逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

日本国の終戦の日は4月28日?

2008年04月29日 | 社会・歴史

1945年8月9日の御前会議で、日本政府は「国体護持」(天皇制を護ること)を条件に日本軍の降伏を認めることを、秘密裏に決定する。
(しかし、表向き(国民向け)の徹底抗戦(本土決戦、一億玉砕)の、方針は微塵も変更されることは無かった。)

敗戦を自覚していた日本政府は、ソ連との日ソ中立条約を頼みに、ソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけ、絶対に無条件降伏(ポツダム宣言の受諾)ではなく、国体の保護(天皇制の保護)を条件とした『有条件降伏』に何とか上手くならないかと、この時点(ヒロシマ、ナガサキの原爆投下)でも世界情勢を自分に都合よく考えていた。

しかし、この時すでに連合国側は、ヤルタ会談(1945(昭和20)年2月)においては、ドイツ降伏(5月7日、ベルリン陥落は5月2日、降伏文書署名は5月9日)後3ヶ月以内でのソ連軍の対日参戦が決定されていた。
そして、1945年4月には、1941年締結の日ソ中立条約の不延長を日本政府に通告してくる。
対日参戦の為に、ドイツ軍降伏以降はヨーロッパ戦線のソ連軍を、シベリア鉄道をフル稼働させて着々と極東に集結させていた。

とうとう8月9日(条件付敗戦を決めた御前会議当日)深夜、ソ連は連合国との約束どうり日ソ中立条約を破棄して、対日参戦を宣言する。
ソ連軍の進攻が開始され、日本としては最期の頼みの綱のソ連に参戦されて、万事休す。
天皇制の維持か廃止で、ダラダラと連合国側と条件交渉している場合ではい。

敗戦の1945年時点では27年前のソ連による、元皇帝ニコライ2世一家処刑事件は、彼等にとっては忘れてしまえるほど昔の話ではない。
1918年におこったロマノフ王朝の最期を知っていれば、彼等にとってソ連軍参戦ほど恐ろしいことは無かったのである。
やむなく無条件降伏(ポツダム宣言の受諾)を受け入れることが8月13日に決定される。
ソ連軍が参戦すれば即座に日本側が無条件降服する事実をアメリカのルーズベルト大統領もソ連のスターリン書記長も知っていた。それ以外の連合国側の首脳も知っていた可能性は高い。
知らなかったのは肝心の日本側だけだった。

サイパン陥落(1944年7月)以降、日本の敗戦は、誰が見ても決定的で避けられなかったが、その絶対不回避の事実を、唯の一人も認める(理解する)政治家も軍人も日本にはいなかったのである。
この最期の一年間で、粗すべての日本の都市が焼け野原となり、数百万人以上の日本人が死亡する。


始めるのは簡単だが、一度始めた戦争はそう簡単には終わらない。

8月14日は無条件降伏(ポツダム宣言の受諾)を戦勝国(連合国側)に通告した記念日である。(敗戦記念日)
8月15日は日本軍の統帥権を持つ裕仁大元帥が、大日本帝国の降伏を国民(臣民)に発表した記念日であろう。(帝国の敗戦認定日)
9月2日のミズリー号での外務大臣重光葵(主席全権)の署名は、日本帝国(軍)の降伏文書への署名 とも考えられる。
9月2日は日本帝国(軍)降伏記念日。

サンフランシスコ講和条約を1951年9月8日、日本側の吉田茂首席全権大使(首相)が署名、 衆議院 参議院の両院が締結を承認、内閣が条約を批准 して1952年4月28日に発効した。

戦争が正式に終わるためには講和(平和)条約を、戦争当事国同士で結ぶことが絶対条件となる。
それなら本当に日本の戦争が終わった終戦記念日は4月28日 である。
(しかし、戦争当事国で有るソ連も中国もこの平和条約には参加していない。中国とは其の後平和条約を結ぶが、ロシア(旧ソ連)や北朝鮮との平和条約は無く、両国との戦争状態は法的には完全終結していない事になる。)

