みちのくの山野草

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㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」

2017-06-01 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』












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 ㈣ 誤認「昭和二年は非常な寒い氣候…ひどい凶作」
 不思議なことに、昭和2年の賢治と稲作に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示せずに次のようなことを断定表現を用いて述べている。
(1) その上、これもまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年:筆者註)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。   <『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、
翰林書房)152p>
 私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(筆者略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。                  <同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
 <『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。     <『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)78p>
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
    <『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)所収の年譜より>
(5) (昭和二年は)田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
  <『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)77p>
(6) 昭和二年(1927 年)は未曽有((ママ))の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました…(筆者略)…」とある。
<帝京平成大学石井竹夫准教授の論文より>
(7) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
 中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。
      <『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)89p>
(8) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p>
 つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」という断定にしばしば遭遇する。
 しかし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、そこに記載されている天候(この日誌を基にして作成した《「羅須地人協会時代」の花巻の天候一覧》を巻末資料に掲げてある)に基づけばこれらの断定はおかしいと直感した。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それ故、私はその典拠を推測するしかないのだが、『新校本年譜』には、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年)317p>
と述べているから、これが、あるいは引例の「孫引き」がその典拠と言えそうだ(私が調べた限り、これ以外に前掲の「断定」の拠り所になるようなものは見当たらないからだ)。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、この、いわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
 ところが、先の『阿部晁の家政日誌』のみならず福井自身が発行した『岩手県気象年報』(〈註一〉)(岩手県盛岡・宮古測候所)や「稻作期間豊凶氣溫(〈註二〉)」(盛岡測候所、昭和2年9月7日付『岩手日報』掲載)、そして、『岩手日報』の県米実収高の記事(〈註三〉)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを実証できる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
 だからおそらく、常識的に考えて、『新校本年譜』等はこの福井の証言の裏付けを取っていなかったということになろう。また、おのずから、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」訳でもなければ「昭和二年は未曾有の大凶作」だった訳でもなかったので、前掲の断定表現の引用文も同様に事実誤認だったということになり、これらの論考等においてこの誤認を含む個所は当然論理が破綻してしまい、修正が迫られることになるのではなかろうか。
(詳細は、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において実証的に考察し、それを詳述してあるので参照されたい)

 なお、賢治が盛岡中学を卒業してから「下根子桜」撤退までの間に、稗貫が冷害だった年は全くなかったことは農学博士ト蔵建治氏も次のように、
 この物語(筆者註:「グスコーブドリの伝記」)が世に出るキッカケとなった一九三一年(昭和六年)までの一八年間は冷害らしいもの「サムサノナツハオロオロアルキ」はなく気温の面ではかなり安定していた。…(筆者略)…この物語にも挙げたように冷害年の天候の描写が何度かでてくるが、彼が体験した一八九〇年代後半から一九一三年までの冷害頻発期のものや江戸時代からの言い伝えなどを文章にしたものだろう。  <『ヤマセと冷害』(ト蔵建治著、成山堂書店)15p~>
と指摘している通りである。また、昭和六年は確かに岩手全体はかなりの冷害だったが、稗貫はそれどころか平年作以上であったことは先に掲げた《表3 当時の米の反当収量》(12p)から明らかである。それ故、賢治は実質的には冷害を経験したことは結局ないとも言える。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれまた実はできなかったのだった。つまり、「羅須地人協会時代」の賢治は客観的には、
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
というようなことはしなかったし、
サムサノナツハオロオロアルキ
しようにもそのようなことはできなかったのだった。

<註一> 福井規矩三発行の『岩手県気象年報』に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温をグラフ化してみると次頁の《図2 花巻の稲作期間気温》となるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えず、これは盛岡測候所長福井の誤認であったことが一目瞭然であろう。そもそも大正15年も昭和3年も共に旱魃傾向の年だったのだが、この両年のデータと昭和2年のそれとを比べてみれば昭和2年の場合がその中では一番気温の高いことがわかるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」ということはあり得ない。言い換えれば、福井自身発行の著書が福井の先の証言は彼の単なる記憶違いであったということを教えている。
 また、次頁の《図3 岩手県米実収高》は、岩手県米の大正11年~昭和6年の実収高であり、昭和2年は反収1.93石だから、「昭和二年は……ひどい凶作であつた」などということも決してあり得ない。
  《図2 花巻の稲作期間気温》
  《図3 岩手県米実収高》

 つまり、昭和2年の稲作期間の気温は高かったのである。   だから、
<註三> 昭和2年の岩手県内の米の実収高については、昭和3年
1月22日付『岩手日報』に載っていて、次表の通りであった。
│   《表5 昭和2年 岩手県米実収高》 │
│    │ 作付面積│ 収穫高  │ 反別収穫高│
│ 昭和2年│ 54,904町│ 1,061,578石 │  1.9335石│
│ 大正15年│ 53,805町│ 947,472石 │  1.7609石│
│ 5年平均│ 53,705町 │ 1,053,120石 │  1.9609石│
ここで、
   1,061,578÷947,472=1.120
   1,061,578÷1,053,120=1.008
   前年比収穫高は1割2分増
   5年平均収穫高では8厘増
と言える。
 ただし反別収穫高で比べると、
   1.9335÷1.9609=0.986 
    (作況指数は99となる)
となるので、
 県全体としては平年作より0.8%の増収。
 同じく作況指数は99、作柄は平年作であった。
と判断していいだろう。
 そして、昭和2年の稗貫郡とその周辺の郡の水稲実収高は、
│ 《表6 昭和2年 紫波・稗貫・和賀郡の水稲》単位:石│
│ 郡│ 水稲第二回豫想│  実収高(粳+糯)  │ 比較増減│
│ 紫波│  118,887  │ 109,301+ 9,016=118,317│  △570│
│ 稗貫│  110,881  │ 101,485+ 9,652=111,137│   256│
│ 和賀│  113,035  │ 100,371+10,949=111,320│ △1 ,715│
となっていたので、紫波郡や和賀郡は実収高が第二回豫想よりも減っているが、稗貫郡は逆に増えていることが判った。
 これで、稗貫郡の水稲の前年実収穫高は同年10月1日付『岩手日報』の報道から103,890石であることが判るので、同郡については、
   昭和2年実収高111,137―前年収穫高103,890=7,247
    7,247÷103,890=0.0698
となり、前年より約7%の増収であったということが確定した。したがって、昭和2年の稲作については、
 岩手県はもちろんのこと、稗貫地方も、「昭和二年は……ひどい凶作であつた」というようなことは決してなかった。
ということが判った。
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