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みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

牽強付会な番組だと誹る人もいるかもしれない

2018-01-12 10:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
H29,11,24 20時~ BSプレミアム“英雄たちの選択”「本当の幸いを探して 教師・宮沢賢治 希望の教室」
 次に、司会の一人渡邊アナウンサーは、
 では 賢治が生きた時代はどういう時代だったのか。
 賢治のふるさとであります東北が本当、凶作による飢饉ですとか大地震に見舞われるというとても困難な時代だったということが分かりますね。
と進行し、もう一人の司会進行の磯田氏がそれを受けて、
 賢治が生きたのは明治時代の後半から大正 昭和の初期ですよね。都市では 近代のモダンがどんどん出来てくるのだけれどそれとは対照的な世界がやっぱり 賢治のいる岩手県に生じてくる訳ですよね。
 そんな時代に賢治は童話で「本当の幸せ」とは何かという事を模索していくと。根本的な事を考えないともう生きてかれないと思うんですよ僕 この世の中。一番その事について人に分かりやすく本気で考えた人の一人が 僕は日本史上、宮沢賢治だったのではなかろうかと思っているのでちょっといつもとは違う番組ですがとっても この番組ができた事は私は うれしいと思ってるんです。
 では その教師というポイントから見ていきたいんですけれども教師 宮沢賢治はどのようにして誕生したのかそこからひもといてまいりましょう。
と続けた。
 そして今度はナレーションが、
 賢治は 岩手県の花巻で質屋と古着商を営む裕福な商家に生まれた。一家の大事な跡取り息子として何不自由なく過ごした少年時代。そんな賢治が目の当たりにしてきたのが当時の農村の荒廃ぶりだった。明治30年代後半天候不順による大凶作が東北の農村を襲った。
と続き、次のような新聞記事が画面が現れ、
【明治38年11月7日付『岩手日報』】

           〈H29,11,24 20時~ BSプレミアム“英雄たちの選択”「本当の幸いを探して」より〉
被害は、岩手宮城の両県が最もひどくその惨状は言語に絶すると新聞は報じた。
農民たちは山野に分け入って楢の実や山牛蒡の葉っぱを食べる。また、町には強盗が出没東北の農村は崩壊の危機に陥った。
とさらにナレーションは続いていた。

 そこで私は、これに引き続いて、大正15年の飢饉のほぼ一歩手前とも言えた大干魃による凶作、それこそまさに「天候不順による大凶作が農村を襲った」わけだから、その新聞記事や記事やナレーションが続くと思ったのだが、一切なかった。明治38年といえば賢治は約9歳、商家の子どもだった「そんな賢治が目の当たりにしてきたのが当時の農村の荒廃ぶりだった」とまで果たして断言できるのだろうか。少年時代の賢治が農業に関心を持っていたとはとても考えられないし、それを裏付けるものも私は知らない。賢治が農業に関わらなくなければならなくなったのは大正10年12月に稗貫農学校(後の花巻農学校)の教諭になってからであり、農業に関心を持ったのはそれ以降であろう。したがって、少年賢治がこの明治38年11月7日付『岩手日報』を見て、「明治30年代後半天候不順による大凶作が東北の農村を襲った」ことを憂えていたとは常識的には考えられない。そうではなくて、もし賢治が東北の凶作を憂えていたというのであれば、私がすぐに思い浮かぶのはそれこそ「羅須地人協会時代」の、大正15年大旱害による凶作の時がまさしくそうであろう。大正2年の大凶作以降、「気温的稲作安定期」が続いていた<*1>から、その期間は冷害にも凶作にも襲われたことはなく、暫く振りに凶作に襲われたのはその18年後の大正15年のこの大旱害である。