外国の例では半世紀前に終わっている朝鮮戦争は当時者が停戦協定しか結んでいない為、法的には戦争中といえる不安定な状態であり、米朝二国間協議による平和条約(講和条約)の締結が待たれる。
戦争は始めるのは簡単だが、終わらせるためには途轍もない時間と途方も無い労力を必要とする。

『屈辱の日』

日本本土の人々には殆ど記憶に無い4月28日は、当時沖縄県在住の日本人、百万人の人々にとっては、屈辱の日として決して忘れられない日として心に刻まれている。

普天間や名護の問題も、この日が関係しています。
外国(今風の言い方なら異教徒)の軍隊に占領されて主権を放棄した記念日でもある。
今日本本土では軍政は7年間だったので、沖縄県の一般の市民が、軍事占領下に長年生きなければならなかった事実を、済んでしまった他人事として忘れ去られようとしている。

普天間や名護の問題は、決して普天間や名護だけの問題ではない。沖縄の問題は、決して沖縄だけの問題ではない。
日本人全体にとっても4月28日は決して忘れるべきでないでしょう。

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24 コメント

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沖縄県における日本の軍政 (kaetzchen)
2008-04-29 14:34:21
といえば,その前の薩摩による,事実上の奴隷国家としての悔しさもあるのではないでしょうか.

琉球はもともと軍事力というものを持っていなかったから,中国や台湾と平和裏に交易ができたという歴史を持っている.その平和を破壊したのが薩摩藩である.王族は「華族」として残したものの,琉球国としての独立は崩され「沖縄県」として,日本国の洗脳を最も激しく受けることとなる.未だに保守派の人々が「それに触れたくない」のは薩摩の恐ろしさを身を持って体験しているからではないかと思う.
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米軍占領下で独立構想? (ブログ主)
2008-04-29 16:36:37
今では笑い話に近い話ですが、本土復帰運動の高まりを恐れて、アメリカ軍による流球国独立構想が密かに進められていた。
何か、今のチベット独立運動を連想させる話ですね。
何故、今になってからチベット独立があたかも歴史的事実だった話になっているんでしょうか。?
これは実に不思議な話だ。
歴史を調べて見ても、チベットが独立国だった時代は無い。辛亥革命時に一度だけ独立宣言をしているのは事実だが、世界(国際社会)は誰も認めていない。
榎本 武揚の宣言したエゾ共和国に似た話で国際社会が認めたことは一度も無い。


