みちのくの山野草

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1962 下根子桜の大正15年6月末~夏

2011-01-22 09:00:00 | 賢治関連
     《↑菊池信一》
              <『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)より>

 さて前回にも触れた菊池信一の6月末の下根子桜訪問に際しては、次のようなこともあったと菊池は語っている。
 今にも生まれようとしてゐる羅須地人協會の「羅須」の意義を議すに、それは花巻町の花巻と呼ぶ様に意義は何もないと云はれた事を記憶するが、そのグループとなるべき人々を特に農學校と國高の卒業生の中からと、それに近在の篤農老青年を網羅し、尚設立の日を舊盆の十六日と決定し、爾後もその日を農民祭日として記念することなども語られた。協會の會員は田園劇團の役者の大部分が加はつてゐたが、…(略)
     <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年発行)>

 今までず~っと疑問に思って来て、今だに疑問に思っている一つに、なぜ賢治の下根子桜での農耕自活時代のことを「羅須地人協会」の時代というのだろうかということがある。
 千葉恭の「研郷会」や松田甚次郎の「最上共働村塾」などと違って、「羅須地人協会」には規約や設立趣意書が作られていたわけでもなさそうだし、その正式な発足の会も開かれてもいないのではなかろうかと思う。
 なのに、どうしてこの時代が「羅須地人協会」の時代と呼ばれているのだろうか、そもそも「羅須地人協会」の正確な定義はどうなっているんだろうか、賢治はこの会の参加を呼びかける際に「羅須地人協会」という名称を用いたのだろうか、あるいは賢治は「羅須地人協会」という名称をどのような場合にどのように使ったのだろうか…など、羅須地人協会に関しては私には解らないことが多すぎる。

 ただし、この菊池信一の語るところによれば、少なくとも賢治は大正15年6月末には「羅須地人協会」の概要を具体的にかなりのところまで構想していたということになりそうだということが言えそうだ。その協会の構成メンバーもほぼ決まっていたようだということも分かる。他のメンバーにも似たようなことを喋っていたのだろうか。
 同時に一方では、「協会」とはいっても賢治独りで構想した変則的な私塾であるような気が私にはする。”千葉 恭の羅須地人協会寄寓1”で触れたようにあれだけ熱く農業の問題を語り合ってきた千葉恭なのに、賢治が下根子桜で農耕自活の生活に入ることに対して『そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが』と千葉恭をして言わさしめたり、賢治が「羅須」に想いを込めなかったはずはないと私は確信しているが、この愛弟子の菊池信一にさえ羅須の意味を聞かれてはぐらかしたりしている賢治であるからである。

 さて、再び『年譜宮澤賢治伝』に戻ろう。堀尾はこの菊池信一の証言の次に白藤慈秀の証言を挙げている。
 学校の同僚で同時期に退職し、願教寺<*>の院代となった白藤慈秀が訪ねてきたのは、このあと、夏のある日だった。…(略)
と。
 これは、『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)の中の「宮澤賢治の生活諸相」から引用したもののようなのでそこから一部を以下に抜き出してみたい。
  「宮澤賢治の生活諸相」     白藤 慈秀
 宮澤君は或る事由によりて大正十五年の三月偶然にも私と同時に退職した、彼は花巻の郊外都塵も通わぬ静閑の地にある同家の別邸に只一人住むことになつた。
 或る夏の日、僕は彼の居處を訪ねることを約束した、僕は餘儀ない事情から約束の時刻は遲れた、それでも破約することによりて彼の鋭い論鋒をうけるよりも訪ねた方はよいと思ふて、夜の十時も過ぎた頃訪ねた、僕も當時は願教寺院代生活をしてゐたから、寺の本堂のさびしさや、墓場の恐ろしさ位は何とも思ふてゐなかつたが、夜も更けてから林間の細道を通るさびしさは又格別で、滿身冷汗を覺ゆる淋しさであつた、一氣に通り抜けてゆくと彼の家は見えた、近づいてみれば戸障子一枚も建てず、全部解放してゐる、誰も居らないやうにみえる愈々近づいて見ると座敷の眞中にくうづ高くなつてゐるから怪しみながら大きな聲で宮澤さんと呼んで見た、彼は蹶然と跳ね起き、ヤア約束の時限が過ぎたから今夜は駄目かと思ふて就寝しましたよといふ、起きた姿は素裸の上に、毛布一枚を肩から脇下に袈裟懸けにし、恰もインド人の服装によく見る姿である、辷り落ちさうな毛布を片手にしつかり握り、片手で押入を開け布團を引出して枕を並べた、夏だから簡單ですよといふ簡單に床のべて、簡單に寝た譯であるが挨拶も何も除いて先づ二人は並んで寝た。
 解放された座敷の中に横臥してみれば、野天寝たも同様で空の星影もきらきら光つてみえる、宮澤さん何だかどうわのせかいにあるやうな二人ですねといふた時、彼は思はず苦笑してゐた、それからも床の中で色々の話は弾んで面白かつたが彼は間もなくして夢路に入つた。
 寝るも簡單なれば、起きるのも簡單である、朝起きると二人で分擔して私は掃除を受け持ち彼は朝食の用意にかかつた、二、三十分も經たぬに用意完了といふ、お飯の炊いた様子はないから訊いて見ると、お飯なら心配はない、澤山あるといふて裏の井戸端に行き釣瓶を引き上げた時、ザルも一緒に釣り上がつて來た、ザルの中にお飯が入つてゐる、こんな事を書きたてたら、彼は今お浄土から笑ふてゐるかも知れないが、友人の好しみで許してくれるに相違ない、食卓を囲んで向かひ合つた時、ヤア此の生活素敵ですねといふた、彼は得意の面持ちで例の料理論を説いて料理は結局水に味をつけたものですよと言ふてゐた、お飯は一夜井戸の水氣を充分に含んで丁度水で洗つたやうにサクサクしてゐるお皿には萵苣にソースをかけ、他のお皿には何があつたか記憶はないが兎に角簡素であつた事は忘れない、…(略)…彼の無謀的な實行力の餘りに強かつたことを、嘆かずには居られない。

      <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)より>
 一般に賢治に関する証言は賢治よりも年下の、しかも賢治を敬愛する人物のものが多いと思う。となれば、小倉豊文が危惧するように彼等に関する聞き書きには注意を要するであろう。
 これに対して、白藤は花巻農学校での同僚であり、法華経信者の賢治と違って浄土真宗のお坊さんでもあるようだから、この証言はほぼ賢治を客観的に評価していると考えても良さそうである。

 したがって、特に最後の
 『彼の無謀的な實行力の餘りに強かつた(ことを、嘆かずには居られない)』
はまさしく賢治の実態だったのであろう。

 <註*>願教寺(がんきょうじ)といえば、学僧として高名な島地大等(しまじだいとう)が住職を務めたことのある盛岡市北山にある浄土真宗の寺である。賢治は盛中3年のときにこの願教寺で開かれた夏季仏教講習会に参加している。

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