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周囲からの評価

2024-02-29 12:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治











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 “『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』の目次”へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 周囲からの評価
 すると思い出すのが以下の事柄である。その一つ目は、
(1) 羅須地人協会の建物のあった西隣に住んでいた協会員の一人伊藤忠一がいみじくも、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんの「構想」だけは全く大したもんだと思う。あの時代に今の農業改良普及所や、農業協同組合のやっているようなことを考えたんですから、たしかに賢治さんの構想はすばらしいものだと思う。
      <『私の賢治散歩下巻』(菊池忠二著)、35p>
と語っていることである。つまり、「協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかった」と、直ぐ隣に住んでいた忠一が証言していたことになる。
 その二つ目は、
(2) 先にも引用した、花巻農学校での同僚で、当時花巻市農業共済組合長であった阿部繁の森荘已池の質問に対する、
森 賢治の肥料設計は古いんだと、とくとくとして言っているのを聞いて淋しいと思ったことがありましたが。
阿部 その通りです。科学とか技術とかいうものは、日進月歩で変わってきますし、宮沢さんも神様でもない人間ですから、時代と技術を超えることは出来ません。宮沢賢治の農業というのは、その肥料の設計でも、まちがいもあったし失敗もありました。人間のやることですから、完全でないのがほうんとうなのです。宮沢さんの場合、岩手県の農業を進歩させたとか、岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません。宮沢さんは試験場長でも育種研究家でもないのですから――。そして農業技術の方から見た場合は低くて貧しく、そしてまずい稗貫あたりの農業のやり方を幾分でも進歩させ、いくらかでも収穫量を高めたいということで、一生懸命やったので、岩手県の農業全般を高めたなどということはありません。そんなことではなくて、宮沢さんの場合、もっとも大事なことは、技術の根本にある、隣人を愛すという深い愛情にあることの方が、はるかに重大なことと信じます。
   <『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)、82p~>
という回答である。当然農業に詳しくて賢治のこともよく知っているはずの阿部が、「宮沢賢治の農業というのは……岩手県の農業普及に大きな功績があったというのではありません」という、巷間農聖とか老農とさえも云われているような賢治評とは逆の、専門的な立場から見た冷静な評価である。
 それから三つ目は、
(3) 吉本隆明がある座談会で、
 日本の農本主義者というのは、あきらかにそれは、宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めたという、そんなていどのものじゃなくて、もっと実践的にやったわけですし、また都会の思想的な知識人活動の面で言っても、宮沢賢治のやったことというのはいわば遊びごとみたいなものでしょう。「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまったし、彼の自給自足圏の構想というものはすぐアウトになってしまった。その点ではやはり単なる空想家の域を出ていないと言えますね。しかし、その思想圏は、どんな近代知識人よりもいいのです。
          <『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)、18p >
というように、「「羅須地人協会」だって、やっては止めでおわってしまった」と評価していることだ。
 そして最後の四つ目が、
(4) 板谷栄城氏の、
 賢治が健康を犠牲にしてまで行った農民への献身というのは、顔を見たり声を聞いたりできるという身近な範囲にとどまっていたのです。
     <『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)、190p>
という、賢治の献身は限定的なものであったという断定だ。
 そこで、「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したであろうことを裏付けてくれそうな【リスト2】と、これまでの考察結果とを併せて得られる結論は、
 「羅須地人協会時代」の賢治は農民たちに対しての肥料設計・稲作指導のために奔走したこともあったとは言えるが、その時代全般に亘ってそうだったというわけではなく、少なくとも同時代の農繁期における賢治の農民たちに対する指導は、そのために東奔西走したと言える程のものではなく、案外限定的なものであった。
とするのが合理的なようだ。そしてこの結論が妥当であろうことは、
・下根子桜に移り住んだ最初の年である大正15年は当初から旱魃の恐れがあったし、実際にそのことによって米は不作だったのだが、そのことに対しての賢治の稲作指導があったという証言等は皆無なようだ。
・まして、同年の隣の紫波郡内は未曾有の旱害だったのだが、全国から陸続と届く義捐や救援活動をよそ目に、賢治は一切の救援活動をしなかったどころか、その惨状に関心すらなかったと判断される。
・そして昭和3年6月の農繁期の「約三週間ほど」の上京。
などからも裏付けられることに気付く。