 ちなみに、大正15年の旱魃による大凶作に関する新聞報道は例えば以下のようなものがある。
【Fig.3 大正15年10月27日付 岩手日報】

 稗和両郡 旱害反別 可成り広範囲に亘る
(花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模様…

【Fig.2 大正15年11月9日付 岩手日報】

 県米作第二回 収穫予想高 昨年より大減収
【大正15年12月7日付 岩手日報】
 村の子供達に やつて下さい 紫波の旱害罹災地へ 人情味豊かな贈物
(花巻)5日仙台市東三番丁中村産婆学校生徒佐久間ハツ(十九)さんから紫波郡赤石村長下河原菊治氏宛一封の手紙に添へて小包郵便が届いた文面によると
 日照りのため村の子どもさんたちが大へんおこまりなさうですがこれは私が苦学してゐる内僅かの金で買つたものですどうぞ可愛想なお子さんたちにわけてやつて下さい
と細々と認めてあつた下河原氏は早速小包を開くと一貫五百目もある新しい食ぱんだつたので昼食持たぬ子供等に分配してやつた
尚栃木県から熱誠をこめた手紙をおくつて
 かん害罹災者の子弟中十四五歳の男子があつたら及ばずながら世話して上げます
と書きおくつた人もあつたいづれも人情味豊かな物語りで下河原さんは只世間の同情に対し感謝してゐた

【Fig.3 大正15年12月10日付 岩手日報】

 赤石村民大会を開く 旱害救済策を決議し村議十二名を実行委員に挙ぐ…来会者五百余名
紫波郡赤石村にては十一日午前十一時当村小学校に於て旱害救済策確立のため村民大会開催司会者村議鎌田寅吉開会座長に助役山口泰治郎を推し開会し村議長谷川佐太郎、佐藤直文、玉山庄右衛門、滝浦丹次郎其他有志数名悲壮なる熱弁を以て救済方法を論弁し下河原村長の救済意見を徴収し左の決議案を??可決村議十二名を実行委員に推薦し悲壮のうちに午後二時参会した
   決議案
 先の事項を実現せんことを?す
一.速やかに旱害救済低利資金の供給を?す事
二.旱害地に対する県税を免除せられん事
三.製筵製?機を貸与せられん事
四.副業を奨励し罹災者の生産品に対し其価格二割以上の補給せらる事
五.産業開発の為事業を起こし之が労役に従事せしむる事
六.救済に関し活動機関を設くる事
右決議す

【Fig.4 大正15年12月11日付 岩手日報】

金ヶ崎料理 組合の義捐 赤石罹災民へ
胆沢郡金ヶ崎料理屋組合では九日日詰警察署を経て紫波郡内の旱害罹災民に金十五円を寄付した

【Fig.5 大正15年12月12日付 岩手日報】

 商業高校 義捐金募集 本社通じて赤石罹災民へ
市内盛岡商業高校では今回本社赤石村罹災民義捐金品募集の報に接するや他校に率先し直ちに仝校教員学生に対し義捐金を募集したる処三十余円あつまつたが尚募集して仝村学校児童に送るべく十一日午后本社に届け出ずる筈である

【Fig.6 大正15年12月13日付 岩手日報】

 紫波地方旱害罹災民 慰問義捐金品募集
紫波郡を中心とする今年の大干魃は昨年に引き続いた未曾有の天災であつて、その惨状は日を追つてますます甚だしく見るに耐へないものであります。我々郷土を同じうするものはこの哀れなる隣人の生活苦を見て黙って居る訳にはまゐりません、こゝに罹災者慰問の義捐金品を集めて之を送り聯かなりとも同胞の義務人間の道を果たしたいと思ひます希くは県民諸君、我々のこの意志を酌み取られて何分の同情をたれ玉はん事を伏してお願ふする次第であります。…
【大正15年12月15日付 岩手日報】
 赤石村民に同情集まる 東京の小学生からやさしい寄付
(日詰)本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる数日前東京浅草区森下町済美小学校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小学校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
 わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の学校で今度修学旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも為になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど真心をこめた手紙だった。十二日黒沢尻中学校職員一同から十四円の寄?贈あつたし同校教諭富沢義?氏から手工を指導し、製品の販路はこちらで斡旋するから指導に行つてもよい日時を教えてくれいとこれ又書簡で問ひ合せて来た。

