《1↑『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)》
では今回は、まずは『年譜宮澤賢治伝』から引用をさせてもらって本ブログを始めたい。
一月以降とだえていた作詩が五月二日からはじまった。
とある。
知らなかった。賢治は大正15年の1月からこの日(5/2)まで全く詩を詠んでいなかったということになる。
同著によれば、1/17~5/2の間に『銅鑼』には「昇冪銀盤」「秋と負債」、『月曜』には「ざしき童子のはなし」「猫の事務所」を発表しているが詩の創作はなされていないということが分かる。まだ「農民芸術概論綱要」も起稿されてもいないはずだから、創作活動はこの時期殆ど行われなかったということなのだろうか。
確認のため、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜も見てみる。『年譜宮澤賢治伝』と異なるのは2/1に『虚無思想研究』へ「心象スケッチ朝餐」を発表しているという点だけであり他は同じである。また、校本年譜によれば大正15年1月17日に<四〇三岩手軽便鉄道の一月>を詠んでからというもの、5月2日までの詩の記載はなく、5月2日になって久し振りに<七〇六 村娘>と<七〇九 春>を詠んだいたという記載になっている。確かにこの期間に詩の創作活動はなかったようだ。
もしそうだとすればこの期間賢治は一体何に燃え、熱中していたのだろか。もしかすると国民高等学校関連の仕事で多忙だったのだろうか。さりながら、人間というものは多忙なときほどやらなければならないことはしっかりやるという傾向もあると思うのだが…。
さて5月2日に詠んだ詩だがそれぞれ
<七〇六 村娘>
畑を過ぎる鳥の影
青々ひかる山の稜
雪菜の薹を手にくだき
ひばりと川を聴きながら
うつつにひととものがたる
<七〇九 春>
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、
おれはこれからもつことになる
<いずれも『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
というものであり、すこぶる短い詩であった。
なお、この後者の詩については以前”千葉 恭の羅須地人協会寄寓9”で言及した詩でもある。千葉恭の表現によれば『大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的でした』という覚悟と決意で始めた下根子桜での農耕自活であったが、この詩の推敲の推移を調べてみれば賢治の心境の揺らぎや戸惑いが透けて見えてくる。
さて6月末、下根子桜を訪ねて来た教え子の菊池信一は次のように語っている。
…(略)…路にそうて短い落葉松がまばらに植え付けられ、それもきれた向こふの端には銀どろが精よくのびて、風もないのに白い葉うらが輝いてゐた。更に西向きに突出した玄關へと連なる道の北側には空地に型どつた三角形の花壇があり、ひなげしであつたか赤と黄色が咲き亂れてゐた。玄關の側には大きな板が掲げられ、中は森として静まり返つてゐた。新聞記者とか文藝家とかにはあまり面接したくないと語られてゐた先生を想ひ乍ら、更に軽ろく呼んだが返事はなかつた。…(略)…いつともなしに自分は南の庭に立ち、廣々としたみどりの視野にみとれてゐた。ふと振り返ると、其處には窓越しに机に凭れてゐる先生の姿を認めた。更にガラスに近よれば机によつてぐつすり眠つてをられたのだつた。
陽にやけた顔とあみ襯衣を透してあらはにみえるい肩、蚊に刺されて無数の點いつぱいな腕、破れたかゞとの穴を反對に上にして穿いてゐる靴下の穴からみえるのは、多分鍬ででもあらう大きな切傷に沃丁が塗られ、私は思はずも驚かざるを得なかつた。
―最初の日はやつと二坪ばかり、その次の日も二坪とちよつとばかり、何せ竹藪でね、夕方には腕にジンジン痛む、然し今では十坪位は樂ですよ、體もなれててなんともない―
それでも先生は眞劍にうれしさうに開墾の模様など語られ乍ら、汲みたての冷たい水を茶碗に注いでくれた。
―それにうれしいことは、詩でもなんでもとてもよく書けるんです―
先生は片手を腰の帯革にさし右手に原稿をとり上げてどれとなく讀みきかして下さつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年発行)より>
教え子の前で気丈に振る舞う賢治ではあるが、その実態はかなり疲労困憊していたことは明らか。特に「下ノ畑」の開墾は困難を極めたことであろうし、千葉恭の言うとおり
(略)…私は寝食を共にしながらこの開墾に従事しましたが、實際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行って、杉葉を掻き集めて湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡単な食事で土の香を胸一杯に吸ひながら働いたその気分は何ともたとへようのない愉快さでした。…(略)
<『四次元7号』(宮沢賢治友の会 May-5)より>
ということであれば、このような粗食ならば次第に体力は消耗していったはずで体を壊すことは時間の問題であったであろう。下根子桜での生活の仕方は理性的な科学者のものとはとても思えない。
『それにうれしいことは、詩でもなんでもとてもよく書けるんです』