 そしてまた、ここまでの考察によって、
 賢治の稲作経験とは花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導というわけではないのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽132号を、ただし同品種は金肥に対応して開発された品種だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやるという指導法であった。
ということが分かる。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、常識的に判断して、当時の大半を占めていた貧しい自小作農や小作農にとっては、現実的にはふさわしいものではなかったということになる。
 つまり、賢治の稲作指導には初めから限界があったということであり、とりわけ、当時の貧しかった小作農家にとっては賢治の稲作指導はほぼ現実的なものではでなかったと判断できよう。しかも、出来高の半分以上も「搾取されるような小作料(〈註一〉)」であれば、小作農たちにそれ程の意欲が湧かなかったのは当然だったであろう。そのあげく、当時米価は年々急激に下がっていった(〈註二〉)から、金肥に対応して開発された品種に頼って増産を図ろうとした場合に、シェーレ現象に見廻れてしまった中農もあったであろう。
 まさに、陸羽132号の普及に伴って、もともと「肥料に適合する品種改良という、逆転した対応にせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった(〈註三〉)」と『岩手県の百年』(山川出版)が指摘するような皮肉な結果を招いたということもあるようだ。あげく、賢治の肥料設計や稲作指導に従った農家であっても、その結果は上手くいったことももちろんあったであろうがそういかなかったこともあったことは当然で、いかな賢治の指導といえども予想を裏切る自然現象の前では如何ともし難かったであろうことは自明なことだ。

