みちのくの山野草

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賢治宛来簡が実は存在している

2024-01-20 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》






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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 賢治宛来簡が実は存在している
 私には、賢治に関して以前からずっと疑問に思っていたことの最たるものの一つとして次のことがある。
 それは、賢治の書簡は下書、いわば反古までもが残っていて公にされているというのに、来簡が一切公になっていないというアンフェアな状態にあるということだ。そしてこの状態は、往簡だけで、場合によってはその下書だけで賢治に関わることを一方的に解釈してしまうことを招きがちだから、それでは正しく物事を理解できていないことが当然危惧されるから好ましい状態ではない。
 にもかかわらず、「賢治宛来簡が一切ない」という現状が近々解消されるという話も聞かない。そしてそもそも、今までにこのことが真剣に公的に論議されたことがあったのだろうか。管見故か、私はせいぜい次のようなことしか知らない。
S 賢治あての手紙が残されているとすれば、来簡集のようなものを編みたいのですが…。
T それはあるらしいですね。なかば公然の秘密みたいな囁かれ方をしていますが。
I よくわかりませんけど、実際問題としては、公にすることを聞いたことは一度もないです。
<『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)185p>
 とはいえ、これでは始めからこの件に関しては逃げ腰であるとしか私の眼には映らない。ただし、このやりとりからは逆に、賢治宛来簡がないわけではなさそうだということだけは窺える。
 一方このことに関連しては、北条常久著『詩友 国境を越えて』の中に次のようなことが述べられている。それは昭和8年9月26日、宮澤賢治の初七日に合せて花巻に向かった草野心平が、夕刻花巻に着きその足で宮澤商会を訪れ、そこで賢治の遺品と遺作に対面した時のことに関してであり、
 蓄音機やレコードはもちろん、山登りの道具、採取した岩石も整理、保管されていた。…(筆者略)…
 そこには、心平に出されるはずであった手紙やハガキの反故が十枚ほどあった。
 心平への宛名だけの封筒、心平宛のハガキで一行だけのもの、このように書き損じも捨てずに保存されている。
 賢治自身が、それらを捨てなかったのはもちろんであるが、誰かがそれらを丁寧に保存していたことは確かである。次第に分かってきたが、この見事な保存と整理は弟清六によっておこなわれているのである。
 心平が初七日に来るというので、清六が、心平の反古を取り出しておいたのである。
 賢治が反古にした手紙は山ほどあるはずで、その中から草野心平への反古の手紙をより分けておくことが短期間でできるのは、日頃から保存と整理が日常化していたからに違いない。
<『詩友 国境を越えて』(北条常久著、風濤社)204p>
ということである。そうすると、宮澤家宛(父政次郎宛や弟清六宛等)の賢治書簡が残っていてしかもそれらは公になっているのだから、この北条氏の記述とを併せて常識的に考えれば、賢治宛来簡も少なくとも何通かは大切に保管・整理されているとやはり思いたくもなる。
 それからこのことに関連してもう一つ述べておきたいことがある。実は、あの『生徒諸君に寄せる』がはじめて公表されたのは昭和21年4月号の「朝日評論」上にてであることが『校本全集第六巻』で述べられていて、「朝日評論」編集部の解説文には、その発見の経緯等が、
 故宮沢賢治作〝生徒諸君に寄せる〟の詩一篇は、岩手県稗貫郡花巻町の故人の生家に住んで、その作品の整理紹介に畢生を献げてゐる令弟清六氏の手によつてこのほど空爆で罹災した書類のなかから発見されたものである。草稿は故人が晩年、技師として招聘された東北砕石工場との往復書簡の堆積の底から発見されたバラバラのノートの頁何枚かの裏表に、赤インクで書かれてゐる。用紙、筆蹟などから見て一九二七年(昭和二年)の作品らしく、作品番号一〇九〇前後のものと推定される。
<『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)785p>
と紹介されているからである。
 つまり、昭和20年8月10日の空爆による火災で賢治の生家が焼けてしまった後にも「東北採石工場との往復書簡の堆積」が存在していたことになる。ということは、「東北採石工場からの賢治宛来簡」が存在していたということだから、他の人たちからの賢治宛来簡が残っている可能性もありそうだ。そこで、機会があれば当事者に直接このことを問うてみたい、と思っていた。
 そこへ持ってきて、前述したように「賢治宛の露からの来簡」が露に関する懸案事項を解決する可能性があるということを知ったのでなおさらにそう思うようになっていた。
 その矢先、「念ずれば通ず」という諺がピッタリで、私は盛岡のとある会合で宮澤賢治の血縁のC氏と同席できた(平成27年10月11日)のである。私は小心者であるが、一世一代の勇気を振り絞ってずばりお願いをした。
 賢治の出した手紙はお父さん(政次郎)宛を含め、下書まで公になっているのに、賢治に来た書簡は一切公になっていない。賢治研究の発展のために、しかも来年は賢治生誕120年でもあり、そろそろ公にしていただきい。
と。するとC氏からは、
 来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
という意味のご返事を頂けた。
 したがって、やはり、
   賢治宛来簡はないわけではなかった。今でもある。
ということがこれで100%確かなものとなったと言ってよいだろう。
‡‡‡‡‡‡‡ 
 そこで筑摩書房及び関係者に次のことをお願いしたい。
 現存している「賢治宛来簡」を全て公にしてほしい。
と。それは、『校本全集第14巻』が、
 本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としている
として「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」を、「新発見」と銘打って活字にしたわけだが、一般読者にとては全く判然としておらず、そのモヤモヤを解消できる有力な方途となり得るからである(言い方を換えればそれは筑摩書房の社会的な責務であろう)。そしてまた、前述したように仮説〝○☆〟を裏付ける可能性があるからである。
 聞くところによると、現在『宮沢賢治記念館』が所蔵している賢治書簡の本物は、それこそ賢治が柳原昌悦に宛てたいわゆる「最後の手紙」が唯一だという。だからなおさらに、
 本年の賢治生誕120年のイベントの際に、この柳原に宛てた最後の書簡と、それに対応する柳原からの賢治宛来簡を「往復書簡」のセットで展示公開していただきたい。
ということを私はまず懇願したい。
 もしこのようなことが生誕120年を機に実現できたとするなばどれだけ素晴らしいことだろうか。考えただけでも胸がわくわくする。そしてその後は、所蔵している賢治宛来簡を随時公表していってほしい。そうすれば、賢治研究の飛躍的な大発展をもたらすことは火を見るより明らかである。私はそれを切に願い続ける。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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