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思考実験「悪女にされた切っ掛け」 

2024-01-19 16:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》










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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 思考実験「悪女にされた切っ掛け」
 その後、私は賢治研究家B氏から、
 伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった。
と宮澤清六が直接B氏に証言したということを教えてもらった(平成27年9月20日、花巻F館にて)ので、これと先のちゑの藤原嘉藤治宛書簡の記述とを併せて考えれば、
 伊藤兄妹が賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ断定できるだろう。そしてそれは奇しくも、
(賢治先生から)昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p >
と高瀬露が遠野時代の同僚に証言しているが、その「下根子桜」訪問を遠慮し出した直後のことであったということになる。
 したがって、この見合いの時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持つ。それは蓋然性の高いあることに気付かせてくれたからだ。
 さて、先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだが、賢治研究家M氏から過日、
 露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうね。
と問われた。
 たしかに、拙論で検証したみたところでは、露が〈悪女〉であるという客観的な根拠は何一つ見つからないから彼女は巷間言われているような悪女では決してなく、それどころかどちらかといえば聖女の如き人だったということを同拙論で実証できたものの、現実には巷間そうされていているわけだからその「理由」は必ずあるはずだ。しかし私はそれは見出せていなかったので、その問いに対して、
   その点に関してはわかりませんでした。
とお答えするしかなかった。
 実際、この点に関しては誰一人として公には言及していないはずだ。そして実は私もそこに踏み入るつもりはそれまではあまりなかった。露が巷間言われているような〈悪女〉でないということは、ある程度賢治と露のことを識ってしまえば常識的に明らかなことだったからそれを仮説として、その検証をし、できれば実証したいという一心だったからだ。
 しかしそれをやり遂げた今、その「理由」を賢治研究家から問われて無責任だったかなと反省してみた。少なくとも拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上は、その点に関しての私見を一つぐらいは持っておくべきかなと考え直して、あれこれ考えてみた。
 そんな時にたまたま教えてもらったのが上述の清六の証言だが、そのことを知ってあることに気付かせてもらった。それは、先に引用したように、
 露が「下根子桜」に賢治を訪ねていたのは昭和2年の夏までであった。
ということと、
 伊藤ちゑが賢治との見合いのために花巻を訪れたのはほぼ昭和2年10月であると言える。
ということの時間的な推移から示唆されることである。
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 では、ここからは思考実験に切り替える。
 巷間、賢治は高瀬露を拒絶するために幾つかの奇矯な言動をしていたと云われている。しかも、昭和2年10月に見合いのためにちゑが花巻を訪れたとなれば、それ以前に見合いの話は既に進んでいたと考えられる。すると、この時間的な流れはあまりにもタイミングが合いすぎているので、普通に考えて、
 昭和2年の夏頃まで露は賢治の許にはしばしば出入りしていたのだが、賢治はちゑとの見合い話がとんとん拍子に進んでいったので、今までどおりに露に出入りされることはまずいと判断した賢治は、その頃からそれを拒絶するためにそのような奇矯な言動をするようになった。
ということの蓋然性が高い。
 ちなみに、昭和3年の6月、「伊豆大島行」から戻った賢治は藤原嘉藤治を前にして、ちゑについて
 大島では、肺病む伊藤七雄氏のため、農民学校設立の相談相手になつたり、庭園設計の指導したりした。その時茲で病気の兄を看護してゐた伊藤チエ子といふ女性にひどく魅せられたことがあつた。「あぶなかつた。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
<『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)>
というように、「おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と語ったというし、昭和6年7月7日には森荘已池を前にして賢治は、
   私は(伊藤ちゑさんと)結婚するかも知れません――
とほのめかし、ちゑのことを
 ずつと前に私と話があつてから、どこにもいかないで居るというのです。
<共に『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書院)104p~>
と語ったということだから、賢治はちゑと結婚することを当時真剣に考えていたと判断できるし、賢治自身はちゑもその気があると受け止めていたと言えそうだ。
 ちょうどその頃のちゑは、二葉保育園でスラム街の子女のためにセツルメント活動をしていたりしていて、まるで聖女の如き女性であり、しかもモダーンでかなりの美人でもあったということだから、東京に住むそのようなちゑに東京好きの賢治が惹かれることは無理もないとも考えられる。
 しかし一方、ちゑは老母に義理立てして昭和2年10月に賢治との見合いのために花巻に一度は行ったものの(〈注十八〉)、この章の始めの「伊藤ちゑから見た賢治」で明らかにしたように、実はちゑは賢治との結婚をまったく望んでいなかった。そして、そのことを賢治は昭和6年の10月頃になってやっと初めて覚ったと考えられる(まさに昭和6年10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕はその夢が破れたことを知った賢治の憤怒)。
 とはいえ当然あの賢治のことだから、後になって露に対するその背信行為等を恥じ、昭和7年に露に詫びに行ったようで、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』という意味の露本人の証言があったということを露の次女が友人に対して語っていたという。このことについては、露の遠野時代(昭和10年代)の教え子の一人K氏から教わった(平成26年7月14日、遠野市)ことであり、彼は、それは賢治が露の身の上を案じて訪ねてきたと考えられると語っていた。(これらの詳細については拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい)。
 またもちろん、賢治は都合が悪くなってある時から露を拒絶するようになったとしても、賢治は露のことを〈悪女〉であると思ったことも、〈悪女〉に仕立てようと思ったことも共になかろう。それは、賢治は露とは少なくともある一定期間オープンでとてもよい関係にあったし、なにしろ賢治は露からいろいろと世話になっていたからである。だからそうではなくて、賢治周辺の誰かが、賢治のために良かれと思って露を〈悪女〉に仕立てたのだろうが、そのでっち上げによって一人の人間の尊厳を傷つけ人格を貶めてしまったという、到底許されざる行為があったということなのだろう。
 おそらくその「誰か」が、賢治が戦中・戦後を通じて聖人に祭り上げられていく中で、賢治がちゑから結婚を拒絶されたということが知られてはならないと考え、賢治とちゑを逆に強引に結びつけようとし、一方では、賢治が昭和2年の夏頃に露にした背信行為もその時代の聖人賢治像にはそぐわないものだから、その行為を相対的に矮小化するために露をとんでもない〈悪女〉に仕立てていった。
 あるいは、父政次郎からも厳しく叱責されたという賢治のその幾つかの奇矯な言動は当時結構世間に知られていたので、そのことを何とかせねばならないと思った「賢治以外の人物」が、その奇矯な賢治の言動は露がとんでもない悪女だったから聖人といえども万やむを得ずそうせざるを得なかったのだ、という構図にでっち上げようとしたからであった。それがあまりにも奇矯な行為だったが故に、それを正当化するためには露をとんでもない〈悪女〉に仕立てるしかなかったのである。だから、賢治を聖人に祭り上げようとする流れの中で露は犠牲にされたといえる。理不尽で不条理な冤罪だ。
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 以上で思考実験は終了するが、こう推論してみれば、客観的な理由も根拠もないままになぜ露がとんでもない〈悪女〉にされたのかの切っ掛けの説明がつく。言い換えれば、有力な次のような仮説〝○☆〟がここに立てられる。
 高瀬露が〈悪女〉にされるようになった「切っ掛け」は伊藤ちゑとの見合いであり、しかも賢治はちゑと結婚しようと思っていたのだがそれをちゑから拒絶されたことである。……○☆
 とはいえ、この仮説の実証は容易ではない。このことを裏付けてくれそうな証言も資料もまず思い付かないからだ。ただし一つだけその方法論として私が思い付くのは、昭和52年頃になって突如「新発見」であるとかたって『校本全集第14巻』が公にした、一連の「昭和4年の露宛と思われる書簡下書」があるが、これに対応する「賢治宛の露からの来簡」が実在しているというのであればそれを用いる方法である。
 ところで、同巻はその「新発見」の際に、
 本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが
と34pで述べているが、残念ながらそこにはその根拠も理由も明示されていないから私だけのみならず、一般読者(〈注十九〉)にとっても全く判然としていない。さりながら、それらが全くなくてそう嘯いて活字にするようなことを『校本全集』がするわけがないはずだから、そこには何らかの典拠があってのこと。
 というのは以前、賢治が「下根子桜」で一緒に暮らした千葉恭に関するあることについて、どうして「賢治年譜」にその記載がないのかと私が関係者に訊ねたところ、『それは一人の証言しかないからです』という回答だったし、それはもちろん尤もなことだ。そこでこの回答の論理に従えば、当然、「書簡下書」だけで判然としているなどと言えるはずがない。
 すると私に考えられることは唯一、前述したような「賢治宛の露からの来簡」が存在していて、その「内容」に基づいて同巻は「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と断定したということである。
 もしそうであったとしたならば、先の仮説〝○☆〟の検証のためのみならず、こちらの「判然としている」の根拠という観点からも「賢治宛の露からの来簡」の果たす役割は大きいと言える。となればその存在や如何?

