みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

事実誤認であったことを福井自身がダメ押し

2022-10-27 12:00:00 | 賢治渉猟
《三輪の白い片栗》(種山高原、令和3年4月27日撮影)
 白い片栗はまるで、賢治、露、そして岩田純蔵先生の三人に見えた。
 そして、「曲学阿世の徒にだけはなるな」と檄を飛ばされた気がした。

 前回私は
 したがって、先の「昭和2年岩手県米実収高」に基づけば昭和2年の水稲は県全体では平年作よりも0.8%の増収だし、稗貫郡のそれについては前年比約7%もの大幅増収だったことも今わかったから、福井規矩三の、
  「昭和二年は…ひどい凶作であつた」
という証言は、岩手県全体にせよ稗貫地方にせよいずれの場合にも全く当てはまらないので、こうなればこの証言は彼の全くの事実誤認であったようだ。
と推測したのだが、私が調べてみたならば、実はそれが事実誤認であることを、なんと福井自身がダメ押ししていたことを知った。

 まず再度確認してみる。『新校本年譜』は、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、確かに福井は「測候所と宮澤君」において、
  昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
              〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)317p〉
と述べている。
 しかしながら、その福井自身が発行した『岩手県気象年報(大正15年、昭和2年、昭和3年』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温をグラフ化してみると下図、

のようになる。よって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えず、この年報に従えばこれは福井の誤認であったことが一目瞭然である。
 そもそも大正15年も昭和3年も共にヒデリ傾向の年であり、しかもこの両年のデータと昭和2年のそれとを比べてみれば昭和2年の夏はその中では一番気温の高いことがわかるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候」ということはあり得ない。言い換えれば、福井自身発行の著書が福井の先の証言は彼の単なる記憶違いであったということを教えてくれる。
 そしてまた、『岩手日報』の各年の岩手県米実収高の記事により、岩手県産米の大正11年~昭和6年の実収高(『岩手日報』(大正15,1,28、昭和2,1,25、同3,1,22、同7,1,23より)を図表にしてみると下図のようになる。

 ちなみに、昭和2年の反収は約1.93石だから、「昭和二年は……ひどい凶作であつた」ということも決してあり得ない。当時の岩手県の水稲反当収量は下図のようになっており、

            <素データは『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会)より>
二石前後だからである。

 さらに下掲の表、

は盛岡測候所が、昭和2年9月7日付『岩手日報』に発表したものであり、「繁殖期間(つゞき)」においても、「出穂開花期間」においても偏差平均が高いから、昭和2年の夏は平年よりも気温が高かったことになる。これをグラフ化すると下掲の図表のようになる。

 パット見て直ぐわかるように、昭和2年の稲作期間の気温偏差は殆どの日が〝〟だ。しかも、
    偏差が〝〟の場合の日の気温偏差平均値=1.88℃
    偏差が〝〟の場合の日の気温偏差平均値=-0.55℃
    この期間中の1日当たりの気温偏差平均値=1.38℃
だからなおさらに、これでは昭和2年の夏は冷夏どころか逆に夏らしい気温の高い日々が多い。したがって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えないことは一目瞭然だ。
 それにしても、当時福井規矩三は盛岡測候所の所長だったはずだから、なおさらのこと間違うわけがないと私は思うのだが、福井は《表7 昭和2年稻作期間豊凶氣溫》等を確認せぬままに、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」と「測候所と宮澤君」に書いてしまったことになりそうだ。

 畢竟するに、これらのことより、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くなかったということを容易に知ることができる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。あまつさえ、
 福井規矩三の「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という証言は事実誤認であることを福井自身が裏付けている。
のであったということになる。いわば、事実誤認であったことを福井自身がダメ押していたのだ。
 おのずから、『新校本年譜』はこの福井の証言の検証もせず裏付けも取っていなかったということになる。この福井の証言は『新校本年譜』の上段に記されているのだが、にもかかわらず、この証言内容は事実誤認であった。だからある意味、『新校本年譜』は「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」は事実ではないというのに、それはあたかも事実であるということを読者に対してダメ押しをしたとも言える。それゆえ私は、あの石井洋二郎氏の次の警鐘を『新校本年譜』でも目の当たりにしてしまう。
 平成27年3月の東大の卒業式における教養学部長石井洋二郎氏は式辞の中で、
 あの有名な「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」というエピソードを検証してみたならば、早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です
という思いもよらぬ結果となったということを紹介していた。私は愕然とした。そして石井氏は続けて、
 あやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
 情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。
          〈「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報平成26年  度教養学部学位記伝達式式辞(東大教養学部長石井洋二郎)〉
と戒め、警鐘を鳴らしていた。
 またもちろん、先の断定表現の引用文〝(a)~(g)〟も同様だったということになってしまうだろう。

 だから私は、石井氏が訴える同式辞における、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること……
の大切さを改めて己に言い聞かせた。
 そして一方で、「羅須地人協会時代」である昭和2年に、賢治が「サムサノナツハオロオロアル」こうと思ってもこれは土台無理な話であり、そもそのそのようなことは実はできなかったという結論に私はならざるを得ない。

 続きへ
前へ 
 “賢治渉猟”の目次へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

【新刊案内】『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』(鈴木 守著、ツーワンライフ出版、550円(税込み))

 当地(お住まいの地)の書店に申し込んで頂ければ、全国のどの書店でも取り寄せてくれますので、550円で購入できます。
 アマゾン等でも取り扱われております。

【旧刊案内】『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))
 
 岩手県内の書店やアマゾン等でも取り扱われております

【旧刊案内】『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)

 岩手県内の書店やアマゾン等でネット販売がなされおります。
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 釜渕の滝(10/25、キク科) | トップ | 釜渕の滝(10/25、黄葉) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事