瀬崎祐の本棚

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森羅 2号 (2017/01) 東京

2017-03-01 17:16:15 | 詩集
 粕谷栄市、池井昌樹の二人誌。A4版、12頁で、きっちりと書かれた手書き文字が、どこか読み手に絡みついてくるような迫力を持っている。

 「晩年」粕谷栄市。
 「若し、私が、八十歳を幾つか超した老人だったら」と仮定した上で、その有り様を夢想している。しかし、その「大きな港町」の「路地裏の一軒家」に「独り暮らしをしている」という夢想は、話者の現実と裏表のように密接に付いているのだろう。そこで私は、「埠頭に近い橋の上で、大勢の女たちに、丸裸にされ、足蹴にされたあげく、汚い河に投げ込まれ」たりしている。

   この私が、実は、八十幾つかの老人なのかもしれない。
   思えば、悲しい事実である。
   いや、そうとばかりはいえない。むしろ、その逆だ。
   私は、恵まれて、天与の夢の晩年を生きている。

 夢を見ている私と、夢の中にいる私がいるわけだが、次第にその二人の私の区別は薄くなっていく。それは詩を書いている自分と、作品の中にいる自分が、いつしか見分けが付かなくなるようなことなのだろう。

 池井昌樹は8編を載せている。その中から「無事」。
 平仮名だけで書かれていて、作者独特の5音、7音のリズムを刻み、ときに6音が挟み込まれる。雨の朝に妻と連れだって出かけ、道ばたの女の子に声をかけると、消えてしまう。隣にいたはずの妻も消えてしまう。悲しくなった僕が、

   うちにもどれば
   なにごともなく
   つまがことこときざんでいて
   ぼくはすっかりうれしくなって
   こんやなんだい
   こえをかけたら
   つまはにっこりふりかえり
   なんだとおもう
   またことことときざみはじめた

 この何事もなかったかのような口ぶりは、そのまま、振り返る妻は実は異形のもので、何をきざんでいたのかと思うと・・・、といった不穏を孕んでいる。”無事”ということは、そんな不穏さに気づいても知らない素振りをすることによってはじめて得られるのかもしれない。
コメント
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