みちのくの山野草

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なぜ賢治は一年前に下根子桜にやって来たのか

2015-06-06 09:00:00 | 昭和2年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
距離を埋められずにいる賢治
 さて、この4月に賢治が詠んだであろう詩の中で気になったものとして次のようなものもあった。  
     午       一九二七、四、二〇、
   ひるになったので
   枯れたよもぎの茎のなかに
   長いすねを抱くやうに座って
   一ぷくけむりを吹きながら
   こっちの方を見てゐるやうす
   七十にもなって丈六尺に近く
   うづまいてまっ白な髪や鬚は
   まづはむかしの大木彫が
   日向へ迷って出て来たやう
   日が高くなってから
   巨きなくるみの被さった
   同心町の石を載せた屋根の下から
   ひとりのっそり起き出して
   鍬をかついであちこち見ながら
   この川べりをやって来た。
   おまへの畑は甘藍などを植えるより
   人蔘やごぼうがずっといゝ
   おれがいゝ種子を下すから
   一しょに組んで作らないかと
   さう大声で云ひながら
   俄かに何を考へたのか
   いままで大きく張った眼が
   俄かに遠くへ萎んでしまひ
   奥で小さな飴色の火が
   かなりしばらくともってゐた
   それから深く刻まれた
   顔いっぱいの大きな皺が
   氷河のやうに降りて来た
      それこそは
      時代に叩きつけられた
      武士階級の辛苦の記録、
      しかも殷鑑遠からず
      たゞもうかはるがはるのはなし
   折角の有利な企業への加入申込がないので
   老いた発起人はさびしさうに、
   きせるはわづかにけむりをあげて
   やっぱりこっちをながめてゐる

               <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
というのは、この詩の字面に従うと、賢治はこの「まっ白な髪」が折角みずから近づいてきて、親切に「にわか百姓」の賢治に良かれと思って相談を持ちかけたというのに、賢治はそれをあっさりと断ったとも思われるからである。とりわけ、賢治は農民の中に入って行かねばならなかったはずなのにそれもできないというのに、折角近づいてきた農民に対してさえも距離を縮められずにいる。そして、それを冷めた目で見ながら詩に詠んでいる賢治がいる。これでは溝は埋められない。

これが「労農詩」というものか
 そして、次が
一〇四六    悍馬          一九二七、四、二五、
   封介の廐肥つけ馬が、
   にはかにぱっとはねあがる
   眼が紅く 竜に変って
   青びいどろの春の天を
   あせって掻いてとらうとする
   廐肥が一っつぽろっとこぼれ
   封介は両手でたづなをしっかり押へ
   半分どてへ押つける
   馬は二三度なほあがいて
   やうやく巨きな頭をさげ
   竜になるのをあきらめた
     雲ののろしは四方に騰り
     萓草芽を出す崖腹に
     マグノリアの花と霞の青
   ひとの馬のあばれるのを
   なにもそんなに見なくてもいゝ
   おまへの鍬がひかったので
   馬がこんなにおどろいたのだと
   こぼれ廐肥にかゞみながら
   封介はしづかにうらんで云ふ
   封介は一昨日から
   くらい厩で熱くむっとする
   何百把かの廐肥をしばって
   すっかりむしゃくしゃしてゐるのだ

               <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
であった。このような詩が「労農詩」というものなのだろうか。
 伊藤忠一によれば、当時賢治は農民詩に関心を持っていたはずで、それは下根子桜の別宅で賢治が労農詩の本質を講義したということを語っているこの伊藤の「勞農詩論三講」(『イーハトーヴォ 第四號』(宮澤賢治の會))から窺えるからだ。ところが、そのような詩の一篇だと思われるこの詩〈悍馬>からは、私はそれが見出せない。そこからは、「本物の百姓」に対する賢治の愛情や親密さや連帯感が、まして「おれたちはみな農民である」という賢治の気概は殆ど読み取れないからだ。しかしそれもこれもどうやら私の誤解が元であり、賢治の言うところの「労農詩」とは「農事詩」のことでもなければまして坂本遼渋谷定輔などが詠んだような「農民詩」では少なくともないということなのだろう。

賢治の詩における虚構
 そして最後に次の詩を揚げたい。
一〇四八    〔レアカーを引きナイフをもって〕    一九二七、四、二六、
   レアカーを引きナイフをもって
   この砂畑に来て見れば
   うら青い雪菜の列に
   微かな春の霜も下り
   西の残りの月しろの
   やさしく刷いたかほりも這ふ
   しからばぼくは今日慣例の購買者に
   これを配分し届けるにあたって
   これらの清麗な景品をば
   いかにいっしょに添へたらいゝか
   しばし腕組み眺める次第
   すでにひがしは黄ばらのわらひをけぶし
   針を泛べる川からは
   温い梵の呼吸が襲ふ

               <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)より>
この詩には「ぼくは今日慣例の購買者に/これを配分し届けるにあたって」と詠まれてはいるが、これが現実にあったか、できたかとなると今まで考察してきた限りによれば「否」と言わざるを得ない。つまり、この詩〈〔レアカーを引きナイフをもって〕〉には虚構があるようだ。そしてもちろん、詩に虚構があるのことは何ら問題はない…はずである。さりながら、賢治の実態をある程度知ってしまったと思っている今の私は、下根子桜時代に詠まれた詩に限っては、もしそこに虚構があるということがわかってしまうともはやこれまでとは違って感動が薄いものになってしまった。

なぜ賢治は一年前に下根子桜に来たのか
 さて、賢治が4月に詠んだであろう詩を瞥見し、その中で気になった詩について述べたいことはほぼこれで終わるが、改めて感ずることは、一体賢治は一年前、どうしてわざわざ花巻農学校の教員を唐突に辞めてしかも下根子桜にやって来たのだろうか、ということが私にとってはますます理解が不能となったことだ。強いて言えば、この3月、4月にかけての詩の創作の旺盛さを敷衍すれば、賢治がそうしたのは結果的には「創作」のためだっのだ、と今の時点での私は思っているということだけだ。

 なおもう一つ、4月に詠んだであろう詩に関して述べたいことがあり、それはその頃の賢治の心の中を大きく占めていたことの一つに高瀬露があったのではなかろうかということであるが、それは次回へ。 

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