みちのくの山野草

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書き残していなかったという事実

2024-05-18 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 さて、先に私は
 もしこの時期に賢治が病気になって「下根子桜」から撤退して実家に戻って重篤故に病臥していたというのであれば、多くの人々がとても心配して賢治を見舞っただろうが、あの関登久也や藤原嘉藤治そして森荘已池までもがこの療養中に賢治を見舞ったということを一切公には書き残していない。……⑥
であるはずだと述べたが、このことをここでは検証してみよう。
 まず、賢治関連の著者の中でこの時の療養中の賢治のことを一番よく知っている人物はもちろん、実質的に賢治の主治医だったとも云われている佐藤隆房であり、彼には先に〝賢治は実家に戻って「自宅謹慎」していた〟で引例したような証言がある。そして、その頃の佐藤隆房は医者の立場から豊沢町の賢治の実家にしばしば立ち寄っていたことは知られているし、賢治に直接会っていたことは当然のことであろう。実際その当時のことを佐藤はいろいろと書き残している。

 しかし問題はその佐藤ではなくて、普通に考えれば、賢治が「下根子桜」から撤退して実家に戻って病臥しているということであれば必ずや見舞うであろうと思われるはずの関登久也、藤原嘉藤治そして森荘已池の三人の場合である。
 この観点から言えば、真っ先に挙げられるのが関登久也であり、彼の著作でそのようなことを書き残している可能性があるのは、
(1)『宮澤賢治素描』(關登久也著、共榮出版社、昭和18年)
(2)『宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和22年)
(3)『續宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社、昭和23年)
(4)『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
であり、これ以外ではほぼなかろう。
 ところがそれぞれを瞥見した限りにおいては、このことに関して述べてあったのは意外なことに〝(4)〟の中にだけであり、それは以下のようなものであった。
  病床の頃
 過労と粗食による栄養不足のため賢治の健康は、昭和三年に入つてその衰弱が目立つてきたようでした。
 ことにもその年は気候が不順で、稲作を案じて昼夜をわかたず農村をかけまわつた末に、八月のある日、空腹のところへ夕立に濡れて帰つたのが原因で風邪をひき、遂に豊沢町の両親の家に帰つて、病臥の身になりました。しかしどうやら十二月に入つて、ふしぎに病気もなおり、そのまま無事に冬を過ごすことができました。
             <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)95p >
 しかしこの記述は、かつてのほとんどの「賢治年譜」にあった昭和3年の記述、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
及び先の佐藤隆房の先の著書を踏まえた記述と思われるし、これらの〝(1)~(4)〟からは新たな重要な情報は得られない。まして、関本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。

 それでは次は、物書きの中で一番このことを知っていてしかも書き残していそうなもう一人の人物森荘已池の著書からである。すると、彼の場合はただ一ヶ所、
 ……昭和三年八月のある日、外を歩いてゐるうちに、ひどい夕立にあつて、ずぶぬれとなつてかへり、かぜをひいて、たかい熱を出しました。そして豐澤町のお家にかへつて寝こみました
            <『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館、昭和18年)202p>
という記述を発見できた。しかし同書の発行は昭和18年1月30日であり、この時点で既に佐藤隆房著『宮澤賢治』が昭和17年9月8日に発行されているし、その内容からいっても森のこの記載内容はやはり「賢治年譜」や佐藤隆房の書を基にしていると判断できる。そして私が調べた限りでは、やはり目新しい重要な記載内容はないし、その他の彼の著作にもこのことに関してこれ以外の重要事項は書き残していない。またもちろん、森本人がこの時に賢治を見舞ったということは一言も書き残していない。

 そしてもう一人の藤原嘉藤治だが、彼にしても同様であった。だから結局は、本来ならば必ずや賢治を見舞いに行くであろうと思われるこの三人の中の誰一人として、その時に賢治を見舞ったということは一切書き残していなかったという事実があるということをこれでほぼ100%確認できたと言えそうなので、どうやら前掲の〝⑥〟は正しかったようだ。