日本の飛鳥時代以前に、チベットは既に唐の版図に組み入れられていたし、唐代以前は国家としての体裁を持っていなかった。
100年前の河口 慧海師がチベット入りした時、チベットの内側はチベット人が治めていたが国境警備はシナ兵が行なっていたと有る。
そういえば台湾は中国(清帝国)時代の琉球王国時代の歴史から、沖縄県ではなく、今でも琉球と呼んでいるらしい。
そういえば昔、台湾で売られていた中華民国の地図では、外蒙古(モンゴル)もパミール高原も中国の版図に入っていた。
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ソ連参戦 (チョッパー)
2008-04-29 16:43:06
独ソ戦末期の1944年ワルシャワ市民は近郊まで侵攻してきたソ連軍に呼応して、ドイツからの開放を目指して武装蜂起したが二ヶ月の壮絶な戦いをもってしてもドイツ軍に勝てず壊滅した。
何故か。ソ連軍は見てみぬ振りをしたのである。
これこそがスターリン主義の本質であり、一国社会主義、労働者国家無条件擁護の結末なのです。
ふいのソ連参戦は、毛沢東擁護、金日成側面支援、極東革命支持の戦略的決定でありましょう。
満州にいた日本移民団はひどい目にあいました。
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歴史は繰り返す (ブログ主)
2008-04-29 17:47:54
ワルシャワ蜂起がドイツ軍に敗れ壊滅する一年前に、同じポーランドのワルシャワ市内のユダヤ人ゲットーで起こった、ワルシャワゲットー蜂起では、ほとんどのポーランド人に見てみぬ振りをされ、蜂起軍は全滅しています。
そして一年後に、ほとんど同じ悲惨な過ちが起きる。同じポーランドの同じワルシャワで、同じような悲劇、一桁違いの規模で惨劇が繰り返された。
戦争前にはポーランド国内に人口比で八分の一のユダヤ人口を抱え、ワルシャワでは四分の一以上の人口比だった。ポーランド民族主義が盛り上がり、ユダヤ人がドイツ軍に敗れることを歓迎するポーランド人がいたんですよ。
一年後のワルシャワ蜂起はロンドンにあったポーランド亡命政府が主導したが、目的はソ連軍主導ではなく亡命政府の国内軍でドイツ軍に勝って主導権を握りたかった。
ソ連軍は国内軍(亡命政府)に勝たせたくなかった。
彼等には、湾岸戦争時に、アメリカ軍を信じて蜂起したクルド人やシーア派と同じ運命が待っていた。
アメリカ軍であれ、ソ連軍であれ、大国の軍隊が自国の利益以外の行動をすると考えるのは、甘すぎる考えです。
『ふいのソ連参戦』なんていう見方も、国際政治に対する甘すぎる考え方ですね。
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Unknown (赤色軍隊の役割)
2008-04-29 18:07:59
しかし、ブログ主さん。
帝国主義軍隊とプロレタリア独裁とプロレタリア世界革命を軍事をもって保障する赤軍とは、おのずとその役割が違うでしょう。同じであればソ連といえども社会主義国家とはいえない。
沖縄を見捨てたのは、アメリカと日本の帝国主義者の意見の一致と見るべきで、国際政治がどうのというブルジョワ学問とは相容れないと思いますが、どうでしょう。
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少数民族はいつも斬り捨てられる (kaetzchen)
2008-04-29 18:45:55
赤色軍隊の役割さん,ブルジョワ学問とかスターリン主義とかに関わらず,歴史の中では常に大国の中の少数民族問題が戦争の種になっています.

旧約聖書時代のユダヤ人だって,実際にはエジプトやシリアやペルシアに囲まれた少数民族で,独立国として存在し得た時期は少ない.

近代のポーランドもそうで,ポーランドはカトリックの,北にぽつんと離れた飛び地.当然,ユダヤ人らもプロテスタントの迫害を逃れて集まってきます.中欧だとオーストリア(東ローマ帝国というのがドイツ語の正しい訳語)のウィーンもそう.ここにはユダヤ人をはじめ,様々な少数民族が結集し,多彩な文化を繰り広げていた.自国の利益になるからこそ,ハプスブルク家も大目に見ていた部分がある.

ソ連・ロシアの飛び地であるカリーニングラードも軍事的な役割以上に,かつてプロイセンと呼ばれていた北東ドイツに散らばっていたロシア人やユダヤ人を保護し職業を与える役割もあった.特にここは貿易港・漁港もあり,ロシア人の好物のニシンの缶詰工場が今でも多く操業している.ニシンは今が旬です.一度,ニシンの酢漬けのサンドイッチを食べてみて下さい.

あんまり「~イズム」という言葉に囚われると,本質を見失いますよ.
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ブルジョワ学問? (ブログ主)
2008-04-30 08:56:03
ピカソが共産党に入党した時、記者から作風が変化するのかと問われ、靴職人は入党しても釘の打ち方を変えない、と答えています。
共産党員の作った靴も、右翼国粋主義者の作った靴も、粗悪品は粗悪品で良品は良品です。

左翼国際主義であれ、右翼国粋主義であれ、社会主義であれ何であれ、『客観的事実』や『科学』より優先されるべき真実は有りません。
科学的知見より「~イズム」「~主義」が優先される社会とは、正教一致の宗教国家(神聖国家)に、限りなく近づいている、と言わざるおえない。
自分にとって、良いか悪いかの利害関係は立ち位置で変わりますが、正しいか、正しくないかの、客観的事実は、主義や政治的立ち位置では決りません。

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台湾国民党と中国共産党 (kaetzchen)
2008-04-30 15:45:47
ブログ主さん,やっと退院です.いま床屋の順番待ちです.

