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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1295 大正15年12月下旬

2009-12-14 09:49:56 | 岩手の冷害・旱害
   <↑ Fig.1 大正15年12月23日付 岩手日報>

 大正15年の11月になって病状が極度に悪化し出していた大正天皇は、年の瀬も押し詰まったこの頃になるとさらに容体が悪化してきてそのことを気遣う報道が紙面の多くを占めるようになり、日本全体が重く沈んでいた。
 そのような年末、岩手では旱害罹災の著しい赤石村等への義捐が途絶えることがなかったようで、このブログの先頭に見られるような善行などが報道されている。その中身は下記の通り。
【大正15年12月23日付 岩手日報】
 米麦五石を 旱害罹災民へ 胆沢郡永岡村百岡報徳会から 本社を通じて 
胆沢郡永岡村百岡の報徳会は平素会員の人格修業につとめ民の融和をはかつて村の向上発展に努力して居るが此度紫波地方旱害罹災民の窮状を本紙によつて知り有志が相寄つて自作の米麦粟等約五石を纏め本社を通じて顧問方申し出られた本社にては直ちに右穀類を全部日詰警察署の奥寺署長へ御願して各罹災者の方々へ分配する事とした
 また、翌日の報道には
【Fig.2 大正15年12月24日付 岩手日報】

 彦部消防組から 旱害罹災民へ 藁二千五百把と 金三十円を贈る
紫波郡彦部村消防組より赤石村旱害罹災民に対して
 一、金三十円
 二、藁二千五百把
寄贈があつた…

というものもあった。もちろんこの藁は、副業として奨励されている筵を作るための藁であろう。
 ここで気になるのが彦部村のことである。先ずはその場所を下図で確認して貰いたい。
【昭和10年の紫波郡の地図】

    <『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
なんと赤石村の隣村である。その彦部村の消防団がこれだけの義捐をしてくれるということは彦部村の旱魃被害はそれほどではなかったということだろう。とうことは、この両村は隣り合っているのだから気象条件はほぼ違わないのだろうから、旱魃被害の違いは灌漑用水のあるなしの違いに依っていたのであろう。赤石村の旱魃は3年前から引き続いていたはずだから、旱魃の原因が灌漑用水にあることは容易に見抜けたはずで、滝名川上流に大溜池を造るなどしてその不足をもう少し早い時点で解消しておいて欲しかったと思えてならない。

 12月25日大正天皇崩御。そのことで憚られたのか岩手日報の紙面に旱害被害に関する報道はこの後12月中は見当たらなかった。

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