〈注十八:本文95p〉森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御樣子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つ御存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
〈注十九:本文97p〉これは私のみならず、次のような方の指摘もある。
 例えば、 Web上でtsumekusa氏が管理されているブログ〝「猫の事務所」調査書〟の平成20年11月16日付「「手紙下書き」に対する疑問」において、次のような疑問が呈されている。
 …この下書きは文中に相手の名前もなく、内容を読んでみれば相手は女性であるらしいことは判りますが、 誰に宛てて書いていたのか全く判りません。
 そんな下書きが「高瀬露宛て」とまで断定できる理由は何なのでしょうか。
1.「特別な愛」「この十年恋愛らしい……」
  「独身主義をおやめに……」等恋愛や結婚に関する話が出てくるから
2.「慶吾さん(引用者注・高橋慶吾氏のこと)にきいてごらんなさい」という一文があるから(252系下書きその1)
3.「「もし私が今の条件で一身を投げ出してゐるのでなかったらあなたと結婚したかも知れないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。」という一文があるから(252c)
 考えてもこれだけしか理由が挙がってきません。これだけの理由で高瀬露宛てだと断定できるのでしょうか。
     …(筆者略)…
 この下書きを「高瀬露宛て」と断定したのは上記理由のみなのか、それとも他に「高瀬露宛て」とできる決め手となった理由があったのか、そういったことを今からでもきちんと公表して頂きたいと思います。
 あるいは、signaless5氏が管理されているブログ〝りんご通信〟の平成21年8月25日 付「書簡 252a,b,c について」においては、
『新校本宮澤賢治全集・第14巻』掲載の書簡252a,252b,252c は、【あて名不明】の下書きであり、昭和52年発行の校本によって初めて高瀬露宛てと判断されたものです。
 252aには他に5点,252cには他に15点の比較的短い下書き群があり本文とされたものと合わせると計22点にも及びます。
 しかし、私はこれらの下書きが、「高瀬露あて」と断定されていることに大いに疑問を持っています。
 新校本に於いてもこれらは、「内容的に高瀬あてであることが判然としている」と書かれているだけでその根拠はひとつも述べられてはいません。
と指摘している。つまりこのお二方とも、「判然」などしておらず、その根拠も明らかでないと断じている。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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