【Fig.2 大正15年12月16日付 岩手日報】

 赤石村に同情
かねて労農党盛岡支部その他県下?産者団体が主催となつて紫波郡赤石村の惨状義えん金を街頭に立ちひろく同情を募つてゐたが第一回の締めきり日たる十五日には十二円八十銭に達したが都合に依つて二十二日まで延期し纏めた上二十五日慰問のため出発し悲惨な村民を慰めることなつた。
       ×
紫波郡ひこ部村第二消防組ではりん村赤石村のかん害惨状に深く同情した結果上等の藁三千束を赤石村共同製作所に販売しそのあががり高を全部、赤石小学校児童に寄付することとなつて十五日午前九時馬車にて藁運搬をなすところがあつた。

【Fig.3 大正15年12月20日付 岩手日報】

 在京岩手学生会 旱害罹災者を慰問 学生先輩有志より拠金をして寄付
東京岩手学生会は紫波地方かん害罹災者慰問の計画を建てその第一案として学生より拠金をする事第二案としては先輩有志より拠金する事になり今回状況調査のため明治大学生佐々木猛夫君来県したなほ第三案として学生が県の木炭を販売してその純益金を救済に向くべく決定し同上佐々木君は本県の木炭業者に交渉する使命をもつて来たのであると佐々木君は語る
 かん害救済のことについては此のあひだ東京広瀬、田子、柏田の各先輩及び学生があつまつて相談をしましたが何れ実地調査してから積極的方法をとらふといふ事にきめました。学生の木炭販売は既に秋田学生会でも実行し成せきをあげたのですから是ヒやりたいと思ひます。同志の学生三十名あります。此場合特志の木炭業者にお願して目的の遂行をはかりたいと思ひます。
紫波郡赤石村はかん害のため村民一同悲惨なる状態に同情して一の関青年有志は本月十八日午後五時関?座に於て活動写真界を開催し純益金を赤石村村民救済資金として贈ることにした

【Fig.4 大正15年12月21日付 岩手日報】
 美しい同情 川口少年赤十字団より 赤石の生徒達へ
凶作のため困窮せる紫波郡赤石村の生徒達をあはれと思ふ一念から岩手郡川口少年赤十字団員四百名は予てかゝる際の用意にもと昨年冬玄関を冒して氷運搬作業に従事して得た金の中を割きこの寒風に泣ける同輩を慰めんと十七日四百名を代表して村山仁の名によつて贈った

【Fig.2 大正15年12月22日付 岩手日報】

 米の御飯を くはぬ赤石の小学生 大根めしをとる 哀れな人たち
(日詰)岩手合同労働組合吉田耕三岩手学生会佐々木猛夫両氏は二十一日紫波郡赤石村かん害罹災者慰問のため同地に出張したが、その要領左の如し
 一、役場
(イ)植付け反別は四百一反歩でかん害総面積は三百十五町歩、その中収穫なき反別は五十町歩に及び
(ロ)被害戸数は百六十戸である(同村の総戸数は五百二十五戸であるから同村三分の一は米一粒も取らなかつたといふ事が出来る)このうち小作人の戸数は六十戸である。
(ハ)大豆は半作でその他の陸物収穫あったけれども一家の口を糊するにたらず
(ニ)同村の平年作は一万四千二百九十四石であるが今年度は八千百八十石減を見た。毎年七千石の移出米を出す処であるから村で食ふだけの米がないといふ事が出来る。以上の如くして六十戸の小作人は非常に苦しい生活を続けて居る。今度応急の救済方法として製筵機五十台をすえつけ生産に当たらしめてゐるのが一日の同収入僅かに三十銭に充たざるを以て衣食を凌ぐにたらず
 二、学校
全然昼飯を持参せざる者二三日前の調査よれば二十四人に及びその内三人は昼飯を持参されぬ事を申出でゝ役場の救済をあふいでゐる(外米三升をもらつた)又学用品を給与した者は十六人であるが、昼飯の内に麦粟をまじへてゐるもの殆ど三割をしめてゐる
 罹災者二戸に就いて調べた処に依れば今年田八反歩を仕つけたが収穫はたゞ三俵である。その内一俵を小作米としてをさめた、ほかはもう食い尽くした。収入の途は炭俵を作って売るも萱代縄代を差ひけば一つ三銭五厘位のものだから一日八ッを編んでも手に取る処幾ばくもない。しかも家族は七人ある。生活の惨憺たる事は想像以上である。他の一軒を見まはつたが同様全然収入なし、職業もないので炭俵を作って居た。シウトの家から縄をもらって居ると云ってゐたが、どんな御飯をくつて居るのかとのぞいて見たら大根六分砕けた米二分粟二分位なものであった。麦買ふ金もないのである。
 三、出稼
血気の若い衆は酒つくりに出稼ぎしたが、その送金を得ていくらか助かるのであらふが、これとても一月十円を送れば関の山で罹災者の窮状は日を追うて劇しくなるだらう。
 旱害救済のために 学生が炭売り 県山林課で 木炭を提供する
在京岩手学生会が木炭を販売してその純益を旱害救済に向くべく木炭提供の交渉のため代表者佐々木猛夫君が来県したが二十日県山林課を訪ひ交渉する処あつたが山林課でも之を快諾しさし当たり県の倉庫に十車池袋組合倉庫にも相当あるので、之を提供する事となつたと来る二十六日ころ県出身者三十名の学生が車を引いて炭売りに歩くであらう