 ではこの三人はどうしてそれを一切書き残していなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが豊沢町にまでわざわざ見舞いに行ったが結局面会できなかったという菊池武雄の先のエピソード
 菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れる。いくら呼んでも返事がない……その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった。
である。ちなみにこのエピソードの内容は賢治が亡くなった翌年に、『宮澤賢治追悼』(草野心平編、次郎社、昭和9年)所収の菊池武雄著「賢治さんを思ひ出す」の中でいち早く公にされていたものでもある。したがって、関、森、嘉藤治が見舞いに行ったということを書き残していないことも変であるが、賢治にまつわる多くのことを書き残している関も森もこのエピソードについてすら一言も書き残していないはずだから、これもまたかなり奇妙なことである。

 そこで私は思い出した。それはあの阿部晁が、いわゆる『阿部晁の家政日誌』に次のように書いていることをである。
【昭和三年】
○九月二二日
[往来・往]宮沢政次郎氏
[贈答・進]宮沢賢治君病気見舞トシテ牛乳参升(根子切手)
             <『宮澤賢治研究Annual Vo.15』2005(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)170p>
 よって、このことから次のようなことが言える。阿部は昭和3年9月22日に「牛乳三升(根子切手)」を携えて豊沢町の賢治の実家を訪ね、賢治を見舞っていたと。となればなおさらに、例えば、嘉藤治は菊池を案内して桜を訪れた際に賢治は不在だったというからとても気掛かりであったであろうし、菊池が「その後、賢治がこの二、三日前健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞に行ったが病状よくなく面会できなかった」と述べているくらいだから、普通に考えれば、嘉藤治もそのことを知って何度か賢治の実家に見舞いに行ったか、行こうとしたであろう。
 そこで冷静に考えてみれば、阿部は豊沢町の実家に賢治を実際見舞いに行ったというのに、嘉藤治を含む関、森の三人が全くそのことを揃いもそろって公に書き残していないという理由は、この三人も実は見舞っていたのだが当時の賢治謹慎中のみであり、地元花巻では賢治を見舞うということは禁じられていたからであったと解釈すれば、すなわち、昭和3年8月10日以降の賢治はしばし「自宅謹慎」中の身だったからその見舞いを公的に書き残すことはできなかったのだと解釈すれば全てがすんなりと辻褄が合う。そして一方、阿部晁は地元の人間ではあるものの、私的な日記だからこそ書き残せたのだと。

 それからもう一つ気付くことがある。それは、菊池は書き残していたというのに関、森、嘉藤治の三人はそうではなかったことの違いが、当時菊池は東京に住んでいた、その他の三人は地元花巻に住んでいたという違いと符合するということにである。ではそのことは何を意味するのだろうかということを少しく思い巡らしてみると、地元の三人は賢治が「自宅謹慎」していたことを知っていたが、既に大正14年に上京して図画の教師をしていた東京在住の菊池はその事情を知らなかったからであるという蓋然性が高いことにも気付く。
 どうやら事の真相は、賢治が実家に戻ったのは重病になったからだと名目上はなってはいるが、佐藤隆房が言っているように賢治はそれ程重病ではなかったから、もし二人が直に会ってしまうとそのことを菊池に気付かれてしまうことを危惧したので菊池の場合には面会を謝絶されたとも言えそうだ。そしてまた、菊池は賢治の「自宅謹慎」を詳らかに知らなかったのであのような追想をためらわずに書き、一方、この三人は実は賢治を豊沢町に見舞っていたのだが、菊池の場合とは違って、賢治は「自宅謹慎」中の身であることをよく知っていたが故に地元の三人は見舞ったことを公に活字にすることを憚ったという蓋然性が高い、ということもである。
 大体この辺りが、当時賢治を見舞ったということを関、森、嘉藤治の三人が揃いもそろって公的に一切書き残していなかった真相であったとしてもそれ程大きな違いはなかろう。

 というわけで、先の仮説〝⑥〟の理由付けもかなりの程度できたので、現時点での私の判断は、
 賢治が病気になって「下根子桜」から実家に戻り、重篤故に病臥していたというのにも関わらず、関、森、嘉藤治の三人の誰一人として見舞いに行ったとか、見舞いに行ったが謝絶されたとかということのいずれについても公的に書き残していないということは、見舞いに行ったがそのことを活字に残すことが許されなかったか、あるいは見舞いそのものが許されなかったからだ。
という蓋然性が極めて高いということである。
 おのずから、
 〈仮説:昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*〉
の妥当性もさらに増したと言える。

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  『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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