 ところで、賢治が石鳥谷に「塚の根肥料相談所」を開いて(『新校本年譜』によれば)4日目の日の、昭和3年3月18日付『岩手日報』に次ような記事が載っていた。
 和賀郡に變わった團体二つ
  宮田式と松((ママ))山式 農民の目を引く
和賀郡には郡農會並びに町村農會の指導支持と全然關係なく全く獨立して郡下農民の注目を引いている農事團体が二ヶ所に設立されてある、即ち一つは一昨年縣會で大分問題となった更木村を中心とする宮田式養蚕法であり他は岩崎村根拠とし藤根、江釣子兩村にかなり根強い團体を持つ杉山式農事改良組合のそれである。…(筆者略)…また杉山式に於ても右三ヶ村で三百名から會員を擁し漸次他町村まで進出して行く有樣で郡下に於ては農民も餘程注意の目を傾けるやうになつたので、郡農會では今さらながら此の二つの農事團体の指導方針および生産技術に注目を與へ本年から實際に調査を進め果たして有利なるものか効果的であるかを詳細に硏究し郡下からの紹介に對してまごつくやうな事はないやうにすると技術員は語つている。
 そこでこの新聞報道から窺えることは次の三点である。まず第一点目が、当時は賢治のみならず宮田や杉山のように、個人的に農事を率先して指導し、農村の発展のために献身しようとしていた人物がいた時代だったということである。
 そして第二点目が、この「杉山式農法」はかなり広範囲に知れ渡っていたし、多くの農家がその農法を取り入れていたであろうということである。なお、賢治の詩「〇九二  藤根禁酒会へ贈る 一九二七、九、一六、」は「わたくしは今日隣村の岩崎へ/杉山式の稲作法の秋の結果を見に行くために/ここを通ったものですが」で始まっていることから、賢治も遅くとも昭和2年9月時点でこの「杉山式農法」のことを知っていたということになろう。
 そして最後の第三点目が、この頃であれば賢治が下根子桜に移ってから約二年半も経っているのだし、この年昭和3年3月15日からは大々的に石鳥谷で「塚の根肥料相談所」を開設したというのだから、当時「肥料の神様(〈註四〉)」といわれていたともいう賢治なれば、この記事「和賀郡に變わった團体二つ」と同様なニュースバリューがその相談所の開設にはあったはずだが、実際にはその開設を含む賢治の稲作指導法等は一切報道されていなかったということである。
 ということからは逆に、上述したような賢治の稲作指導法は「杉山式農法」と比べて当時の地域社会からはそれほど認知もされていなかったし、評価もされていなかったということが導かれそうだ。よって、巷間、「塚の根肥料相談所」の開設及び実践は非常に高く評価されていると思うのだが、その再検証が必要だと言えそうだ。
 ちなみに、梅木万里子氏の論文「「藤根禁酒会へ贈る」をめぐって」によれば、花巻農学校の賢治の教え子の佐藤栄作氏は次のように話していたという。
 私は羅須地人協会へ行って宮沢先生から稲作指導は受けなかった。その当時、茨城県から杉山善助という翁がやって来て稲作の実施指導を各地で行っていた。「天は父であり、地は母である。」という杉山善助からは農業の実施を学び、宮沢先生からは農業の基礎を学んだ。
       <『弘前・宮沢賢治研究会誌 第8号』、177p>
 一方で、杉山善助の稲作の実施指導、いわゆる「杉山式農法」について梅木氏は同論文において、
  杉山式
   稲作法
    成績最も良好
 和賀郡岩崎村にては本年より杉山式稲作法を試みつゝあるが、従来の耕作法に比し金肥三分の一を減じたるにも拘はらず成績良好にて反当四石以上の収穫を得る見込みで此の試みは本県に於いて同村はこうしであると
                      <同、179p>
というように昭和2年8月21日付『和賀新聞』で報道されていたということを紹介していて、同農法は「金肥三分の一を減じたる」ものであることがわかる。したがって、賢治の稲作指導法の持つもともとの「限界」ゆえに、他の指導法である「杉山式農法」に奔ったという人もあるのは当然のことである(し、誰もそのような人を責められない)。
 また森荘已池は、『宮澤賢治』(小学館、昭和18年)の中で「十五 肥料の神様」という項を立て、
 そのころ、「杉山式增収法」といふのがはやつて、その式は、うんと肥料にお金をかけるのでした。それで失敗した人たちは、北海道や樺太に逃げ出しました。宮澤先生は、できるだけお金をかけないで、どんなに天候のわるいときでも、安全に毎年とれるやうに教へてゐました。ですから、めつたに失敗する人がありませんでした。村村の人たちは、宮澤先生を、「肥料の神様」といふやうになりました。
       <『宮澤賢治』(森荘已池著、小学館)、181p>
と賢治のことを褒め称え、「肥料の神様」とまで譬えているのでそれが事実だったと思いたいが、森荘已池の記述はそのまま額面どおりに受けとることができないことは過去の多くの事例が示しているところであり、注意を要する。
 例えば、森は賢治の稲作指導については「できるだけお金をかけないで、どんなに天候のわるいときでも、安全に毎年とれるやうに教へてゐました」と書いている一方で、「杉山式農法」を「うんと肥料にお金をかけるのでした」とくさしているが実際にはそうとばかりも言えないだろう。実は、それこそ賢治の稲作指導法はお金がかかる、つまり金肥に対応して開発された品種陸羽132号による増収法であった。しかも、いかな賢治といえども「どんなに天候のわるいときでも、安全に毎年とれる」ということは土台無理なことであることは常識なのだから、である。
 そこで私は、これまで「羅須地人協会時代」の賢治の稲作指導を過大評価してきたということを認めざるを得ないのだが、何故そうなったのかといえば、それは「賢治年譜」等を少しも疑わずに信じてきたこととか、巷間言われていいる賢治像を素直に信じてきたからだ。それでは私のかつての賢治像はどんなものだったのかというと、それは、先に引用した谷川徹三があの講演で、
 その地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、稻作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。しかもそういう指導に当っては、自らその田畑の土を取って舐め、時に肥料も舐めた。昭和三年肺炎で倒れたのも、気候不順による稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走したための風邪がもとだったのでありまして、その農民のための仕事を竟に死の床までもちこんだのであります。
と聴衆に語った、まるで老農や聖農ようなこの賢治像だった。
 しかしその現実は、「羅須地人協会時代」の賢治の農民たちに対する稲作指導を通じての献身はそれ程徹底していたものでもなければ、継続的なものでもなく、まして貧しい農民たちに対してのものではあり得なかったということであり、どうやら吉本隆明が「やっては止めでおわってしまった」と言い切っていたあたりがその献身の実態だったということになりそうだ。

<註一> 昭和14年に出版された『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治先生」の中で照井謹二郎は、
 近村の百姓達は先生を「農民の父」と仰ぎ、「肥料の神様」として、尊敬してをつたことも偶然ではないでせう。
と述べている。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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