いままでのこと、これからのこと。
1. 私は以前、千葉恭に関する次のような仮説
2. その後はついこの前まで、定説とは異なる
実は賢治は少なくとも10回は東京に行っていた。
ということになる。
3. 翻ってみるにどうして私は前述のような仮説を立ててその検証をしてきたのかというと、私は地元に住んでおりながらあまりにも賢治の下根子桜時代に関して知らなさすぎたからである。しかし、この下根小桜時代に関しては相も変わらず分からぬことが私の前にはまだ沢山横たわっている。その代表の一つが「定説の高瀬露」であり、このことは以前からずっと気掛かりであったことでもある。
そこで、あるきっかけもあってこれからは高瀬露に関して再度考えていってみたいと思っている。なおこの件に関しては途中でうっちゃっておいた『賢治初期資料集成』シリーズの中の〝『イーハトーヴォ(第一期)』より(#3)〟を再開してその続きとして考えてみようと思っていたのだが、少し方向転換をしたい。
ところで先ほど述べたあるきっかけとは、この度やっと上田哲氏の論文『「宮澤賢治伝」の再検証(二)』を入手できて、以前から私も高瀬露に対する扱い方はあまりにもアンフェアなことが多くてまずいのではなかろうかと思っていたのだが、この上田氏の論文を読んでなおさらそう思ったことと、さらには最近ある人との会話で〝tsumekusa〟さんという方の開設した力作ブログ
「猫の事務所」調査書
が話題になったことの二つである。
そこでの〝tsumekusa〟さんの努力と勇気に敬意を表すために、私も〝tsumekusa〟さんを見習って、高瀬露が謂われない中傷を受けていることに微力ながら抗議の姿勢を示すために新たに拙ブログにカテゴリー
『露に対する謂われなき中傷』
を設け、しばし高瀬露に関する私論を少しずつ展開してみたいと考えている。
具体的には、いままでいろいろな書籍などを通じて高瀬露に関する証言などを知った結果、実は高瀬露は悪女でないことはもちろんのこと、まさしく聖女であったと考えた方がより真実に近いのではなかろうかと最近は思えるようになってきているのだが、とりあえずはまず仮説
高瀬露は悪女ではない。……♥
を立ててしばしこの検証に、亀の歩みとなるとは思うだがチャレンジしてみたい。結果的には
実は高瀬露はまさしく聖女であった。
という結論に達するのではなかろうか、と思いつつ。
4. というわけで、まずは以前〝『イーハトーヴォ(第一期)』より(#3)〟で投稿した内容を以下に再掲しておきたい。
一方では、そもそもはたしてこの高橋慶吾の証言をそのまま鵜呑みにしていいのだろうかという不安が私にはつきまとう。なぜなら、ここで高橋慶吾が語っていることは彼がどこまでを実際見ていて、どこからが伝聞したものなのか、それらが曖昧のままに語られているのではなかろうかと直感したからである。
つまりここで語られている次の各項目は全て事実であったり、慶吾が直接その場面にいて目の当たりにしていたりしたことかということである。中には明らかに疑問符を付けたくなるものさえある。
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1. 私は以前、千葉恭に関する次のような仮説
宮澤賢治が下根子桜の別宅で千葉恭と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月余を2人は一緒に生活していた。……♦
を立ててその検証を試みた。この検証に際しては全くと言っていいほど千葉恭自身に関する情報が乏しくて、いろいろな人の助けを借りてなんとか証言や資料を手に入れることができ、自分としては「仮説♦」の検証はある程度できたかなと思う。なお、このことについては拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』としてまとめることができた。2. その後はついこの前まで、定説とは異なる
宮澤賢治は昭和2年の11月から昭和3年の1月までの約3ヶ月間滞京、病気になって帰花した。……♠
という仮説を立ててその検証を試みてきた。こちらの場合は千葉恭の場合とは全く逆で関連する資料や証言もすこぶる多いのだが、これらをもとにして合理的に推論してゆくと私の場合には定説にはたどり着かず、この「仮説♠」の方が実は真実であったのではなかろうかという結論に達するという形で検証を終えた。そしてこのことが正しければ自ずから実は賢治は少なくとも10回は東京に行っていた。
ということになる。
3. 翻ってみるにどうして私は前述のような仮説を立ててその検証をしてきたのかというと、私は地元に住んでおりながらあまりにも賢治の下根子桜時代に関して知らなさすぎたからである。しかし、この下根小桜時代に関しては相も変わらず分からぬことが私の前にはまだ沢山横たわっている。その代表の一つが「定説の高瀬露」であり、このことは以前からずっと気掛かりであったことでもある。
そこで、あるきっかけもあってこれからは高瀬露に関して再度考えていってみたいと思っている。なおこの件に関しては途中でうっちゃっておいた『賢治初期資料集成』シリーズの中の〝『イーハトーヴォ(第一期)』より(#3)〟を再開してその続きとして考えてみようと思っていたのだが、少し方向転換をしたい。
ところで先ほど述べたあるきっかけとは、この度やっと上田哲氏の論文『「宮澤賢治伝」の再検証(二)』を入手できて、以前から私も高瀬露に対する扱い方はあまりにもアンフェアなことが多くてまずいのではなかろうかと思っていたのだが、この上田氏の論文を読んでなおさらそう思ったことと、さらには最近ある人との会話で〝tsumekusa〟さんという方の開設した力作ブログ
「猫の事務所」調査書
が話題になったことの二つである。
