《創られた賢治から愛すべき賢治に》
〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕吉田 それは、「文語詩未定稿」の中の詩〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕だ。
ちなみにその中身はこうだ。
そう言って吉田は本棚から『校本全集第五巻』を抜き出してきて、次の詩を荒木に見せた。 ちなみにその中身はこうだ。
最も親しき友らにさへこれを秘して
ふたゝびひとりわがあえぎ悩めるに
不純の想を包みて病を問ふと名をかりて
あるべきならぬなが夢の
(まことにあらぬ夢なれや
われに属する財はなく
わが身は病と戦ひつ
辛く業をばなしけるを)
あらゆる詐術の成らざりしより
我を呪ひて殺さんとするか
然らば記せよ
女と思ひて今日までは許しても来つれ
今や生くるも死するも
なんぢが曲意非礼を忘れじ
もしなほなれに
一分反省の心あらば
ふたゝびわが名を人に言はず
たゞひたすらにかの大曼荼羅のおん前にして
この野の福祉を祈りつゝ
なべてこの野にたつきせん
名なきをみなのあらんごと
こゝろすなほに生きよかし
<『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)226p~より>ふたゝびひとりわがあえぎ悩めるに
不純の想を包みて病を問ふと名をかりて
あるべきならぬなが夢の
(まことにあらぬ夢なれや
われに属する財はなく
わが身は病と戦ひつ
辛く業をばなしけるを)
あらゆる詐術の成らざりしより
我を呪ひて殺さんとするか
然らば記せよ
女と思ひて今日までは許しても来つれ
今や生くるも死するも
なんぢが曲意非礼を忘れじ
もしなほなれに
一分反省の心あらば
ふたゝびわが名を人に言はず
たゞひたすらにかの大曼荼羅のおん前にして
この野の福祉を祈りつゝ
なべてこの野にたつきせん
名なきをみなのあらんごと
こゝろすなほに生きよかし
荒木 へえ~これって、さっきの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕の雰囲気とよく似た雰囲気の詩だな。
吉田 やはりそう思うだろう。まして、この「校異」を見てみると、ほらここにはこう書いてある。
荒木 そっか、「最も親しき友ら」とは藤原嘉藤治のことだったのか。
吉田 そう。そして、この中の「汝ふたゝび不純の想を/包みて病を問ふと来り」という表現がもし事実に即したものであるとするならば、この時ある女性は病気見舞ということで賢治の許を実際訪ねて来たことになる。
鈴木 ということは、これらの二つの詩が同一のモチーフを詠んだものであれば、昭和6年にこの女性は実際に賢治のところに見舞に来ていた可能性が大となるというわけか。
荒木 それじゃ先ずはちょっと分析してみっぺ。これらの二つの詩を較べてみるとどう対応するか。ちょっと待てよ……
鈴木 しかも、今『宮沢賢治必携』を見てみたのだが、それによれば、
とあるから、昭和6年10月24日付の〔聖女のさましてちかづけるもの〕とも時代的にも重なっている。
昭和6年10月賢治をある女性が見舞った 体温朝より三十八度なれども
絶対の安静を要するにより
藤原にさへこれを秘して
わがあえぎ悩めるに
汝ふたゝび不純の想を
包みて病を問ふと来り
訪ふはあるべきならぬなが夢のねがひ
然らば記せよ
女と思ひて今日まで許しても来つれ
今や生くるも死するも
なんじが曲意非礼を忘れじ
…(略)…
<『校本宮澤賢治全集第五巻』(筑摩書房)818p~より>絶対の安静を要するにより
藤原にさへこれを秘して
わがあえぎ悩めるに
汝ふたゝび不純の想を
包みて病を問ふと来り
訪ふはあるべきならぬなが夢のねがひ
然らば記せよ
女と思ひて今日まで許しても来つれ
今や生くるも死するも
なんじが曲意非礼を忘れじ
…(略)…
荒木 そっか、「最も親しき友ら」とは藤原嘉藤治のことだったのか。
吉田 そう。そして、この中の「汝ふたゝび不純の想を/包みて病を問ふと来り」という表現がもし事実に即したものであるとするならば、この時ある女性は病気見舞ということで賢治の許を実際訪ねて来たことになる。
