みちのくの山野草

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垣間見えてしまったこの番組の危うさ

2018-01-14 10:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
H29,11,24 20時~ BSプレミアム“英雄たちの選択”「本当の幸いを探して 教師・宮沢賢治 希望の教室」
 そして番組は、
 父親が営む質屋には生活に困った農民たちが訪れては金を工面していった。何もできない自分に感じた後ろめたさ。そんな賢治が生涯の心の支えとしたのが敬虔な仏教徒だった母親のこんな言葉だった。
 人というものは、人のために何かしてあげるために生まれてきたのす。
その後 賢治は親元を離れ、進学するために盛岡へと移り住む。18歳の時に入学した盛岡高等農林学校、東北の農業振興を目的に創られたこの学校で賢治はその後の人生を形づくるある学問と出会う。それが土壌学。凶作に苦しみ続けてきた東北の農地を改良する学問だった。岩手県一帯を蔽う火山灰を含んだ強い酸性の土壌<*1>は、稲の発育にはあまり適さないものだった。だがそこにアルカリ性の石灰岩の粉末を混ぜ、中性に近づけると稲がよく育つ豊かな土壌に作り替えることができたのである。化学の力は農村を救えるかもしれない。土壌学に魅せられた賢治は研究に没頭。農業技術者としての知識と経験を積み上げていく。
 だが、卒業を目前にした22歳の春、家業を継ぐことを巡って父と対立した賢治は東京へ出奔する。
とナレーションをした。

 それにしても、時々遭遇して私が訝しむのは例えばこの「何もできない自分に感じた後ろめたさ」だというような断定だ。推測表現であればまだしも、どうすればこのような断定表現ができるのだろうか。そして同様なことは、「土壌学に魅せられた賢治は研究に没頭。農業技術者としての知識と経験を積み上げていく」に対しても言える。まあ、「土壌学に魅せられた賢治は研究に没頭」についてならばそれほど異議を差し挟むまでもなかろうが、「農業技術者としての知識と経験を積み上げていく」ということになれば、私は悩んでしまう。
 なぜならば、かつて北海道立上川農業試験場場長だった佐々木多喜雄氏によれば、
・盛岡中学時代の賢治については、賢治の俳句や短歌において、農業についての文章は一行もない。
・高農入学前後については、盛岡中学を出ても何の目標もなかった。家業への嫌悪や父の反対で進学見込みもないことから、ノイローゼ状態になる。父は前途を憂い希望していた高農進学を許す。
 以上から推察すると、高農受験は将来農業関係の仕事を前提としてのこととは考えられない。 
・高農入学後については、賢治の高農時代の学問の目的は「冷害から農民を救うことであった」とか「東北地方の稲作は冷害を度外視しては絶対間違う」と常に言っていたとかという追想等もあるが、この時期の賢治は「農業関係にそれ程深い関心を持っていなかったとみるのが適当と考えられる。
              〈『北農』第73巻第1号(平成18年1月)、93p~〉 
ということであり、同氏は農業の専門家であるからなおさらに賢治のことをよく見抜いていると判断できるからである。つまり、「農業技術者としての知識と経験を積み上げていく」とまで果たして言い切れるのだろうか、という不安を抱いてしまう。

 そしてもっと悩ましかったのが、「だが、卒業を目前にした22歳の春、家業を継ぐことを巡って父と対立した賢治は東京へ出奔する」というナレーション部分だった。
    えっ、「卒業を目前にした22歳の春……賢治は東京へ出奔する」だって?
と私は思わず声を発してしまった。それはもちろん、このナレーションの流れでいえば、「高等農林の卒業を目前にした春、賢治は東京へ出奔」ということになり、それは歴史的事実に反するのではなかろうかという疑問が生じたからだ。あくまでも、賢治が高等農林を卒業したのは大正7年3月であり、東京に出奔したのは大正10年1月のことであるはずだからだ。

 念のために『新校本年譜』によって当時の賢治の動向を挙げてみれば、
 大正7年 22歳
  三月 盛岡高農卒、同研究生
  四月 稗貫土性調査、徴兵検査
  六月 肋膜炎
  八月 童話制作開始
  一二月 トシ看病のため上京
 大正8年 23歳
  三月 トシ平癒、帰郷
  この年 郡立農蚕講習所に出講
 大正9年 24歳
  五月 盛岡高農研究生修了
  九月 妹らと岩手山登山
  一一月 国柱会信行部入会
 大正10年 25歳
  一月 無断上京
  四月 父と関西旅行、在京中童話多作
  八月(~九月初) トシ病気の報に帰郷
  一二月 稗貫農学校教諭
           <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)>
である。「22歳の春……賢治は東京へ出奔する」という事実はない。また、賢治の「東京に出奔」とは、この『新校本年譜』における大正10年25歳の一月 無断上京のことであり、それ以外のものはないはずだ。

 さりながら、同番組はこれらの事柄を確認しなかったはずがないから、もしかするとこのナレーションは「だが、卒業を目前にした22歳の春、家業を継ぐことを巡って父と対立した。そのようなこともあって後の大正10年の1月になって、賢治は東京へ出奔する」だったのだろか。私が聞き間違えたのかな、と今度は自分を疑った。そこで、番組をもう一度見直してみたところ、やはりこの部分のナレーションは、「だが、卒業を目前にした22歳の春、家業を継ぐことを巡って父と対立した賢治は東京へ出奔する」であった。

 先の投稿〝今度は、「英雄」にされそうな賢治〟において、この番組は、賢治は「英雄」であったと受け取られかねない番組構成だということを危惧し、いくら何でもそれはなかろうと訝ったばかりだが、この、「だが、卒業を目前にした22歳の春、家業を継ぐことを巡って父と対立した賢治は東京へ出奔する」というナレーションを聞いてしまった私には、この番組にいよいよ危うさが垣間見えてしまった。

<*1:投稿者註> 何も岩手県だけが酸性土壌と限ったわけではなく、基本的には日本は酸性の土壌であるという。それは火山灰のせいもあろうが、日本は雨が多いことによるのだそうだ。しかも、多くの作物は、稲も含めてはpH5.5~6.5くらいの弱酸性~微酸性の土壌で良く育つと言われている。一概に酸性がダメだというわけではもちろんない。

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