と賢治は語っていることになるが、下根子に移ってからの当初はそれほど詩を創作していなかったことは前述したとおりである。遠く石鳥谷から自転車で下根子を訪ねてきてくれた教え子に心配を掛けまいとしてこう言っていたのに過ぎなかったのではなかろうか。
実際、5/3~6月末の間に詠んだ詩は『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜によれば
・5/15<七一一 水汲み>
・6/18<七一四 疲労>
南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
あの雲にでも手をあてゝ
電気をとってやらうかな
<『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
・6/20<七一五 〔道べの粗朶に〕>
道べの粗朶に
何かなし立ちよってさわり
け白い風にふり向けば
あちこち暗い家ぐねの杜と
花咲いたまゝいちめん倒れ
黒雲に映える雨の稲
そっちはさっきするどく斜視し
あるひは嘲けりことばを避けた
陰気な幾十のなのに
何がこんなにおろかしく
私の胸を鳴らすのだらう
今朝このみちをひとすじいだいたのぞみも消え
いまはわづかに白くひらける東のそらも
たゞそれだけのことであるのに
なほもはげしく
いかにも立派な根拠か何かありさうに
胸の鳴るのはどうしてだらう
野原のはてで荷馬車は小く
ひとはほそぼそ尖ってけむる
<『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
の3詩しかないようだ。
「疲労」に関しては、「下ノ畑」を開墾していて疲れ果て腰を伸ばしてふと別荘の建つ崖の方を見やれば、そこの木々や建物を覆うように黙々と成長する雄大積雲がある。疲れ果てたこの体にその雲から静電気をもらって精気を取り戻したいとでも思ったのだろうか。
また、〔道べの粗朶に〕からは、折角農民のために力を尽くそう志して始めた下根子桜の暮らしだが、現実には周りからは白い眼で見られていたことを賢治は痛いほど感じ取っていたであろうことが推測できる。ただ何気なしに道端の粗朶に触っただけなのに、それを見ていたの人が”さっきするどく斜視し”たからだけではなく、”あちこち暗い家ぐねの杜”の『暗い』という賢治自身の形容の仕方からもそれは窺えるからである。
なお、もしこの詩が6月20日に詠まれたのだとすれば、この時期に稲の花が咲いていることはないと思うので実景を詠み込んだものではなかろう。多少の創作がそこにはあったのではなかろうか。
続きの
”下根子桜の大正15年6月末~夏”へ移る。
前の
”宮澤家別荘のことなど”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
では今回は、まずは『年譜宮澤賢治伝』から引用をさせてもらって本ブログを始めたい。
一月以降とだえていた作詩が五月二日からはじまった。
とある。
知らなかった。賢治は大正15年の1月からこの日(5/2)まで全く詩を詠んでいなかったということになる。
同著によれば、1/17~5/2の間に『銅鑼』には「昇冪銀盤」「秋と負債」、『月曜』には「ざしき童子のはなし」「猫の事務所」を発表しているが詩の創作はなされていないということが分かる。まだ「農民芸術概論綱要」も起稿されてもいないはずだから、創作活動はこの時期殆ど行われなかったということなのだろうか。
確認のため、『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜も見てみる。『年譜宮澤賢治伝』と異なるのは2/1に『虚無思想研究』へ「心象スケッチ朝餐」を発表しているという点だけであり他は同じである。また、校本年譜によれば大正15年1月17日に<四〇三岩手軽便鉄道の一月>を詠んでからというもの、5月2日までの詩の記載はなく、5月2日になって久し振りに<七〇六 村娘>と<七〇九 春>を詠んだいたという記載になっている。確かにこの期間に詩の創作活動はなかったようだ。
もしそうだとすればこの期間賢治は一体何に燃え、熱中していたのだろか。もしかすると国民高等学校関連の仕事で多忙だったのだろうか。さりながら、人間というものは多忙なときほどやらなければならないことはしっかりやるという傾向もあると思うのだが…。
さて5月2日に詠んだ詩だがそれぞれ
<七〇六 村娘>
畑を過ぎる鳥の影
青々ひかる山の稜
雪菜の薹を手にくだき
ひばりと川を聴きながら
うつつにひととものがたる
<七〇九 春>
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、
おれはこれからもつことになる
<いずれも『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
というものであり、すこぶる短い詩であった。
なお、この後者の詩については以前”千葉 恭の羅須地人協会寄寓9”で言及した詩でもある。千葉恭の表現によれば『大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的でした』という覚悟と決意で始めた下根子桜での農耕自活であったが、この詩の推敲の推移を調べてみれば賢治の心境の揺らぎや戸惑いが透けて見えてくる。
さて6月末、下根子桜を訪ねて来た教え子の菊池信一は次のように語っている。
