彦四郎の中国生活

中国滞在記

日本に「土堡・土楼」のような村人の城ができなかった理由とは➂日中歴史比較からの考察

2016-04-02 13:57:31 | 滞在記
   ❷―中国の歴史と日本の歴史の比較と違い―

  (3) ―日本における歴史上の虐殺―規模が中国とは格々段に違っている


 中国の歴史における「虐殺・殺戮」は すざましいものがあったが、日本ではどうだろうか。
 日本の歴史における大虐殺は、4つの歴史的事例がある。1971年の「比叡山延暦寺焼き討ち」では、織田信長軍3万に包囲された僧侶・学僧・僧兵・女子供が3000人以上虐殺されたとされている。1571年〜1574年までの「長島一向一揆の勢力」は、多くの農民(一揆衆)が参加していたが、8万人の織田軍に包囲され10万人近くが虐殺されているようだ。
 1575年の「越前一向一揆」勢力は、3万あまりの織田軍により5万人あまりが殺され、2万人あまりが奴隷とされて尾張や美濃に送られたという。また、この際、越前府中(現在の武生市➡越前市)では、信長の部下の前田利家が千人あまりの人々を「磔」「釜茹で」で虐殺されている。魔王とも呼ばれた織田信長の軍事行為による3つの事例の虐殺総数は15万人にのぼる。
 1637年の「島原の乱」は農民一揆の様相が大きい。これに信仰のキリスト教がからんでくる。13万あまりの幕府軍に包囲され、4万人近くの人が虐殺された。(※上記の左から3・4枚目写真と絵図は島原城。この城は江戸時代になり廃城となっていた城。一揆勢はこの廃城に立て籠もった。)
 4つの事例とも宗教勢力に対する権力側の弾圧・殺戮の様相がある。日本の歴史上、農民や町人・市民が大量殺戮されたのはこの事例ぐらいのものであり、中国と比較すると格段に少ないということがわかる。また、政権が変わる際の粛清も、規模的にはとても小規模である。

 ❸―中原からの民族大移動(集団避難し命を守る)は、6段階の時代にわたっている―
 最初が秦の時代前後に江西省あたりへの避難・移動、第二段階が西晋の時代に揚子江以南のへの避難・移動、第三段階が唐代末の時代に福建・広東・広西省の山地への避難・移動。
 第4段階が元軍の南宋侵攻の際、福建・広東・広西省の山地への避難・移動。第5段階が1600年代の清の時代の領土拡張にともなう福建・広東省や四川省や台湾省への避難・移動。清の中期・末期には、海南島(省)まで客家の避難・移動地域は広がった。
 土楼の設営時期は1400年代から1800年代にまでわたっているが、「明」と「清」の時代の政権交代にともなう大量粛清や大量虐殺をさけるための避難・大移動という歴史があったのではないだろうか。客家のほとんどの家に古代からの族譜があるようだ。祖先信仰が強く、かたくなに風習を守りつづけてきた土楼の客家の人々は、もともとその地にいた原住民ではなく、北方や中原から逃れて住みついた人々の群れではないだろうかと思われる。



 ❹―なぜ日本には「土堡」や「土楼」のような村人(農民)の城は造られなかったのか―その理由を考える

(1)私の結論からいえば、理由の最も大きなことは「日本の農民・村人には、村の城を必要としなかったから。」ということになる。村の近くの領主の城が包囲され、攻められて陥落したとしても、村人・農民の命まで奪われ虐殺されるということが少なかったということである。侵攻し戦に勝った領主は、農民たちを殺さず新しい領主として君臨しただけである。もちろん戦による農民の田畑や家の被害、女性の輪辱などの被害はかなりあっただろうが。そのため必要だったのは、「村の城」ではなく「村の隠れ場所」だったのではないだろうか。

 (2)これに対し中国では、すざましいまでの大量殺戮・虐殺が起こるため、とても遠方に避難移動した際、一族の集団として堅固な「村の城」を作る必要があったと思われる。一族郎党・親戚縁者までことごとく粛清・殺戮される恐怖心は、我々日本人には想像を越えるものかと思う。「自分の一族が力を合わせて、敵や恐怖心から命の暮らしを守る」というとほうもないエネルギーが、「土堡や土楼」を作り上げたのではないだろうか。

 (3)鎌倉時代の元の襲来以外、他民族の侵攻がなかった島国の日本。この地理的要因も大きい。大陸とつながっていたら、どのような歴史になっていただろうか。(※第二次世界大戦での敗戦によるアメリカ軍の進攻・駐留はあったが)


(4)日本の国土は中国に比べて小さい。その小さな国土の隅々まで、領主の城というものがあった。例えば京都府の丹波地域では、山々に囲まれた小さな平地ごとに領主の本拠地の城や支城が造られていた。「村人の村の城」が必要と仮にされても、それを造ることは領主が許すはずがなかった。反乱・反抗の拠点となる可能性があるからである。
 また、村が「野武士や強盗集団」に襲われた場合でも、城に駐屯している武士集団の対応がしやすい。
 中国は広い。この福建省だけでも韓国より広い。「客家」の人々が住む場所は、できるだけ平地の「城市」から離れた山間地である。「強盗集団」に襲われもしやすいし、城市にある領主の支援も受けにくい。だから、「村の城」が必要なのだ。

 (5)黒沢明監督の有名な「七人の侍」。村人が七人の侍を雇って野武士武装強盗集団から村を守るストーリ。村を守る領主の勢力があいまいになったり弱くなったりした場合、このようなこともあったかもしれない。しかし、このような歴史事例は史実には残っていないようだ。村全体を防御的にしたことはあったかもしれない。



 ◆ヨーロッパの小規模な城には、土楼のような大きさの城もある。しかし、これも「村人」の城ではない。領主の城だ。(※村人の城というものがあるのかないのか、詳しく私には分からない。)  おそらく、中国の「土堡」や「土楼」のような堅牢な「村の城」は世界的にも珍しい存在なのかもしれないと思う。
 (※ロシアのサンクトペテルブルク市に3回訪問した際、マリンスキー劇場にて「タタールの軛(くびき)」というバレー劇を見たことがある。「タタールの軛」とは、元帝国の襲来でロシアの大半が占領されたのことである。この時多くの人々が虐殺された。現在、ロシアには「元の侵攻―タタールの軛」に関する歴史博物館が作られられている。中国では、他民族だったモンゴル軍の進攻によって3000万人あまりが殺された。四川地方の人口は、1600万人から半分の800万人まで激減したという。しかし、このことに関する「元の侵攻」をテーマにした博物館は存在しない。

 ◇訂正します。
 3月末に作った「土楼」に関するテーマのブログにて、「土楼村」を案内してもらった鶴田さんに関するプロフィールや胡文虎など関することに、私の勘違いによる間違いを記載していたので訂正します。
 訂正①「東京外国語大学卒業後、外大の大学院にて中国文学を専攻したあと」と記載しましたが、「日本の大学で中国語を専攻したあと」と訂正させていただきます。
 訂正②「胡文虎は、『水滸伝』『三国演義』『西遊記』などを国民的に広めた。」と記載しましたが、「胡文虎は、子供の頃私塾の勉強に興味がなく、授業もよくさぼり、科挙の試験とはあまり関係のない『水滸伝』『三国演義』『西遊記』などの古典小説に夢中だった。」と訂正させていただきます。