《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
さて、前回私は 安藤のぶ看護婦が賢治の付き添い出張看護をしたのは少なくとも9月20日以降の、おそらく12月以降の〝30日間〟である。……⑤
となるのではなかろうか。そして私がそう思う理由は、これに関する別の証言もあるからである。そのインタビューとは1995(平成7)年9月23日に花巻のホテルグランシェールで行われた次のようなものである。
問-看護婦さんとして宮沢家に行かれたそうですが、どんな経過があってのことですか。
答-…(略)…尋常六年を終えて、共立花巻病院(当時佐藤隆房院長)で昼間働きながら、夜勉強して看護婦の資格を取るので大変でした。花巻病院で卒業証書をもらってから、盛岡で国家試験を受け資格を取りました。一度でパスして嬉しかった。この正月は喜んで帰りましょうとうんと張り切っていたときに、付き添いをと言われたときは、正直言って泣きたい気持ちでいた。
問-どなたが行けとおしゃったのですか。
答-院長先生です。花巻病院で当時わたしは雑用などしないで、佐藤長松博士に重宝され、試験室でお手伝いをしていたとき、宮沢家に派遣されることになったのです。
問-いつ頃のことですか。
答-私が十八歳の時でした。
問-季節はおぼえていますか。
答-ええ、十二月半ばでした。(注①)
<『賢治研究70 宮沢賢治生誕百年記念特別号』(宮沢賢治研究会、1996,8)114pより>答-…(略)…尋常六年を終えて、共立花巻病院(当時佐藤隆房院長)で昼間働きながら、夜勉強して看護婦の資格を取るので大変でした。花巻病院で卒業証書をもらってから、盛岡で国家試験を受け資格を取りました。一度でパスして嬉しかった。この正月は喜んで帰りましょうとうんと張り切っていたときに、付き添いをと言われたときは、正直言って泣きたい気持ちでいた。
問-どなたが行けとおしゃったのですか。
答-院長先生です。花巻病院で当時わたしは雑用などしないで、佐藤長松博士に重宝され、試験室でお手伝いをしていたとき、宮沢家に派遣されることになったのです。
問-いつ頃のことですか。
答-私が十八歳の時でした。
問-季節はおぼえていますか。
答-ええ、十二月半ばでした。(注①)
そしてこの「注①」において、いわゆる「旧校本年譜」の記載を基にしてこの「十二月半ばでした」の「十二月」とは昭和3年12月のことと思われると、『賢治研究70』は判断している。となれば、このインタビュー記事によれば
中村ノブが賢治の付き添い看護を始めたのは昭和3年12月半ばからであった。
ということになる。しかも付き添い看護が始まったということにとなれば当然賢治は病が重くなったということであろうから、
昭和3年12月半ばから賢治は重篤になった。
ということがおのずから導かれる。そしてもうお気付きのように、この中村ノブの旧姓は安藤であり、もちろん安藤のぶその人のことである。
そしてインタビューは次にように続く。
問-宮沢賢治の病状はどんなようすでしたか。
答-賢治先生は急性肺炎で熱も高かった。死ぬるか生きるかわからないときで看病次第ですから、責任重大でした。当時肺炎といえばみんな死ぬんですから。ぐらぐら煮え立つような熱い湯で、手を真っ赤にして温湿布をし、二時間ごとにそれを取り替え、それで熱を下げるんです。必死で一生懸命やりました。
…(略)…
問-往診されたのは隆房先生でしたか。
答-院長先生はちょいちょい見えましたよ。でも診察するということではなく、容体を気にかけて感じでした。佐藤長松博士が賢治先生の主治医だったと思いますが、診察していた姿の記憶はありません。
…(略)…
問-では宮沢家にいらしたのはいつ頃までですか。
答-賢治先生がようやく快方に向かい、私もくたびれて一月半ばに別の看護婦さん、たしか白鳥という人だったと思いますが交替に来られることになって、私はおいとますることになりました。
<『賢治研究70 宮沢賢治生誕百年記念特別号』(宮沢賢治研究会、1996,8)115pより>答-賢治先生は急性肺炎で熱も高かった。死ぬるか生きるかわからないときで看病次第ですから、責任重大でした。当時肺炎といえばみんな死ぬんですから。ぐらぐら煮え立つような熱い湯で、手を真っ赤にして温湿布をし、二時間ごとにそれを取り替え、それで熱を下げるんです。必死で一生懸命やりました。
…(略)…
問-往診されたのは隆房先生でしたか。
答-院長先生はちょいちょい見えましたよ。でも診察するということではなく、容体を気にかけて感じでした。佐藤長松博士が賢治先生の主治医だったと思いますが、診察していた姿の記憶はありません。
…(略)…
問-では宮沢家にいらしたのはいつ頃までですか。
答-賢治先生がようやく快方に向かい、私もくたびれて一月半ばに別の看護婦さん、たしか白鳥という人だったと思いますが交替に来られることになって、私はおいとますることになりました。
したがって、賢治が下根子桜から実家に帰ったときには急性肺炎には罹っておらず、罹ったのはその年の12月半ばと判断するのがより妥当だろう。また、このインタビュー記事によれば、中村ノブが付き添い看護を辞めたのは明けて翌年の1月半ばということにる。しかも中村ノブ、すなわち安藤のぶが賢治の付き添い出張看護をした期間〝30日間〟については前掲〝⑤〟ということであったから、この〝⑤〟は次にように修正できる。
安藤のぶが賢治の付き添い出張看護をしたのは昭和3年12月半ば~明けて1月半ばの〝30日間〟であった。……❺
またおのずから、前回、佐藤隆房自身の記述から窺えるその頃の賢治の病状について、
・12月に入る前までは、「療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました」ということであり、「たいした発熱があるというわけではありませんでした」。
・12月に入ると、「どうにも普通のやうではなくなつてをりました」ということであり、「突然激しい風邪におそわれまして、それを契機として急性肺炎の形となりました」。
というように下した私の判断は妥当なものであったということがこれで裏付けられたと思う。ただし、安藤のぶと中村ノブの証言があるとはいえ、この人たちは同一人物なのだからその証言の信憑性が問題だという指摘もあろう。次回はそのことに関して述べてみたい。
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