【大正15年12月23日付 岩手日報】
 米麦五石を 旱害罹災民へ 胆沢郡永岡村百岡報徳会から 本社を通じて
胆沢郡永岡村百岡の報徳会は平素会員の人格修業につとめ民の融和をはかつて村の向上発展に努力して居るが此度紫波地方旱害罹災民の窮状を本紙によつて知り有志が相寄つて自作の米麦粟等約五石を纏め本社を通じて顧問方申し出られた本社にては直ちに右穀類を全部日詰警察署の奥寺署長へ御願して各罹災者の方々へ分配する事とした

【Fig.2 大正15年12月24日付 岩手日報】

 彦部消防組から 旱害罹災民へ 藁二千五百把と 金三十円を贈る
紫波郡彦部村消防組より赤石村旱害罹災民に対して
 一、金三十円
 二、藁二千五百把
寄贈があつた…


 12月25日大正天皇崩御。そのことで憚られたのか岩手日報の紙面に旱害被害に関する報道はこの後12月中は見当たらなかった。
 
【昭和2年1月5日付 岩手日報】
 赤石罹災民の造ったむしろ 二日初荷として十三噸を積出す
紫波郡赤石村にてはかん害救済策として産業組合主となりて昨年末より製筵を奨励してゐたが二日製品十三噸を初荷として塩竈方面へ積み出した


 在京生の 炭屋さん 飛ぶやうに売れる 利益金を全部 旱害罹災者に贈る
東京岩手学生会では紫波郡赤石地方のかん害罹災者を救助すべく学生が県の木炭を販売し之が利益金を困窮に喘ぐ人たちの救済に向ける事は既報の通りであるがいよいよ?ろう二十八日から販売を開始した、二十六日から着手する筈であつたのだが大正天皇崩御のために三日間の謹慎をなし二十八日より着手した訳であるが何しろ本県社会課を始め東京社会局及び東京朝日新聞社の後援があるので非常に仕事が捗りその上市価より一俵の手前平均三十銭方安いので着手既に三百俵の前注文有り様で楽に五千俵位が十分に捌ける見込みである。なほ此の二三日は銀座、神楽坂等に夜店を開き廉売を行つてゐるがこれ又とぼやうに売れて行き学生諸君は労苦もいとはず涙ぐましい程一生懸命で罹災者のために真黒くなつて働いてゐる。なほ学生諸君
 ▲明治大学 千田?夫、昆省一、戸羽武、大内充、佐々木猛夫
 ▲早稲田大学 佐藤尚人、沢口勇平、佐々木真
 ▲日本大学 右京政次
の九氏である

【Fig.3 昭和2年1月8日付 岩手日報】

 農村経済は 全く破滅の苦境 米価の大崩落にて 肥料買入れにも困難
 ただしこの記事は日本全体の記事であり、その内容は割愛するが、米価について書いてあるのでその部分だけを拾うと
 米一石の値段
  大正13年12月 35円
   〃14年 〃  32円50銭
   〃15年 〃  31円
【Fig.4昭和2年1月9日付 岩手日報】

