みちのくの山野草

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1297 年が明けた赤石村

2009-12-15 15:51:44 | 岩手の冷害・旱害
   <↑ Fig.1 昭和2年1月5日付 岩手日報>
 
 大正15年12月25日に大正天皇が崩御し、その報道が連日大きく報道される岩手日報には、12月25日以降赤石村などの旱害罹災民の報道はなかったのだが、明けて昭和2年となった1月5日の紙面に久し振りにその報道があった。
 それが、このブログの先頭に載せた新春に相応しい明るい記事であり、その内容は以下のような内容であった。 
【昭和2年1月5日付 岩手日報】
 赤石罹災民の造ったむしろ 二日初荷として十三噸を積出す
紫波郡赤石村にてはかん害救済策として産業組合主となりて昨年末より製筵を奨励してゐたが二日製品十三噸を初荷として塩竈方面へ積み出した

 そして、同紙面にはこれまた頼もしい次のような記事もある。
【Fig.2 昭和2年1月5日付 岩手日報】

 在京生の 炭屋さん 飛ぶやうに売れる 利益金を全部 旱害罹災者に贈る
東京岩手学生会では紫波郡赤石地方のかん害罹災者を救助すべく学生が県の木炭を販売し之が利益金を困窮に喘ぐ人たちの救済に向ける事は既報の通りであるがいよいよ?ろう二十八日から販売を開始した、二十六日から着手する筈であつたのだが大正天皇崩御のために三日間の謹慎をなし二十八日より着手した訳であるが何しろ本県社会課を始め東京社会局及び東京朝日新聞社の後援があるので非常に仕事が捗りその上市価より一俵の手前平均三十銭方安いので着手既に三百俵の前注文有り様で楽に五千俵位が十分に捌ける見込みである。なほ此の二三日は銀座、神楽坂等に夜店を開き廉売を行つてゐるがこれ又とぼやうに売れて行き学生諸君は労苦もいとはず涙ぐましい程一生懸命で罹災者のために真黒くなつて働いてゐる。なほ学生諸君
 ▲明治大学 千田?夫、昆省一、戸羽武、大内充、佐々木猛夫
 ▲早稲田大学 佐藤尚人、沢口勇平、佐々木真
 ▲日本大学 右京政次
の九氏である

若者がボランティア活動に熱心なのは今も昔も同じだ。見習いたいものだ。

 というわけで、5日付けの新聞報道からは世の中捨てたものではないと希望が湧いてきたのだが、8日付けの紙面には次のような記事もあり先行きがやや不安になってくる。
【Fig.3 昭和2年1月8日付 岩手日報】

 農村経済は 全く破滅の苦境 米価の大崩落にて 肥料買入れにも困難
ただしこの記事は日本全体の記事であり、その内容は割愛したいが、米価について書いてあるのでその部分だけを拾うと
 米一石の値段
  大正13年12月 35円
   〃14年 〃  32円50銭
   〃15年 〃  31円
ということであったのだが、昭和2年に入ると一石30円になりそう気配すらあるという。年々米価が下がっていたのだ。

 そして、5日付の記事を見て少し安堵していた自分の見通しの甘さが決定的に覆ったのが、次のような1月9日の記事である。
【Fig.4昭和2年1月9日付 岩手日報】


 ただし、その中身は多すぎるので次回へ。

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