みちのくの山野草

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㈠「独居自炊」とは言い切れない

2017-05-29 10:00:00 | 「羅須地人協会時代」検証
            『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』


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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
  2.「賢治神話」検証七点
 それでは、常識的に考えればこれはおかしいと思われ、しかも検証してみたところやはりおかしかったものの中から主だったものをいくつか具体的に取り上げてみたい。

 ㈠「独居自炊」とは言い切れない
 私が最初におかしいと思ったのは「旧校本年譜」の「大正15年7月25日」の記述、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
だった。この記述に従えば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったとは言い切れないので「通説」とは異なることになるからだ。
 そこで、千葉恭なる人物のこと知りたいと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかも、その出身地さえも含めて、恭自身のことに関しては『校本宮澤賢治全集』に殆ど何も書かれていない。となれば自分で調べるしかない。幸いその結果、恭に関して出身地はもちろんのこと、穀物検査所を辞めた日及び復職した日、賢治から肥料設計をしてもらっていたこと、例の楽団ではマンドリン担当だったことなども明らかにできた。
 また、
〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
を立ててみたところその検証もできたのだった。そして実際、恭は「私が炊事を手傳ひました」とか「私は寢食を共にしながらこの開墾に從事しました」(『四次元7号』(宮澤賢治友の會)15p~)とはっきり証言もしていた。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないことになるし、恭のことが今まで意識的に無視されてきたのではないかと思わないでもない。
(詳細は拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』を参照されたい)
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