みちのくの山野草

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㈡「大正15年12月2日の上京」の牽強付会

2017-05-30 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』




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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 ㈡「大正 年 月 日の上京」の牽強付会
 今度は『新校本年譜』の次の記載、
(大正15年)一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい
についてだが、この註釈として
 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
とあり、これもおかしい。その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」とか、まるで思考停止したかの如き註釈がされているからだ。
 次に、その「関『随聞』二一五頁」を実際に見てみると、
 昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。  
<『賢治随聞』(関登久也著、角川書店)215p>
という澤里武治の証言が載っているから更に愕然とする。
 それはまず、『新校本年譜』の引用文において肝心の「少なくとも三か月は滞在する」の部分がするりと抜け落ちているからである。さらには、この証言の最後の部分「先生は三か月間の…帰郷なさいました」の「三か月間」の滞京を同年譜の大正15年12月2日以降に当て嵌めようとしても、下段の《表2 「現 宮澤賢治年譜(抜粋)」》から明らかなようにそれができないことにも気付くからである。この記載には致命的な破綻がある。
 つまり、典拠としている「関『随聞』二一五頁」そのものがこの「要約」の反例となっているから、武治一人に見送られながら同日に上京したということは事実とは言えず、この記載は当然即刻棄却されるべきもの。ところが、実際にはそれが為されていないので、そこでは牽強付会なことが行われているということがはしなくも露呈している。
(詳細は拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』を参照されたい)
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