 滞在記

 「籾井城址」に続き、「細工所城址」に向かう。ここは籾井城から車で10分ほどのところに登り口があった。「細工所城址」の登り口近くまで来ると、「⇦荒木城登山登り口」の木の看板があった。地元の人でも知らないだろうと思って来たのだが、NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の放映効果だろうか、こんな所の山城城址まで地元の人による看板がつくられていた。この山城も籾井城と同じく明智の丹波侵攻によって激しく攻めたてられたが、明智の大軍を何度も撃退し敗退させた難攻不落的な山城だった。「細工所城」は別名「荒木城」と呼ばれているようだ。

 城址登り口付近の駐車場に車を停める。冬の花・山茶花(サザンカ)とドウダンツツジの紅葉が垣根となって植えられていた。「荒木城址山頂まで約35分➡」と書かれた木の矢印看板がある。「荒木城址」や「本能寺の変の謎は丹波篠山にあり」の幟(のぼり)が立てられている。

  人家のそばにある山道を登り始めると小規模な曲輪が段々に続き土塁や虎口らしきものがあった。そして規模の大きな郭(曲輪)がある。ここはかって居館があった場所のようだ。「細工所城➡」の古い標識が土の上の落ち葉にころがっていた。小さな鳥居が見える。その横の山道を上がって行くと突然、大きく深い堀切が見えて来た。

 山城の多くは、標高が300~500mほどの山に築かれていることが最も多い。高すぎず低すぎずという山だ。それでも麓からの高さ(比高)は100m~300mほどはある。本丸にあたる本郭(曲輪)は山の山頂にある場合がほとんどだが、本郭を中心とした場所には城主たちは普段は暮らしていない。麓にある城館にて暮らす。いざ合戦、籠城となると本郭などに登って行き防戦をすることとなる。

 かなり大規模な堀切だ。城館跡の曲輪とこの堀切の間に櫓台か城主の館かがあったのだろう一段と高い郭(曲輪)があった。そこには今、小さな祠(ほこら)が置かれていた。

 この一段と高い城館曲輪の周囲にも、さらに城館跡の敷地が見られた。最近になり地元の人たちによってつくられたのだろう「荒木城跡まであと28分➡」の標識看板が。尾根伝いの大手道の左右の側面の傾斜はとてもきつい。おそらく50度の傾斜はあるだろうか。この王手道を休み休みに登り続ける。さらに行くと「気合を入れて あと約14分➡」の標識看板。山道の傾斜がとてもきついだけに、この標識には助けられる。

 少しずつ登って行くと、チェーン鎖と工事用ロープが並行して王手道の45度以上はある急斜面の道に張られてはじめていた。「もう一息 あと約10分➡」の標識が。すごい斜面の大手道だ。

 少しずつ少しずつ進む。昔の侍たちは普段から鍛えていただろうから、この急斜面を駆け上りもできたのだろう。この山城が明智軍の大軍に何カ月も包囲され猛攻を受けながら落城せず、一度も二度も敗退させていった歴史があることを実感させられる。

 「最後の難関 あと約6分➡」の標識。ここからさらに傾斜がきつくなり50度以上はある道が続く。そしてついに空の見える山頂らしき空間のある場所が見え始めて来た。この「細工所城(荒木城)」は、午前中に登った「籾井城」よりさらに、城跡の山の地形そのものが急峻で、防御機能として最大の武器になっている城址だと実感する。この城の本郭の標高は404m。比高は170mほどなのだが、山の地形がすごい。

※12月8日付の前々回のブログ記事に、「全国に3万以上あると言われる城、その95%は中世の鎌倉時代につくられた山城(やまじろ)であり」と記していましたが、「その90%は中世の室町時代」の誤りです。訂正いたします。