未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞 本社特派員調査の顛末発表
 紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く変じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は一物もなかった、なんといふ悲惨事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない、我社この哀れな同胞の実生活を調査せしむべく記者小森秀、写真班小原吉右衛門を特派したがこゝにその視察記を発表する次第である。
 赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒労に終わって収穫は皆無
 不動村は赤石村に劣らない惨害を受けたが鉄道が多少離れてゐて惨害が比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植えつけはしたが枯れて仕舞又は結実せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ数字を示し耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租免税の申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一万三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百三十戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである
 水稲のみだけでなく畑作の麦、青刈大豆等も三割以下の減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の揚水機を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百円を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく様な炎天に雨を待ちどうにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の旱害をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十円から五十円の経費を要した之とて焼石にそゝぐ様なものカン害状態視察の得能知事が
 ソウして昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出来るか
と聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については悩み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一万余円を空しく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫れ相当の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒労に帰したのみでなく更に疲弊困難に陥入るの因をなすに至った
 斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六円でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り様である、仝村に足を入れ小学校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稲がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし血を流す様な努力を重ねた結果肥料にする藁を得るに過ぎか(な?)かつた時農民の心中は如何なる思ひに満たされたことであらう
 県ではかん害救済資金として一万五百円を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助も斯くの如きは当村で馬糧にする青大豆を僅かに五反歩植えつけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植えつければ翌年の収穫に影響を及ぼすため県でイクラ種子代を補助すると参事会に代決を求め決定しても植えつけなかつたのでこの点は県の見込み違いで救済方法としては当を得なかつたが通常県会に要求の勧業奨励費二万円の追加はかん害地の衣食に窮する農民に対しては本当に救済の実を挙げることが出来るものである


 私が今まで賢治のことを約10年間ほど調べてきてとりわけ不思議なことだと感じていることの一つに、なぜこの大正15年の稗貫郡も含め、この時の紫波郡の大旱害と賢治ということに関わったことを、賢治研究家の誰一人として論じていないのかということがある。そして、今回の番組のテーマが「本当の幸いを探して 教師・宮沢賢治 希望の教室」ということであり、冒頭で「みんなの幸福を求める賢治の姿は今の時代の指針となるのか?」と問うているのだから、まさにこの大旱害に際しての賢治の対応を検証すれば、このテーマが一層深まるはずなのに、一切出てこなかったのだ。だから逆に、それを取り上げたのではこの番組は自己撞着を来してしまうからであるということを否定できない、ということを私は危惧してしまう。言い換ええば、大正15年の大旱害を取り上げないこの番組は牽強付会なものであるという誹りを免れない、と指摘をする人もいるかもしれない。

<*1:投稿者註> 農学博士卜蔵建治氏の『ヤマセと冷害』によれば、大正2年(賢治17才)の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、賢治が盛岡中学を卒業してから「下根子桜」撤退までの間に、稗貫郡が冷害だった年は全くなかったということであり、同博士は次のように、
この物語(筆者註:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(筆者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。
            〈『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~〉

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********************************《三陸支援の呼びかけ》*********************************
 東日本大震災によって罹災したが、それにも負けずに健気に頑張っている(花巻から見て東に位置する)大槌町の子どもたちを支援したいという方がおられましたならば、下記宛先に図書カードを直接郵送をしていただければ、大槌町教育委員会が喜んで受け付けて下さるはずです。新設された小中一貫校・大槌町立『大槌学園』の図書購入のために使われますので、大槌の子どもたちを支援できることになります。

 〒 028-1121
   岩手県上閉伊郡大槌町小鎚第32地割金崎126
        大槌町教育委員会事務局(電話番号0193-42―6100)
                  教育長 様   
 なお、私のところに送って頂いた場合には、責任を持って大槌町教育委員会へ私からお届けします。私の住所は、
〒025-0068     岩手県花巻市下幅21の11
 電話 0198-24-9813    鈴 木  守
です。
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