瀬崎祐の本棚

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倭人伝断片 福田拓也 (2017/11) 思潮社

2018-02-10 14:18:00 | 詩集
80頁に17編を収める。16編は散文詩で、とても堅い言葉が組み立てられていく。
 巻頭の「「倭人伝」断片」には、わたしは「一つの歌の死あるいは形骸として」「失われた歌という神話をあくことなく語り継ぐ、声を与える配置そのものとして」書いていくといった意の部分がある。これがこの詩集の立脚点なのだろう。

 「酒匂川を越えて」では、肉体と思念の遊離と合体が書きとめられている。「くも膜下出血に倒れたわたしの霊魂は管につながれて横たわるわたしの肉体を離れてあくがれ出て行った」ようなのだ。そして迎えた目覚めははたして「現実のこの世界への目覚め」だったのか、それとも「酒匂川を越えてまた別の世界に目覚めた」だけなのか、すでに判断は不可能だったのだ。

 「灰の裸体、光の灰」では、さらに言語表現の命題とでもいうべき言葉と実体の解離と融合が試みられている。14の断章によってあらわされているのは、書かれることによって世界のすべてが構築されていく有り様である。

   盲目のうちにすべてを見る死者の言葉がひとつの砂粒を動かすことがなかったとしても、
   その木々の揺らぎと鳥の囀りは決して否定し得なかった、何もない骨のうず高い山のな
   かで今でも砂粒の言葉は語っている、

 最後に置かれた「住吉行(すみのえこう)」は19頁に及ぶ行分け詩である。映画にはロード・ムービーという分野があるが、これは意識の流れを丹念にたどった“ロード・ポエム”である。話者の意識を追体験しながら、読者は奈辺を彷徨うのだろうか。

   この土地から
   逃亡する言葉の火
   航跡としての筋道を辿り尽くす先には
   あくまで行き着かない
   行き流れ
   痕跡を飛ぶ鳥は
   あらゆる壁をつき抜けて
   飛び去るだろう

こうしてこの詩集は、言葉による意識の実体化を目指してもいたようだった。
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