鈴木 ということは、これらの二つの詩が同一のモチーフを詠んだものであれば、昭和6年にこの女性は実際に賢治のところに見舞に来ていた可能性が大となるというわけか。
荒木 それじゃ先ずはちょっと分析してみっぺ。これらの二つの詩を較べてみるとどう対応するか。ちょっと待てよ……
聖女のさましてちかづける ⇔ 不純の想を/包みて病を問ふと来り
たくらみすべてならずとて ⇔ あらゆる詐術の成らざりしより
いまわが像に釘うつとも ⇔ 我を…殺さんとするか
あゝみそなはせ ⇔ なんぢが曲意非礼を忘れじ
われに土をば送るとも ⇔ 我を呪ひて…
たゞひとすじのみちなれや ⇔ こゝろすなほに生きよかし
ざっと見ただけでもこれだけの対応ができるんじゃないかな。その可能性はありだな。たくらみすべてならずとて ⇔ あらゆる詐術の成らざりしより
いまわが像に釘うつとも ⇔ 我を…殺さんとするか
あゝみそなはせ ⇔ なんぢが曲意非礼を忘れじ
われに土をば送るとも ⇔ 我を呪ひて…
たゞひとすじのみちなれや ⇔ こゝろすなほに生きよかし
鈴木 しかも、今『宮沢賢治必携』を見てみたのだが、それによれば、
文語詩制作開始は昭和4年12月頃で、昭和5年8月以降のある時、明確な目的意識のもとに文語詩制作へ向かったと推定できる。
<『宮沢賢治必携』(佐藤泰正・編、學燈社)83pより>とあるから、昭和6年10月24日付の〔聖女のさましてちかづけるもの〕とも時代的にも重なっている。
吉田 なっ、だからこの二つの詩は、昭和6年の病臥中の賢治の許にわざわざ見舞に来た同一の女性に対して、あろうことか「訪ふはあるべきならぬなが夢のねがひ」とさえ言い放って、その女性に憎しみと苛立ちをぶっつけた詩である可能性がすこぶる高い。
鈴木 待て待て、この前後といえば、私たちの結論に基づいて時系列で並べれば
いままでは、この10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕の詠まれ方があまりにも不自然だと思っていたが、こうなってくると何かが少しずつ見え出してきたような気がする。
さっき荒木と吉田がそれぞれ、
一般的に言えば実は振られた男の恨み節のそれ
とか、
吉田 これにはさ、さらに伏線があると思うんだな…。
荒木 それはまたどんなだ。
鈴木 待て待て、この前後といえば、私たちの結論に基づいて時系列で並べれば
昭和6年9月28日 :東京から花巻に戻り、病臥。
同 年10月4日 :「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
同 年10月6日 :「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの〕
推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
推定同時期 :賢治をある女性が見舞っていた。
同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ〕
ということになる。同 年10月4日 :「夜、高瀬露子氏来宅の際、母来り怒る。露子氏宮沢氏との結婚話」
同 年10月6日 :「高瀬つゆ子氏来り、宮沢氏より貰ひし書籍といふを頼みゆく」
同 年10月24日:〔聖女のさましてちかづけるもの〕
推定同時期 :〔最も親しき友らにさへこれを秘して〕
推定同時期 :賢治をある女性が見舞っていた。
同 年11月3日 :〔雨ニモマケズ〕
いままでは、この10月24日付〔聖女のさましてちかづけるもの〕の詠まれ方があまりにも不自然だと思っていたが、こうなってくると何かが少しずつ見え出してきたような気がする。
さっき荒木と吉田がそれぞれ、
一般的に言えば実は振られた男の恨み節のそれ
とか、
実は案外、二人の関係は巷間伝わっているような立場とは全く逆であったという可能性があるな。
と言ったことが私にも少しわかりかけてきたぞ。吉田 これにはさ、さらに伏線があると思うんだな…。
荒木 それはまたどんなだ。
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