みちのくの山野草

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「伊豆大島行」は何のため?

2015-08-07 09:00:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 さて、『新校本年譜』によれば、昭和3年6月の上京は主に次の三つ「水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的」を持ったものであったという。この中の一つに、結果的にはそうだったかも知れないがなぜ「浮世絵展鑑賞」が入るのかの理由が私にはよくわからぬが、その一つに少なくとも「伊豆大島行き」があったということは間違いなかろう。
 ただし、その「伊豆大島行」が何のためだったのかということに関しては意見の分かれるところであろう。よく言われているのは伊藤ちゑとの見合いのためであるということだが、境忠一は、以前伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪ねた際に、
 賢治は伊豆大島を訪ねることを約束し、六月初旬、農産製造・水産製造についての研究のために上京しており、足をのばして、大島の兄妹を訪ねたのである。
              <『評伝 宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社)>
と述べているから、その約束を履行するためだったいう人もあるようだ。
 しかし、少なくともこの「伊豆大島行」がちゑとの見合いのためだったということはなかろう。それは、ちゑが10月29日付藤原嘉藤治宛書簡
この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で
と述べているし、同じくちゑが森荘已池に宛てた手紙<*1>の中で
    たとへ娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて、花巻にお訪ね申し上げたとは申せ…
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162pより>
としたためていたことからは、昭和3年6月の「伊豆大島行」以前に、年老いた母に義理立てをして花巻を訪ねて既に見合いをしたということが言えるから、「見合い」は疾うに済んでいたと判断できるからである。
 しかも、ちゑが森荘已池に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の一節には、
 皆様が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られます御方に、ご逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の為に、私如き卑しい者の関わりが必要で御座居ませうか。あなた様のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆様の陰に隠れて静かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた事(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。
            <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157pより>
と書かれていることから判るように、ちゑは賢治と「約丸一日大島の兄の家で御一緒」してみて、賢治とは結婚できないとちゑ自身が「あの方のお帰りになる後ろ姿に向つて、一人ひそかにお誓い申し上げた」とはっきり言い切っている。また、わざわざ「(あの頃私の家ではあの方私の結婚の対象として問題視してをりました)」と書き添えて、家族も反対しているのだと駄目押しさえしている。
 実際その「伊豆大島行」で賢治とちゑとの間に何があったかというと、ちゑ自身が森荘已池宛書簡において、賢治の
   ――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
              <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145pより>
と述懐していたことから導かれるのだが、殆ど何もなかったということになろうから、「伊豆大島行」は少なくともちゑにとっては花巻での「見合い」をさらに進展させるためのものではなかったであろう。それは、昭和3年の「伊豆大島行」に関して時得孝良氏が学生時代に、ちゑを訪ねて本人から次のような聞書きを得ていることからも判る。具体的には、
 賢治に関する研究書や評論に、ちゑさんと賢治の関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和三年六月に大島で会った時も「おはようございます」「さようなら」といった程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものはなかった。
              <『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)323p~より>
と述べられていることからもそのことが窺える。
 まさか、そのちゑの一連の対応から賢治がちゑの心の内を読むことはできなかったということはなかろうから、一方で、藤原嘉藤治は『新女苑』において、この時の伊豆大島行に関して賢治が、
 「あぶなかった。全く神父セルギーの思ひをした。指は切らなかつたがね。おれは結婚するとすれば、あの女性だな」と彼はあとで述懐してゐた。
              <『新女苑』八月号(実業之日本社、昭和16・8)より>
ということだが、これはせいぜいあくまでも賢治自身の認識に過ぎないだろうし、もしかすると、この時の上京が「労農党との関連」であったということをカムフラージュするための一つの軽口だったということもあながち否定できなかろう。
 もっと敷衍すれば、この時の上京は実は差し迫った「逃避行」であり、それは官憲の追及からまさに逃れるためのものであり、追及を紛らわすためであり、とりわけ「伊豆大島行」は伊藤七雄と賢治の関係を示す客観的な資料等を処分するためであったという可能性も否定できないのではなかろうかという思いがまた私には強まってきた。だからこそ逆に、周りはそれをカムフラージュするために賢治の「伊豆大島行」はちゑとの見合いのためだったと強調したのかもしれないし、それが真相であったことを知っていたがゆえにちゑは賢治と結びつけられることを潔しとしなかったということだってあり得るのかもしれない、と。あれっ、ちょっと膨らましすぎたかな。

<*1:註> 森荘已池に宛昭和16年1月29日付ちゑ書簡
 女独りでは居られるものでは無いからと周囲の者たちから強硬にせめたてられて、しぶしぶ兄の供をさせられて、花巻の御宅に参上させられた次第で御座居ます。
 御承知のとおり六月に入りましてあの方は兄との御約束を御忘れなく大島のあの家を御訪ね下さいました。
 あの人は御見受けいたしましたところ、普通人と御変りなく、明るく芯から樂しそうに兄と話して居られましたが、その御語の内容から良くは判りませんでしたけれど、何かしらとても巨きなものに憑かれてゐらつしやる御様子と、結婚などの問題は眼中に無いと、おぼろ氣ながら氣付かせられました時、私は本当に心から申訳なく、はつとしてしまひました。たとへ、娘の行末を切に思ふ老母の泪に後押しされて花巻にお訪ね申し上げましたとは申せ、そんな私方の意向は何一つご存じ無い白紙のこの御方に、私丈それと意識して御逢ひ申したことは恥ずべきぬすみ見と同じで、その卑劣さが今更のやうにとても情なく、一時にぐつとつまつてしまひ、目をふせてしまひました。
               <『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)162p>
と綴っているということだから、この見合いは老母のことを慮って等のものであり、しぶしぶのそれであったことがわかる。

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