…(略)…路にそうて短い落葉松がまばらに植え付けられ、それもきれた向こふの端には銀どろが精よくのびて、風もないのに白い葉うらが輝いてゐた。更に西向きに突出した玄關へと連なる道の北側には空地に型どつた三角形の花壇があり、ひなげしであつたか赤と黄色が咲き亂れてゐた。玄關の側には大きな板が掲げられ、中は森として静まり返つてゐた。新聞記者とか文藝家とかにはあまり面接したくないと語られてゐた先生を想ひ乍ら、更に軽ろく呼んだが返事はなかつた。…(略)…いつともなしに自分は南の庭に立ち、廣々としたみどりの視野にみとれてゐた。ふと振り返ると、其處には窓越しに机に凭れてゐる先生の姿を認めた。更にガラスに近よれば机によつてぐつすり眠つてをられたのだつた。
陽にやけた顔とあみ襯衣を透してあらはにみえるい肩、蚊に刺されて無数の點いつぱいな腕、破れたかゞとの穴を反對に上にして穿いてゐる靴下の穴からみえるのは、多分鍬ででもあらう大きな切傷に沃丁が塗られ、私は思はずも驚かざるを得なかつた。
―最初の日はやつと二坪ばかり、その次の日も二坪とちよつとばかり、何せ竹藪でね、夕方には腕にジンジン痛む、然し今では十坪位は樂ですよ、體もなれててなんともない―
それでも先生は眞劍にうれしさうに開墾の模様など語られ乍ら、汲みたての冷たい水を茶碗に注いでくれた。
―それにうれしいことは、詩でもなんでもとてもよく書けるんです―
先生は片手を腰の帯革にさし右手に原稿をとり上げてどれとなく讀みきかして下さつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年発行)より>
教え子の前で気丈に振る舞う賢治ではあるが、その実態はかなり疲労困憊していたことは明らか。特に「下ノ畑」の開墾は困難を極めたことであろうし、千葉恭の言うとおり
(略)…私は寝食を共にしながらこの開墾に従事しましたが、實際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行って、杉葉を掻き集めて湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡単な食事で土の香を胸一杯に吸ひながら働いたその気分は何ともたとへようのない愉快さでした。…(略)
<『四次元7号』(宮沢賢治友の会 May-5)より>
ということであれば、このような粗食ならば次第に体力は消耗していったはずで体を壊すことは時間の問題であったであろう。下根子桜での生活の仕方は理性的な科学者のものとはとても思えない。
『それにうれしいことは、詩でもなんでもとてもよく書けるんです』
と賢治は語っていることになるが、下根子に移ってからの当初はそれほど詩を創作していなかったことは前述したとおりである。遠く石鳥谷から自転車で下根子を訪ねてきてくれた教え子に心配を掛けまいとしてこう言っていたのに過ぎなかったのではなかろうか。
実際、5/3~6月末の間に詠んだ詩は『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)の年譜によれば
・5/15<七一一 水汲み>
・6/18<七一四 疲労>
南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
あの雲にでも手をあてゝ
電気をとってやらうかな
<『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
・6/20<七一五 〔道べの粗朶に〕>
道べの粗朶に
何かなし立ちよってさわり
け白い風にふり向けば
あちこち暗い家ぐねの杜と
花咲いたまゝいちめん倒れ
黒雲に映える雨の稲
そっちはさっきするどく斜視し
あるひは嘲けりことばを避けた
陰気な幾十のなのに
何がこんなにおろかしく
私の胸を鳴らすのだらう
今朝このみちをひとすじいだいたのぞみも消え
いまはわづかに白くひらける東のそらも
たゞそれだけのことであるのに
なほもはげしく
いかにも立派な根拠か何かありさうに
胸の鳴るのはどうしてだらう
野原のはてで荷馬車は小く
ひとはほそぼそ尖ってけむる
<『校本 宮沢賢治全集 第四巻』(筑摩書房)より>
の3詩しかないようだ。
「疲労」に関しては、「下ノ畑」を開墾していて疲れ果て腰を伸ばしてふと別荘の建つ崖の方を見やれば、そこの木々や建物を覆うように黙々と成長する雄大積雲がある。疲れ果てたこの体にその雲から静電気をもらって精気を取り戻したいとでも思ったのだろうか。
また、〔道べの粗朶に〕からは、折角農民のために力を尽くそう志して始めた下根子桜の暮らしだが、現実には周りからは白い眼で見られていたことを賢治は痛いほど感じ取っていたであろうことが推測できる。ただ何気なしに道端の粗朶に触っただけなのに、それを見ていたの人が”さっきするどく斜視し”たからだけではなく、”あちこち暗い家ぐねの杜”の『暗い』という賢治自身の形容の仕方からもそれは窺えるからである。
なお、もしこの詩が6月20日に詠まれたのだとすれば、この時期に稲の花が咲いていることはないと思うので実景を詠み込んだものではなかろう。多少の創作がそこにはあったのではなかろうか。
続きの
”下根子桜の大正15年6月末~夏”へ移る。
前の
”宮澤家別荘のことなど”に戻る。
”みちのくの山野草”のトップに戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます