みちのくの山野草

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㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治

2017-05-31 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』














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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 ㈢「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
 さて、「賢治精神」を実践したと言われる松田甚次郎は、その実践報告書を『𡈽に叫ぶ』と題して昭和13年に出版し、それが一躍大ベストセラーとなった。その巻頭「一 恩師宮澤賢治先生」を彼は次のように書き始めている。
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。   
<『𡈽に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p>
 そこで私は思った、新聞が連日報道し、甚次郎がわざわざこのような慰問をしたということだから、その旱魃による被害は相当深刻なものであったであろうと。
 そこでまずは「旧校本年譜」を調べてみたのだが、「赤石村」についての註釈も、この「旱魃」に関する記述もともに私には見つけられなかった。だがそのヒントはあった。それは、同
年譜の昭和二年三月八日の項に、
「松田甚次郎日記」には次の如く記されている。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
9. for mr 須田 花巻町
11.5,0 桜の宮沢賢治氏面会
1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
2. 生活 其他 処世上
[?]pple
2.30. for morioka 運送店
という記載があったからだ。そうか、甚次郎は当時日記を付けていたのか。しかし、ここには同日に赤石村を慰問したことは記されていないではないか。何かおかしい……
 ということであればと、私は甚次郎の日記を見せてもらおうと思って甚次郎の出身地山形の新庄に向かった。幸い、甚次郎の当時の日記を見ることができ、大正15年の彼の日記を見たならばその12月25日には次のようなことなどが書かれていた。
 9.50 for 日詰 下車 役場行
 赤石村長ト面会訪問 被害状況
 及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
 国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
 分配、二戸訪問慰聞 12.17
 for moriork ? ヒテ宿ヘ
 後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
 at room play 7.5 sleep
 赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
 聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
 人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
 タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
 明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
 余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
 困ツタモノデシタ
 快晴  赤石村行 大行天皇崩御
           <大正十五年の『松田甚次郎日記』より>
 したがって、この日記によれば、
 甚次郎は大正15年12月25日、旱害によって苦悶していた赤石村を慰問していた。しかし同日に花巻を訪れることはなく、そのまま盛岡に帰った。
ということが解るから、前掲引用文の「昭和二年三月……その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」とは辻褄が合わなくなる。これは一体どういうことか。
 そこで次に昭和二年の日記で確認してみたところ、三月八日の項に赤石村を慰問したとはやはり記されていなかった。よって、同村を慰問したのは大正15年12月25日の一回限りと判断できるから、巻頭の「先生の訓へ」で彼は取り繕ってしまったのだろう。それは、『𡈽に叫ぶ』を始めとする彼のいくつかの著作からは賢治に対する深い崇敬の念があることがよく解るからそこに甚次郎の悪意があった訳ではなく、この日は大正天皇が崩御した日だから、おそらくそのことを憚って甚次郎は巻頭でこのように取り繕ってしまったのだろうと推測できた。
 結局、甚次郎は昭和二年三月八日に赤石村を慰問していなかったと結論できて、これで疑問の一つは一応解消した。ただし、もう一つの疑問が残った。当然、甚次郎が「毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた……この村を見舞つた」というくらいだから、この時の同村の旱魃被害は甚大であり、かつその惨状は広く知られていたということになるだろう。ならば、「下根子桜」に移り住んだ賢治は「貧しい農民たちのために献身的に活動しようとしていた」と思っていた私から見れば、まさにそのような活動を賢治が展開するにふさわしい絶好の機会だったはずだがそれが為されてはいなかったのではなかろうか、という疑問がである。
 そこで、同年の旱害に関する当時の新聞報道等を調べてみると、『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていた。そして12月に入ると、赤石村を始めとする紫波郡内の旱魃による惨状がますます明らかとなる一方で、例えば、
◇大正15年12月7日付『岩手日報』
 村の子供達にやつて下さい 紫波の旱害罹災地へ人情味豐かな贈物
という見出しの記事があったり、
◇同年12月15日付『岩手日報』
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を経るに随ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感涙してゐる數日前東京浅草区森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の學校で今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった。
というような記事が連日のように載ったりしていて、東京の小学生を始めとしてあちこちから陸続と救援の手が「本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」へ差し伸べられていたことが分かる。
 そして次のように同年12月22日付『岩手日報』には、
 米の御飯をくはぬ赤石の小學生
    大根めしをとる哀れな人たち
という見出しの記事があったから、おそらく甚次郎はこの新聞報道を見て居ても立ってもいられなくなって、同月25日に赤石村を慰問したに違いない。
 そして、この旱害の惨状等は年が明けて昭和2年になってからも連日のように報道されていて、例えば同年1月9日付『岩手日報』には左のように、トップ一面をほぼ使っての大旱害報道があり、その惨状が如実に伝わるものであった。しかもそれは、紫波郡の赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村も同様であったことが分かるものだった。
 ではこの年、稗貫郡の場合はどうだったのだろうか。まず菊池信一の「石鳥谷肥料相談所の思ひ出」には、
 旱魃に惱まされつゞけた田植もやつと終つた六月の末頃と記憶する。先生の宅を訪ねるのを何よりの樂しみに待つてゐた日が酬ひられた。
<『宮澤賢治硏究』(草野心平編、十字屋書店、昭14)417p>
と述べられていることから、菊池の家がある稗貫郡好地村でも旱魃がかなり酷かったということが導かれるので、あの賢治のことだ、この年の旱魃は稗貫一帯でも早い時点から起こっていることを当然把握していたはずだ。
 その他にも、例えば大正15年10月27日付『岩手日報』には、
(花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模樣
とか、花巻の米商連の昨今の検査によれば、
 粒がそろはぬのに以て來て乾そうがあまりよくない、之は収穫期に雨が多かつたのと諸所に稻熱病が發生したためで二等米が大部分である
ということを報じていたから、賢治は稗貫郡下の旱害等による稲作農家の被害の深刻さもよく知っていたはずだ。
一方、9月末時点で既に、大正15年の県米の収穫高は「最凶年の大正十(ママ)二年に近い収穫らしい」と、そして11月上旬になると前年に比しそれは「二割二分二十五萬石の夥しい減少となり」そうだという予想がそれぞれ『岩手日報』で報じられていた。
 よって、巷間伝えられているような賢治であったならばこの時には上京などはせずに故郷に居て、地元稗貫のみならず、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の紫波郡内の農民救済のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたであろうことが充分に考えられる。
 ところが実際はそうではなくて、12月中はほぼまるまる賢治は滞京していたのだから、上京以前も賢治はあまり「ヒデリ」のことに関心は示していなかったようだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったと、残念ながら客観的には判断せねばならないようだ。
 ちなみに、大正15年の岩手県産米の作柄がどうだったのかというと、『岩手県災異年表』(昭和13年)によれば、
  大一四年 豊作  米の反当収量 二石一斗七升
  大一五年 不作
  昭和四年 不作
  昭和六年 不作   
  昭和八年 豊作  米の反当収量 二石二斗五升
  昭和九年 凶作
となっている。そして、不作と凶作年の場合の稗貫郡及びその周辺郡の、当該年の前後五ヶ年の米の反当収量に対する偏差量を同年表から拾って表にしてみると、次頁の《表3 当時の米の反当収量》のようになる。
 よって同表より、赤石村の属する紫波郡の大正15年の旱害は相当深刻なものだったということが改めて分かるし、稗貫郡でも確かに米の出来が悪かったということもまた同様に分かる。
 そこで、「下根子桜」に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等を始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものは何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、伊藤克己の次のような証言だった。
  その頃の冬は樂しい集 りの日が多かつた。近村
の篤農家や農學校を卒
  業して實際家で農業を
やつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙に靑く謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は黑板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(筆者略)…私達は湯を沸したり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。…(筆者略)…
 そしてその前に私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集りも不定期になつた。それは或日の岩手日報の三面の中段に寫眞入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時は思想問題はやかましかつたのである。
 先生は其の晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いでは濟まないと云う事だつた。
  <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)395p~>
 さて、伊藤が語るところの「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」の「その頃の冬」とは何年の何月頃のことだろうか。まずは、彼が語っているこのような「樂しい集り」が行われたのは昭和2年の4月頃以降ではなかろう。それ以降の賢治は、農民等に対しては肥料設計などの稲作指導しかほぼ行っていなかった言われているからである。とすれば、それ以前の冬にこのような事柄が行われたであろうし、『新校本年譜』等によれば、大正15年12月頃~昭和2年1月頃の間の賢治の動向は、
◇大正15年
11月29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月1日 羅須地人協会定期集会? 持寄競売を行う
12月2日 上京
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
     エスペラント、タイプライター、オルガン習
     得図書館通い、築地小劇場や歌舞技座の観劇
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼
12月29日 帰花
◇昭和2年
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊     藤直美等来訪
1月10日 羅須地人協会講義? 農業ニ必須ナル化学ノ基     礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱
2月1日 『岩手日報』の報道を境にして活動から手を      引いていった。
ということだから、「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」というところの「冬」とは本来ならば大正15年11月末頃~昭和2年1月末頃の間となろうが、この場合それはもっと限定されてしまって、伊藤が「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」という期間は、実質的には昭和2年1月の約1か月間のことであるとなってしまうであろう。
 なぜならば、その冬の12月中の賢治はほぼ滞京していたし、明けて昭和2年の2月1日は「悲しい日がきてゐた」ということでもはやそれ以降は楽しい集りになり得なかった、と判断できるからである。
 したがって、トップ一面を使って隣の紫波郡一帯の大旱害の惨状が大々的に報道されていたような昭和2年1月頃に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集りの日」を持ってはいたが、彼等がこの大旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりしたとはどうも言い難いようだ。少なくとも伊藤克己はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。
 また、賢治がそのために東奔西走していたとすれば、それは農聖とか聖農とも云われている賢治にまさにふさわしい献身だから、当然そのような賢治の献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだがいくら調べてみても、残念ながらそのような証言等を誰一人として残していない。
 一方で、「下根子桜」に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない。せいぜい、昭和2年4月1日付〔一昨年四月来たときは〕の中に、「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」が見つかるだけだ。
 よって極めて残念だが、「羅須地人協会時代」の出来事であった大正15年のヒデリ、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村・不動村・志和村等の未曾有の大旱害罹災に対して、賢治が救援活動等をしたということを示す証言等は一切見つからないということであり、どうやら、「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治がそこに居たということになってしまった。
 すると、賢治はこの大旱害に対してほぼ無関心でいたということにもなってしまう。延いては、
 少なくともこの当時の賢治も羅須地人協会も、そしてその活動も地域社会とはリンクしていなかった。
という、思いもよらぬ結論を出さざるを得なくなってしまいそうだ。だから当然、この無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていき、その慚愧が〔雨ニモマケズ〕に繋がっていったのではなかろうかということを、私は今考えている。
 なお、昭和3年の40日を超える夏のヒデリの時にも実は「涙ヲ流シ」たとまでは言えないということが、よくよく調べてみたならば分かった。だから、「羅須地人協会時代」の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えそうにない。
  (詳細は拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を参照されたい)
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