>歴史を調べて見ても、チベットが独立国だった時代は無い。辛亥革命時に一度だけ独立宣言をしているのは事実だが、世界(国際社会)は誰も認めていない。

恐らく,台湾政府と米国の作り上げた妄想じゃないでしょうか.台湾は今は国民党政権で中国と接近する政策を取り始めてるけど,独立派が選挙で負けた時期とチベット自治区や四川省でのチベット人の叛乱がちょうど時期的にリンクしている.絶対に台湾省が中国に組み入れられたくない勢力にとっては,北京オリンピック潰しは格好のネタなんですね.


>日本の飛鳥時代以前に、チベットは既に唐の版図に組み入れられていたし、唐代以前は国家としての体裁を持っていなかった。

というか,唐に組み入れられて,初めて行政組織を持ったと言っても良いでしょう.チベット仏教と呼んでる彼等の宗教も実際にはダライ・ラマを宗祖とする「ラマ」教であり,政教一致のもの.もともと高原で食料が採れないことが「生産力を増やすこと」から宗教へと人々を追いやっていた.人々は重税にあえぎ,共産党政府になってようやく中国本土からの食料援助が始まったが,中国人との所得格差は未だに2倍以上に達する.これが叛乱の直接的な原因でしょう.


>そういえば台湾は中国(清帝国)時代の琉球王国時代の歴史から、沖縄県ではなく、今でも琉球と呼んでいるらしい。

前にも書いたように,日本人つまり薩摩藩は侵略者でしたからね.奄美大島での重税も激しく,戦後幸いに鹿児島県として残ったものの,病院も医者もいない,そこで徳田虎雄が阪大医学部に進学し,特定医療法人徳洲会を作り,全国の僻地に病院を建て,鹿児島2区からたった一人の自由連合として衆院に出ました.今では働き過ぎで肝臓を病み,死期を待っているそうですが.< 紳士服のはるやまの社長が師と仰いでいるらしい


>そういえば昔、台湾で売られていた中華民国の地図では、外蒙古(モンゴル)もパミール高原も中国の版図に入っていた。

それは蒋介石がまだ生きてた頃のものじゃないでしょうか.モンゴルも葱嶺 (タジキスタンやアフガニスタン) まで俺のモノだ,というのは如何にも彼らしい(笑)
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琉球と呼ばれる沖縄県 (kaetzchen)
2008-04-30 16:15:09
時間がまだ空いてるので,続けます.

>そういえば台湾は中国(清帝国)時代の琉球王国時代の歴史から、沖縄県ではなく、今でも琉球と呼んでいるらしい。

確かに琉球方言は台湾語に似ていますね.やはり地理的に日本よりは台湾に近いことが原因じゃないかなと思ってしまったりします.台湾との旅行や通商もやはり那覇空港や那覇港が中心のようです.以前,モノレールが開通した時のビデオを見た時,モノレール駅の高い所から那覇市内を見ると,那覇港の広さに驚きました.(表向きには人口30万と思えない大都会で,隣の沖縄市(旧コザ市)とくっつくと中核市も夢じゃないです)
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ナチスの移民政策 (kaetzchen)
2008-04-30 19:50:38
とりあえずただいま.

>チョッパーさん

満洲移民の話をするなら,ナチスの移民政策にも触れないと公平でないですよ.

どちらも実態は「貧しくて食えない人々に農業という職業を与えてメシを食わせる」という大言壮語がもとになっています.でも,一番悲惨だったのは満洲人やチェコ人など,移民先の原住民じゃないでしょうか.

私がドイツ語を習ったドイツ人もナチスの移民政策の犠牲者の一人でした.極貧の家庭に生まれた彼は兄と両親と共にチェコへ移民しナチスに与えられた農地で農民となりました.しかし,数年後,ドイツは敗戦となり,彼等は追い立てられるようにチェコからドイツへと帰りましたが,食うに困り,兄弟は修道院へと預けられたのだそうです.両親の顔を見たのは二人が神父になってから,とのこと.

移民とは良く言ったもので,実際には貧困と貧困とが国家権力によってぶつかり合った「一時の平和」に過ぎないのだと,そのドイツ人は教えてくれました.
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