そこでの〝tsumekusa〟さんの努力と勇気に敬意を表すために、私も〝tsumekusa〟さんを見習って、高瀬露が謂われない中傷を受けていることに微力ながら抗議の姿勢を示すために新たに拙ブログにカテゴリー
『露に対する謂われなき中傷』
を設け、しばし高瀬露に関する私論を少しずつ展開してみたいと考えている。
具体的には、いままでいろいろな書籍などを通じて高瀬露に関する証言などを知った結果、実は高瀬露は悪女でないことはもちろんのこと、まさしく聖女であったと考えた方がより真実に近いのではなかろうかと最近は思えるようになってきているのだが、とりあえずはまず仮説
高瀬露は悪女ではない。……♥
を立ててしばしこの検証に、亀の歩みとなるとは思うだがチャレンジしてみたい。結果的には
実は高瀬露はまさしく聖女であった。
という結論に達するのではなかろうか、と思いつつ。
4. というわけで、まずは以前〝『イーハトーヴォ(第一期)』より(#3)〟で投稿した内容を以下に再掲しておきたい。
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高橋慶吾は「賢治先生」で次のようなことも語っていた。 又、先生は女性及び性慾の方面に於いて禁断主義を実行され、「俺はトルストイ以上の仕事をしてゐるのだ」と申されたり、「山を東から西にも、西から東にもうつす力があるんだ」と申された事もあり、「仕事をなすにはどうしても性慾を節して行くより道がない」と申され、その事を実行されたのであります。その事に関連して、某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。その女の人は仲々かしこい気の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。又、その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。
お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。又、その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。
お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
<『イーハトーヴォ創刊号』(宮澤賢治の會)より>
もちろんここに登場する〝某一女性とは(充分な検証もなされずに一方的に)「悪女伝説」化されてしまった高瀬露のことである。しかし私はこの高橋慶吾の証言を読むにつけ、巷間言われている「高瀬露悪女説」を流布させた方々はアンフェアだと思う。もしここで高橋慶吾が喋っていることが事実であるとすれば、この件に関する評価は父政次郎のこの評価こそが妥当なのであって、一人高瀬露だけが悪い訳でないことは明らかなこと。露の行為を責めるのならば、この際の「顔に灰を塗る」ような行為も同様に訝しむべきことである。いやそれ以前に、折角露がカレーライスを作ったがそれを勧められた際に、肥料相談に来た農民の手前遠慮してのことだろうか、頑なに食べもせずに自分は「食べる資格がない」と辞退したのでは露も立つ瀬がないし、このようなことは賢治が責められることはあっても露が責められるべきことではなかろう。一方では、そもそもはたしてこの高橋慶吾の証言をそのまま鵜呑みにしていいのだろうかという不安が私にはつきまとう。なぜなら、ここで高橋慶吾が語っていることは彼がどこまでを実際見ていて、どこからが伝聞したものなのか、それらが曖昧のままに語られているのではなかろうかと直感したからである。
つまりここで語られている次の各項目は全て事実であったり、慶吾が直接その場面にいて目の当たりにしていたりしたことかということである。中には明らかに疑問符を付けたくなるものさえある。
(1) 某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、昼となく訪ねて来たことがありました。
(2) 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
(3) 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
(4) その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。
(5) お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、
(6) 先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
(2) 或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、そのライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
(3) 先生はこの人の事で非常に苦しまれ、或る時は顔に灰を塗つて面会した事もあり、十日位も「本日不在」の貼り紙をして、その人から遠ざかることを考へられたやうでした。
(4) その頃私がおうかがひした時、真赤な顔をして目を泣きはらし居られ「すみませんが今日はこのまゝ帰つて下さい。」と言われたこともありました。
(5) お父さんはこう言ふ風に苦しんでゐられる先生に対して「その苦しみはお前の不注意から求めたことだ。初めて会った時にその人にさあおかけなさいと言つただらう。そこにすでに間違いのもとがあつたのだ。女の人に対する時、歯を出して笑つたり、胸を拡げてゐたりすべきものではない。」と厳しく反省を求められ、
(6) 先生も又ほんとうに自分が悪かったのだと自らもそう思ひになられたやうでした。
続きの
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